コンテンツにスキップ

弁道話(二)自受用三昧の功徳#

序に続く本論のはじめ、仏祖が歩んできた坐禅の道と、一人ひとときの坐禅の功徳を説く段です。

原文#

【1】いはく、仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり。西天東地、さとりをえし人、その風にしたがへり。これ、師資ひそかに妙術を正伝し、真訣を稟持せしによりてなり。

【2】宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。

【3】もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界・三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深般若を開演す。

【4】これらの等正覚、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際そこばくの諸仏如来の道場ごとに、仏事を助発し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地・草木・牆壁・瓦礫みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに。

【5】また、心・境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。この化道のおよぶところの草木・土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木・牆壁は、よく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊はかへつて草木・牆壁のために演暢す。自覚・覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。

【6】ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼彼ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり。このきはのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。

【7】しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

現代語訳#

段落番号【1】〜【7】は原文の段落番号と対応します。( )内は、原文にない語を補ったものです。仏教語・固有名詞は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。前回(序)の語注で説明した語は、短く繰り返すか「本書第一回の語注参照」としました。【4】は原文では一つの段落ですが、読みやすさのため訳文では三つに分けました。

【1】(その次第を)いえば、仏法を住持してきた諸祖と諸仏とは、みな自受用三昧に端坐し(これに)依って行ずることを、開悟の正しい道としてきた。西天でも東地でも、さとりを得た人は、その風(ならい)に従った。これは、師と弟子とがひそかに妙術を正伝し、真訣を受け保ってきたことによるのである。

語注

  • いはく:序の末尾「いはく、」を受けて、ここから本論に入る。
  • 住持:仏法の中に住して、それを保ち持つこと。
  • 自受用三昧:さとりの境地を自らが受けて用いる三昧。本書第一回の語注参照。
  • 端坐依行:姿勢を正して坐り、それに依って修行すること。
  • 開悟:さとりを開くこと。
  • 西天東地:西天はインド、東地は中国。
  • 師資:師と弟子。
  • 妙術・真訣:すぐれた方法、真の奥義。序の【1】【6】に出る語を受ける。
  • 稟持:(師から)受けて保ち持つこと。

【2】宗門の正伝にいう。「この単伝正直の仏法は、最上の中の最上である。知識に参見したはじめから、(もはや)焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず、ただ打坐して身心脱落することを得よ。」

語注

  • 宗門の正伝:(わが)宗門に正しく伝わる(ことば)。宗務庁版英訳の注は、道元禅師が他の箇所で如浄禅師の語としている言葉の変形とする。
  • 単伝正直:ただ一筋に、正しくまっすぐに伝えられた、の意。
  • 参見知識:善知識(正しい師)にまみえて参じること。
  • 焼香・礼拝・念仏・修懺・看経:香を焚くこと、仏を礼拝すること、仏を念ずる(仏名をとなえる)こと、懺悔を修すること、経を読むこと(→読みの分かれるところ)。
  • 打坐:坐禅すること。
  • 身心脱落:身と心がともに抜け落ちること。とらわれを離れた坐禅のありようを示す語で、内容は解説で扱う。

【3】もし人が、一時(ひととき)であっても、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界がみな仏印となり、尽虚空がことごとくさとりとなる。それゆえに、諸仏如来にとっては本地の法楽を増し、覚道の荘厳を新たにする。また、十方法界・三途六道の群類も、みなともに一時に身心が明らかで浄らかになって、大解脱地を証し、本来面目が現れる(その)とき、諸法はみな正覚を証会し、万物はともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一挙に超えて、覚樹王(のもと)に端坐し、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟無為の深い般若を説きあらわす。

語注

  • 一時:はじめの「一時なりといふとも」は、わずかなひとときの意。あとの「一時に」は、同時に、いっせいに、の意。
  • 三業:身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三つのはたらき。
  • 仏印:仏の心印。仏であることのあかし。本書第一回の語注参照。
  • 三業に仏印を標し:身・口・意に仏のしるしをあらわすこと。宗務庁版英訳の注は、身・口・意において仏の行いをあらわすこととする。
  • 遍法界:法界(あらゆる世界)のすみずみまで。
  • 尽虚空:虚空(大空)のすべて。
  • 本地の法楽:本地(根本の境地)において法を味わう楽しみ。
  • 覚道の荘厳:さとりの道を飾る功徳のかざり。
  • 十方法界:あらゆる方角のあらゆる世界。
  • 三途六道:三途は地獄・餓鬼・畜生の三つの悪い境涯、六道はそれに修羅・人・天を加えた六つの迷いの境涯(宗務庁版英訳の注も三つの悪趣と六趣とする)。
  • 群類:もろもろの生きもの。
  • 明浄:明らかで、浄らかなこと。
  • 大解脱地:大いなる解脱(迷いやとらわれからの解放)の境地。
  • 本来面目:人がもとからそなえている本来の姿。
  • 正覚:正しいさとり。
  • 証会:さとり、それと一つになること。
  • 仏身:仏のからだ。
  • 辺際:果て、限り。
  • 一超:ひととびに超えること。
  • 覚樹王:釈尊がその下でさとりを開いた菩提樹。樹の王の意(宗務庁版英訳による)。
  • 無等等:等しいもののないものに等しい、の意。仏の法がこの上ないことをいう語。
  • 大法輪を転じ:大いなる法を説くこと。
  • 究竟無為:究極であり、作為がないこと。
  • 般若:仏の智慧。
  • 開演:説きひろめること。

【4】これらの等正覚(の者たち)が、さらに(坐禅人の方へ)立ち返って、親しく互いに冥資する道が通っているので、この坐禅人は、確爾として身心脱落し、これまでの雑多でけがれた知見・思量を断ち切って、天真の仏法に証会し、微塵の数ほども多い諸仏如来の道場ごとに、あまねく仏事を助け起こし、広く仏向上の機に(その恵みを)こうむらせて、よく仏向上の法を激揚する。

このとき、十方法界の土地・草木・牆壁・瓦礫がみな仏事をなすので、それによって起こる風や水の利益にあずかる者たちは、みな甚妙不可思議の仏化にひそかに助けられて、ちかいさとりをあらわす。この水や火を受用する者たちは、みな本証の仏化をめぐらせているので、これらの者たちと共に住み、言葉を交わす者もまた、ことごとく互いに無窮の仏徳がそなわり、次々に広くはたらいて、無尽・無間断・不可思議・不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通させるのである。

しかしながら、これらのもろもろ(のはたらき)が当人の知覚をくらます(乱す)ことがないのは、静中の無造作であって、直証であるからである。もし凡流の考えのように、修と証とを二つの段に分けるならば、それぞれが互いに(それと)覚知するはずである。(しかし、)もし覚知に交わる(ようなものである)ならば、それは証則ではない。証則には迷情が及ばないからである。

語注

  • 等正覚:正しく等しいさとり。ここでは【3】で正覚を証会した者たち(諸法・万物など)を指すと見て訳した。
  • 冥資:目に見えないかたちで、ひそかに助けること(宗務庁版英訳の注も、目に見えない霊的な助けとする)。
  • 確爾:確かに、はっきりと。
  • 知見思量:知識や見解、あれこれと思いはかること。
  • 截断:断ち切ること。
  • 天真の仏法:天然自然のままの、ありのままの仏法。
  • 微塵際そこばく:微塵(きわめて細かい塵)の数ほども多くの。
  • 道場:仏道を修する場。
  • 仏事を助発し:仏のはたらきを助け、起こすこと。
  • 仏向上:仏をもさらに超えていくこと。仏という到達点にとどまらない境地。内容は解説で扱う。
  • 機:教えを受ける者。宗務庁版英訳の注は、ここの「機」を教化を受ける者と取り、「仏向上の法」がふさわしい聞き手を指すかとする。
  • 激揚:(仏法を)大いに挙げ揚げること。本書第一回の語注参照。
  • 牆壁瓦礫:垣根や壁、瓦や小石。無情のもの(心をもたないもの)の代表。
  • 風水・水火:宗務庁版英訳の注は、地・水・火・風の四大(物質世界を成す四つの要素)の一部を挙げて全体を表す言い方かとする。
  • 仏化:仏の教化(教え導くはたらき)。
  • 本証:本来の証(さとり)。
  • 周旋:めぐらせること、行きわたらせること。
  • 展転広作:次々に移り広がって、広くはたらくこと。
  • 無間断:絶え間がないこと。
  • 不可称量:ことばで言い表すことも、量ることもできないこと。
  • 当人:その人自身。ここでは坐禅人を指すと見て訳した(→読みの分かれるところ)。
  • 静中:静けさの中。坐禅の三昧の中。
  • 無造作:ことさらな作為・はからいがないこと。
  • 直証:(媒介なしに)じかに証すること。
  • 凡流:凡夫のたぐい。
  • 修証:修行と証(さとり)。
  • 両段:二つの段階。
  • 覚知:それと気づき、知ること。
  • 証則:証(さとり)のきまり、証のあり方。
  • 迷情:迷いの心。

【5】また、心と境(対象)とのどちらにも、静中の証入・悟出があるけれども、(それは)自受用の境界であるから、一つの塵も動かさず、一つの相も壊さずに、広大な仏事、甚深微妙の仏化をなす。この化道の及ぶところの草木・土地は、ともに大光明を放ち、深妙の法を説くことが、極まる時がない。草木・牆壁は、よく凡聖含霊のために(法を)宣揚し、凡聖含霊はかえって草木・牆壁のために(法を)演暢する。自覚・覚他の境界は、もとより証の相をそなえていて欠けたところがなく、証則が行われて、怠る時がないようにさせる。

語注

  • 心・境:心と、心の対象となるもの(境)。
  • 証入悟出:証に入り、悟りを出る、の意か。宗務庁版英訳の注は、他に用例の見えない珍しい表現で、単に「証し悟る」の意かとする(→読みの分かれるところ)。
  • 自受用の境界:自受用三昧の境地。
  • 一塵・一相:一つの塵、一つのすがた。わずかなものも(動かさず、壊さず)の意。
  • 甚深微妙:きわめて深く、微かで妙なること。
  • 化道:教え導くはたらき。
  • 深妙法:深く妙なる法。
  • 凡聖含霊:凡夫も聖者も含めた、心あるすべての生きもの(宗務庁版英訳の注も、凡夫と修行の進んだ者とを含む生きもの全体をいう定型表現とする)。
  • 宣揚・演暢:いずれも、(法を)説きひろめること。
  • 自覚覚他:自らさとり、他をもさとらせること。
  • 証相:証(さとり)のすがた。
  • 証則:【4】の語注参照。

【6】こういうわけで、わずか一人が一時(ひととき)坐禅するだけであっても、(その坐禅は)諸法とひそかに一つになり、諸時と円かに通じるので、尽きることのない法界の中で、過去・未来・現在にわたって、常恒の仏化道事をなすのである。彼も此も、ともに一等の同修であり、同証である。ただ坐っている上での修行だけではない。空を打って響きを生じることは、撞く前にも後にも、妙なる声が綿々と続くものである。この際(坐っているとき)だけに限られようか(、限られはしない)。百頭がみな本面目に本修行をそなえていて、はかり知ることのできるものではない。

語注

  • 冥し:ひそかに(目に見えないかたちで)合一すること。
  • 諸時:あらゆる時。
  • 去来現:過去・未来・現在の三世。
  • 常恒:常に変わらず続くこと。
  • 仏化道事:仏が教え導くはたらき。
  • 彼彼:あれもこれも、それぞれ。
  • 一等:等しく同じであること。
  • 同修・同証:同じ修行、同じ証(さとり)。
  • 撞:鐘などを撞(つ)くこと(→読みの分かれるところ)。
  • 綿綿:絶えず続くさま。
  • 百頭:宗務庁版英訳の注は、一般に「すべての人」の意に取られるとする(→読みの分かれるところ)。
  • 本面目:本来面目(【3】の語注参照)と同じ意と見て訳した。
  • 本修行:本来の修行。

【7】知るがよい。たとえ十方の無量の恒河沙の数ほどの諸仏が、ともに力を尽くし、仏の智慧をもって、一人の坐禅の功徳をはかり、知り尽くそうとしても、決してその果て(ほとり)を得ることはないであろう。

語注

  • 恒河沙:恒河(ガンジス川)の砂。数えきれないほど多いことのたとえ。
  • 仏智慧:仏の智慧。
  • ほとり:果て、際限。

解説#

はじめに――序から本論へ#

前回の序で、道元禅師は、仏から仏へ伝わる仏法の根本を「自受用三昧」と示し、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」(本書第一回)と述べられました。自受用三昧、つまり仏のさとりの境地を自ら受け、自ら用いるありさまに身をおく、その正しい入り口は坐禅である、というのです。序は、その言葉を受けて「いはく、」(本書第一回)と結ばれていました。

今回の段は、その「いはく」のあとに続く、いわば本論の最初の部分です。冒頭にもう一度「いはく」とあり(原文【1】)、序で一言で示された「自受用三昧」と「端坐参禅を正門とせり」が、ここで具体的に展開されていきます。

序では、坐禅が正門であることが、仏法の伝わり方の筋道として語られていました。この段では、話が一歩踏み込みます。坐禅とは何をすることなのか(ただ打坐して身心脱落する)。一人が坐るとき、そこで何が起きているのか(遍法界が仏印となり、草木や瓦礫までが仏事をなす)。そして、その坐禅の功徳はどれほどのものか(無数の仏たちが力を合わせてもはかりきれない)。この三つが、順に、ときに壮大な言葉で語られます。

この段の言葉づかいは序よりもさらに大きく、読みの分かれる箇所も少なくありません。以下では、原文【1】〜【7】を三つのまとまりに分け、読みの幅に触れながら、この段が私たちの坐禅と日々の暮らしに何を語りかけているのかを、ゆっくり味わってまいります。

  • 【1】【2】 ただ打坐して身心脱落
  • 【3】【4】 一人の坐禅が法界に及ぶ
  • 【5】〜【7】 一人一時の坐禅の功徳ははかりしれない

【1】【2】ただ打坐して身心脱落#

仏祖が歩んできた「まさしきみち」(【1】)#

「仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用三昧に端坐依行するを、その開悟のまさしきみちとせり」(原文【1】)。仏法を保ち伝えてきた祖師たちも諸仏も、みな、自受用三昧に端坐し、それに依って行ずることを、さとりを開く正しい道としてきた、と禅師は述べられます。インドでも中国でも、さとりを得た人はその風(ならい)に従ってきた。それは、師と弟子とがひそかに「妙術」を正しく伝え、「真訣」を受け保ってきたからだ、と。

「妙術」「真訣」という言葉は、序にも出てきました。序の冒頭では「最上無為の妙術あり」(本書第一回)と言われ、序の結びでは、禅師がこの書を書き残すことについて「これ真訣ならんかも」(本書第一回)と言われていました。この段の【1】は、それらを受けて、その妙術・真訣の中身が「自受用三昧に端坐依行する」こと、つまり坐禅であると、はっきり言い切るところから始まっています。

ここで注目したいのは、「端坐依行」という言葉です。ただ坐るだけでなく、坐ることに「依って行ずる」。坐禅が、数ある修行の一つとして横に並べられているのではなく、修行そのものの拠りどころとして示されています。宗門が坐禅を修行の根本として大切にしてきたことも、この禅師の示しとつながっています。

また、「師資ひそかに」という言葉にも心をとめておきましょう。この「ひそかに」は、秘密にして隠すというよりも、師と弟子が向き合い、声高に言い立てることなく、身をもって手渡してきた、というほどの響きで受けとめておきたいと思います。序で見た、釈尊から迦葉尊者、達磨大師へと人から人へ伝えられてきた仏法のつながりが、ここでも背後にあります。私たちが一人で坐るときにも、その坐禅は、この師資のつながりの中にある、と受けとめることができるでしょう。

「最上のなかに最上」(【2】)#

【2】は、「宗門の正伝にいはく」と、引用のかたちで語られます。「この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」(原文【2】)。

「宗門の正伝」とは、わが宗門に正しく伝わることば、という意味です。宗務庁版英訳の注では、これは道元禅師が他の箇所で如浄禅師のことばとして挙げておられる言葉の変形である、とされています。序で「つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ」(本書第一回)と記された、その本師から受けた教えが、ここに響いていると受けとめることができるでしょう。

この一文の中心は、最後の「ただし打坐して身心脱落することをえよ」にあります。この「ただし」は、現代語の「ただし(しかし)」とは違い、「ただ」の意に取るのが自然で、現代語訳でも「ただ打坐して」としました。宗門で大切にされる「只管打坐」、ひたすらに坐る、という坐禅のあり方が、この一句に示されていると受けとめることができます。

焼香・礼拝・念仏・修懺・看経について#

この【2】を読んで、戸惑う方もあるかもしれません。「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず」とあるのを見て、「では、曹洞宗では焼香をしたり、お経を読んだりはしないのだろうか」と思われるかもしれないからです。この点は、丁寧に読んでおきたいところです。

まず、「さらに……ず」の強さや、焼香以下を全く退ける意か、根本に置かないという意かには読みの幅があり、ここではどれか一つに決めてしまうことはしません(→読みの分かれるところ)。

そのうえで、読むときの手がかりになることを、本文の中から三つ挙げておきます。

一つは、「参見知識のはじめより」という言葉です。これは、正しい師にまみえて参じる、その最初から、という意味です。つまりこの一文は、師について仏道を歩みはじめるとき、何をもって修行の根本とするのか、という文脈の中で語られています。焼香や礼拝そのものの是非を一般論として論じた文というより、仏道の入り口において、何を正門とするかを示した文として読むことができます。

二つめは、この段のすぐあとに続く問答です。そこでは、問う人が「読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし」(本書第三回)と疑問を投げかけ、禅師が答えておられます。その答えの中には、「ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし」(本書第三回)という厳しい言葉がある一方で、「経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり」(本書第三回)とも述べられています。ここで禅師が退けておられるのは、経典そのものではなく、舌を動かし声を上げることだけを功徳と思い込む態度であると、本文から読むことができます。この問答は次回で詳しく扱いますが、【2】の「もちゐず」を読むうえでも、あわせて心にとめておきたい箇所です。

三つめは、【2】の一文そのものの重心です。この文は、「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経」を並べることが目的なのではなく、「ただし打坐して身心脱落することをえよ」へと向かっています。何かほかのものを積み重ねてさとりに近づこうとするのではなく、ただ坐ることに、仏道のすべてを尽くす。その一点を際立たせるために、ほかの行が挙げられている、と受けとめることができます。

宗門の寺院で実際にどのような行持が営まれているかは、この段の本文から論じられることではありませんので、ここでは立ち入りません。ただ、この【2】は、「焼香や読経をするかしないか」という外から見た形の問題として読むよりも、「何を仏道の根本として坐るのか」という、坐る人の心の向きの問題として読むとき、禅師の言葉の重みがよく伝わってくるように思います。

身心脱落#

では、「身心脱落」とは何でしょうか。文字どおりには、身と心がともに抜け落ちる、ということです。

この言葉の中身について、禅師は、この段の中で手がかりとなる言葉を示しておられます。【4】に「この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天真の仏法に証会し」(原文【4】)とあります。身心脱落することが、これまでの雑多でけがれた知識・見解・思いはかりが断ち切られ、天然自然のありのままの仏法に証会する(さとり、それと一つになる)ことと、一続きに語られているのです。

ここで心にとめておきたいのは、身心脱落が、坐禅の結果としていつか手に入る特別な体験として語られているのではない、と読めることです。「ただし打坐して身心脱落することをえよ」という言い方は、打坐と身心脱落とを、手段と目的のように二つに分けていない、と読むことができます。坐るそのことにおいて、「これが自分だ」「これが自分の考えだ」と握りしめていたものが、自然にほどけ落ちていく。その姿を、禅師は身心脱落と呼ばれたのだと受けとめることができます。

日々の坐禅に引き寄せていえば、坐っていると、さまざまな思いが浮かんできます。それを無理に押さえつけるのでも、追いかけるのでもなく、ただ姿勢を正して坐りつづける。思いを握りしめない、そのことの中に、身心脱落はすでにはたらいている、と言えるのかもしれません。

【3】【4】一人の坐禅が法界に及ぶ#

一時の坐禅が、遍法界を仏印とする(【3】)#

【3】から、禅師の言葉は一気に広がります。「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(原文【3】)。

「一時なりといふとも」とは、たとえわずかなひとときであっても、ということです。長い年月の修行を積んだ人でなければ、というのではありません。誰であれ、ひとときであれ、坐るとき、と禅師は言われます。

「三業に仏印を標し」の「三業」は、身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三つのはたらきです。坐禅は、心だけの修行ではありません。からだを正し、ことばを静め、こころを坐禅にまかせる。身・口・意のすべてが、仏のふるまいとして坐っている。そのとき、あらゆる世界がみな仏のしるしとなり、大空のすべてがさとりとなる、というのです。

この一文から、宗門の坐禅観の大切な一面が見えてきます。坐禅は、坐っている人の心の中だけで起きる出来事ではない、ということです。一人が坐るとき、その坐禅は、世界全体とのかかわりの中にある。この段の後半は、そのことを、さまざまな角度から繰り返し語っていきます。

続いて、「諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす」とあります。「をしては」を「諸仏如来にとっては」と取るか、使役に取るかで意味の向きが少し変わりますが(→読みの分かれるところ)、いずれにしても、一人の坐禅が、すでにさとりを得た仏たちにとってさえ、新たな喜びとなり、新たな輝きとなる、という大きな趣旨は変わりません。私たちが坐ることは、仏から何かを受けとるだけの一方通行ではない。仏たちの法の喜びをも新たにする、と禅師は言われるのです。

さらに、地獄・餓鬼・畜生をはじめとする迷いの境涯にある生きものたちまでが、みな同時に身も心も明らかに浄らかになって、大いなる解脱の境地を証し、本来の面目があらわれる。そして、あらゆるものが正しいさとりを証会し、万物が仏身を使用して、さとりの限りさえもひととびに超え、菩提樹のもとに端坐し、同時に大いなる法輪を転じ、深い智慧を説きひろめる、と続きます。

この一続きの文には、どこで文が切れるのか、誰がその動作の主語なのか、という点で読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。

ただ、どう読んでも、ここに描かれているのは、一人の坐禅を中心にして、世界のあらゆるものがともに仏のさとりの姿を現していく光景です。草木も、生きものも、迷いの中にあるものまでもが、みな菩提樹のもとに坐り、法を説く。一人が坐るとき、世界全体が坐っている。そのように受けとめることもできるでしょう。

坐禅人のもとへ返ってくるはたらき(【4】前半)#

【4】は、この段でいちばん長く、また読みの分かれる箇所がいちばん多く集まっている段落です。まず冒頭で、【3】で描かれた広がりが、ふたたび坐禅人のもとへ返ってくることが語られます。

「これらの等正覚、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに」。【3】で正しいさとりを証会したものたちが、今度は坐禅人のほうへ立ち返り、目に見えないかたちで親しく助け合う道が通っている、というのです。「かへりて」「あひ」の取り方には幅があります。

「冥資」とは、目に見えないかたちで、ひそかに助けることです。一人の坐禅が世界に及び、世界のさとりが、また坐禅人を支える。坐禅人と世界とのあいだに、一方通行ではない、行き来するはたらきがある、ということが示されています。

そのはたらきによって、坐禅人は「確爾として身心脱落し」、あらゆる仏の道場で仏事を助け起こし、「ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す」とあります。宗務庁版英訳の注では、「仏事を助発し」を、坐禅人が仏法を広めることに力を添えることと説明しています。「仏向上」とは、仏という到達点にもとどまらず、さらにその先へと歩みつづけることをいう言葉です。「機」の取り方で意味が変わりますが、いずれにしても、坐っている一人が、仏道を仏の先へ、さらに先へと押し進める力となっている、という趣旨として受けとめられます。

ここで、ひとつ心にとめておきたいことがあります。坐禅人は、坐りながら何かを「しよう」としているわけではない、ということです。仏事を助けよう、法を広めよう、と意図して坐っているのではありません。ただ坐っている、そのことが、そのまま仏事を助け起こしている。このことは、【4】の後半の言葉につながっていきます。

土地・草木・牆壁・瓦礫が仏事をなす(【4】中段)#

続いて、「このとき、十方法界の土地・草木・牆壁・瓦礫みな仏事をなすをもて」と、世界のあらゆるものが仏事をなすことが語られます。牆壁(垣根や壁)、瓦礫(瓦や小石)は、ふつうは心をもたないと考えられているものの代表です。その垣根や小石までもが、仏のはたらきをなしている、というのです。

そして、それらが起こす「風水の利益」にあずかる者たちは、みな不可思議な仏の教化にひそかに助けられて、「ちかきさとり」をあらわす。宗務庁版英訳の注では、「風水」や、このあとの「水火」は、地・水・火・風の四大(物質の世界を成り立たせる四つの要素)の一部を挙げて全体を表す言い方であろう、とされています。「ちかきさとり」は、身近で親しいさとりとも、間近な、すぐに至るさとりとも読めます。

この箇所は、私たちの日々の暮らしに、とりわけ身近に響いてくるところではないでしょうか。私たちは毎日、水を使い、火を使い、風にふれ、大地の上に暮らしています。朝、顔を洗う水。食事をととのえる火。窓から入る風。その一つひとつが、仏事をなしている世界からの恵みである、と受けとめることができるでしょう。そう受けとめるとき、水一杯、火ひとつを扱う手つきも、おのずから丁寧なものになっていくでしょう。

「この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに」と続きます。水や火を受け用いる者たちは、みな「本証の仏化」(本来証されている仏の教化とも、本来の証についての仏の教化とも取れます)をめぐらせている。そして、そうした者たちと共に住み、言葉を交わす者もまた、互いに尽きることのない仏の徳をそなえ、次々に広くはたらいて、限りない仏法を世界の内にも外にも流れ通わせる、と語られます。

一人の坐禅から始まったはたらきが、世界に広がり、世界から坐禅人に返り、さらに、共に暮らし、言葉を交わす人々へと波紋のように広がっていく。ここには、坐禅が決して自分一人のためだけのものではない、ということが、壮大なかたちで描かれています。

知覚にのぼらない証(【4】後半)#

ここまで読んでくると、ひとつの疑問が浮かぶかもしれません。そんなに大きなことが起きているのなら、坐っている本人はそれを感じるはずではないか、と。禅師は、まさにその疑問に答えるように、【4】の最後で次のように述べられます。

「しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり」。

この一文は構文の取り方に大きな幅があり、現代語訳は、これらのはたらきが坐禅人の知覚をくらますことがないのは、という読みにおおむね従いました(→読みの分かれるところ)。理由として示される「静中の無造作にして、直証なる」にも幅があります。

どの読みを取るにしても、ここで禅師が示しておられることの大きな向きは読みとれます。坐禅のはたらきは、坐っている本人が「いま世界が仏事をなしている」と感じとったり、確かめたりする、という仕方で起きているのではない。静けさの中で、何のはからいも加えず、じかに証されている。だからこそ、それは本人の知覚を騒がせることがない、ということです。

これは、序の【2】の言葉とよく響き合います。序には「群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず」(本書第一回)とありました。生きとし生けるものは、いつもこの三昧の中でそれを用いて生きているのに、それぞれの知覚にその跡はあらわれない。この段の【4】は、坐禅の場面で、同じことを語っているとも受けとめられます。

続けて禅師は、「もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに」と言われます。もし凡夫が考えるように、修行と証(さとり)とを二つの段階に分けるなら、それぞれが互いに(それと)気づくはずである。しかし、気づきの対象になるようなものであるなら、それは証のあり方ではない。証のあり方には、迷いの心は及ばないからである、というのです。

ここでも、「おのおの」が何と何を指すのか、「覚知にまじはる」の主語を何と取るかに幅があります(→読みの分かれるところ)。

ここで語られる「修証を両段にあらせば」という言葉は、本巻の後半で説かれる大切な教えにつながっています。後半には「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり」(本書第五回)とあり、さらに「修のほかに証をまつおもひなかれ」(本書第五回)とも示されています。宗門で「修証一等」として大切にされてきた教えです。

坐禅を「さとりを得るための手段」と考えると、坐っている時間は「まだ悟っていない途中の時間」になり、「そろそろ何か変化が起きたか」と、自分の内側をたえず点検したくなります。けれども禅師は、修と証を二つに分けるその見方こそが「凡流のおもひ」であると示されます。坐っているそのことが、すでに証のはたらきである。だから、それを自分の知覚で確かめる必要はないし、確かめようとすること自体が、かえって証から離れることになる、と受けとめることができるでしょう。

日々の坐禅でいえば、「今日は何も感じなかった」「特別なことは何も起きなかった」と思う日があるかもしれません。けれども、この【4】の結びは、そうした日の坐禅もまた、決して空しいものではないことを、静かに教えてくれているように思います。

【5】〜【7】一人一時の坐禅の功徳ははかりしれない#

一塵をうごかさず、一相をやぶらず(【5】)#

【5】は、「また」と言葉を改めて、自受用三昧のありさまを別の角度から語ります。「心・境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす」(原文【5】)。

「証入悟出」は、証に入り、悟りを出る、という意味かと思われますが、他に用例の見えない表現とされ、この前半の読みには幅があります(→読みの分かれるところ)。

それでも、この一文の要となる言葉ははっきりしています。「一塵をうごかさず、一相をやぶらず」。一つの塵も動かさず、一つのすがたも壊さずに、広大な仏事、深く微妙な仏の教化をなす、というのです。

坐禅は、世界を作りかえることではありません。何かを押しのけたり、何かを新たに付け加えたりするのでもない。塵ひとつ動かさず、ものごとのありのままのすがたを一つも壊さず、そのままで、広大な仏事がなされている。【3】【4】で語られた壮大な光景は、何か派手な出来事が起きているということではなく、ありのままの世界が、ありのままのままで仏事をなしている、ということなのだと、この【5】から受けとめることができます。「自受用の境界」とは、そのようなありさまを指しているのでしょう。

続いて、この教化の及ぶところの草木や土地は、ともに大いなる光明を放ち、深く妙なる法を説きつづけて尽きることがない、と語られます。そして、「草木・牆壁は、よく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊はかへつて草木・牆壁のために演暢す」。草木や垣根・壁が、凡夫にも聖者にも、心あるすべての生きものに法を説き、その生きものたちもまた、今度は草木や垣根・壁のために法を説く。

心をもたないと思われている草木や垣根が法を説き、心ある生きものが草木や垣根に法を説く。説く者と聞く者が、一方向に固定されていないのです。私たちはふつう、人が自然から何かを学ぶ、あるいは人が自然を扱う、というように考えがちです。けれども禅師は、法を説くことにおいて、人と草木、生きものと垣根・壁とが、互いに説き合い、聞き合う関係にあると示されます。庭の木々や道ばたの石を眺めるまなざしも、この言葉を知ったあとでは、少し変わってくるかもしれません。

【5】は、「自覚・覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ」と結ばれます。自らさとり、他をさとらせる境地は、もとより証のすがたをそなえていて、欠けたところがない。そして証のあり方が行われつづけて、怠る時がない。「もとより」「かけたることなく」という言葉に、序の「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれり」(本書第一回)が思い起こされます。

諸時とまどかに通ずる――撞の前後の妙声(【6】)#

【6】は、この段の結論にあたる部分です。「ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり」(原文【6】)。

ここで禅師は、「わづかに一人一時の坐禅」と言われます。たった一人の、たったひとときの坐禅。けれども、その坐禅は、あらゆるものとひそかに一つになり、あらゆる時と円かに通じている。だから、尽きることのない世界の中で、過去・現在・未来にわたって、常に変わらない仏の教化のはたらきをなしている、というのです。

【3】【4】では、一人の坐禅が空間的に世界の隅々にまで及ぶことが語られていました。【6】では、それが時間にも及ぶことが示されます。いま、ここで坐る一人の坐禅が、過去にも未来にも通じている。

続いて「彼彼ともに一等の同修なり、同証なり」とあります。現代語訳では「あれもこれも、ともに等しく同じ修行であり、同じ証である」としましたが、「それぞれがともに修行し、ともに証する」とも読めます。いずれにしても、一人で坐っている坐禅が、実は孤立したものではなく、あらゆるものとともに、同じ修行、同じ証のうちにある、ということが示されています。

一人で坐っていると、ときに心細く思えることもあるかもしれません。けれどもこの一句は、私たちが坐るとき、決して一人きりで坐っているのではないことを思い起こさせてくれます。序で見た、仏から仏へと伝わってきた坐禅のつながりが、ここでは、あらゆるもの、あらゆる時とのつながりとして示されているのです。

そして、この段でも特に印象深いたとえが続きます。「ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり」。ただ坐っている上での修行だけではない。空を打って響きを生じるとき、撞く前にも後にも、妙なる声が綿々と続いている、というのです。

この一文は、「空」の取り方や構文、「撞」が何を撞くのかなど、読みの幅が大きいところです(→読みの分かれるところ)。

その幅を残したうえで、受けとめ方の一つを挙げてみます。鐘を撞くと、その響きは撞いた瞬間だけで終わらず、余韻として長く続きます。坐禅もまた、坐蒲の上に坐っている時間だけで終わるものではない。坐禅から立ち上がり、顔を洗い、食事をいただき、掃除をし、仕事に向かい、人と言葉を交わす。その一つひとつに、坐禅の響きは綿々と続いている。そして「撞の前」とあるように、坐る前からすでに、その響きの中にいる、とも受けとめられるでしょう。

「このきはのみにかぎらんや」。この時だけに限られようか、限られはしない、と禅師は重ねて言われます。

そして、「百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず」。「百頭」も「本面目に本修行をそなへて」も、いくつかの読み方ができます(→読みの分かれるところ)。

どの読みを取るにしても、ここで示されているのは、修行が外から付け加えられるものではなく、本来の面目とともに、もとからそなわっているものだ、ということでしょう。これもまた、本巻後半の「初心の弁道すなはち本証の全体なり」(本書第五回)と響き合う言葉です。

恒河沙の諸仏にもはかりきれない(【7】)#

この段は、次の一文で結ばれます。「しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ」(原文【7】)。

仏の智慧は、この上ない智慧です。その仏の智慧をもってしても、しかも無数の仏たちが力を合わせても、一人の坐禅の功徳ははかりきれない。これ以上ないほど強い言い方で、禅師は坐禅の功徳の大きさを示されます。

ここで心にとめておきたいのは、はかりきれないとされているのが「一人坐禅の功徳」だということです。大勢の坐禅でも、長年の坐禅でもなく、【6】で言われた「わづかに一人一時の坐禅」です。そして、仏たちにさえはかりきれないのであれば、ましてや坐っている本人が、それをはかる必要はありません。【4】で見た「覚知にまじはるは、証則にあらず」とも、ここはつながっています。自分の坐禅がどれほどのものかを、自分の物差しではからなくてよい。はかれないほど大きなものの中で、ただ坐ればよいのです。

なお、この段のすぐあとには「いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ」(本書第三回)という言葉が続き、そこから問答の部に入っていきます。宗務庁版英訳の注では、この一文は、つづく問答で問いを発する人の言葉であろう、とされています。この段で語られた坐禅の功徳の大きさを受けて、では、なぜほかの修行ではなく坐禅なのか、という問いが投げかけられていくことになります。

むすびに――一人一時の坐禅と、日々の暮らし#

この段で禅師が示されたことを、あらためて振り返ってみましょう。

一つには、仏祖が歩んできた正しい道は、自受用三昧に端坐することであり、その要は「ただし打坐して身心脱落すること」にある、ということ(【1】【2】)。焼香以下を挙げた「もちゐず」の読みには幅がありますが、少なくとも、何を仏道の根本として坐るのか、という一点がここで際立たされていることは確かです。

二つには、一人がひとときでも坐るとき、その坐禅は、世界のすみずみにまで及び、仏たちの喜びを新たにし、草木や垣根や小石までもが仏事をなし、そのはたらきがまた坐禅人に返り、共に暮らす人々へと広がっていく、ということ(【3】【4】)。そして、そのはたらきは、坐っている本人の知覚を騒がせることなく、静けさの中で、はからいなく、じかに証されている、ということです。

三つには、そのはたらきは、塵ひとつ動かさず、ありのままの世界をありのままにしたままでなされ、過去・現在・未来にわたって続き、坐っている時の前にも後にも、鐘の余韻のように響きつづける、ということ(【5】【6】)。そして、その一人一時の坐禅の功徳は、無数の仏たちの智慧をもってしてもはかりきれない、ということです(【7】)。

この段を読んで、「そんな大きなことが、自分の坐禅で起きているとは、とても思えない」と感じる方も多いのではないでしょうか。けれども、【4】の結びに照らせば、それを実感できるかどうかは、坐禅の功徳とはかかわりがない、と受けとめられます。むしろ、「何か感じなければ」「何か変わらなければ」という思いを手放して、ただ坐ることが大切なのだと、この段は繰り返し語りかけています。

そしてその坐禅は、坐蒲の上だけのことではありません。本巻の後半では、在家の人々も坐禅弁道すべきかという問いに答えて、「ただこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ」(本書第七回)とも示されています。毎日の暮らしの中で、水を使い、火を使い、人と言葉を交わす。その一つひとつが、この段で語られた仏事のはたらきの中にあります。朝のひととき、夜のひととき、たとえ短い時間であっても、姿勢を正して静かに坐ってみる。そのわずかな一人一時の坐禅が、はかりしれない広がりの中にあることを、禅師はこの段で、力強く示してくださっているのです。

読みの分かれるところ#

この段には、読み方が一つに定まらない言い回しがいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず」【2】
    「さらに……ず」を「まったく用いない」という強い否定と読むことも、「(それ以上)改めて用いる必要はない」と読むこともできます。あわせて、焼香以下を全く退ける意か、打坐に比べて根本には置かないという意かでも幅があります。宗務庁版英訳は、「それ以上必要とすることなく」という、二つめの読みに近い方向で訳しています。

  2. 「諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす」【3】
    「をしては」を「諸仏如来にとっては」と取り、坐禅が仏たちの法楽を増し、荘厳を新たにすると読むことができます。一方、使役に取って「諸仏如来に法楽を増させ、荘厳を新たにさせる」と読むこともできます。宗務庁版英訳は、坐禅を主語とする前者の方向で訳しています。

  3. 「大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会し」【3】
    「本来面目が現れるとき、諸法はみな……」と続けて読むほか、「本来面目現ずる」で文を切り、「とき」を次の文の頭(「そのとき」)とする読み方もあります。後者では、本来面目を現すのは迷いの境涯にある群類になります。続く「覚樹王に端坐し……深般若を開演す」の主語を、諸法・万物と取るか、群類や坐禅人と取るかにも幅があります。宗務庁版英訳は、文を切る読み方をとり、端坐や説法の主語を諸法・万物としています。

  4. 「このもろもろの当人の知覚に昏ぜざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり」【4】
    「もろもろ」を前に述べられた仏法を流通させる者たち、「当人」を坐禅人と取り、「それらのはたらきが坐禅人の知覚をくらまさないのは」と読むことができます。一方、「このもろもろの当人」を一続きに取り、坐禅人や恵みを受ける者たち一人ひとりの知覚には、このはたらきがそれと知られない、と読むこともでき、「昏ぜざらしむ」を「妨げない」の意に取る読みもあります。「静中」を坐禅の三昧に限るか、動静を超えた境地とするかにも幅があります。宗務庁版英訳の注は、第一の構文をとり、「静中の無造作」を三昧における、じかの、はからいのない体験の意としています。

  5. 「修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず」【4】
    「おのおの」が何と何を指すのかが一つに決まりません。修する者と証した者とも、修と証そのものとも、仏法を流通させる者たちと坐禅人とも読めます。続く「覚知にまじはる」も、「覚知の対象になるようなもの」と読むか、「(おのおのが)覚知に混じり込むなら」と主語を補うか、「覚知が混じるなら」と取るかで幅があります。宗務庁版英訳の注は、「おのおの」を主に修する者と証した者と取っています。

  6. 「心・境ともに静中の証入悟出あれども」【5】
    「心も境(対象)も、ともに静けさの中で証に入り悟りを出る」と読むことも、「心と境の双方にわたって、証入・悟出という出入りがある」と読むこともできます。また、「あれども」の逆接を重く見て、「そうした動きがあるけれども、自受用の境界なので一塵も動かさない」という対比として読むこともできます。「証入悟出」は他に用例の見えない語とされ、宗務庁版英訳の注は、単に「証し悟る」の意かとしています。

  7. 「空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり」【6】
    「空」を虚空(大空)と取るか、「空(くう)」と取るかで読みが分かれます。文の組み立ても、そのまま一文として読むほか、坐禅を鐘撞きにたとえた比喩として補って読むことや、直前の「ただ坐上の修のみにあらず」と結んで、坐禅の功徳が坐っている時の前後にも及ぶことの喩えと読むこともできます。何を撞くのか(鐘か、空そのものか)も補って読む必要があります。宗務庁版英訳は「大空を打つ」と訳し、注で「空(くう)を打つ」という別の読みを挙げています。

  8. 「百頭みな本面目に本修行をそなへて」【6】
    「百頭」を、すべての人と取るか、あらゆる存在と取るか、その場に連なる数多くの者と取るかで幅があります。「本面目に本修行をそなへて」も、本来面目の上に本来の修行をそなえる、本来面目によって本修行をそなえる、本来面目がそのまま本修行である、と読み分けられます。宗務庁版英訳の注は、「百頭」は一般に「すべての人」の意に取られるとし、後半は「本来面目によって本修行をそなえる」方向で訳しています。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第一「辦道話」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. VII(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 語注の説明の一部と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。