コンテンツにスキップ

現成公案(三)魚と鳥#

『現成公案』の巻の、船から大海を見わたすたとえに始まり、水を行く魚と空を飛ぶ鳥、「このところ、このみち」を経て、「見成これ何必なり」にいたる四つの段落を読む回です。

原文#

【1】身心に、法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ。さらにことなる相、みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中・格外おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取・会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳・山徳おほくきわまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

【2】魚、水を行に、ゆけども水のきはなく、鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚・鳥、いまだむかしよりみず・そらをはなれず。ただ用大のときは使大なり、要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふことなく、処処に踏翻せずといふことなしといへども、鳥、もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚、もし水をいづれば、たちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

【3】しかあるを、水をきわめ、そらをきわめてのち、水・そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するがゆゑに、しかあるなり。

【4】得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必なり。

現代語訳#

段落番号は原文の段落番号と対応します。【1】【2】【3】は長いので、意味の切れ目で訳文を【1-1】【1-2】、【2-1】〜【2-3】、【3-1】〜【3-3】のように分けました。この区切りは原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。仏教語・禅語・漢語は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として短く説明しました。【2】の以水為命などの漢文の句も原文のまま残し、( )に読み下しの意を添えました。読みの分かれる句には、訳文には一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。

【1-1】身心に、法がまだ参飽していない(十分に参じきって身心に満ちていない)うちは、法はもう足りていると思われる。法がもし身心に充足すると、(どこか)一方が足りないと思われるのである。たとえば、船に乗って山の見えない海の中に出て四方を見わたすと、ただ円くばかり見える。ほかに違った形は何も見えない。けれども、この大海は、円いのでもなく、四角いのでもなく、(目に映っていない)残りの海徳は、尽くしきれないのである。(海は)宮殿のようであり、瓔珞のようである。ただ自分の目の届くところが、しばらく(さしあたり)円く見えているだけなのである。

語注

  • 参飽:「参」は師について学ぶこと・参学、「飽」は飽きるほど満ちること。法を十分に参じきって身心に満ちている、の意に取った。訳さずに残した。宗務庁版英訳は「法を学びきる」の意に訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 法:ここでは仏法、仏の教え・真理。
  • たれり:足りている。「たれりとおぼゆ」で、足りていると思われる・感じられる。
  • 充足:満ち足りること。訳さずに残した。
  • ひとかたはたらず:一方は足りない。どこか一つの面が足りない、と感じられること(→読みの分かれるところ)。
  • 山なき海中:陸地や山の見えない沖合。
  • まろ:円い。
  • ことなる相:ほかの(違った)形・すがた。
  • 方:四角。次の【1-2】の「方円」の「方」。
  • 海徳:海のそなえる徳(はたらき・性質)。仏典では、海に八つの徳(広く深いこと、潮の満ち干がたがわないこと、など)を数えることがある(宗務庁版英訳による)。訳さずに残した。
  • のこれる:(目に映っている円い形のほかに)残っている。
  • 宮殿のごとし、瓔珞のごとし:「瓔珞」は珠玉を連ねた首飾り・装身具。宗務庁版英訳の注は、同じ水が、天人には宝(あるいは宝の地)、人には水、餓鬼には膿血、魚には住みかと見えるという「一水四見」の教えをふまえるか、とする。主語は示されていないが、前の文から(大海は)と取った(→読みの分かれるところ)。
  • まなこのおよぶところ:目の届く範囲。
  • しばらく:さしあたり・ひとまず。「少しのあいだ」と時間の意に取る読みもある(→読みの分かれるところ)。

【1-2】それと同じように、万法もまたそうである。塵中にも格外にも、(万法は)多くの様子(ありさま)を帯びているけれども、(わたしたちは)参学の眼力の及ぶかぎりを、見取・会取する(見てとり、理解する)のである。万法の家風を聞きとろうとするなら、方・円(四角い・円い)と見えるほかに、残りの海徳・山徳が多くてきわまりなく、四方の世界があることを知るべきである。かたわら(まわり)だけがこのようであるのではなく、直下(足もと)も、一滴(の水)も、そうであると知るべきである。

語注

  • かれがごとく:あれ(前の大海の喩え)と同じように。
  • 万法:あらゆる事物・現象。第一回【2】の語注参照。
  • 塵中・格外:「塵中」は塵(ちり)のなか、「格外」は格(決まった枠)の外。宗務庁版英訳の注は、六つの感官の対象(六塵)からなる世俗の世界と、それを越えた仏法の境地、と取ることもできるか、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 様子を帯せり:(さまざまな)ありさまをそなえている。
  • 参学眼力:参学(師について仏道を学ぶこと)によって得た、ものを見る目の力。宗務庁版英訳の注は、修行を通して得た見る力が見てとれる対象だけを、の意とし、「参学眼」の語は『正法眼蔵』にしばしば見える、とする。訳さずに残した。
  • 見取・会取:見てとること・理解してとること。「取」は動作を強める字。訳さずに残した。
  • 家風:もとは禅の各家(流派)の宗風・教え方をいう語。宗務庁版英訳の注は、ここでは「ものごとのありよう」の意か、また「万法」には各宗の教えも含まれるか、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • きかんには:聞こうとするなら。宗務庁版英訳は「知ろうとするなら」の意に訳す。
  • 方円:四角いと円い。宗務庁版英訳の注は、仏教の用語として「方」は方便を用いる(部分的な)教え、「円」は真理を直接に示す(完全な)教え、の意にもなる、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 山徳:山のそなえる徳。前の「海徳」と対にした語。訳さずに残した。
  • よもの世界:四方の世界。
  • かたはら:わき・まわり。宗務庁版英訳の注は、「かたはら」を自分のまわり、次の「直下」を足もと、あるいは自分自身、と対にして取る。
  • 直下:真下、足もと。禅語。訳さずに残した。
  • 一滴:一しずく(の水)。大海の喩えを受けて、そのごく小さなところにも、の意。

【2-1】魚が水を行くとき、行っても水のきわ(果て)はなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも空のきわはない。けれども、魚も鳥も、昔から(もとより)水・空を離れたことがない。ただ用大のときは使大であり、要小のときは使小である(はたらきが大きいときは大きく使い、必要が小さいときは小さく使う)。

語注

  • 行に:行くに(ゆくに)。
  • きは:きわ。果て、かぎり。
  • みず:水。
  • むかしより:宗務庁版英訳の注は、おそらく「もとより(はじめから)」の意に取るのがよい、とする。訳文は(もとより)と添えた。
  • 用大・使大・要小・使小:「用」ははたらき、「使」は使うこと、「要」は必要。訳文では漢語を残し、( )に意を添えた。宗務庁版英訳の注は、「大用(だいゆう)」が禅籍で、悟った師のはたらきをいう語であることを指摘する。

【2-2】このようにして、(魚も鳥も)頭頭(一つ一つ)に辺際(かぎり)を尽くさないということはなく、処処(どこにおいて)も踏翻しないということはないけれども、鳥がもし空を出れば、たちまち死に、魚がもし水を出れば、たちまち死ぬ。以水為命(水を命とする)と知るべきである、以空為命(空を命とする)と知るべきである。以鳥為命(鳥を命とする)ということがあり、以魚為命(魚を命とする)ということがある。以命為鳥(命を鳥とする)であるにちがいない、以命為魚(命を魚とする)であるにちがいない。

語注

  • 頭頭:一つ一つ、それぞれ。禅語。訳さずに残した。
  • 辺際:かぎり、きわ。訳さずに残した。
  • つくさずといふことなく:尽くさないということはない。二重否定で「どれもみな(かぎりを)尽くしている」の意。
  • 処処:いたるところ。訳さずに残した。
  • 踏翻:踏みひるがえす、蹴りかえす。禅籍で「大用」のはたらきをいう語で、「大海を踏翻し、須弥山を蹴倒す」といった句に見える(宗務庁版英訳による)。宗務庁版英訳は、この二句を意をとって訳したもので、語どおりには「それぞれ辺際を尽くさないことはなく、いたるところで踏翻しないことはない」となる、と注する。訳さずに残した。
  • 以水為命・以空為命:漢文の句。「水をもって命となす」「空をもって命となす」。魚(や竜)が「水を命とする」という言い方は禅籍のいくつかに見える(宗務庁版英訳による)。
  • しりぬべし:知るべきである。宗務庁版英訳の注は、「しる」の主語が示されておらず、(魚は)知っているはずだ、と取ることもでき、そう読むと、宏智正覚の語録にある「竜や魚は水が命であることを知らない」という意の句を禅師が念頭においていたことをうかがわせる、とする。訳文は、読む者に向けて「知るべきである」と取った(→読みの分かれるところ)。
  • 以鳥為命・以魚為命・以命為鳥・以命為魚:前の「以水為命」の語の組み合わせを入れかえた句。「鳥をもって命となす」「魚をもって命となす」「命をもって鳥となす」「命をもって魚となす」。訳文は漢文のまま残し、( )に語どおりの意を添えた(→読みの分かれるところ)。
  • あり/なるべし:前の二句は「〜ということがある」、後の二句は「〜であるにちがいない(〜であるはずだ)」と言い分けている。

【2-3】このほかにも、さらに進歩があるにちがいない。修証があり、その(修証に)寿者・命者があること(のありさま)は、このようなものである。

語注

  • 進歩:(一歩)進むこと。宗務庁版英訳の注は、前の句の組み合わせにはほかの入れかえもあるはずだ、の意とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 修証:修行と証(さとり)。第一回の語注参照。訳さずに残した。
  • 寿者・命者:寿命をもつもの、いのちあるもの。訳さずに残した。宗務庁版英訳の注は、仏道の修証と生あるものとの関係が、水と魚、空と鳥との関係にあたる、の意とする(→読みの分かれるところ)。
  • その:何を指すかは示されていない。訳文は(修証に)と補ったが、決めかねる(→読みの分かれるところ)。
  • かくのごとし:このようである。魚と水、鳥と空の喩えのとおりである、の意。

【3-1】ところが、水をきわめ、空をきわめて(その果てまで行き尽くして)から後に、水・空を行こうとする鳥や魚がいるとしたら、(その鳥や魚は)水にも空にも、みちを得ることはできず、ところを得ることはできない。このところを得れば、この行李がそれにしたがって現成公案する。このみちを得れば、この行李がそれにしたがって現成公案である。

語注

  • しかあるを:そうであるのに、ところが。前の【2】を受けて、それと違う(誤った)あり方を挙げる。
  • きわめ:究める、果てまで尽くす。前の【2-1】「水のきはなく」の「きは」と同じ語に由来する(→読みの分かれるところ)。
  • 擬する:〜しようとする、くわだてる。
  • みち・ところ:道と、(身を置く)場所。訳文は原文どおり仮名で残した(→読みの分かれるところ)。
  • うべからず:得ることはできない。
  • 行李:日々の行い・ふるまい。前回【1】の語注参照。訳さずに残した。
  • したがひて:それにしたがって、それにつれて。
  • 現成公案す/現成公案なり:「現成公案」は巻名の語(第一回の語注参照)。「現成公案す」は、この語を動詞のように用いた、禅師に独自の言い方で、「現成公案を現す・表す」の意とも取れる(宗務庁版英訳による)。前の句は「現成公案する」、後の句は「現成公案である」と言い分けている。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

【3-2】このみち、このところは、大でもなく小でもなく、自でもなく他でもなく、前からあるのでもなく、いま現れるのでもないから、このようにある(このとおりにある)のである。

語注

  • このみち、このところ:宗務庁版英訳の注は、「このところ」を「このみち」の言い換え(同格)と取ることもできる、とする。
  • 自・他:自分と他のもの。
  • さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざる:前からあったのでもなく、いまはじめて現れるのでもない。
  • かくのごとくあるなり:このようにあるのである。宗務庁版英訳の注は、「このように」の意ははっきりしないとし、(現成公案の現れる場となるような)しかたで、の意か、とする。

【3-3】そのように、人がもし仏道を修証するとき、得一法・通一法(一法を得れば一法に通じる)であり、遇一行・修一行(一行に遇えば一行を修する)である。ここにところがあり、みちが通達しているので、知られるきわ(かぎり)がはっきりしないのは、この知ることが、仏法の究尽と同生し同参するからこそ、そうなのである。

語注

  • 得一法通一法なり、遇一行修一行なり:漢文の句。「一法を得て一法に通ず」「一行に遇うて一行を修す」。宗務庁版英訳の注は、禅師はこの二句を何かの典籍の引用のように漢文で示しているが、知られた出典はない、とし、ここの「法」は「教え」の意で、学ぶ一つ一つの教えを徹底して会得すること、と取る。訳文は漢文の句を残し、( )に語どおりの意を添えた。
  • これにところあり:ここ(このこと)にところがある。「これ」が何を指すか(前の修証のことか、得一法通一法のことか)は示されていない(→読みの分かれるところ)。
  • 通達:通じ達する、すみずみまで通る。訳さずに残した。
  • しらるるきは:知られる(知ることのできる)きわ・かぎり。
  • しるからざる:「しるし(著し)」の否定で、はっきりしない、目立たない、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
  • このしること:この知ること。前の「しらるるきは」の「知る」を受ける。
  • 究尽:究め尽くすこと。訳さずに残した。
  • 同生し同参する:ともに生じ(ともに生き)、ともに参ずる。宗務庁版英訳の注は、禅師は「同生」「同参」の語で、同じであること・等しいことを言い表すことが多い、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

【4】得処が必ず自己の知見となって、慮知に知られるだろうと、ならって(心得て)はならない。証究はすみやかに現成するけれども、密有は必ずしも見成ではない。見成は、これ何必である。

語注

  • 得処:得たところ。宗務庁版英訳の注は、前の【3】の「ところをうる」を漢語にしたもの(ところを得ること)と取るが、「得たもの」とも読める、とする。訳さずに残した。
  • 知見:知ること・見ること、自分の知識としてとらえたもの。訳さずに残した。
  • 慮知:思いはかって知ること、分別の心。訳さずに残した。
  • しられんずる:知られるであろう。
  • ならふことなかれ:学んではならない、(そう)心得てはならない。「ならふ」は第一回【8】「自己をならふ」と同じ語。
  • 証究:証(さとり)を究めること、究めつくした証。訳さずに残した。
  • すみやかに:すぐに、ただちに。
  • 現成す:現れて成る、現にそのものとして成っている。訳さずに残した。
  • といへども:〜けれども。「たとえ〜しても」と仮定に取る読みもある。
  • 密有:ひそやかにある(もの)、内に密にある(もの)。宗務庁版英訳の注は、『正法眼蔵』のほかの箇所には見えず、仏典にも多くない語で、ふつう、わたしたちのもっとも内なる真実を指すと取られる、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 見成:「現成」と同じ。「見」は「現(あらわれる)」の意。「現成公案」は「見成公案」とも書く(第一回の語注参照)。前の句では「現成」、ここでは「見成」と書き分けている。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 何必:漢語で「何ぞ必ずしも(〜ならん)」、どうして必ずそうであろうか、の意。宗務庁版英訳の注は、ある言い分を問い返す(また、それに異をとなえる)ための決まった言い方とし、ここでは、究めつくした証のうちに現れるのは、それまで現れていなかった実在ではなく、それまでの理解を問い返すことだ、という意か、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

解説#

はじめに――舟と岸、薪と灰、月と水から#

前回は、「人、舟にのりてゆくに」から「天月の広狭を弁取すべし」までの三つの段落を読みました。舟に乗って岸を見る人、燃えて灰となる薪、水に宿る月。三つのたとえを通して、自分の側からものごとを並べて見るのではなく、それぞれのものがそれぞれのところで、それぞれとして明らかになる、そのような向きが示されている、と受けとめてきました。

今回読む四つの段落は、その流れをそのまま受けて始まります。前回の結びで申し上げたとおり、ここでもう一度、舟が出てきます。前回の舟は、川を渡ってゆく舟で、乗る人は岸が動くと思いちがえました(前回の【1】)。今回の船は、「山なき海中」、陸地も山も見えない沖へと漕ぎ出してゆきます(【1】)。岸という見くらべるものさえ見えなくなったところで、人の目には何が見えるのか。そこから今回の話が始まります。

また、前回の月と水のたとえは、「一滴の水にもやどる」「大水・小水を検点し」(前回の【3】)と、水の大きさ小ささの話で閉じられていました。今回は、その水が、果てのない大海として、またその「一滴」として、さらに魚の泳ぐ水、鳥の飛ぶ空として、ふたたび現れます。前回、水は月を宿すものとして語られましたが、今回は、魚がその中を行き、そこを離れれば死んでしまう、いのちの場として語られます。同じ水のたとえが、向きを変えて深められてゆく、と言ってよいかもしれません。

段 内容
【1】大海 参飽せざるには、たれりとおぼゆ/山なき海中/参学眼力のおよぶばかり
【2】魚と鳥 水のきはなく、そらのきはなし/以水為命/修証あり
【3】このところ、このみち 水をきわめてのち/現成公案す/得一法通一法
【4】密有・見成 得処かならず自己の知見となりて/密有かならずしも見成にあらず

読み方の手順は、これまでと同じです。まず、たとえとして何が言われているかを字面のうえで確かめ、そのうえで、それが何を指して言われているのかを考えます。現代語訳は訳者の一つの読みであり、読みの決めにくい箇所のうち主なものは、末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。解説でも、それらの箇所では読みの幅を残したまま要点を述べるにとどめます。そのうえで、坐禅や日々の修行、暮らしとのつながりを、一つの受けとめ方として申し添えてまいります。

今回の範囲は、この巻の中でも、とりわけ言葉の運びが入りくんだところです。とくに【3】の後半と【4】は、一句一句の読みが大きく分かれます。どうか、すべてを一度にわかろうとなさらずに、ゆっくりとお付き合いください。そのような読み方そのものが、今回の段の言おうとしていることと、どこかで響き合うようにも思われるのです。

大海――身心に法いまだ参飽せざるには〔【1】〕#

足りていると思うとき、足りないと感じるとき#

「身心に、法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」(【1】)。

身心に法がまだ参飽していないうちは、法はもう足りていると思われる。法がもし身心に充足すると、どこか一方が足りないと思われる、と。

一読すると、逆さまのことが言われているように聞こえます。ふつうに考えれば、まだ十分に学んでいないときには「足りない」と感じ、十分に満ちたときに「足りた」と感じるはずです。ところが禅師は、その反対を言われます。まだ満ちていないときに「もう足りた」と思い、満ちたときに「どこか足りない」と感じる、と。

この二句は、今回の範囲の入り口であり、同時に、もっとも読みの分かれるところの一つです(→読みの分かれるところ)。「参飽」を、法を十分に参じきって身心に満ちる、と取るのか、宗務庁版英訳のように、法を「学びきる」、飽きるほど学びつくす、と取るのか、あるいは、法のほうが身心に参じ入って満ちる、と法を主語にして取るのか。「たれり」「たらず」と感じているのは誰で、その感じ方をどう評価するのか。「足りない」と感じることを、法が満ちていることのしるしと見るのか、法が尽きることのないものであるゆえ、と見るのか、それとも、欠けているという意味ではなく、まだその先があることに開かれている、という意味に取るのか。さらに、前の句の「たれりとおぼゆ」と後の句の「たらずとおぼゆ」とで、同じ「おぼゆ」に、思い込みの含みを読み分けるのかどうか。本解説では、これらのどれか一つに決めることはいたしません。

ただ、この二句のすぐあとに、大海のたとえが続くことは、読むうえでの手がかりになります。船で沖に出ると、海はただ円く見えるだけで、ほかの形は見えない。けれども、海は円いのでも四角いのでもなく、「のこれる海徳、つくすべからざるなり」。この流れの中に置いてみると、「足りている」と思うのは、目に映る円い形を海のすべてと思うことに近く、「どこか足りない」と感じるのは、目に映っているもののほかに、尽くしきれない海徳が残っていることに、身をもって触れはじめたことに近い――そのように、たとえと重ねて受けとめることもできるように思います。もとより、これは段の流れに沿った一つの受けとめ方であり、二句の読みを決めるものではありません。

坐禅の中で「たれり」と「たらず」を受けとめる#

この二句を、坐禅や日々の修行に引き寄せて受けとめてみたいと思います。

坐禅をはじめて間もないころ、ある日ふと、心が静まり、「ああ、坐禅とはこういうものか」と、何かがわかったような気持ちになることがあります。その気持ちそのものは、決して悪いものではありません。けれども、そこで「これで足りた」と思い定めてしまうと、坐禅は、そのときの心持ちをもう一度なぞろうとするものになってしまいかねません。

一方で、長く坐りつづけてこられた方ほど、「まだまだです」と言われることが少なくありません。それは謙遜の言葉であるとともに、坐るほどに、坐禅というものの広さ、深さが、自分の思いの及ぶところを越えていることを、身をもって知っておられる、ということなのかもしれません。

ここで思い起こされるのは、弁道話の言葉です。禅師は、坐禅の法について、「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや」(『弁道話』第一回)と述べておられます。この法は、人々一人一人にゆたかにそなわっているけれども、修行しなければあらわれず、証さなければ得ることはない。手放せば手に満ちている。一とか多とかいう際限のあるものであろうか、と。法は、そもそも「どこまで」という限りをもつものではない。そうであれば、そのような法に親しく触れた身心が、「これで足りた」と言い切れなくなるのは、むしろ自然なことなのかもしれません。もとより、弁道話のこの言葉と、今回の二句とを、同じことを言うものとして重ねてよいかどうかは、慎重であるべきでしょう。二つを並べて読む者の受けとめ方として、申し添えておきます。

大切なのは、「足りない」と感じることを、自分を責める材料にしないことだと思います。この段の大海のたとえは、海が円く見えるのは、見る者が劣っているからだ、と責めているのではない、と読むことができるでしょう。「ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり」。目の届くところが、さしあたり円く見えている。それだけのことです。「足りない」と感じるのは、海が尽くしがたく広いからであって、そのことに気づかされるのは、坐禅という船で、沖へと漕ぎ出しているからだ、と受けとめることもできるでしょう。

山なき海中にいでて――ただまろにのみみゆ#

「たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ。さらにことなる相、みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり」(【1】)。

船に乗って、山の見えない沖に出て四方を見わたすと、海はただ円く見える。ほかに違った形は何も見えない。けれども、この大海は、円いのでも四角いのでもなく、残りの海徳は尽くしきれない、と。

沖に出て、ぐるりと水平線に囲まれた経験のある方なら、この光景がよくおわかりになるでしょう。どちらを向いても、海と空の境が、自分を中心にした円を描いています。海は円い、と見えるのです。けれども、その円は、海そのものの形ではありません。見る者がどこに立っているか、その目がどこまで届くか、によって描かれた円です。船が動けば、円もいっしょに動きます。

「海徳」は、海のそなえる徳、はたらきや性質のことです。宗務庁版英訳の注では、仏典にはときに海に八つの徳を数えることがあり、たとえば、広く深いこと、潮の満ち干がたがわないこと、などが挙げられる、とされています。海は、目に映る円い広がりだけのものではなく、そうした数えきれない徳をそなえている。円く見えているのは、その中のほんの一面にすぎない、というのです。

宮殿のごとし、瓔珞のごとし#

「宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり」(【1】)。

ここで、たとえは急に、きらびやかな言葉に変わります。宮殿のようであり、瓔珞(珠玉を連ねた首飾り)のようである、と。

宗務庁版英訳の注では、この句は、同じ水が、天人には宝(あるいは宝の地)、人には水、餓鬼には膿血、魚には住みかと見える、という「一水四見」の教えをふまえたものであろう、とされています。そう読めば、海は、見る者によって宮殿とも瓔珞とも見える、ということになります。一方で、この二句を、大海そのものの尽くしがたい豊かさを宝物にたとえたもの、あるいは前の「のこれる海徳」の具体的な例として読むこともできます(→読みの分かれるところ)。主語も示されておらず、訳文では前の文から(大海は)と補いました。

また、「しばらく」の一語も、「さしあたり」「ひとまず」と取るのか、「少しのあいだ」と時間の意味に取るのかで、響きが変わります。そして何より、「まろにみゆるのみ」を、どう評価するのか。円く見えるのは見る側の限界であり、誤りだ、と取るのか。それとも、円く見えることも、それはそれとして一つのありかたであり、否定されているのではない、と取るのか(→読みの分かれるところ)。この評価は、次の「参学眼力のおよぶばかりを、見取・会取するなり」の受けとめ方とも関わってきますので、読みをそろえて考える必要があります。

ここでは、ひとまず、次のことだけを心にとめておきたいと思います。禅師は、円く見えることを「あやまる」とは言っておられません。前回の舟と岸の段では、岸が動くと見ることを、はっきり「あやまる」と言われました(前回の【1】)。それに対して、この段では、「しばらくまろにみゆるのみなり」と言われるにとどまります。この言葉の違いに意味を見るかどうかも、読む者に委ねられたところですが、少なくとも、目の届くところが円く見えること自体を、ただちに退けておられるわけではない、とは言えるように思います。

参学眼力のおよぶばかりを#

「かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中・格外おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを、見取・会取するなり」(【1】)。

大海のたとえが、ここで万法の上に重ねられます。万法もまた、そのようである、と。

「塵中・格外」は、むずかしい言葉です。宗務庁版英訳の注では、六つの感官の対象(六塵)からなる世俗の世界と、それを越えた仏法の境地、と取ることもできるか、とされています。一方で、世間のなかと世間の外、あるいは、小さな塵のなかと常識の枠の外、つまり大小・内外のあらゆるところ、と取る読み方もありえます(→読みの分かれるところ)。いずれにしても、万法は、あらゆるところで、さまざまなありさまを帯びている。けれども、私たちは、参学の眼力の及ぶかぎりを、見てとり、理解する、というのです。

「参学眼力」は、参学、つまり師について仏道を学ぶことによって得た、ものを見る目の力です。宗務庁版英訳の注では、修行を通して得た見る力が見てとることのできる対象だけを、という意味とし、「参学眼」という言葉は『正法眼蔵』にしばしば見える、とされています。

ここでも、「およぶばかりを」の受けとめ方が分かれます(→読みの分かれるところ)。「眼力の及ぶかぎりだけを」と、限界を言う言葉と取るのか。それとも、「眼力の及ぶところを」と、参学を重ねるほど見えるものが広がってゆく、という含みで取るのか。

どちらの読みに立つとしても、ここで「眼力」が、生まれつきの視力ではなく、「参学」の眼力、つまり学び、修行することによって養われる眼の力として語られていることは、心にとめておいてよいでしょう。海の上の船の人は、どれほど目を凝らしても、水平線の向こうは見えません。けれども、参学の眼力は、参学によって育まれてゆくものです。坐禅をし、師に参じ、経典を読み、日々の行いを重ねてゆく。その中で、少しずつ、見えるものが変わってゆく。そのように受けとめるとき、この一句は、私たちの限界を言いあてる言葉であると同時に、参学という歩みを促す言葉としても響いてくるように思われます。もとより、これは一つの受けとめ方です。

万法の家風をきかんには#

「万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳・山徳おほくきわまりなく、よもの世界あることをしるべし」(【1】)。

「家風」は、もともと禅の各家、つまりそれぞれの流れの宗風、教え方を言う言葉です。宗務庁版英訳の注では、ここでは単に「ものごとのありよう」を言う、ややくだけた言い方かもしれないが、「万法」に、この世の事物だけでなく、仏教諸宗のさまざまな教えまで含めている可能性もある、とされています。また「方円」についても、同じ注は、四角い・円いという、海についての話をそのまま受けた言葉であると同時に、仏教の用語として、方便を用いる部分的な教えと、真理を直接に示す完全な教えを言う語でもある、と指摘しています(→読みの分かれるところ)。

二つの読みのどちらを取るかで、この一句の響きはかなり変わります。前の読みなら、万法のありようを知ろうとするなら、四角く見えたり円く見えたりする、その見え方のほかに、尽くしきれない徳をそなえた世界が四方にある、と知るべきだ、という意味になります。後の読みを重ねれば、教えについても、自分の目に映る教えの姿がすべてではない、という含みが加わります。本解説ではどちらとも決めず、注がそうした読みの可能性を示している、ということを紹介するにとどめます。

「海徳」に「山徳」が加えられているのも、目をとめたいところです。たとえは海でしたが、ここで山の徳が並べられます。船の人には「山なき海中」で山は見えていませんでした。見えていない山にも、また尽くしきれない徳がある。万法の世界は、海だけでも、山だけでもなく、「よもの世界」、四方に広がっている、と受けとめることができるでしょう。

かたはらのみにあらず、直下も一滴も#

「かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし」(【1】)。

段の最後に、禅師は目を、遠い四方の世界から、足もとへと引き戻されます。かたわらだけがこのようであるのではない。直下も、一滴も、そうであると知るべきである、と。

宗務庁版英訳の注では、「かたはら」を自分のまわり・周囲と取り、それに対して「直下」を、足もと、あるいは自分自身、と取っています。また、「直下」を「いま・ここ」と取る読み方もありえます。そして「一滴も」。大海の、ほんの一しずくにも、です。

何が「そうである」のかも、本文は言っていません。尽くしがたい海徳・山徳がある、ということなのか。それとも、円く見えるのは眼力の及ぶかぎりにすぎない、ということなのか。

前回の月と水の段を思い起こしてください。そこでは、月は「一滴の水にもやどる」(前回の【3】)と言われていました。今回も「一滴」が出てきます。二つを結びつけて読むかどうかは読みの分かれるところですが、並べてみると、同じ一滴の水が、前回は天の月をまるごと宿すものとして、今回は尽くしがたい徳をそなえるものとして語られている、と見ることもできます。

この一句は、私たちに、遠くを見ることだけが広さを知ることではない、と告げているようにも聞こえます。四方の世界の尽くしがたさに思いを馳せることも大切です。けれども、その尽くしがたさは、はるか遠くにだけあるのではなく、自分の足もとにも、一滴の水にも、同じようにある。坐禅をする者にとって、「直下」とは、まさにいま坐っているこの場所、この身ではないでしょうか。尽くしがたいものは、どこか遠い悟りの境地にあるのではなく、いま、ここに坐っているこの一坐の中にもある。そのように受けとめることは、許されるように思います。

暮らしの中の「まろにみゆる」#

日々の暮らしの中でも、私たちは、自分の目に映ったかぎりのものを、そのもののすべてだと思いがちです。

たとえば、人を見るときです。ある人の、ある一面だけを見て、「あの人はこういう人だ」と決めてしまう。けれども、それは、船の上から海を見て「海は円い」と言っているのと、どこか似ています。その人には、私たちの目の届かない「のこれる海徳」が、尽くしきれないほどあるはずです。家族のように、毎日顔を合わせている人についても、それは同じでしょう。

また、自分自身を見るときも、そうかもしれません。「自分はこういう人間だ」「自分にはこれくらいしかできない」と、私たちは自分のことも、円く囲ってしまいがちです。けれども、「直下も一滴もしかある」。自分という足もとにもまた、尽くしきれない徳がある、と受けとめてみる。それは、自分を過大に見ることでも、過小に見ることでもなく、自分の目に映る円い形を、しばらくそう見えているもの、として、やわらかく持つことなのだと思います。

魚と鳥〔【2】〕#

ゆけども水のきはなく、とぶといへどもそらのきはなし#

「魚、水を行に、ゆけども水のきはなく、鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚・鳥、いまだむかしよりみず・そらをはなれず」(【2】)。

この巻の中でも、とりわけよく知られた一節です。魚が水を行くとき、行っても行っても水のきわはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも飛んでも空のきわはない。けれども、魚も鳥も、もとより水・空を離れたことがない、と。

前の段では、海を外から、船の上から眺めていました。この段では、視点がぐっと変わります。海を眺める人ではなく、水の中を行く魚、空の中を飛ぶ鳥が語られます。外から見て「円い」「四角い」と言うのではなく、その中にあって、その中を生きているものの側から、水と空が語られるのです。

「きはなく」を、どう受けとるか。水そのもの、空そのものに果てがない、と取るのが、宗務庁版英訳の訳し方でもあり、字面に素直な読みです。一方で、魚や鳥がどこまで行っても、行くところが水・空でないことはない、行き着く果てに出ることはない、と取ることも、また、行くこと・飛ぶことそのものに終わりがない、と、修行の終わりのなさに重ねて取ることもできます。

「むかしより」について、宗務庁版英訳の注は、おそらく「もとより」、はじめから、の意に取るのがよい、としています。昔から今まで、という時間の意味に取る読みもありますが、注の取り方に従えば、魚も鳥も、そもそものはじめから、水・空を離れたことがない、ということになります。

果てがない、ということと、離れたことがない、ということ。この二つが、「しかあれども」(けれども)で結ばれていることに、目をとめておきたいと思います。どこまで行っても果てがないのに、けれども、一度もそこを離れたことはない。果てがないから、離れられない、というのとは少し違います。果てのないほど広い水の中を、自在に行きながら、しかも、その水を一瞬も離れていない。広さと親しさとが、一つの姿の中にある、と受けとめることもできるでしょう。

用大のときは使大なり、要小のときは使小なり#

「ただ用大のときは使大なり、要小のときは使小なり」(【2】)。

はたらきが大きいときは大きく使い、必要が小さいときは小さく使う。魚は、大きく泳ぐときには大きく水を使い、小さく動くときには小さく水を使う。鳥も、大きく飛ぶときには大きく空を使い、ちょっと羽を動かすときには、それだけ空を使う、と受けとめることができます。

宗務庁版英訳の注では、「大用」という語が、禅の書物で、悟った師のはたらきを言う、よく用いられる言葉であることが指摘されています。ここにその含みを読み込むかどうか、また「用」と「要」とを書き分けていることに意味を見るのか、「使大・使小」を、大きく使う・小さく使う、と取るのか、使うところ(水・空)が大きい・小さい、と取るのか、さらに主語は魚・鳥なのか水・空なのか、と、この短い句にも読みの幅があります。

訳文の読みに沿って言えば、ここで言われているのは、魚と鳥が、水と空を、そのときどきの必要に応じて、過不足なく使っている、ということになるでしょう。大きなはたらきのときにも、水の外に出るわけではない。小さなはたらきのときにも、水が欠けるわけではない。その時その時のはたらきに応じて、水も空も、ちょうどそれだけ使われている。

前回の段の最後にあった「大水・小水を検点し」(前回の【3】)という言葉も思い起こされます。前回の大・小は水の大きさ、今回の大・小ははたらきと使い方の大きさです。並べて読むことに決まった根拠があるわけではありませんが、大小という言葉が、段から段へ、向きを変えて受けつがれているようにも感じられます。

頭頭に辺際をつくさず、処処に踏翻せず#

「かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふことなく、処処に踏翻せずといふことなしといへども、鳥、もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚、もし水をいづれば、たちまちに死す」(【2】)。

「頭頭」は一つ一つ、「辺際」は限り、きわ、「処処」はいたるところ。このようにして、一つ一つ、その限りを尽くさないということはなく、どこにおいても踏翻しないということはない、と。二重の否定で、どれもみな、限りを尽くしきり、どこにおいても踏翻している、という意味になります。

「踏翻」は、踏みひるがえす、蹴りかえす、という言葉です。宗務庁版英訳の注では、禅の書物で「大用」のはたらきを言い表す語であり、「大海を踏翻し、須弥山を蹴倒す」といった言い方に見える、とされています。また同じ注は、英訳はこの二句を意をとって訳したもので、語どおりには「それぞれ辺際を尽くさないことはなく、いたるところで踏翻しないことはない」となる、と断っています。

ここには、少し考えておきたい問題があります。前の句では、水にも空にも「きはなく」、果てがない、と言われました。ところがこの句では、魚も鳥も、一つ一つ「辺際をつくさず」ということがない、限りを尽くしている、と言われます。果てがないのに、限りを尽くしている。これはどう両立するのでしょうか。水・空の限りを尽くしている、と取るのか、魚・鳥それぞれの限り、持ち分を尽くしきっている、と取るのか。何を踏翻するのか、水・空なのか、辺際なのか。本文は、それを説明してはくれません。

一つの受けとめ方として、次のように考えることもできるかもしれません。水そのものに果てはない。けれども、魚は、そのとき、そのところで、そのはたらきの限りを、まるごと尽くして泳いでいる。どこかに「まだ泳ぎ残したところ」があるような泳ぎ方ではなく、いま泳いでいるそのところで、泳ぐことを尽くしている。果てのない水と、いまここで尽くされている泳ぎとが、一つの姿の中で矛盾なくある、と。もとより、これは読みの一つにすぎません。

なお、「辺際」という言葉は、この巻の前のほうにも出てきました。「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり」(第一回の【9】)。人がはじめて法を求めるとき、はるかに法の辺際を離れてしまっている、と。第一回で読んだその段と、今回の段とで、同じ言葉がどのように響き合うのかは、心にとめておいてよい問いでしょう。

そして、句は「といへども」と転じます。そのように自在に限りを尽くしていても、鳥がもし空を出れば、たちまちに死ぬ。魚がもし水を出れば、たちまちに死ぬ。この逆接の向きを、自在に尽くしていても、水・空を離れては生きられない、と取るのが素直な読みでしょうが、ここにも読みの幅が残ります。

自在であることと、離れられないこと。私たちはふつう、自在とは何にもしばられないこと、どこからでも離れられることだ、と考えがちです。けれども、魚の自在は、水を離れないところにあります。水を離れた魚は、自在どころか、生きることさえできません。魚の自在は、水という、そのいのちの場に、まるごと身をあずけているところに成り立っている、と受けとめることができるように思います。

以水為命しりぬべし――水を命とする#

「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」(【2】)。

ここで、禅師は漢文の句を用いられます。「水をもって命となす」と知るべきである。「空をもって命となす」と知るべきである。

宗務庁版英訳の注では、魚(や竜)が「水を命とする」という言い方は、禅の書物のいくつかに見える、とされています。そのうえで、同じ注は、注目すべきことを指摘しています。「しりぬべし」の「しる」の主語が示されていないので、これを「(魚は)知っているはずだ」と取ることもできる。そう読むと、禅師が、宏智正覚(1091–1157)の語録にある「竜や魚は水が命であることを知らない」という意味の句を念頭においておられたことがうかがわれる、と。

訳文では、読む者に向けて「知るべきである」と取りました。けれども、注の言う別の読みに立てば、この句は、宏智の句の「知らない」に対して、「知っているはずだ」と言い返す響きをもつことになります(→読みの分かれるところ)。また、「しりぬべし」の「ぬべし」を、「〜べきだ」という当然・勧めの意に取るか、「きっと〜にちがいない」という強い推しはかりの意に取るかでも、響きが変わってきます(→読みの分かれるところ)。この句の読みは今回の段の要の一つですので、本解説ではどちらとも決めず、二つの読みがあることをお示しするにとどめます。

そのうえで、読む者・修行する者に向けた「知るべきである」という読みに立って、一つの受けとめ方を申し上げてみます。魚にとって水は、まわりにある環境の一つ、というものではありません。水は魚の命そのものです。鳥にとっての空も同じです。私たちにとって、それにあたるものは何なのか。この句は、私たちに、そう問いかけているようにも読めます。

以鳥為命あり、以命為鳥なるべし#

「以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし」(【2】)。

前の句の「以水為命」の語の組み合わせが、ここで入れかえられてゆきます。「鳥をもって命となす」ことがあり、「魚をもって命となす」ことがある。「命をもって鳥となす」であるべきだ、「命をもって魚となす」であるべきだ、と。

この入れかえを、どう受けとるか。ここは今回の範囲の中でも、もっとも読みの幅が大きい箇所の一つです(→読みの分かれるところ)。語どおりに「鳥を命とする」「命を鳥とする」と読むのか、それとも、たとえば「鳥が命とするもの(空)がある」のように、主語・目的語の取り方を変えて読むのか。意味の上でも、水・空が魚・鳥の命であるだけでなく、魚・鳥もまた(水・空の)命である、という主と客の入れかわりを言うと取るのか、命そのものが鳥として、魚として現れている、と取るのか、命と鳥・魚とが分けられない、と取るのか。さらに、前の二句が「あり」、後の二句が「なるべし」と言い分けられていることを、どう受けとるか。訳文では漢文の句をそのまま残し、語どおりの意味を( )に添えるにとどめました。

ここでは、その読みの幅を残したまま、一つの感じ方だけを申し上げておきます。「以水為命」では、水が命でした。「以鳥為命」では、鳥が命です。「以命為鳥」では、命が鳥です。言葉が入れかわるたびに、水と鳥と命とが、どれが主でどれが従ということなく、互いに互いのところを占め合ってゆく。言葉の運びそのものが、魚と水、鳥と空とを、どちらか一方を中心にして並べることを拒んでいるようにも感じられます。前回の段で、自分の側からものごとを並べて見ることがほどけてゆく向きを見てきましたが、この入れかえの句も、その向きと響き合っている、と受けとめることもできるでしょう。もとより、これも一つの受けとめ方です。

このほかさらに進歩あるべし#

「このほかさらに進歩あるべし」(【2】)。

このほかにも、さらに進歩があるにちがいない、と。宗務庁版英訳の注では、前の句の組み合わせには、このほかの入れかえもあるはずだ、という意味とされ、「進歩・退歩」という語への参照が示されています。一方で、修行の上でさらに一歩進むことがあるはずだ、と取る読み方もあります。「べし」を推しはかりと取るか、当然・勧めと取るかでも、響きが変わります(→読みの分かれるところ)。

注の読みに立てば、禅師は、言葉の入れかえを四つで終わらせず、「このほかにもまだある」と、読む者に開いておられることになります。言葉の上での入れかえを、ここで閉じてしまわない。その開かれ方が、そのまま修行の「さらに」の響きにも通じている、と受けとめることも、許されるように思います。

修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし#

「修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし」(【2】)。

段の結びです。修証があり、その寿者・命者があることは、このようである、と。「寿者・命者」は、寿命をもつもの、いのちあるもの、です。

この一句は、短いながら、句の切り方からして読みが分かれます(→読みの分かれるところ)。「その」が何を指すのかが示されていません。修証があり、その修証に寿者・命者がある、と取るのか。修証があり、その修証する者に寿者・命者がある、と取るのか。それとも、「修証あり、その寿者命者あること」の全体が、前の魚と水、鳥と空のとおりである、と取るのか。訳文では(修証に)と補いましたが、決めかねるところです。

宗務庁版英訳の注では、この句は、仏道の修行と証とが、いのちあるものに対して、ちょうど水が魚に、空が鳥に対するような関係にある、という意味だとされています。この注の読みに立てば、修証が水・空に、寿者・命者が魚・鳥に当たる、ということになります。ただ、どちらが水・空でどちらが魚・鳥に当たるかの対応も、前の「以命為鳥」のような入れかえを思えば、一方向に固定してよいのかどうか、なお考える余地があります(→読みの分かれるところ)。

この一句で、魚と鳥のたとえは、はっきりと仏道の修証の上に重ねられます。ここで、弁道話の言葉を思い起こさずにはいられません。

「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」(『弁道話』第五回)。

修行と証とは一つである。修行の外に証を待つ思いを持ってはならない。すでに修行の証であるから、証にきわがなく、証の修行であるから、修行にはじめがない、と。

「証にきはなく」。今回の段の「水のきはなく」「そらのきはなし」と、同じ「きは」という言葉が使われています。もとより、同じ言葉が使われているからといって、二つの巻の箇所を、同じことを言うものとしてただちに重ねることには慎重であるべきでしょう。けれども、果てのない水の中を、その水を一瞬も離れることなく行く魚の姿と、きわのない証の中で、証を離れることなく行ぜられる修行の姿とを並べてみると、そこに響き合うものを感じとることは、許されるように思います。魚が、水の果てに行き着いてから泳ぎはじめるのではないように、修行する者も、証を手に入れてから修行するのでも、修行の果てに証を待つのでもない。水の中で、もうすでに泳いでいる。宗門で修証一等と受けとめてきたことを、この魚と鳥のたとえは、目に見える姿として示しているように感じられます。これは、二つの巻の言葉を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう言っているのではないことを、申し添えておきます。

坐禅箴の魚と鳥#

魚と鳥の姿は、『正法眼蔵』の別の巻にも、坐禅そのものを語る言葉として現れます。本山版の第27巻「坐禅箴」の巻です。

この巻で、禅師は、宏智禅師の「坐禅箴」を掲げておられます。その結びの句は、「水清徹底兮魚行遅遅、空闊莫涯兮鳥飛杳杳」です。水は清らかで底まで徹り、魚の行くことゆったりと。空は広く果てもなく、鳥の飛ぶことはるかに。そして禅師はこの句を解き明かす中で、「坐禅の功徳、かの魚行のことし、千程万程、たれか卜度せん」、坐禅の功徳は、あの魚の行くようなものであり、千里万里、誰がそれをおしはかれようか、と言われます。さらに、「空の飛去するとき、鳥も飛去するなり、鳥の飛去するに、空も飛去するなり」とも言われます。

そのうえで禅師は、ご自身の坐禅箴を撰ばれ、その結びを「水清徹地兮魚行似魚、空闊透天兮鳥飛如鳥」とされました。水は清らかで地にまで徹り、魚の行くこと魚に似たり。空は広く天を透り、鳥の飛ぶこと鳥のごとし。

本山版の奥書によれば、「現成公案」は天福元年に書かれたものであり、「坐禅箴」の巻は仁治三年に撰ばれたものです。書かれた時も、巻の主題も違います。坐禅箴の言葉によって、今回の段の読みを一つに決めることはできませんし、すべきでもないでしょう。ただ、魚と水、鳥と空のたとえが、禅師の言葉の中で、坐禅の姿としても語られている、ということは、宗門の者として心にとめておきたいことです。とくに、坐禅箴の「空の飛去するとき、鳥も飛去するなり、鳥の飛去するに、空も飛去するなり」という言葉は、今回の「以鳥為命」「以命為鳥」の入れかえと、どこか呼びかわしているようにも感じられます。ここでは、並べて示すにとどめます。

坐禅と暮らしの中の魚と鳥#

魚と鳥の段を、坐禅と日々の暮らしに引き寄せて、もう少し受けとめてみたいと思います。

坐禅をしていると、「自分の坐禅は、まだ浅い」「いつかもっと深いところへ行きたい」と思うことがあります。それは、水の果てを探している魚のようなものかもしれません。けれども、魚は、果てに行き着かなくても、もうすでに水の中にいます。一度も水を離れたことがない。坐禅もまた、どこか遠い深みへ向かう途中ではなく、いま坐っているこの一坐が、もうすでに仏法の水の中にある、と受けとめることができるのではないでしょうか。坐禅箴の「坐禅の功徳、かの魚行のことし、千程万程、たれか卜度せん」という言葉は、その一坐の功徳が、おしはかりきれないほど広いことを、魚の行く姿に託しているようにも読めます。

「用大のときは使大なり、要小のときは使小なり」。この句も、日々の修行の上で受けとめることができます。大きな法要のとき、大勢の人の前でつとめるとき、それは「用大」のときでしょう。一方、一人で静かに朝の掃除をするとき、一椀のご飯をいただくとき、それは「要小」のときかもしれません。けれども、どちらのときも、水の外に出ているわけではありません。大きなつとめのときには大きく、小さな行いのときには小さく、そのときどきに応じて、仏道の水を過不足なく使っている。大きな行事だけが修行で、小さな日常は修行の外、ということではない。そのように受けとめるとき、日々のどの行いも、魚が水を行くように、仏道の中の行いとなるように思われます。

そして、「鳥、もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚、もし水をいづれば、たちまちに死す」。この言葉は、厳しい言葉です。けれども、私はこれを、脅しの言葉としてではなく、私たちのいのちが何によって成り立っているかを示す言葉として受けとめたいと思います。私たちは、ひとりで生きているように思いがちです。けれども、空気も、水も、食べものも、人とのつながりも、どれ一つとして、私たちが自分で作り出したものはありません。その中にあって、それを命として、私たちは生かされている。坐禅の中で、一つ一つの息が自分の思いとは別に出入りしていることに気づくとき、そのことが、ほんの少し身にしみて感じられることがあります。もとより、これは本文の言葉から一歩出た、私の受けとめ方です。

このところ、このみち――得一法、通一法〔【3】〕#

水をきわめ、そらをきわめてのち#

「しかあるを、水をきわめ、そらをきわめてのち、水・そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず」(【3】)。

ところが、水を究め、空を究めてから後に、水・空を行こうとする鳥や魚がいるとしたら、その鳥や魚は、水にも空にも、道を得ることはできず、ところを得ることはできない、と。

前の段で、魚は果てのない水の中を、その水を離れずに行き、鳥は果てのない空の中を、その空を離れずに飛んでいました。この段は「しかあるを」と、それとは違うあり方を挙げます。水の果て、空の果てを、まず究めてしまってから、そのうえで水や空を行こう、とする鳥や魚。そのような鳥や魚は、道も、ところも、得ることができない、と。

「きわめ」を、どう受けとるか(→読みの分かれるところ)。前の段の「水のきはなく」の「きは」と同じ語に由来するものとして、果てまで行き尽くしてから、と取るのが、宗務庁版英訳の訳し方でもあります。一方で、知り尽くす、究め尽くす、つまり、あらかじめすべてを知ってから、という意味に取ることもできます。後の読みに立つと、この段の後半の「しらるるきはのしるからざる」や、次の段の「慮知にしられんずる」と、言葉の上で響き合ってきます。また、「みち」と「ところ」を、進む道と身を置く場所と取るか、修行の道とその拠りどころと取るか、「うべからず」を、得ることはできない、と取るか、得るはずがない、と取るかも、読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。

どの読みに立つとしても、ここで退けられているのは、「まず果てを確かめてから、それから行こう」という構えだ、と受けとめることはできるように思います。果てのない水の果てを、まず究めようとする。それは、そもそも果たせないことです。果たせないことを先に済ませようとしているかぎり、その鳥や魚は、いつまでたっても、水の中を一かきも進むことができない。道も、ところも、得られない。

ここで思い起こされるのは、弁道話の次の言葉です。「しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ」(『弁道話』第二回)。たとえ数えきれない諸仏が、ともに力をつくし、仏の智慧をもって、一人の坐禅の功徳をはかり、知り究めようとしても、その「ほとり」、きわを得ることはできないだろう、と。

一人の坐禅の功徳でさえ、諸仏が力を合わせても知り究めることができない。そうであれば、私たちが坐禅をはじめる前に、坐禅とは何かを究めつくしておく、ということは、できるはずがありません。弁道話のこの言葉と、今回の「水をきわめ、そらをきわめてのち」の句とを、同じことを言うものとして重ねてよいかどうかは、慎重であるべきでしょう。ただ、どちらにも、「しりきはめ」「きわめ」という言葉が見え、究めつくしてから、という構えが成り立たないことが語られている、とは言えるように思います。

このところをうれば、この行李したがひて現成公案す#

「このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり」(【3】)。

このところを得れば、この行李がそれにしたがって現成公案する。このみちを得れば、この行李がそれにしたがって現成公案である、と。

ここで、巻名の「現成公案」という言葉が、本文の中にはじめて現れます。しかも、「現成公案す」と、まるで動詞のように使われています。宗務庁版英訳の注では、これは禅師に独自の言い方であり、「現成公案を現す・表す」という意味にも取れる、とされています。前の句は「現成公案す」、後の句は「現成公案なり」と言い分けられていますが、この言い分けに意味を見るのか、同じことの言いかえと見るのか、また、「この行李したがひて」を、行李がそれにしたがって、と取るのか、行李にしたがって、と取るのか、行李がそのまま、ところ・みちに随って、と取るのか、と、読みは一つではありません(→読みの分かれるところ)。「ところ」と「みち」を二つのものと見るか、一つのものの両面と見るかも、次の句の読みと関わってきます(→読みの分かれるところ)。

「行李」は、前回の舟と岸の段で、「もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」(前回の【1】)と出てきた言葉です。日々の行い、ふるまいのことでした。前回、行李に親しく寄りそい、いま・ここに帰ることを、坐禅のすがたに重ねて受けとめました。今回、その行李が、「このところ」「このみち」を得るとき、現成公案する、と言われます。

読みの幅を残したうえで、一つの受けとめ方を申し上げます。魚にとっての「ところ」は、果てを究めた先にある、どこか特別な場所ではありません。いま泳いでいる、この水です。「このところ」の「この」は、それを指しているように感じられます。果てを先に究めようとせず、いま、この水の中で泳ぐ。そのとき、その泳ぎ、その行いがそのまま、現成公案となる。日々の行いが、それとして現れ、成っている。そのように受けとめることができるでしょう。前回の「行李をしたしくして箇裏に帰す」の「箇裏」と、今回の「このところ」とが、どう響き合うのかも、読む者の問いとして心にとどめておきたいと思います。

大にあらず小にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらず#

「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり」(【3】)。

このみち、このところは、大でもなく小でもなく、自でもなく他でもなく、前からあるのでもなく、いま現れるのでもないから、このようにあるのである、と。

宗務庁版英訳の注では、「このところ」を「このみち」の言い換え、つまり同格と取ることもできる、とされ、また「かくのごとくあるなり」の「このように」の意味ははっきりしないとして、おそらく、現成公案の現れる場となるようなしかたで、という意味か、とされています。一方で、前の魚・鳥と水・空のようにある、と取ることもできます。

「大にあらず小にあらず」という言葉は、前の段の「用大」「要小」「使大」「使小」を思い起こさせます。二つの関わりを読みとるかどうかも、読みの分かれるところです。前の段では、はたらきに大小があり、使い方に大小がありました。けれども、このみち、このところそのものは、大でも小でもない、と。

「さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざる」。前からずっとあったものでもなく、いまはじめて現れたものでもない。私たちは、何かを得るというと、もともとどこかにあったものを見つけるか、それとも、いままでなかったものが新しく生じるか、そのどちらかだと考えがちです。けれども、このみち、このところは、そのどちらでもない、と言われます。前回の薪と灰の段で、「前後ありといへども、前後際断せり」(前回の【2】)と言われていたことも、思い合わされます。もとより、二つを重ねてよいかどうかは、慎重であるべきところです。

得一法通一法なり、遇一行修一行なり#

「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」(【3】)。

そのように、人がもし仏道を修証するときは、得一法・通一法であり、遇一行・修一行である、と。

ここで、鳥魚のたとえは、ふたたび人の修証の上に重ねられます。宗務庁版英訳の注では、禅師はこの二句を、何かの典籍からの引用であるかのように漢文で示しているが、知られた出典はない、とされています。そして、ここの「法」は「教え」の意で、学ぶ一つ一つの教えを徹底して会得することを言うのであろう、と取っています。一方で、「法」を、ものごと・存在、つまり「万法」の法と取る読み方もありえます。

訓み方も一つではありません。「一法を得れば一法に通じ、一行に遇えば一行を修する」と、条件のように読むのか。宗務庁版英訳のように、「一法を得ることは、一法に通じることであり、一行に遇うことは、一行を修することである」と、得ることと通じることとを同じことと読むのか。それとも、「一法を得て一法に通じる」、一つを得てはその一つを徹底する、と読むのか。本解説では、どれか一つに決めることはいたしません。

ただ、どの訓みに立つとしても、ここでくり返されているのが「一」であることは、確かです。一法、一行。すべての法を得てから、すべての行に通じてから、というのではありません。前の「水をきわめ、そらをきわめてのち」という構えが、まず全体を究めようとするものだったのに対して、ここで言われているのは、いま得た一つの法、いま遇った一つの行である、と受けとめることができるでしょう。

一つの行に遇い、一つの行を修する#

この「遇一行修一行」という言葉は、日々の修行の上で、とても受けとめやすい言葉ではないでしょうか。

修行の生活は、一つ一つの行いの連なりです。朝、起きる。顔を洗う。坐る。経を読む。食事をいただく。掃除をする。人と会う。そのどれもが、「一行」です。私たちは、それらを、どこかへ向かうための手段として、早く片づけてしまいたいものとして、扱ってしまいがちです。顔を洗いながら、もう坐禅のことを考えている。食事をしながら、次の仕事のことを考えている。

けれども、「遇一行修一行」という言葉に照らしてみると、いま遇っているこの一行を、この一行として修する、ということが浮かんできます。顔を洗うときには、顔を洗う一行に遇い、それを修する。食事をいただくときには、食事をいただく一行に遇い、それを修する。一つの行いに、まるごと身を置く。それは、前回の言葉で言えば、「行李をしたしくして」、行いに親しく寄りそうことでもあるでしょう。

坐禅も、また同じです。今日の一坐は、明日の一坐のための準備ではなく、今日遇ったこの一坐を、この一坐として坐る。前回、薪と灰の段で、今日の一坐を今日の一坐として、まるごと坐る、という受けとめ方を申し上げましたが、今回の「遇一行修一行」は、その受けとめ方に、もう一つ、言葉の上での手がかりを与えてくれるように思われます。もとより、これも一つの受けとめ方です。

しらるるきはのしるからざるは#

「これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するがゆゑに、しかあるなり」(【3】)。

この一句は、今回の範囲の中でも、もっとも難解な句の一つです(→読みの分かれるところ)。字面を、もう一度ていねいに見てみます。

「これにところあり、みち通達せるによりて」。ここにところがあり、みちがすみずみまで通っているので。

「しらるるきはのしるからざるは」。知られる(知ることのできる)きわ、限りが、はっきりしない、目立たないのは。

「このしることの、仏法の究尽と同生し同参するがゆゑに、しかあるなり」。この知ることが、仏法の究尽と、ともに生じ、ともに参じているから、そうなのである。

まず、句の切り方が一つではありません(→読みの分かれるところ)。訳文のように、「これにところあり、みち通達せるによりて」を、「しらるるきはのしるからざる」の理由として読むのか。それとも、「これにところあり、みち通達せり」でいったん切り、そのあとを新しい文として読むのか。「これ」が何を指すのか――前の得一法通一法・遇一行修一行なのか、仏道の修証なのか、鳥魚と水・空のたとえ全体なのか。「みち通達せる」を、みちがすみずみまで通っている、と取るのか、人がみちに通達している、と取るのか。

「しらるるきは」も、知られるかぎり、知ることのできる範囲と取るのか、宗務庁版英訳の注のように、このところ・このみちの限りと取るのか。「しるからざる」を、はっきりしない・目立たない、と取るのか、知る者に知られない、と取るのか、さらには「知ることができない」と取る読みがありうるのか。「同生し同参する」についても、語どおりに、ともに生じ、ともに参ずる、と取るのか、宗務庁版英訳の注が言うように、禅師がしばしば「同生」「同参」の語で、同じであること、等しいことを言い表すことに従って、同じである、一つである、と取るのか。

宗務庁版英訳の注は、この句の全体について、おそらく、このところ・このみちの限りが修行する者に目立たないのは、それが修行そのものとして経験されるからだ、というような意味であろう、としています。注も「おそらく」と断っているとおり、ここは定まった読みのある箇所ではありません。

本解説も、この句の読みを一つに決めることはいたしません。ただ、句の大まかな形だけは、確かめておけると思います。知られる限りが、はっきりしない。それは、知ることが足りないからではなく、この「知ること」が、仏法の究尽と、ともに生じ、ともに参じているから、そうなのだ、と。知ることが、仏法を究め尽くすことと、別々にあるのではない。知ることそのものが、究め尽くすことと一つになって進んでいるから、どこまでが知られたのか、その限りがくっきりとは見えない。そのように受けとめることもできるかもしれません。

前の段の魚に引き寄せてみると、わかりやすくなるかもしれません。魚は、自分がいまどこまで泳いだのか、水の果てまであとどれくらいなのかを、外から測ってはいません。泳ぐことと、水の中にあることとが、一つになっているからです。泳いでいる魚にとって、「ここまで泳いだ」という限りは、目立ったものとしては現れない。もとより、これは句の意味を魚のたとえで言いかえた、一つの受けとめ方にすぎません。

弁道話の冒頭近くにも、知ることと限りとをめぐる言葉があります。「諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず」(『弁道話』第一回)。諸仏がつねにこの中に住持しているのに、それぞれの方面に知覚を残さない。生きとし生けるものがとこしえにこの中で用いているのに、それぞれの知覚に方面があらわれない、と。この言葉と今回の句とを、同じことを言うものとして重ねてよいかどうかは、慎重であるべきでしょう。ただ、どちらの箇所でも、法の中にあって、法を用いていながら、その法が、知ることの上で、くっきりとした輪郭をもって現れてはこない、ということが語られているように読めます。並べて示すにとどめます。

暮らしの中の「このところ」#

この段を、暮らしに引き寄せて受けとめてみます。

私たちは、何かをはじめる前に、まず全体を見とおしたい、と思います。仕事でも、学びでも、人とのつき合いでも、先がどうなるのか、どこまで行けば終わるのかがわからないと、不安になります。それは自然なことですし、ものごとによっては、見とおしを立てることが大切なこともあるでしょう。

けれども、生きることそのもの、修行そのものについては、どうでしょうか。どこまで行けば終わりなのか、果てを究めてから歩きはじめよう、としても、それはかないません。私たちは、果てを知らないまま、いま、このところで、この一歩を歩むしかありません。そして、この段は、それが欠けたあり方なのではなく、むしろ、そこでこそ「みち」も「ところ」も得られるのだ、と示しているように読めます。

先の見えない日々の中で、いま目の前にある一つのことに、ていねいに向き合う。いま遇った一つの行いを、その行いとして修する。そのとき、その行いが、「このところ」での「この行李」として、それとして現れている。そのように受けとめるとき、果ての見えないことは、もはや不安の種ではなく、果てのない水の中を泳ぐ魚のような、広々としたありかたの一面として、受けとめなおせるのではないでしょうか。

密有かならずしも見成にあらず〔【4】〕#

得処かならず自己の知見となりて#

「得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ」(【4】)。

得処が必ず自己の知見となって、慮知に知られるだろうと、ならってはならない、と。

「得処」は、宗務庁版英訳の注では、前の段の「ところをうる」(ところを得る)を漢語にしたもの、と取られていますが、同じ注は、「得たもの」とも読める、としています。「知見」は、知ること・見ること、自分の知識としてとらえたもの。「慮知」は、思いはかって知ること、分別の心です。「かならず」がどこにかかるのか、「ならふことなかれ」を、学んではならない・心得てはならない、と取るのか、宗務庁版英訳のように、思ってはならない、と取るのかも、読みの分かれるところです。

どの読みに立つとしても、ここで戒められているのは、得たところ、得たものが、必ず自分の知識となって、思いはかる心で知られるはずだ、と思い定めることだ、と受けとめることはできるでしょう。前の段で、「しらるるきはのしるからざる」、知られる限りがはっきりしない、と言われたことを、ここで、別の側から念を押しておられる、と読むこともできるかもしれません。

ここで思い起こされるのは、この巻の前のほうの言葉です。「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」(第一回の【6】)。諸仏がまさしく諸仏であるときは、自分は諸仏であると覚知することを必要としない。けれども、証仏であり、仏を証してゆく、と。第一回に読んだ段です。そこでも、証していることと、それを自分で覚知することとが、必ずしも一つではないことが語られていた、と読むことができます。二つの段を重ねて読むかどうかは読む者に委ねられたところですが、同じ巻の中で、知ることと証することとをめぐって、似た向きの言葉が二度現れている、ということは、心にとめておいてよいでしょう。

また、弁道話にも、「ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辦道して、一知半解を心にとどむることなかれ」(『弁道話』第八回)という言葉があります。師に会ったはじめから、修行の儀則を問いたずね、ひたすらに坐禅辦道して、わずかばかりの知や理解を心にとどめてはならない、と。この言葉は、弁道話の中で、「自己即仏の領解」を仏法とする見方を退ける文脈で述べられたもので、今回の句と同じ場面の言葉ではありません。ただ、得たものを自分の知見として心にとどめ置くことへの戒めとして、響き合うところがあるように思われます。

証究すみやかに現成すといへども#

「証究すみやかに現成すといへども」(【4】)。

証究はすみやかに現成するけれども、と。「証究」は、証を究めること、究めつくした証です。宗務庁版英訳は「究極の証」と訳しています。一方で、証し究めるという動作として取ることもできます。「すみやかに」を、すぐに・ただちに、と取るのか、宗務庁版英訳のように、にわかに・突然に、と取るのか、時を待たずに、修証のその時に、と取るのか。「といへども」を、現成するけれども、と既に定まったことの逆接に取るのか、たとえ現成しても、と仮定に取るのか。

ここでも、読みは一つに決めずにおきます。ただ、「すみやかに」という言葉からは、証が、長い年月の果てに、ようやくどこかで手に入るもの、というのとは違う響きが感じられます。先に読んだ段にも、「法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」(第一回の【9】)とありました。同じ「すみやかに」が、ここにも見えることは、心にとめておいてよいでしょう。

密有かならずしも見成にあらず#

「密有かならずしも見成にあらず」(【4】)。

密有は、必ずしも見成ではない、と。

「密有」という言葉について、宗務庁版英訳の注は、『正法眼蔵』のほかの箇所には見えない語であり、仏典にも多くは見えない語で、ふつうは、私たちのもっとも内なる真実を指すものと取られている、としています。英訳は「私たちにとって親密なもの」の意に訳し、注では「ひそかなあり方」とも訳しうる、としています。読み方としては、内に密にある真実、と取るのか、ひそかなあり方・人に知られずにあるもの、と取るのか、「密」を、ぴったりと親しい、という意味に取るのか、と分かれます(→読みの分かれるところ)。

「見成」は、「現成」と同じ言葉で、「見」は「現」、あらわれる、の意です。けれども、この短い段の中で、禅師は、前の句では「現成」、ここでは「見成」と書き分けておられます。この書き分けに意味を見るのか――たとえば、「見える」かたちで現れる、という含みを読むのか――それとも、同じ言葉の別の書き方にすぎないと見るのか(→読みの分かれるところ)。

文の意味も、一つではありません(→読みの分かれるところ)。密有は、必ずしも目に見える形で現れるとは限らない、と取るのか。密有であることと見成であることとは、必ずしも一つではない、と取るのか。それとも、密有は、「見成」という枠にはまらない、と取るのか。

本解説では、この一句の読みを一つに決めることはいたしません。そのうえで、今回の段の流れに沿って、一つの受けとめ方を申し上げておきます。

大海の段では、海は、目の届くかぎり円く見えるけれども、円いのでも四角いのでもなく、のこれる海徳は尽くしがたい、と言われました。見えているものが、海のすべてではない。魚と鳥の段では、魚は果てのない水の中にあって、その水を離れたことがない、と言われました。けれども、そのことを魚が知っているのかどうかは、「しりぬべし」の読みによって分かれました。このところ・このみちの段では、知られる限りは、はっきりしない、と言われました。

そして、この【4】で、証究はすみやかに現成するけれども、密有は必ずしも見成ではない、と言われます。この流れの中に置いてみると、この一句は、証が現れることと、それが見える形で、知られる形で現れることとは、必ずしも同じではない、ということを、もう一度、別の言葉で言いあらわしているようにも読めます。もとより、これは段の流れに沿った一つの受けとめ方であり、「密有」「見成」の読みを決めるものではありません。

見成これ何必なり#

「見成これ何必なり」(【4】)。

次回の宝徹禅師の話の前までを締めくくる一句であり、今回の範囲でもっとも難解な句の一つです(→読みの分かれるところ)。

「何必」は、漢語で「何ぞ必ずしも(〜ならん)」、どうして必ずそうであろうか、という意味です。宗務庁版英訳の注では、これは、ある言い分を問い返す、あるいはそれに異をとなえるための、中国語の決まった言い方であり、ここでは、究めつくした証のうちに現れるのは、それまで現れていなかった実在ではなく、それまでの理解を問い返すことだ、という意味であろうか、とされています。

読み方は、いくつも考えられます(→読みの分かれるところ)。見成とは、「何ぞ必ずしも」ということである、と、語どおりに受けとるのか。見成は必ずしも必要ではない、見成であることにこだわる必要はない、と取るのか。宗務庁版英訳の注のように、現れるのは、それまでの理解を問い返す「何必」である、と取るのか。見成は定まった形をとらない、と取るのか。「これ」を、主題を受ける語と取るのか、何かを指す指示語と取るのか。そして、前の句の「かならずしも」と、この句の「何必」とが、言葉の上で響き合っていることを、どう受けとるのか。

訳文では、語どおりに「見成は、これ何必である」とするにとどめました。本解説でも、この一句を一つの意味に言いかえることはいたしません。

ただ、言葉の響きについてだけ、一つ申し上げておきます。前の句は、「かならずしも見成にあらず」と、見成でないこともある、と言っていました。この句は、見成そのものが「何必」、何ぞ必ずしも、だと言います。見成が、何か決まった形をもった到達点として示されるのではなく、問い返しの言葉、「どうして必ずそうであろうか」という言葉によって言いあらわされている。宝徹禅師の話の前までの部分が、答えを言い切る形ではなく、問いを開いたままの形で閉じられている、と受けとめることもできるように思います。もとより、これも一つの感じ方です。

坐禅と「何必」#

最後の段を、坐禅に引き寄せて受けとめてみたいと思います。

坐禅をしていると、「何かがわかった」「何かが見えた」と思える瞬間を、どこかで待ってしまうことがあります。そうした体験が訪れれば、それが坐禅の証だ、と考えてしまう。けれども、「得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ」という言葉に照らしてみると、坐禅で得たものが、必ず自分の知見となって、自分の思いはかりで確かめられるはずだ、と思い定めることそのものが、戒められているように読めます。

だからといって、坐禅に何もない、ということではないでしょう。「証究すみやかに現成す」。訳文の読みに沿えば、証は、すみやかに現成している。ただ、それは、必ずしも「見える」かたちで、「わかった」というかたちで現れるとは限らない。見えなくても、わからなくても、魚は水の中にあり、鳥は空の中にある。そのように受けとめるとき、坐禅は、何かを見ようとして坐るものではなく、見えるか見えないかにかかわらず、この一坐を坐るものになってゆくのではないでしょうか。弁道話の「修のほかに証をまつおもひなかれ」(『弁道話』第五回)という言葉も、思い合わされます。

そして「何必」。「どうして必ずそうであろうか」。坐禅の中で、「これが悟りだ」「これが坐禅だ」と、何かを思い定めかけたとき、この一語は、そっとそれを問い返してくれるように感じられます。「必ずそうだろうか」と。それは、自分の得たものを否定することではなく、それを固く握りしめずに、もう一度、手をひらいて坐りなおす、ということなのかもしれません。大海の段の「ひとかたはたらずとおぼゆ」も、このところ・このみちの段の「しらるるきはのしるからざる」も、そうした手のひらき方と、どこかでつながっているように思われます。これは、今回の四つの段を並べて読む者の、一つの受けとめ方です。

坐禅の作法や心がまえは、文字で読むだけでは身につきにくいものです。今回のような段を読んで、坐禅というものに心ひかれた方は、近くのお寺の坐禅会などで、実際に指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。「水をきわめ、そらをきわめてのち」ではなく、まずは水の中に入ってみる。そのことも、この段の言葉に近づく一つの道であるように思います。

むすびに#

今回読んだ四つの段落を、あらためてふりかえってみましょう。

大海の段では、身心に法がまだ参飽していないうちは法は足りていると思われ、法が身心に充足すると、どこか一方が足りないと思われる、と示されました。そして、船で沖に出れば海はただ円く見えるけれども、海は円いのでも四角いのでもなく、のこれる海徳は尽くしがたい、と言われ、万法もまた、参学眼力の及ぶばかりを見取・会取するのであって、方円と見えるほかに、尽くしがたい海徳・山徳をそなえた四方の世界があり、それは、かたわらだけでなく、直下にも一滴にもある、と言われました(【1】)。

魚と鳥の段では、魚が水を行き、鳥が空を飛ぶとき、水にも空にも果てはないけれども、魚も鳥も、もとより水・空を離れたことがない、と示されました。はたらきに応じて大きくも小さくも使い、一つ一つ限りを尽くし、いたるところで踏翻していても、水・空を出ればたちまちに死ぬ。以水為命、以空為命と知るべきであり、以鳥為命、以魚為命、以命為鳥、以命為魚、さらにその先もある。修証と寿者命者とのことも、このようである、と言われました(【2】)。

このところ、このみちの段では、水・空を究めてから行こうとする鳥魚は、道もところも得られない、と示されました。このところ、このみちを得れば、この行李が現成公案する。このみち、このところは、大小・自他・前後のいずれでもない。人の仏道の修証も、得一法通一法、遇一行修一行であり、知られる限りがはっきりしないのは、この知ることが仏法の究尽と同生し同参するからだ、と言われました(【3】)。

そして最後の段では、得処が必ず自己の知見となって慮知に知られるだろうと、ならってはならない、証究はすみやかに現成するけれども、密有は必ずしも見成ではなく、見成は「何必」である、と、宝徹禅師の話の前までの部分が結ばれました(【4】)。

四つの段を並べてみると、そこに一つの流れが見えてくるように思います。外から海を眺めて「円い」と言う人。その中を泳ぎ、その中を飛ぶ魚と鳥。果てを究めてから行こうとする鳥魚と、いま、このところで泳ぐ鳥魚。そして、得たものを自分の知見として握ろうとする構えと、「何必」と問い返す言葉。どの段にも、自分の目、自分の知ることの及ぶところで、ものごとを囲い取ろうとするあり方と、そうではなく、尽くしがたいものの中に身を置いて、いまの一行を行ずるあり方とが、対比されているように読めます。前回の三つのたとえで見てきた、「自己をはこびて万法を修証する」のではなく、「万法すすみて自己を修証する」(第一回の【4】)向きが、今回は、知ることと修証することとの関わりの上で、さらに深められている、と受けとめることもできるでしょう。もとより、これは四つの段を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう要約しているわけではありません。また、一つ一つの句には、読みの幅が少なからず残っています(→読みの分かれるところ)。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。

最後に、魚と鳥の姿を、もう一度思い浮かべてみたいと思います。果てのない水の中を、果てを確かめることなく、その水を一瞬も離れずに、いま、ここを泳ぐ魚。果てのない空の中を、空を命として、いま、ここを飛ぶ鳥。

私たちの坐禅も、日々の暮らしも、どこまで来たのか、どこまで行けば終わりなのかを、確かめたくなるものです。けれども、この段は、果てを確かめてから行くのではなく、いま遇った一行を、このところで、ていねいに修してゆくことを、静かに指し示しているように思われます。わからないことがあっても、見えないことがあっても、魚は水の中に、鳥は空の中にいる。そのように受けとめて、今日の一坐、今日の一行に、また向かってゆきたいと思います。

次回は、「麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに」と始まる段落を読みます。風の性は常住で、行きわたらないところはないのに、なぜ和尚は扇を使うのか、という僧の問いと、それに対する宝徹禅師の答えです。今回の「このところ」「このみち」の話が、扇を使うという一つの行いの上で、どのように示されるのかに、心をとめながら読んでいきたいと思います。

読みの分かれるところ#

この回の範囲、とくに【2】の後半から【4】にかけては、ほぼ一句ごとに読み方が分かれます。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」【1】
    「参飽」を、法を十分に参じきって身心に満ちる、と取ることも、法を飽きるほど学びつくす(人が主語)、と取ることも、法のほうが身心に参じ入って満ちる(法が主語)、と取ることもできます。満ちたときに「どこか足りない」と感じることについても、それが法の満ちていることのしるしであると見るか、法が尽きることのないものだから、と見るか、欠けているという意味ではなく、まだその先があることに開かれている、と見るかで幅があります。前の句と後の句の「おぼゆ」に、思い込みの含みを読み分けるかどうかも分かれます。宗務庁版英訳は、前の句を「法を学びきっていないうちは」と人を主語にして訳しています。

  2. 「しばらくまろにみゆるのみなり」と「参学眼力のおよぶばかりを、見取・会取するなり」【1】
    海が円く見えることを、見る側の限界であり誤りと取るか、それはそれとして一つのありかたであり否定されてはいない、と取るかで、受けとめ方が変わります。「参学眼力のおよぶばかりを」も、眼力の及ぶかぎりだけを、と限界を言う言葉と取るか、参学を重ねるほど見えるものが広がってゆく含みで取るかに幅があり、二つの句は読みをそろえて考える必要があります。「宮殿のごとし、瓔珞のごとし」を、見る者によって海が宝の宮殿とも見えるという「一水四見」の教えをふまえると見るか、海の尽くしがたい豊かさのたとえと見るか、「家風」「方円」を、ものごとのありようと四角・円と取るか、諸宗の教えや方便の教え・完全な教えの意を重ねるかも分かれます。宗務庁版英訳の注は、一水四見をふまえる可能性や、「方円」が教えを言う仏教語でもあることを挙げています。

  3. 「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」【2】
    「しりぬべし」の主語を、読む者・修行する者と取って「(水を命とすると)知るべきである」と読むことも、魚・鳥と取って「(魚は)知っているはずだ」と読むこともできます。宗務庁版英訳は前者で訳していますが、注では後者の読みもあるとし、そう読むと、宏智正覚の語録の「竜や魚は水が命であることを知らない」という意の句を禅師が念頭においておられたことがうかがわれる、としています。「ぬべし」を、当然・勧め(〜べきだ)と取るか、強い推しはかり(きっと〜にちがいない)と取るかでも響きが変わります。

  4. 「以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし」【2】
    語どおりに「鳥を命とする」「命を鳥とする」と読むか、「鳥が命とするもの(空)がある」のように取り方を変えるかで分かれます。意味の上でも、水・空が魚・鳥の命であるだけでなく魚・鳥もまた命である、という主と客の入れかわりと見るか、命そのものが鳥・魚として現れていると見るか、命と鳥・魚とが分けられないと見るか、幅があります。「あり」と「なるべし」の言い分けをどう受けとるかも一つではありません。続く「進歩」は、宗務庁版英訳の注のように、句の組み合わせにはほかの入れかえもあるはずだ、と取ることも、修行の上でさらに一歩進むことがあるはずだ、と取ることもできます。

  5. 「修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし」【2】
    「その」が何を指すかが示されておらず、修証があり、その修証に寿者・命者がある、とも、修証する者に寿者・命者がある、とも、「修証あり、その寿者命者あること」の全体が魚と水、鳥と空のとおりである、とも読めます。宗務庁版英訳の注は、修証といのちあるものとの関係が、水と魚、空と鳥との関係にあたる、の意としています。ただ、どちらが水・空でどちらが魚・鳥に当たるかを、前の入れかえの句を思えば一方向に固定してよいかどうかにも、考える余地があります。

  6. 「水をきわめ、そらをきわめてのち」と「この行李したがひて現成公案す」【3】
    「きわめ」を、果てまで行き尽くしてから、と取ることも(宗務庁版英訳はこの方向)、あらかじめ知り尽くしてから、と取ることもできます。後の取り方をすると、同じ段の「しらるるきはのしるからざる」や【4】の「慮知にしられんずる」と響き合います。「この行李したがひて」は、行李がそれにしたがって、とも、行李にしたがって、とも、行李がそのまま(ところ・みちに)随って、とも読めます。「現成公案す」と「現成公案なり」の言い分けに意味を見るか、同じことの言いかえと見るか、「ところ」と「みち」を二つのものと見るか、一つのものの両面と見るかにも幅があります。宗務庁版英訳の注は、「現成公案す」を禅師に独自の動詞的な言い方とし、「現成公案を現す」の意とも取れる、としています。

  7. 「これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するがゆゑに、しかあるなり」【3】
    今回の範囲でもっとも難解な句の一つです。「みち通達せるによりて」を後の句の理由として読むか、そこでいったん切るか。「これ」を、得一法通一法・遇一行修一行と取るか、仏道の修証と取るか、鳥魚と水・空のたとえ全体と取るか。「しらるるきは」を、知ることのできる限りと取るか、このところ・このみちの限りと取るか。「しるからざる」を、はっきりしない・目立たない、と取るか、知る者に知られない、と取るか。「同生し同参する」を、ともに生じともに参ずる、と語どおりに取るか、同じである・一つである、と取るか。宗務庁版英訳の注は、ところ・みちの限りが修行する者に目立たないのは、それが修行そのものとして経験されるからであろうか、としていますが、注自身も「おそらく」と断っています。

  8. 「密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必なり」【4】
    「密有」を、内に密にある真実と取るか、ひそかなあり方・人に知られずにあるものと取るか、「密」を、ぴったりと親しい、の意に取るかで分かれます。宗務庁版英訳の注は、『正法眼蔵』のほかに見えない語で、ふつう、私たちのもっとも内なる真実を指すと取られる、としています。前の句の「現成」とここの「見成」の書き分けに意味を見るかどうか、文意を、密有は必ずしも見える形で現れるとは限らない、と取るか、密有であることと見成であることとは必ずしも一つではない、と取るかにも幅があります。「見成これ何必なり」も、見成とは「何ぞ必ずしも」ということである、と語どおりに受けとるか、見成にこだわる必要はない、と取るか、宗務庁版英訳の注のように、現れるのはそれまでの理解を問い返す「何必」である、と取るか、見成は定まった形をとらない、と取るか、読みが分かれます。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第三「現成公案」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 語句の典拠と説明(海の八徳、一水四見、参学眼、家風・方円、大用、踏翻、宏智正覚の句とその生没年、進歩、得一法通一法の出典が知られないこと、同生・同参、密有、何必など)と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。