洗浄(一)修証の不染汚#
『洗浄』の巻頭から、南岳と六祖の問答、『大比丘三千威儀経』と『華厳経』浄行品の引用を経て、洗浄とは何かを説く道元禅師の言葉までの、八つの段落を読む回です。
原文#
正法眼蔵 洗浄
仏祖の護持しきたれる修証#
【1】仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。
【2】南岳山観音院大慧禅師、因六祖問、「還仮修証不」。
【3】大慧云、「修証不無、染汚即不得」。
【4】六祖云、「只是不染汚、諸仏之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天祖師亦如是、云云」。
浄身の法#
【5】大比丘三千威儀経云、「浄身者、洗大小便、剪十指爪」。
【6】しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり。
華厳経浄行品の偈と、洗浄#
【7】華厳経浄行品云、左右便利、当願衆生、蠲除穢汚、無婬怒癡。已而就水、当願衆生、向無上道、得出世法。以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢。
【8】水、かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。身、かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず、諸法、またかくのごとし。水、いまだ情・非情にあらず、身、いまだ情・非情にあらず。諸法、またかくのごとし。仏世尊の説、それかくのごとし。しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任するに、この儀あり、これを洗浄と称す。仏祖の一身心を、したしくして正伝するなり、仏祖の一句子を、ちかく見聞するなり、仏祖の一光明を、あきらかに住持するなり。おほよそ、無量無辺の功徳を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。このゆえに、修行の身心、本現するなり。
現代語訳#
段落番号【1】〜【8】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。漢文の引用(【2】〜【5】【7】)は、まず「書き下し」を示し、続けて訳をつけました。書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・読点・かぎ括弧もそのままとしました。底本の本文そのものではなく、一つの読み方です。南岳と六祖の問答(【2】〜【4】)は、一続きの読み下しを、原文の段落に合わせて三つに分けました。【5】【7】の書き下しには括弧がありませんが、訳文では、経の文であることを示すために「 」を加えました。【8】の「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時」の箇所は、本書の原文の句切りに従い、「威儀せしむる」を「正当恁麼時」にかけて訳しました。仏教語・禅語(仏祖・護持・修証・不染汚・護念・西天・浄身・浄心・国土・樹下・塵穢・仏果・宗旨・作法・得道・便利・衆生・穢汚・婬怒痴・無上道・出世の法・浄忍・無垢・本浄・情・非情・諸法・保任・洗浄・身心・正伝・一句子・光明・住持・無量無辺・功徳・現成・威儀・正当恁麼時・久遠・本行・具足円成・本現など)と人名・書名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名の生没年や典拠は、宗務庁版英訳の注・解題が挙げる範囲で示しています。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。
巻頭題 正法眼蔵 洗浄(せんじょう)
語注
- 正法眼蔵:書名。訳さずに残した。
- 洗浄:巻名。訳さずに残した。宗務庁版英訳の解題は、「洗浄」は宋代の禅院で、便所を用いるときの作法をいう婉曲な言い方であったとし、ここに述べられる作法は道元禅師の独創ではなく、引用からうかがえるように『禅苑清規』(1103年編)などの清規類に拠るが、道元禅師はそれに、仏祖の身をもってする修行としての意味づけを加えている、とする。
- 巻の番号:本書の底本の巻頭題には番号がない。宗務庁版英訳の解題は、奥書によればこの巻は『正法眼蔵』のうち最も早い時期のものの一つで、1239年に興聖寺で書かれ、七十五巻本で第五十四、本山版で第七にあたり、六十巻本にはない、とする。奥書は本巻第五回で読む。
仏祖の護持しきたれる修証#
【1】仏祖が護持してきた修証がある。いわゆる不染汚である。
語注
- 仏祖:仏たちと祖師たち。訳さずに残した。
- 護持しきたれる:まもりたもってきた。
- 修証:修行と証(さとり)。訳さずに残した。
- 不染汚:染まらず、けがれないこと。訳さずに残した。宗務庁版英訳は "not defiling" と訳す。続く【2】〜【4】の南岳と六祖の問答の語(「染汚即不得」「只是不染汚」)を受ける。
- 修証あり、いはゆる不染汚なり:「(そういう)修証がある。それがいわゆる不染汚である」と、原文の形のまま二つに分けて訳した。「修証」と「不染汚」の関係(不染汚である修証、修証そのものが不染汚であること、など)は原文に説明がない(→読みの分かれるところ)。
南岳と六祖の問答#
書き下し 南岳山観音院大慧禅師、因みに六祖問う、「還って修証を仮るや不や」。
訳 南岳山観音院の大慧禅師に、あるとき六祖が問うた。「それでもなお、修証を仮りる(修証に依る)のか、どうか」。
語注
- 南岳山観音院大慧禅師:南岳懐譲(677–744)。六祖慧能の弟子(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 六祖:中国禅の第六祖、慧能(宗務庁版英訳の注による)。訳さずに残した。
- 典拠:宗務庁版英訳の注は、この問答は南岳と師の六祖との名高い問答の一部で、いくつかの中国の文献と道元禅師の真字『正法眼蔵』(第101則)に見え、『正法眼蔵』の中でもしばしば取り上げられるとする。また、この問いの前には、六祖が「是什麼物恁麼来」(是れ什麼物か恁麼に来たる)と問い、南岳が「何かのようだと言えば当たらない」という趣旨で答えたやりとりがある(宗務庁版英訳は、この「恁麼来」が仏の称号「如来」に掛けた言葉遊びになっているとも記す)、とする。問答の前半はこの巻の本文にないので、ここでは原文の範囲だけを訳した。
- 因みに:あるとき、ちなみに。
- 還って:それでもなお、やはり。宗務庁版英訳は "nevertheless" と訳す。前のやりとり(上の典拠)を受ける語と取った(→読みの分かれるところ)。
- 修証を仮るや不や:修証を借りる(修証に依存する、修証を必要とする)のか、どうか。
書き下し 大慧云く、「修証は無ならず、染汚すること、即ち得ず」。
訳 大慧が言った。「修証は、無いのではありません。(ただ、)染汚することは、できないのです」。
語注
- 修証は無ならず:修証がないのではない。
- 染汚すること、即ち得ず:染汚する(けがす、けがされる)ことはできない。書き下しのとおり訳した。何が何を染汚するのか(修証が染汚されないのか、修証によって本来のものが染汚されないのか)は原文に示されない。宗務庁版英訳は「修証によって染汚されることはありえない(it can't be defiled by them)」と訳す(→読みの分かれるところ)。
書き下し 六祖云く、「只だ是の不染汚、諸仏の護念したまう所なり。汝も亦た是の如く、吾も亦た是の如く、乃至西天の祖師も亦た是の如し、云云」。
訳 六祖が言った。「ただこの不染汚こそが、諸仏の護念されるところである。あなたもまたこのようであり、わたしもまたこのようであり、さらには西天の祖師たちもまたこのようである」(云云)。
語注
- 只だ是の不染汚:ただこの不染汚(こそ)。【3】の南岳の「染汚即不得」を受ける。
- 護念:まもり、心にかけること。訳さずに残した。宗務庁版英訳は "bear in mind" と訳す。
- 乃至:さらには、ないし。
- 西天:インド。訳さずに残した。宗務庁版英訳は「西方シンドの祖師たち(all the ancestral masters of Sindh in the West)」と訳す。
- 云云:引用の終わりを示す原文の書き添え(宗務庁版英訳の注による)。訳文では(云云)として残した。
浄身の法#
書き下し 大比丘三千威儀経に云く、浄身とは、大小便を洗い、十指の爪を剪るなり。
訳 『大比丘三千威儀経』にいう。「浄身とは、大小便(のあと)を洗い、十指の爪を切ることである」。
語注
- 大比丘三千威儀経:経の名。比丘(出家の修行者)の日常の作法を説く経。典拠は大正蔵1470番(宗務庁版英訳の注による)。書名として訳さずに残した。第四回【14】にも同じ経(「三千威儀経」)の引用がある。
- 浄身:身を浄めること。訳さずに残した。
- 大小便を洗い:大便・小便をしたあとに洗い浄めること。訳文は(のあと)を補った。
- 十指の爪を剪る:両手の十本の指の爪を切る。この二つ(大小便の洗浄、爪を切ること)が、以下の第二回以降の主題になる。
【6】そうであるから、身心はこのように不染汚であるけれども、浄身の法があり、浄心の法がある。ただ身心をきよめるだけではない。国土・樹下をもきよめるのである。国土には、いまだかつて塵穢があったことはないけれども、(それを)きよめることは、諸仏之所護念(諸仏の護念されるところ)である。仏果に至っても、なお退かず、やめないのである。その宗旨は、はかりつくすことがむずかしい。作法、これが宗旨であり、得道、これが作法である。
語注
- しかあれば:そうであるから。【5】の経の文を受ける。
- 身心これ不染汚なれども:身心は(まさに)不染汚であるけれども。「これ」は主語を指し示して強める語と取り、訳文では「このように」とした。
- 浄身の法あり、浄心の法あり:身を浄める法があり、心を浄める法がある。浄身と浄心とが並ぶ。浄身・浄心は訳さずに残した。
- 国土・樹下:国土と樹下。宗務庁版英訳の注は、珍しい組み合わせであるとし、「国土」は国・大地・世界(たとえば仏の浄土)などを指しうる多義の語、「樹下」は木の根もと、すなわち釈尊が菩提樹の下で修行したように修行の場所をいう語で、『法華経』の、無数の仏国土の宝樹の下に仏が坐すという情景を思わせるのかもしれない、とする。いずれも訳さずに残した。
- 塵穢:ちり、けがれ。訳さずに残した。
- 諸仏之所護念:【4】の六祖の語「諸仏之所護念」を、漢文のまま和文に用いたもの。【4】の書き下しでは「諸仏の護念したまう所」。
- 仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり:仏果(修行の果としての仏のさとり)に至っても、なお退かず、やめることがない。主語が示されない。宗務庁版英訳は「彼ら(they)」と訳し、諸仏(が浄めることをやめない)の意に取る。訳文は主語を補わなかった(→読みの分かれるところ)。仏果は訳さずに残した。
- 宗旨:教えの根本の趣旨。訳さずに残した。
- 作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり:作法(修行の場で定められた行いの仕方)がそのまま宗旨であり、得道がそのまま作法である。宗務庁版英訳の注は、「作法」は僧院の修行の儀礼・手順をいい、「得道」は出家の儀礼に入ること、またはここではより可能性の高いものとして、さとりを得ることを指しうるとし、この一句が、のちの曹洞宗でいわれる「威儀即仏法、作法是宗旨」の「作法是宗旨」の出どころであろう、とする。作法・得道は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
華厳経浄行品の偈と、洗浄#
書き下し 華厳経浄行品に云く、左右の便利には、当に願うべし、衆生の、穢汚を蠲除し、婬・怒・痴を無からしめんことを。已りて水に就かば、当に願うべし、衆生の、無上道に向かい、出世の法を得んことを。水を以て穢を滌わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを。
訳 『華厳経』浄行品にいう。「左右の便利(大小便)をするときには、まさに願うべきである、衆生が、穢汚を蠲除して(取りのぞいて)、婬・怒・痴(むさぼり・いかり・おろかさ)をなくすことを。(用を)終えて水のところに行くときには、まさに願うべきである、衆生が、無上道に向かい、出世の法を得ることを。水で穢れを洗うときには、まさに願うべきである、衆生が、浄忍を具足し、畢竟無垢である(ついに垢のなくなる)ことを」。
語注
- 華厳経浄行品:『華厳経』の「浄行品」の章。典拠は大正蔵278番(宗務庁版英訳の注による)。書名として訳さずに残した。第四回【8】の「以水盥掌」の偈は、この偈の続き(宗務庁版英訳の注による)。
- 左右の便利:大小便。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 当に願うべし、衆生の…んことを:まさに願うべきである、衆生が…するように、と。偈は、一つ一つの行いのたびに「当願衆生」(当に願うべし、衆生の)と衆生のために願いをおこす形をくり返す。
- 穢汚を蠲除し:けがれを取りのぞき。
- 婬・怒・痴:愛欲(むさぼり)・いかり・おろかさ。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 已りて水に就かば:(用を)終えて水のところへ行くならば。
- 無上道:この上ない道、仏道。訳さずに残した。
- 出世の法:世間を出る法、迷いの世界を超える法。訳さずに残した。
- 水を以て穢を滌わば:水で穢れを洗うならば。
- 浄忍:清浄な忍(法を受け入れて安らぐこと)。訳さずに残した。
- 畢竟無垢:ついには垢(けがれ)のないこと。訳さずに残し、( )で意を添えた。
【8】水は、かならずしも本浄ではなく、本不浄でもない。身も、かならずしも本浄ではなく、本不浄でもない。諸法もまたこのようである。水は、いまだ情でも非情でもない。身も、いまだ情でも非情でもない。諸法もまたこのようである。仏世尊の説も、そのとおりである。そうではあるけれども、水によって身をきよめるのではない。仏法によって仏法を保任するところに、この儀があり、これを洗浄と称するのである。(洗浄は、)仏祖の一身心を、親しく正伝することであり、仏祖の一句子を、まぢかに見聞することであり、仏祖の一光明を、あきらかに住持することである。おおよそ、無量無辺の功徳を現成させることである。身心において修行を威儀させる(修行を威儀としてあらわす)、まさにそのときに、久遠の本行を具足し、円成しているのである。それゆえに、修行の身心が、本来のままに現れるのである。
語注
- 本浄/本不浄:もとから浄い/もとから浄くない。訳さずに残した。
- かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず:「かならずしも」が「本浄にあらず」だけにかかるか、「本不浄にあらず」にもかかるかは原文の形からは決まらないが、訳文は両方にかけて「かならずしも本浄ではなく、本不浄でもない」とした。宗務庁版英訳も "not necessarily intrinsically pure, nor is it intrinsically impure" と訳す。
- 諸法:あらゆる事物・現象。訳さずに残した。
- 情・非情:情(こころあるもの、有情)と非情(こころなきもの、無情)。訳さずに残した。
- 水、いまだ情・非情にあらず:水は(そもそも)情であるとも非情であるとも言えない。「いまだ」は「決して…でない」の意に取った。
- 仏世尊の説、それかくのごとし:仏世尊(釈尊)の説もそのとおりである。何が「かくのごとし」なのか(直前の本浄・不浄、情・非情についての説か、仏の説そのものもまた本浄・不浄を離れているのか)は原文に示されない。宗務庁版英訳は "The teachings of the Buddha, the World-Honored One, are also like this." と訳す。仏世尊は訳さずに残した。
- 水をもて身をきよむるにあらず:水によって身をきよめるのではない。洗浄の意味を、水で汚れを落とすことだけに見てはならない、という含みに取れる。水で洗うことそのものを退ける言葉ではない(この巻は第二回【9】で「洗大小便、おこたらしむることなかれ」と言い、第三回・第四回で水と土・灰による洗浄の手順を細かく示す)(→読みの分かれるところ)。
- 仏法によりて仏法を保任するに、この儀あり:仏法によって仏法を保任する(たもち、まもる)ところに、この儀(作法)がある。保任は訳さずに残した。「に」を「ところに」「ときに」と取った(→読みの分かれるところ)。
- 洗浄:ここでは、仏法によって仏法を保任する儀の名として言われる。巻名。訳さずに残した。
- 仏祖の一身心を、したしくして正伝するなり:仏祖の一身心を、親しく(身にぴったりと)正伝することである。主語(洗浄)を( )で補った。「一身心」は仏祖と(行者と)が一つになった身心とも、仏祖のひとつの身心とも取れる(→読みの分かれるところ)。正伝は訳さずに残した。
- 一句子:ひとつの句、ひとことの言葉。訳さずに残した。
- 一光明:ひとつの光明。訳さずに残した。
- 住持する:とどめたもつ。ここでは、寺をあずかる住持の意ではない。
- 無量無辺の功徳を現成せしむる:はかりしれない、限りない功徳を現成させる(あらわし成就させる)。現成は訳さずに残した。
- 身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時:本書の原文の句切りに従い、「身心に修行を威儀せしむる」を「正当恁麼時」にかけて、「身心において修行を威儀させる、まさにそのときに」と訳した。「威儀せしむる」は、修行を(身心の)威儀として行わせる、の意に取った。宗務庁版英訳も同じ句切りで、"At the very moment that we make the practice our deportment in body and mind" と訳す(→読みの分かれるところ)。
- 威儀:立ち居ふるまいの作法、すがた。訳さずに残した。
- 正当恁麼時:まさにそのとき。訳さずに残し、訳文では語の意味を訳した。
- 久遠の本行を具足円成せり:久遠の本行を具足し(そなえ)、円成している(まどかに成就している)。宗務庁版英訳の注は、『法華経』に語られる釈尊の生涯をふまえた言い方で、「本行」は『法華経』の「我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽、復倍上数」(わたしがもと菩薩道を行じて成就した寿命は、いまなお尽きず、さらに上の数に倍する)の一節を思い起こさせ、「久遠」「円成」の語も、釈尊が久遠の昔に成仏したことをいう「久遠実成」を思わせる、とする。久遠・本行・具足円成は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 修行の身心、本現するなり:修行の身心が、本来のままに現れる。「本現」は、もとからのものとして現れる、の意に取った。宗務庁版英訳は "the body and mind of practice and verification appear in their original form" と、「修行」を「修証」のように訳している(→読みの分かれるところ)。
解説#
はじめに――『洗浄』という巻#
巻頭題と、巻の置かれる位置#
本書では、ここから「洗浄」の巻を読んでいきます。巻のはじめには、
「正法眼蔵 洗浄」
とあり、巻の終わりにも、本文のあとに「正法眼蔵洗浄」と記されています。
宗務庁版英訳の解題では、この巻は七十五巻本では第五十四、本山版では第七の巻にあたり、六十巻本には収められていない、とされています。本山版の巻の順では、弁道話・摩訶般若波羅蜜・現成公案・一顆明珠・重雲堂式・即心是仏に続いて、この「洗浄」が置かれていることになります。
撰述――延応元年、興聖寺#
巻末題のあとには、次の奥書があります。
「爾時延応元年己亥冬十月二十三日、在雍州宇治県観音導利興聖宝林寺示衆。」
延応元年(1239年)の冬十月二十三日に、雍州宇治県の観音導利興聖宝林寺において大衆に示された、という記録です。奥書については、巻の終わりを読む第五回で、あらためて見ることにします。
宗務庁版英訳の解題は、奥書によれば、この巻は『正法眼蔵』のなかでも最も早い時期の巻の一つで、ひらかれてまもない興聖寺で書かれたものである、としています。即心是仏の巻を読んだときにふれたように、宗務庁版英訳の「即心是仏」の巻の解題は、同じ1239年の日付をもつ「重雲堂式」「洗浄」「洗面」が、いずれも僧院での修行のありようを主とする巻である、と述べていました。本書では、この年の四月の日付をもつ重雲堂式をすでに読んでいます(『重雲堂式』の奥書)。重雲堂式が、坐禅堂に住む修行僧の心がまえを定めたものであったのに対して、洗浄の巻は、身を浄めることという、さらに身近な日々の行いを取り上げます。
巻名「洗浄」#
巻名の「洗浄」について、宗務庁版英訳の解題は、宋代の禅院で、便所を用いるときの作法を婉曲にいう言葉であった、としています。また、ここに述べられる作法そのものは道元禅師が新しく定めたものではなく、巻の中の引用からもうかがえるように、『禅苑清規』(1103年編)などの清規類に拠っているが、道元禅師はそれに、仏祖の身をもってする修行としての意味を説き加えている、とも述べています。
はじめてこの巻を開く方は、驚かれるかもしれません。『正法眼蔵』という書名からは、深遠な悟りの言葉が並ぶ書物を思い浮かべるのが自然でしょう。ところが、この巻では、爪の切り方、髪の剃り方、そして便所での作法と手の洗い方が、驚くほど細かく説かれていきます。衣のたたみ方、手巾のかけ方、桶に入れる水の量、手を洗う回数にまで、言葉が及びます。
けれども、巻のはじめに置かれているのは、作法の手順ではありません。「仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。」という言葉です。修行とさとりの根本にかかわる言葉から、この巻は始まります。そして、その言葉と、爪を切り、大小便のあとを洗うという行いとが、一つの巻の中で結ばれています。このことそのものが、この巻を読むうえでの大切な手がかりになる、と受けとめることができるでしょう。
巻全体の流れ#
本書では、この巻を五回に分けて読みます。
- 第一回 修証の不染汚――南岳と六祖の問答、浄身の法、浄行品の偈と、洗浄の意義
- 第二回 爪と髪、大小便の洗浄――爪を切ること、長髪・長爪の戒め、洗大小便と舎利弗の話
- 第三回 二七丸と東司にいたる法――樹下・露地での洗浄、東司(便所)へ行くときの作法
- 第四回 厠内の作法と洗手――厠の中での作法、洗浄、手の洗い方
- 第五回 仏祖正伝の威儀――この威儀が仏祖の正伝であること、そして巻末題と奥書
巻の最初と最後とに、作法の意味を説く言葉が置かれ、そのあいだに具体的な作法が説かれる、という組み立てになっています。
今回読むところ#
今回は、巻の冒頭から、「修行の身心、本現するなり。」までを読みます。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。
- 【1】 仏祖の護持しきたれる修証――不染汚
- 【2】〜【4】 南岳と六祖の問答
- 【5】 浄身の法――『大比丘三千威儀経』
- 【6】 身心これ不染汚なれども――浄身の法、浄心の法
- 【7】 華厳経浄行品の偈
- 【8】 水をもて身をきよむるにあらず――洗浄とは何か
この回は、巻全体の土台にあたる部分と受けとめることができます。次の回からの細かな作法は、すべてこの回で示される意味の上に置かれている、と読むことができるからです。
読みの分かれる箇所では、訳文の読みに沿って説きながら、一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示します。そのうえで、曹洞宗の宗門で大切にされてきた坐禅と日々の修行のなかで、これらの言葉をどう受けとめることができるかを考えていきたいと思います。
仏祖の護持しきたれる修証――不染汚〔【1】〕#
巻は、次の言葉で始まります。
「仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。」
仏祖が護持してきた修証がある。いわゆる不染汚である、と。
「修証」は、修行と証(さとり)です。「護持」は、まもりたもつこと。仏祖が、仏から仏へ、祖師から祖師へと、まもりたもってきた修行とさとりがある、というのです。そして、それが「不染汚」――染まらず、けがれないこと――だと言われます。
この短い一文の中で、「修証」と「不染汚」がどのような関係にあるのかは、本文に説明がありません。訳文は、原文の形のまま、「(そういう)修証がある。それがいわゆる不染汚である」と二つに分けて訳しました。このほかに、修証そのものが不染汚というありかたである、と受けとめることもできますし、不染汚であることこそが仏祖の護持してきた修証である、と受けとめることもできるでしょう。
どの読みを取るにしても、この一文が、すぐあとに引かれる南岳と六祖の問答の言葉――「染汚即不得」「只是不染汚」――を先取りしていることは、本文の流れのとおりです。道元禅師は、問答を引く前に、その要となる言葉を、まず和文で掲げておられる、と見ることができます。
ここで心にとめておきたいのは、巻の名が「洗浄」、つまり浄めることであるのに、巻の第一声は「不染汚」、けがれないことだ、という点です。けがれているから洗う、というのが、私たちのふつうの考え方でしょう。ところが、この巻は、けがれない、ということから話を始めます。それならば、なぜ洗うのか。この問いが、今回の範囲を読み進めるうえでの一本の糸になります。
南岳と六祖の問答〔【2】〜【4】〕#
還仮修証不――問答のはじまり#
本文はここで漢文に切り替わり、南岳懐譲と六祖慧能との問答が引かれます。
「南岳山観音院大慧禅師、因六祖問、「還仮修証不」。」
書き下しでは、「南岳山観音院大慧禅師、因みに六祖問う、「還って修証を仮るや不や」。」となります。南岳山観音院の大慧禅師(南岳懐譲)に、あるとき六祖が問うた。「それでもなお、修証を仮りる(修証に依る)のか、どうか」と。
宗務庁版英訳の注によれば、この問答は南岳とその師である六祖との名高い問答の一部で、道元禅師の真字『正法眼蔵』にも収められ、『正法眼蔵』の中でもしばしば取り上げられるものです。同じ注は、この問いの前に、六祖が「是什麼物恁麼来」(是れ什麼物か恁麼に来たる)と問い、南岳が、何かのようだと言えば当たらない、という趣旨で答えたやりとりがある、としています。ただし、その前半のやりとりは、この巻の本文には引かれていません。本書では、本文に引かれている範囲で読むことにします。
「還って」をどう受けとめるかには幅があります。訳文は、前のやりとりを受けて「それでもなお」と取りました。宗務庁版英訳も "nevertheless" と訳しています。何かのようだと言えば当たらない、それほどのものであるのに、それでもなお修証を必要とするのか、という問いになります。一方で、「かえって修証を借りるのか」と反語的に受けとめることもできますし、「還」を軽く「さて」「また」ほどの語と取ることもできるでしょう。
「修証を仮る」も、修証に依るのか、修証を必要とするのか、と取ることもできますし、修証という手段を(仮のものとして)借りるのか、と取ることもできます。
修証不無、染汚即不得#
これに南岳が答えます。
「大慧云、「修証不無、染汚即不得」。」
書き下しでは、「大慧云く、「修証は無ならず、染汚すること、即ち得ず」。」です。修証は、無いのではありません。(ただ、)染汚することは、できないのです、と。
この言葉には、本書でもすでに出会っています。弁道話で、修証一等を説かれた答えの結びに、
「きかずや、祖師のいはく、修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。」(『弁道話』第五回)
と引かれていました。道元禅師がくり返し大切に引かれた言葉であることがうかがえます。
この一句は、今回の範囲のなかでもとくに読みの分かれるところです。
まず、何が何を染汚するのかが、本文には示されていません。宗務庁版英訳は、「修証によって染汚されることはありえない」という向きに訳しています。修行もさとりもある、けれども、それによって(本来のものが)けがされることはない、という読みです。一方で、修証を染汚することはできない、修行とさとりそのものをけがすことはできない、と受けとめることもできます。さらに、「即ち得ず」を、染汚しようとしてもそれはできない、もともとけがれようのないものだ、という意味に取ることもできますし、けがしてはならない、という戒めの含みを読むこともできるでしょう。
弁道話を読んだときにも、この幅は残しておきました。ただ、弁道話の同じ段には、
「しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖、しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。」(『弁道話』第五回)
という言葉もありました。修を離れない証を染汚させないために、仏祖はしきりに、修行をゆるめてはならないと教えるのである、と。そして、その前には、
「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり。」(『弁道話』第五回)
と示されていました。修行とさとりは一つである。いまの修行も証の上の修行であるから、初心の修行が、そのまま本来の証のすべてである、と。
弁道話で道元禅師が、この南岳の言葉を、修証一等を説く答えの結びに引いておられることにならって、この言葉を修証一等の教えと結びつけて受けとめることができるでしょう。修行とさとりは、どちらも確かにある。けれども、修行をさとりのための手段とし、さとりを修行の先に置いて求めるとき、修行とさとりとは二つに分かれてしまう。そのように二つに分けることが「染汚」である、と受けとめることもできるでしょう。ただし、それは本文の一句が直接に説明していることではありません。ここでは、宗門の受けとめ方の一つとして示し、一句の読みはひらいたままにしておきます。
只是不染汚、諸仏之所護念#
六祖は、南岳の答えを受けて言います。
「六祖云、「只是不染汚、諸仏之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天祖師亦如是、云云」。」
書き下しでは、「六祖云く、「只だ是の不染汚、諸仏の護念したまう所なり。汝も亦た是の如く、吾も亦た是の如く、乃至西天の祖師も亦た是の如し、云云」。」です。ただこの不染汚こそが、諸仏の護念されるところである。あなたもまたこのようであり、わたしもまたこのようであり、さらには西天(インド)の祖師たちもまたこのようである、と。
「護念」は、まもり、心にかけることです。不染汚は、諸仏がまもり、心にかけてこられたものだ、と六祖は言います。【1】の「仏祖の護持しきたれる」という言葉は、この「諸仏之所護念」を受けている、と見ることができるでしょう。
そして、「汝亦如是、吾亦如是」。あなたもそうであり、わたしもそうである。不染汚は、遠いところにいる諸仏だけのものではない、と六祖は言っているように読めます。いま問答をしている南岳も、六祖自身も、そしてインドの祖師たちも、みな同じく「是の如く」である、と。
即心是仏の巻を読んだときにも、「即心是仏、不染汚即心是仏なり、諸仏、不染汚諸仏なり。」(『即心是仏』第二回)という言葉に出会いました。宗務庁版英訳の注は、そこでの「不染汚」も、この六祖と南岳の問答を思い起こさせる言葉だとしていました。不染汚という言葉は、『正法眼蔵』の中で、仏祖の修証のありようを言いあらわす言葉として、くり返し響いている、と受けとめることができます。
浄身の法――『大比丘三千威儀経』〔【5】〕#
問答を引き終えると、本文は、まったく違う種類の言葉を引きます。
「大比丘三千威儀経云、「浄身者、洗大小便、剪十指爪」。」
書き下しでは、「大比丘三千威儀経に云く、浄身とは、大小便を洗い、十指の爪を剪るなり。」です。浄身とは、大小便のあとを洗い、十本の指の爪を切ることである、と。
『大比丘三千威儀経』は、比丘(出家の修行者)の日常の作法を説く経です(宗務庁版英訳の注は大正蔵の典拠を挙げています)。ここで言われる「浄身」――身を浄めること――の中身は、驚くほど具体的です。大小便のあとを洗うこと、そして爪を切ること。この二つが、次の第二回以降に詳しく説かれていく主題になります。
六祖と南岳の問答のすぐあとに、この経の文が置かれていることに、目をとめておきたいと思います。不染汚が諸仏の護念するところだ、という言葉と、大小便を洗い爪を切れ、という言葉。この二つは、ふつうに考えれば、まるで別の次元の話のように見えます。けれども、道元禅師は、この二つを並べて置かれました。その結びつきを説くのが、続く【6】の言葉です。
身心これ不染汚なれども〔【6】〕#
浄身の法あり、浄心の法あり#
「しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。」
そうであるから、身心はこのように不染汚であるけれども、浄身の法があり、浄心の法がある、と。
ここに、【1】から続いてきた問い――けがれないのに、なぜ洗うのか――への、一つの答えの形が見えます。身心は不染汚である。「けれども」、浄身の法があり、浄心の法がある。
この「なれども」という言葉は大切です。けがれているから洗う、というのではない。けがれていない、けれども、浄める法がある。浄める法は、けがれを前提にして、それを取り除くための手段として置かれているのではない、と読むことができるでしょう。
このあとの文に「仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり」とあるように、浄める法は、仏果に至っても、なお続いていきます。もし浄めることが、けがれを取り除くための手段にすぎないのであれば、けがれがすっかり取り除かれたとき、つまり仏果に至ったときには、浄めることは要らなくなるはずです。けれども、そうではない。この点は、弁道話の「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。」(『弁道話』第五回)という言葉と、向きを同じくしているように思われます。
国土・樹下をもきよむる#
「ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。」
ただ身心をきよめるだけではない。国土・樹下をもきよめるのである、と。
浄めることは、身心だけにとどまらず、国土と樹下にまで及ぶ、と言われます。宗務庁版英訳の注は、これは珍しい組み合わせであるとし、「国土」は国・大地・世界、あるいは仏の浄土をも指しうる多義の語であり、「樹下」は、釈尊が菩提樹の下で修行したように、修行の場所をいう語で、『法華経』に見える、無数の仏国土の宝樹の下に仏が坐すという情景を思わせるのかもしれない、としています。
この句の受けとめ方には幅があります。修行の場である国土や樹下を、実際に掃き清めることと受けとめることもできます。また、身心を浄めることが、そのまま国土・樹下を浄めることになる、と受けとめることもできるでしょう。宗務庁版英訳の注の言うように、仏国土の宝樹の下に仏が坐す情景を重ねて読むこともできます。
この巻の第四回の範囲には、手を洗い、香を塗る作法を説いたあとで、
「かくのごとくする、みなこれ浄仏国土なり、荘厳仏国なり。」(第四回の【9】)
という言葉が出てきます。このようにすることは、みな仏国土を浄めることであり、仏国を荘厳することである、と。一つ一つの作法を丁寧に行うことが、そのまま国土を浄めることだ、という言葉です。【6】の「国土・樹下をもきよむるなり」は、この第四回の言葉と、遠く響きあっているように見えます。
国土いまだかつて塵穢あらざれども#
「国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。」
国土には、いまだかつて塵穢(ちり・けがれ)があったことはないけれども、(それを)きよめることは、諸仏の護念されるところである、と。
ここでもまた、「あらざれども」です。国土には、もともと塵もけがれもない。けれども、それを浄める。そして、その浄めることが「諸仏之所護念」だ、と言われます。【4】で六祖が「只是不染汚、諸仏之所護念」と言った、その同じ言葉が、ここでは浄めることについて用いられています。
六祖の言葉では、諸仏が護念するのは「不染汚」でした。ここでは、諸仏が護念するのは「きよむること」です。不染汚と、浄めることとが、同じ「諸仏之所護念」という言葉で結ばれている。けがれないことと、浄めることとは、対立するものではなく、ともに諸仏のまもり心にかけるところである、と受けとめることができるでしょう。
仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり#
「仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり。」
仏果(修行の果としての仏のさとり)に至っても、なお退かず、やめないのである、と。
この一文には主語が示されていません。宗務庁版英訳は「彼ら(they)」と訳し、諸仏が浄めることをやめない、という意に取っています。また、浄身・浄心の法、つまり浄めることそのものが、仏果に至っても退かず廃れない、と受けとめることもできますし、修行者が仏果に至ってもなお浄めることを退かずやめない、と受けとめることもできます。訳文は主語を補いませんでした。
どの読みを取るにしても、浄めることは、仏果に至れば終わる、というものではない、ということは変わりません。さきに見たように、ここに、浄めることが、けがれを除くための一時の手段ではない、ということが、はっきりと示されているように思われます。
作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり#
「その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり。」
その宗旨は、はかりつくすことがむずかしい。作法、これが宗旨であり、得道、これが作法である、と。
「宗旨」は、教えの根本の趣旨です。浄めることの宗旨は、はかりつくすことがむずかしい、と言われたあとで、短い二句が続きます。「作法、これ宗旨なり」――作法がそのまま宗旨である。「得道、これ作法なり」――得道がそのまま作法である。
この二句は、今回の範囲のなかでもとくに大切な、そして読みの分かれるところです。
宗務庁版英訳の注は、「作法」は僧院での修行の儀礼や手順をいう語であるとし、「得道」は、出家の儀礼に入ることを指すこともありうるが、ここでは、より可能性の高いものとして、さとりを得ることを指すだろう、としています。さとりを得ることが、そのまま作法である。そう読めば、二句は、作法と宗旨と得道とが、別々のものではないことを言っていることになります。
また同じ注は、この一句が、のちの曹洞宗でいわれる「威儀即仏法、作法是宗旨」の、「作法是宗旨」の出どころであろう、としています。立ち居ふるまいの作法が、そのまま仏法であり、宗旨である。この言葉は、宗門で、修行の心がまえを示す言葉として大切にされてきました。その源の一つが、この洗浄の巻の一句にあると見られていることは、心にとめておいてよいでしょう。
「これ」の働きについても、受けとめ方の幅があります。訳文は、「作法がそのまま宗旨である」という、ありようを言う文として訳しました。一方で、「作法を宗旨とせよ」「作法を根本とせよ」という、すすめの含みを読むこともできるでしょう。
ここで、この二句を、私たちの日常の言葉の感覚で読むときに、気をつけておきたいことがあります。「作法」という言葉は、いまでは、ともすると「形式」「決まりごと」という意味で受けとられがちです。中身が大切で、作法は外側の形にすぎない、と考える方もおられるでしょう。けれども、この二句は、作法と宗旨とを、外側と中身として分けていません。作法がそのまま宗旨であり、得道がそのまま作法である、と言います。作法を通して、その向こうに宗旨がある、というのでもない。作法そのものが宗旨だ、というのです。
もちろん、このことは、心をこめずに形だけをなぞればよい、ということではないでしょう。本文は、このあとの回で、作法の一つ一つについて「倉卒にすべからず」(あわただしくするな)、「誠心に住して、慇懃にあらふべし」(第四回の【7】)と、心のありようをも細かく示していきます。作法と心とを二つに分けない、ということが、この二句の言わんとするところの一つである、と受けとめることができるでしょう。
華厳経浄行品の偈〔【7】〕#
続いて、『華厳経』浄行品の偈が引かれます。
「華厳経浄行品云、左右便利、当願衆生、蠲除穢汚、無婬怒癡。已而就水、当願衆生、向無上道、得出世法。以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢。」
書き下しでは、
「華厳経浄行品に云く、左右の便利には、当に願うべし、衆生の、穢汚を蠲除し、婬・怒・痴を無からしめんことを。已りて水に就かば、当に願うべし、衆生の、無上道に向かい、出世の法を得んことを。水を以て穢を滌わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを。」
となります。
大小便をするときには、まさに願うべきである、衆生が、けがれを取りのぞいて、むさぼり・いかり・おろかさをなくすことを。用を終えて水のところへ行くときには、まさに願うべきである、衆生が、この上ない道に向かい、世間を出る法を得ることを。水でけがれを洗うときには、まさに願うべきである、衆生が、清浄な忍をそなえ、ついに垢のなくなることを、と。
この偈には、一つの形がくり返されています。「当願衆生」――まさに願うべし、衆生の――という形です。大小便をする、水のところへ行く、水で洗う。その一つ一つの行いのたびに、自分のためではなく、衆生のために願いをおこす。それが、この偈の示すところです。
便所での行いは、私たちの暮らしのなかで、もっとも人目を避けるもの、もっとも「仏道」から遠いように思われる行いかもしれません。けれども、浄行品は、まさにその行いのたびに、衆生のための願いをおこせ、と説いています。仏道は、坐禅堂や仏殿の中にだけあるのではなく、便所の中にもある。そのことを、この偈は、何の飾りもない言葉で示している、と受けとめることができるでしょう。
宗務庁版英訳の注によれば、この巻の第四回で引かれる「以水盥掌、当願衆生、得上妙手、受持仏法」(第四回の【8】)の偈は、この浄行品の偈の続きにあたります。手を洗うときにも、また衆生のための願いがおこされます。
水をもて身をきよむるにあらず――洗浄とは何か〔【8】〕#
浄行品の偈を受けて、道元禅師ご自身の言葉が続きます。今回の範囲の結びであり、洗浄という行いの意味を正面から説く段です。
水も身も、本浄にあらず、本不浄にあらず#
「水、かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。身、かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず、諸法、またかくのごとし。」
水は、かならずしも本浄(もとから浄い)ではなく、本不浄(もとから浄くない)でもない。身も、かならずしも本浄ではなく、本不浄でもない。諸法もまたこのようである、と。
浄行品の偈は、水でけがれを洗う、と言いました。それを聞けば、私たちは、水は浄いもので、身はけがれたものだ、と考えるでしょう。浄いもので、けがれたものを洗う、と。けれども、道元禅師は、まずその考えをほどかれます。水は、もとから浄いのではない。身は、もとからけがれているのでもない。
これは、【1】から続いてきた「不染汚」の言葉と、深いところでつながっているように思われます。身心は不染汚である、と【6】で言われました。そうであれば、身は、もとからけがれたものではありません。しかし、だからといって、身は「もとから浄いもの」として固定されているのでもない、と言われているように読めます。浄・不浄という区別そのものを、何かにもとからそなわった性質として立てない。そういう言葉として受けとめることができるでしょう。
情・非情にあらず#
「水、いまだ情・非情にあらず、身、いまだ情・非情にあらず。諸法、またかくのごとし。仏世尊の説、それかくのごとし。」
水は、いまだ情(こころあるもの)でも非情(こころなきもの)でもない。身も、いまだ情でも非情でもない。諸法もまたこのようである。仏世尊の説も、そのとおりである、と。
「いまだ…にあらず」の受けとめ方には幅があります。訳文は、そもそも情とも非情とも言えない、と取りました。情・非情という区別に、まだ入っていない、と受けとめることもできますし、情でないのでも、非情でないのでもない、どちらとも決められない、と受けとめることもできるでしょう。
身を「こころあるもの」、水を「こころなきもの」と分けるのが、私たちのふつうの考え方です。洗う私と、洗われる身と、洗う道具としての水。そのように分けて考えるところに、浄いものでけがれたものを洗う、という考えも生まれます。本文は、その分け方もまた、ほどいているように読めます。
「仏世尊の説、それかくのごとし」についても、読みの幅があります。上に述べた本浄・不浄、情・非情のことが、仏世尊(釈尊)の説かれたことである、と受けとめることもできますし、仏の説そのものもまた、本浄・不浄、情・非情を離れている、と受けとめることもできます。宗務庁版英訳は後の向きに訳しています。
しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず#
そして、次の言葉が置かれます。
「しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任するに、この儀あり、これを洗浄と称す。」
そうではあるけれども、水によって身をきよめるのではない。仏法によって仏法を保任するところに、この儀があり、これを洗浄と称するのである、と。
この一文は、今回の範囲のなかでもとくに大切で、また、取りちがえられやすい言葉です。
「水をもて身をきよむるにあらず」という言葉だけを取り出すと、「洗浄とは水で洗うことではない、だから水で洗わなくてもよい」と読めてしまうかもしれません。けれども、それは、この巻の読み方としては成り立たない、と申し上げておきたいと思います。
理由は、本文そのものにあります。この巻は、【5】で「浄身とは、大小便を洗い、十指の爪を剪るなり」という経の文を引き、【7】で「水を以て穢を滌わば」という偈を引いています。次の第二回では、「洗大小便、おこたらしむることなかれ。」(第二回の【9】)――大小便のあとを洗うことを、おこたってはならない――と、はっきり言われます。そして第三回・第四回では、水と土と灰とをどう用い、何度洗い、桶の水をどれだけ入れるかまで、細かく説かれていきます。さらに第四回の範囲の終わりには、清規と『三千威儀経』の言葉を引いて、洗浄しなければ三宝を礼拝してはならない、という戒めまで示されます(第四回の【13】【14】)。この巻は、水で洗うことを、何よりも丁寧に、ゆるがせにせず行うよう求めている巻なのです。
それでは、「水をもて身をきよむるにあらず」とは、何を言っているのでしょうか。ここには、いくつかの受けとめ方があります。
一つには、洗浄は、水で身の汚れを落とすことに尽きるのではない、その本質は、仏法によって仏法を保任するところにある、と受けとめることができます。水で洗うという行いはある。けれども、その行いを、汚れを落とすための衛生上の手段としてだけ見るのでは、洗浄の意味をとらえそこなう、という読みです。
もう一つには、すぐ前の言葉を受けて、水が(浄いものとして)身を(けがれたものとして)浄めるのではない、水も身も本浄・本不浄を離れているのだから、と受けとめることもできるでしょう。浄いものでけがれたものを洗う、という構図を立てない、という読みです。
さらに、この一文は、洗浄の作法を否定するのではなく、その作法がどういう意味をもつのかを言っている、と受けとめることもできます。
どの読みを取るにしても、共通しているのは、この一文が、水で洗うことをやめよと言っているのではない、ということです。水で洗うことはする。丁寧にする。けれども、それは、けがれた身を浄いものにするための手段としてするのではない。仏法によって仏法を保任する行いとしてする。そこに「洗浄」という名がある。そう受けとめるのが、この巻の全体の流れに沿った読み方であると思われます。
ここで、【6】の言葉が思い起こされます。身心は不染汚である、けれども浄身の法がある。国土にはもともと塵穢がない、けれども浄める。浄めることは、けがれがあるから行う手段ではない。その同じ考えが、ここで「水をもて身をきよむるにあらず」という言葉になっている、と見ることができるでしょう。けがれがあるから洗う、のではない。それでもなお、いや、それだからこそ、洗う。その洗うことが、仏法の保任そのものである、と。
仏法によりて仏法を保任する#
「仏法によりて仏法を保任するに」の「保任」は、たもち、まもり、身にになうことです。即心是仏の巻の第一声にも、「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。」(『即心是仏』第一回)と、この語が用いられていました。
仏法によって、仏法を保任する。何か仏法でないものによって仏法を得るのではなく、仏法によって仏法をたもつ。洗浄という行いは、仏法を得るための手段ではなく、すでに仏法であるものが、仏法をたもっていく行いである、と受けとめることができるでしょう。ここにも、修行をさとりの手段としない、修証一等の教えと同じ向きが見えるように思われます。
「保任するに」の「に」を、訳文は「ところに」と取りましたが、「保任するために」と取る読みもありえます。保任するために、この儀がある、と読めば、洗浄は保任の手だてのように聞こえますし、保任するところに、この儀がある、と読めば、洗浄は保任のありようそのもののように聞こえます。ここでは、どちらにも決めないでおきます。
仏祖の一身心・一句子・一光明#
「仏祖の一身心を、したしくして正伝するなり、仏祖の一句子を、ちかく見聞するなり、仏祖の一光明を、あきらかに住持するなり。」
(洗浄は、)仏祖の一身心を、親しく正伝することであり、仏祖の一句子を、まぢかに見聞することであり、仏祖の一光明を、あきらかに住持することである、と。
ここで、洗浄が何であるかが、三つの言葉で言いかえられます。身心、言葉、光明。仏祖の身心を、親しく正しく伝えること。仏祖のひとことを、まぢかに見聞きすること。仏祖の光明を、あきらかにとどめたもつこと。
「一身心」「一句子」「一光明」の「一」をどう受けとめるかには幅があります。仏祖のひとつの身心、と取ることもできますし、仏祖と(行ずる者と)が一つになった身心、と取ることもできます。また、まるごとの、全体としての身心、と受けとめることもできるでしょう。「したしくして」も、身にぴったりと、と取ることもできますし、仏祖とじかに、面と向かって、という含みを読むこともできます。主語も、訳文は「洗浄」を補いましたが、洗浄を行ずる者と受けとめることもできます。
どの読みを取るにしても、ここで言われていることの大きさには、驚かされます。大小便のあとを洗い、手を洗う。その行いが、仏祖の身心を正伝することであり、仏祖の言葉を見聞することであり、仏祖の光明をたもつことだ、と言われるのです。
なぜ、そう言えるのでしょうか。この巻の第五回の範囲には、洗浄の威儀について、
「これ自己の強為にあらず、威儀の云為なり、諸仏の常儀なり、諸祖の家常なり。」(第五回の【1】)
という言葉があります。これは自分が無理にすることではなく、威儀そのもののはたらきであり、諸仏の常の儀であり、諸祖の家の日常である、と。洗浄の作法は、仏祖がみな行ってこられた作法です。その作法を、仏祖が行ってこられたとおりに行うとき、私たちの身心のふるまいは、仏祖の身心のふるまいと重なる。そのように受けとめれば、洗浄が仏祖の一身心を正伝することだ、という言葉も、遠いものではなくなってくるのではないでしょうか。
無量無辺の功徳を現成せしむる#
「おほよそ、無量無辺の功徳を現成せしむるなり。」
おおよそ、(洗浄は)はかりしれない、限りない功徳を現成させることである、と。
「現成」は、あらわれ、成就することです。洗浄という行いが、限りない功徳をあらわし成就させる、と言われます。功徳が、洗浄のあとに報いとして得られる、というのではなく、洗浄という行いのところに現成する、と受けとめることができるでしょう。
身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時#
そして、今回の範囲は、次の言葉で結ばれます。
「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。このゆえに、修行の身心、本現するなり。」
身心において修行を威儀させる(修行を威儀としてあらわす)、まさにそのときに、久遠の本行を具足し、円成しているのである。それゆえに、修行の身心が、本来のままに現れるのである、と。
この一文には、句の切り方そのものに読みの幅があります。本書は、原文の句切りに従い、「身心に修行を威儀せしむる」を「正当恁麼時」(まさにそのとき)にかけて読みました。宗務庁版英訳も同じ切り方で訳しています。この読みでは、修行を身心の威儀として行う、まさにそのときに、久遠の本行が具足円成している、ということになります。
一方で、「身心に修行を威儀せしむる。正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。」と、「威儀せしむる」で文を切る読みもありえます。この読みでは、前の文は、洗浄は「身心に修行を威儀せしむる」ことである、と言い切り、続く文は、まさにそのとき、久遠の本行を具足円成している、と言うことになります。この句切りは、本山版に拠る活字本の編者によるもので、読みは分かれうることを申し添えておきます。
「修行を威儀せしむる」にも幅があります。訳文は、修行を身心の威儀として行わせる、と取りました。身心をして修行の威儀をととのえさせる、と取ることもできますし、修行がそのまま威儀となる、修行を威儀たらしめる、と受けとめることもできるでしょう。どの読みでも、修行と威儀――立ち居ふるまいの作法――とが、ここで一つに結ばれていることは変わりません。【6】の「作法、これ宗旨なり」と、同じ向きの言葉と見ることができます。
「久遠の本行を具足円成せり」について、宗務庁版英訳の注は、『法華経』に語られる釈尊の生涯をふまえた言い方であるとし、「本行」は、釈尊がもと菩薩道を行じて成就した寿命はいまなお尽きない、という『法華経』の一節を思い起こさせ、「久遠」「円成」の語も、釈尊が久遠の昔に成仏したことをいう「久遠実成」を思わせる、としています。
その注に沿って受けとめるなら、ここで言われていることは、まことに大きなことです。身心に修行を威儀としてあらわす、まさにそのときに、釈尊の久遠の昔からの本行が、そっくりそなわり、まどかに成就している、というのです。大小便のあとを洗い、手を洗う、その一つの行いのところに、と。
「具足円成せり」の主語が、行ずる者なのか、洗浄なのかは、本文に示されていません。ここでは決めないでおきます。
最後の「修行の身心、本現するなり」の「本現」も、読みの分かれるところです。訳文は、本来のままに現れる、と取りました。もとから現れている、と受けとめることもできますし、「本」を、直前の「久遠の本行」の「本」と重ねて、その本が現れる、と受けとめることもできるでしょう。なお、宗務庁版英訳は、「修行の身心」を「修証の身心」のように訳しています。
いずれにしても、「修行の身心」という言葉で今回の範囲が結ばれていることに、目をとめておきたいと思います。巻は「仏祖の護持しきたれる修証」で始まり、【8】は「修行の身心」で終わります。洗浄という行いを通して、修行の身心が本来のままに現れる。浄めることは、けがれた身を別の浄いものに作りかえることではなく、修行の身心が、もとのままに現れることだ、と受けとめることができるでしょう。
坐禅と日々の暮らしのなかで#
今回の範囲を、坐禅と日々の修行のなかで受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文が直接に坐禅について語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。
けがれていないのに、なぜ浄めるのか#
今回の範囲を貫いていたのは、身心は不染汚である、けれども浄める、という言葉でした。国土にはもともと塵穢がない、けれども浄める。そして、その浄めることは、仏果に至ってもやめない。
これは、坐禅についての宗門の受けとめ方と、深いところで通いあっているように思われます。弁道話には、
「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。」(『弁道話』第一回)
とありました。この法は、一人ひとりの身の上に豊かにそなわっているけれども、修さなければあらわれず、証さなければ得ることはない、と。
そなわっている、けれども修する。不染汚である、けれども浄める。この二つの言葉は、同じ形をしています。坐禅は、けがれた心を浄めて、いつか浄い心を手に入れるための手段ではない。修証一等の教えに立てば、坐禅もまた、すでにそなわっているものが、修することによってあらわれる行いです。そして、その坐禅は、何かを得たら終わるものではありません。洗浄が「仏果にいたりてなほ退せず、廃せざる」ものであったように。
掃除と作務#
修行道場では、毎日、堂の内外を掃き清め、拭き清めます。昨日も掃いた廊下を、今日もまた掃く。ほとんど塵が見えない床を、それでもまた拭く。外から見れば、むだなことに見えるかもしれません。
けれども、「国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり」という言葉に照らしてみれば、掃除は、汚れているから仕方なくする作業ではなく、それ自体が、諸仏の護念するところの行いだ、と受けとめることができるでしょう。汚れていないから掃かなくてよい、のではない。汚れていようといまいと、掃く。その掃くことのうちに、仏道がある。
これは、修行道場の中だけのことではないでしょう。家の玄関を掃く、台所を拭く、洗面所を整える。そうした日々の行いもまた、心のこめ方しだいで、ただの家事ではなく、身心と国土とを浄める行いとして受けとめることができるのではないでしょうか。
便所の中の仏道#
浄行品の偈は、大小便をするとき、水のところへ行くとき、水で洗うとき、その一つ一つの行いのたびに、「当願衆生」と、衆生のための願いをおこすことを説いていました。
私たちは、仏道というものを、坐禅をしているとき、お経を読んでいるとき、仏さまに手を合わせているときのことだと考えがちです。便所での行いは、そこから最も遠いところにあるように感じられるでしょう。けれども、この巻は、まさにその便所での行いを、仏祖の一身心を正伝することだと説きます。
一日のうちで、人目につかないところでの行いを、どれだけ丁寧に行っているか。そこに、その人の修行がもっともよくあらわれる、と受けとめることもできるかもしれません。坐禅のときだけ姿勢を正し、それ以外の時間はおろそかにするのではなく、手を洗うときも、用を足すときも、同じ一つの修行のなかにある。この巻の言葉を、そのように受けとめることもできるでしょう。
作法をおろそかにせず、形だけにもしない#
「作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり」という言葉を、宗門では、日々の修行の心がまえとして大切にしてきました。
坐禅の作法には、坐り方、手の組み方、目の置き方、呼吸のととのえ方、堂への入り方、礼拝の仕方など、さまざまな決まりがあります。はじめて坐禅をする方は、その細かさにとまどわれるかもしれません。作法よりも、心の中で何が起こるかのほうが大切ではないか、と思われるかもしれません。
けれども、この巻の言葉に従えば、作法そのものが宗旨です。作法を、心の中の大切なことのための外側の手続きとして軽んじることはできません。同時に、心をこめずに形だけをなぞることも、この巻の求めるところではないでしょう。本文は、このあとの回で、作法の一つ一つを「慇懃に」「審細に」行い、「倉卒に」してはならないと、くり返し示していきます。作法を丁寧に行うことと、心をこめることとは、別々のことではない。そのように受けとめておきたいと思います。
坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけでなく、近くの寺院の坐禅会などで指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。坐禅会では、坐っている時間だけでなく、履物のそろえ方や、堂への出入り、手の合わせ方なども、指導する方の示すとおりに、一つ一つ丁寧に行ってみてください。そうした前後のふるまいもまた、坐禅と一つながりの修行であることが、少しずつ感じられてくるかもしれません。
むすびに――不染汚の修証から、爪と髪へ#
今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。
巻は、「仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。」という言葉で始まりました(【1】)。そして、南岳と六祖の問答が引かれ、修証は無いのではないが染汚することはできない、ただこの不染汚こそが諸仏の護念するところであり、あなたも、わたしも、西天の祖師たちもみなそうである、と示されました(【2】〜【4】)。
続いて、『大比丘三千威儀経』の、浄身とは大小便を洗い十指の爪を切ることである、という言葉が引かれ(【5】)、道元禅師は、身心は不染汚であるけれども浄身の法・浄心の法がある、国土にはもともと塵穢がないけれども浄める、それは仏果に至ってもやめない、と説かれました。そして、「作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり」と言われました(【6】)。
『華厳経』浄行品の偈によって、大小便のたびに衆生のための願いをおこすことが示され(【7】)、最後に、水も身も本浄・本不浄を離れていること、そして、水によって身を浄めるのではなく、仏法によって仏法を保任するところに洗浄という儀があること、それは仏祖の一身心を正伝することであり、修行を身心の威儀とするそのときに久遠の本行が具足円成している、ということが説かれました(【8】)。
今回の範囲の要は、浄めることが、けがれを取り除くための手段ではない、という点にあると受けとめることができるでしょう。けがれていないのに浄める。浄めることそのものが、仏法の保任であり、仏祖の身心の正伝である。だからこそ、浄めることは、丁寧に、おこたらず、仏果に至ってもなお続けられる。「水をもて身をきよむるにあらず」という言葉は、水で洗うことを不要とする言葉ではありません。水で洗うことに、このような深い意味を見る言葉として受けとめることができるでしょう。
次の回からは、【5】の経の文に示された二つのこと――爪を切ることと、大小便のあとを洗うこと――が、具体的に説かれていきます。第二回では、まず爪を切ることから始まり、道元禅師の本師である天童如浄禅師の、長髪・長爪を戒める言葉が引かれます。今回見てきた「不染汚の修証」が、爪を切り髪を剃るという、ごく具体的な行いのうえで、どのように示されていくのかを、見ていくことにします。
読みの分かれるところ#
この回の範囲では、道元禅師の和文にも、引かれた問答の一句にも、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり」【1】
「修証」と「不染汚」がどのような関係にあるのかは、本文に説明がありません。本書の訳は、原文の形のまま「修証がある。それがいわゆる不染汚である」と二つに分けました。修証そのものが不染汚というありかたである、と受けとめることも、不染汚であることこそが仏祖の護持してきた修証である、と受けとめることもできます。 -
「還仮修証不」と「修証不無、染汚即不得」【2】【3】
「還って」は、前のやりとりを受けて「それでもなお」と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きに訳しています。反語として「かえって」と取ることも、軽い語と取ることもできます。「修証を仮る」も、修証に依る(修証を必要とする)のか、修証という手段を借りるのか、で幅があります。南岳の答えは、何が何を染汚するのかが示されていません。宗務庁版英訳は「修証によって染汚されることはありえない」という向きに訳しますが、修証そのものをけがすことはできない、もともとけがれようがない、と取ることも、けがしてはならない、という戒めの含みを読むこともできます。この言葉を修証一等の教えと結びつけて受けとめるのは、弁道話での引き方にならった一つの受けとめ方で、一句が直接に説明していることではありません。 -
「国土・樹下をもきよむるなり」「仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり」【6】
修行の場である国土や樹下を実際に掃き清めること、と取ることも、身心を浄めることがそのまま国土・樹下を浄めることになる、と取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、仏国土の宝樹の下に仏が坐す情景を思わせるのかもしれない、としています。「なほ退せず、廃せざる」の主語も示されておらず、諸仏(宗務庁版英訳の取り方)とも、浄めることそのものとも、修行者とも取れます。どの読みでも、浄めることが仏果に至れば終わるものではない、ということは変わりません。 -
「作法、これ宗旨なり、得道、これ作法なり」【6】
宗務庁版英訳の注は、「得道」は出家の儀礼に入ることを指すこともありうるが、ここではさとりを得ることと取るほうが可能性が高いとし、この一句が、のちの曹洞宗でいわれる「威儀即仏法、作法是宗旨」の出どころであろう、としています。「これ」も、作法がそのまま宗旨である、というありようを言う文と取るほか、作法を宗旨とせよ、というすすめの含みを読むこともできます。 -
「水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任するに、この儀あり」【8】
洗浄は水で身の汚れを落とすことに尽きるのではなく、その本質は仏法の保任にある、と取る読み、水も身も本浄・本不浄を離れているので、浄いものでけがれたものを洗うという構図を立てない、と取る読み、洗浄の作法を否定するのではなく、その意味を言っている、と取る読みがあります。いずれの読みでも、水で洗わなくてよい、という意味ではありません。この巻は第二回で「洗大小便、おこたらしむることなかれ」と言い、第三回・第四回で洗い方を細かく示しています。「保任するに」の「に」も、「ところに」とも「ために」とも取れます。 -
「仏祖の一身心を、したしくして正伝するなり」【8】
「一身心」「一句子」「一光明」の「一」は、ひとつの、とも、仏祖と(行ずる者と)が一つになった、とも、まるごとの、とも取れます。「したしくして」も、身にぴったりと、とも、仏祖とじかに、とも取れ、主語も、洗浄(本書の訳の補い)とも、洗浄を行ずる者とも取れます。 -
「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。このゆえに、修行の身心、本現するなり」【8】
本書の原文の句切りでは、「身心に修行を威儀せしむる」を「正当恁麼時」にかけて読み、宗務庁版英訳も同じ切り方です。「威儀せしむる」で文を切って読む読み方もありえます。「修行を威儀せしむる」も、修行を身心の威儀として行わせる、とも、修行がそのまま威儀となる、とも取れます。「久遠の本行」について、宗務庁版英訳の注は、『法華経』の釈尊の本行や久遠実成を思わせる、としています。「具足円成せり」の主語や、「本現」が、本来のままに現れることか、もとから現れていることか、「久遠の本行」の「本」が現れることかも、本文からは決められません。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第七「洗浄」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. IV(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 本巻の撰述の時と場所、諸本での位置、巻名と清規類についての説明、南岳懐譲・六祖慧能の生没年と問答の典拠、云云・国土と樹下・作法と得道・「威儀即仏法、作法是宗旨」についての説明、『大比丘三千威儀経』『華厳経』浄行品の典拠、『法華経』の本行と久遠実成についての説明と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。「重雲堂式」「洗浄」「洗面」についての記述と、「即心是仏」の巻の「不染汚」についての説明は、同書 Vol. I の「即心是仏」の巻の解題・注によります。