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礼拝得髄(五)結界のわらひごと#

「また、日本国に、ひとつのわらひごとあり」から巻の終わりまで、比丘尼・女人を入れない結界のならわしを論じ、諸仏所結の大界を示す十の段落と、巻末題・奥書を読む、この巻の最終回です。

原文#

日本国の結界というわらひごと#

【1】また、日本国に、ひとつのわらひごとあり。いはゆる、あるひは結界の境地と称し、あるひは大乗の道場と称して、比丘尼(びくに)・女人等を来入せしめず。邪風ひさしくつたはれて、人、わきまふることなし。稽古(けいこ)の人、あらためず、博達の士も、かんがふることなし。あるひは権者(ごんじゃ)の所為と称し、あるひは古先の遺風(いふう)と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし。権者とはなにものぞ、賢人か聖人(しょうにん)か、神か鬼か、十聖(じっしょう)か三賢(さんけん)か、等覚(とうがく)か妙覚(みょうかく)か。また、ふるきをあらためざるべくは、生死流(しょうじる)転(てん)をばすつべからざるか。

如来在世の仏会には四衆あり#

【2】いはんや大師釈尊、これ無上正等覚(しょうとうがく)なり。あきらむべきは、ことごとくあきらむ、おこなふべきは、ことごとくこれをおこなふ、解脱すべきは、みな解脱せり。いまのたれか、ほとりにもおよばん。しかあるに、在世の仏会(ぶつえ)に、みな比丘(びく)・比丘尼・優婆(うば)塞(そく)・優婆夷(うばい)等の四衆(ししゅ)あり、八部あり、三十七部あり、八万四千部あり。みなこれ仏界を結せること、あらたなる仏会なり。いづれの会(え)か比丘尼なき、女人なき、八部なき。如来在世の仏会よりもすぐれて清浄(しょうじょう)ならん結界をば、われらねがふべきにあらず、天魔界なるがゆえに。仏会の法儀は、自界他方、三世千仏、ことなることなし。ことなる法あらんは、仏会にあらずとしるべし。

四果・妙覚と、天女・神女#

【3】いはゆる四果は極位(ごくい)なり。大乗にても小乗にても、極位の功徳は差別(しゃべつ)せず。しかあるに、比丘尼の、四果を証するおほし。

【4】三界のうちにも、十方の仏土にも、いづれの界にかいたらざらん。たれかこの行履(あんり)をふさぐことあらん。

【5】また、妙覚は無上位なり。女人すでに作仏(さぶつ)す、諸方いづれのものか究尽(ぐうじん)せられざらん。たれかこれをふさぎて、いたらしめざらんと擬せん。すでに遍照於十方(へんしょうおじっぽう)の功徳あり、界畔(かいはん)いかがせん。

【6】また、天女(てんにょ)をもふさぎていたらしめざるか、神女をもふさぎていたらしめざるか。天女・神女も、いまだ断惑の類にあらず、なほこれ流転の衆生なり。犯罪(ぼんざい)あるときはあり、なきときはなし。人女・畜女も、罪あるときはあり、罪なきときはなし。天(てん)のみち、神(じん)のみち、ふさがん人はたれぞ。すでに三世の仏会に参詣(さんけい)す、仏所に参学す。仏所・仏会にことならん、たれか仏法と信受せん。ただこれ誑惑(おうわく)世間人(せけんにん)の至愚なり。野干(やかん)の、窟穴(くっけつ)を人にうばはれざらんとをしむよりも、おろかなり。

仏弟子第二の位#

【7】また、仏弟子の位は、菩薩にもあれ、たとひ声聞(しょうもん)にもあれ、第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷、かくのごとし。このくらい、天上・人間ともにしれり、ひさしくきこえたり。しかあるを、仏弟子第二の位は、転輪聖王(てんりんじょうおう)よりもすぐれ、釈提桓因(しゃくだいかんいん)よりもすぐるべし、いたらざるところあるべからず。いはんや小国辺土の国王・大臣の位にならぶべきにあらず。いま、比丘尼いるべからず、といふ道場をみるに、田夫(でんぶ)・野人(やじん)・農夫(のうふ)・樵翁(しょうおう)みだれいる。いはんや国王・大臣・百官・宰相、たれかいらざるあらん。田夫等と比丘尼と、学道を論じ、得位を論ぜんに、勝劣つひにいかん。たとひ世法にて論ずとも、たとひ仏法にて論ずとも、比丘尼のいたらんところえ、田夫・野人、あへていたるべからず。錯乱(しゃくらん)のはなはだしき、小国、はじめてこのあとをのこす。あはれむべし、三界慈父の長子、小国にきたりて、ふさぎていたらしめざるところありき。

結界にすめるやから#

【8】また、かの結界と称するところにすめるやから、十悪をおそるることなし、十重(じゅうじゅう)つぶさにをかす。ただ造罪界として、不造罪人をきらふか。いはんや逆罪(ぎゃくざい)をおもきこととす。結界の地にすめるもの、逆罪もつくりぬべし。かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし。仏化(ぶっけ)を学すべし、仏界にいるべし、まさに仏恩を報ずるにてあらん。かくのごとくの古先、なんぢ結界の旨趣(ししゅ)をしれりやいなや。たれよりか相承(そうじょう)せりし、たれが印をかかうぶる。

諸仏所結の大界#

【9】いはゆる、この諸仏所結の大界にいるものは、諸仏も衆生も、大地も虚空(こくう)も、繋縛(けばく)を解脱し、諸仏の妙法に帰源するなり。しかあればすなはち、この界をひとたびふむ衆生、しかしながら仏功徳をかうぶるなり。不違越の功徳あり、得清浄(とくしょうじょう)の功徳あり。一方を結するとき、すなはち法界(ほっかい)みな結せられ、一重(いちじゅう)を結するとき、法界みな結せらるるなり。あるひは水をもて結する界あり、あるひは心をもて結界することあり、あるひは空をもて結界することあり。かならず相承相伝ありてしるべきことあり。いはんや結界のとき、灑甘露(しゃかんろ)ののち、帰命(きみょう)の礼(らい)、をはり、乃至浄界等ののち、頌云、「茲界遍法界(しかいへんほっかい)、無為結清浄(むいけつしょうじょう)」。

【10】この旨趣、いま、ひごろ結界と称する古先老人、しれりやいなや。おもふに、なんだち、結の中に遍法界の結せらるること、しるべからざるなり。しりぬ、なんぢ声聞の酒にえふて、小界を大界とおもふなり。ねがはくは、ひごろの迷酔すみやかにさめて、諸仏の大界の、遍界に違越すべからず、済度摂受(さいどしょうじゅ)に一切衆生みな化をかうぶらん功徳を、礼拝恭敬(らいはいくぎょう)すべし。たれかこれを得道髄といはざらん。

巻末題#

正法眼蔵礼拝得髄

奥書#

延応庚子清明日記、観音導利興聖宝林寺。

現代語訳#

段落番号【1】〜【10】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。この回は巻の結びで、比丘尼(びくに)・女人を入れない「結界」のならわしを論じ、諸仏所結の大界を示して巻を結びます。この回の範囲は、すべて七十五巻本にない部分にあたります。和文の中の漢文の句(【5】「遍照於十方(へんしょうおじっぽう)」、【9】の頌「茲界遍法界(しかいへんほっかい)、無為結清浄(むいけつしょうじょう)」)は、まず「書き下し」を示し、続けて訳をつけました。書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・読点もそのままとしました。底本の本文そのものではなく、一つの読み方です。訳文では、引用であることを示すために「 」を加えたところがあります。奥書の書き下しは本書の読みで、底本に付された訓ではありません。本文の「わらひごと」「至愚」「天魔界」「魔界」「田夫(でんぶ)・野人(やじん)」などの語は、本文の語のまま訳し、言いかえたり和らげたりしていません。本文は結界のならわしを論じていますが、どこの山、どこの寺とは名を挙げていないので、訳と語注でも地名・寺名を補っていません。仏教語・禅語(結界・境地・大乗・道場・稽古(けいこ)・博達・権者(ごんじゃ)・古先・遺風(いふう)・賢人・聖人(しょうにん)・十聖(じっしょう)・三賢(さんけん)・等覚(とうがく)・妙覚(みょうかく)・生死流(しょうじる)転(てん)・大師・無上正等覚(しょうとうがく)・解脱・仏会(ぶつえ)・四衆(ししゅ)・八部・三十七部・八万四千部・仏界・天魔界・法儀・自界他方・三世千仏・四果・極位(ごくい)・行履(あんり)・無上位・作仏(さぶつ)・究尽(ぐうじん)・界畔(かいはん)・天女(てんにょ)・神女・断惑・流転・参詣(さんけい)・仏所・参学・信受・誑惑(おうわく)・至愚・野干(やかん)・窟穴(くっけつ)・菩薩・声聞(しょうもん)・比丘(びく)・比丘尼・優婆(うば)塞(そく)・優婆夷(うばい)・転輪聖王(てんりんじょうおう)・釈提桓因(しゃくだいかんいん)・小国辺土・田夫・野人・農夫(のうふ)・樵翁(しょうおう)・百官・宰相・学道・得位・世法・錯乱(しゃくらん)・三界慈父・長子・十悪・十重(じゅうじゅう)・造罪・逆罪(ぎゃくざい)・魔界・仏化(ぶっけ)・仏恩・旨趣(ししゅ)・相承(そうじょう)・諸仏所結の大界・繋縛(けばく)・帰源・不違越・得清浄(とくしょうじょう)・法界(ほっかい)・一重(いちじゅう)・相承相伝・灑甘露(しゃかんろ)・帰命(きみょう)の礼(らい)・浄界・頌・無為・古先老人・遍法界・小界・迷酔・遍界・違越・済度摂受(さいどしょうじゅ)・化・礼拝恭敬(らいはいくぎょう)・得道髄など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名や事実は、宗務庁版英訳の注・解題が挙げる範囲で示しています。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。

日本国の結界というわらひごと#

【1】また、日本国には、ひとつの笑いごとがある。すなわち、あるいは結界の境地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼や女人などを来り入らせないのである。(この)邪風が久しく伝わって、人はそれをわきまえることがない。稽古の人(古を学ぶ人)も改めず、博達の士も考えることがない。あるいは権者のしわざと称し、あるいは古先の遺風と号して、まったく論じることがない。(これを)笑うならば、人の腸もちぎれてしまうにちがいない。権者とは何者か。賢人か、聖人か。神か、鬼か。十聖か、三賢か。等覚か、妙覚か。また、古いものを改めてはならないというのならば、生死流転をも捨ててはならないというのか。

語注

  • ひとつのわらひごと:ひとつの笑いごと(笑うべきこと)。同じ段の「わらはば人の腸もたえぬべし」と呼応する。
  • 結界の境地:結界された(境を区切られた)地。宗務庁版英訳の注は、結界の地は儀礼の上で清浄(しょうじょう)とされ、ある種の人や物を入れない聖域で、「結界」(境を結ぶこと、梵語 sīmā-bandha)はさまざまな聖域に広く用いられ、とくに女人を入れないものは「女人結界」と呼ばれる、とする。結界は訳さずに残した。
  • 大乗の道場:大乗の(修行(しゅぎょう)の)道場。訳さずに残した。
  • 来入せしめず:来り入らせない。
  • わきまふることなし:(それが邪風であると)わきまえることがない。
  • 稽古の人:古を考え学ぶ人。
  • 博達の士:ひろく物事に通じた人。
  • 権者の所為:権者のしたこと。宗務庁版英訳の注は、「権者」(ごんざ、とも)は、仏・菩薩などが仮にあらわれた姿で、「権現」「権化」の名でよく知られる、とする。訳さずに残した。
  • 古先の遺風:昔の先人ののこしたならわし。古先は訳さずに残した。【8】【10】の「古先」「古先老人」につながる。
  • わらはば人の腸もたえぬべし:笑えば、人の腸もちぎれてしまうにちがいない(腹がよじれるほど笑うべきことだ)(→読みの分かれるところ)。
  • 賢人か聖人か:宗務庁版英訳の注は、ここでの賢人・聖人は、すぐあとの菩薩の段階の「十聖」「三賢」に対して、中国の伝統でいう賢人・聖人であろう、とする。
  • 十聖か三賢か:菩薩の道の段階(第一回の【7】の語注を参照)。訳さずに残した。
  • 等覚か妙覚か:宗務庁版英訳の注は、東アジアの仏教で通例の五十二位の、菩薩の道の最後の二つの段階で、妙覚は仏の無上の正覚、等覚はその直前の段階、とする。訳さずに残した。
  • ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか:古いものを改めてはならないのであれば、生死流転(という古くからのもの)も捨ててはならないのか。生死流転は訳さずに残した。

如来在世の仏会には四衆あり#

【2】まして、大師釈尊は無上正等覚である。あきらめるべきことは、ことごとくあきらめ、行うべきことは、ことごとく行い、解脱すべきことからは、みな解脱している。今のだれが、(釈尊の)そばにも及ぼうか。それなのに(その釈尊の)在世の仏会には、どれにも比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷などの四衆があり、八部があり、三十七部があり、八万四千部があった。これらはみな、仏界を結したものであって、あらたな仏会である。どの会に、比丘尼がいなかったか、女人がいなかったか、八部がいなかったか。如来在世の仏会よりもすぐれて清浄であるような結界を、われらは願うべきではない。(それは)天魔界であるからである。仏会の法儀は、自界でも他方でも、三世の千仏でも、異なることはない。異なる法があるならば、それは仏会ではないと知るべきである。

語注

  • いはんや大師釈尊:まして(いうまでもなく)大師釈尊は。前の段の権者・古先と比べて、釈尊をもちだす。宗務庁版英訳は "Need we mention that" と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 無上正等覚:この上なく正しく平等なさとり(を得た者)。訳さずに残した。
  • ほとりにもおよばん:そばにも及ぼうか(及ばない)。
  • しかあるに:それなのに。完全なさとりを得た釈尊の仏会にさえ、比丘尼・女人がいた、という流れに取った。
  • 在世の仏会:(釈尊の)在世の仏会(仏の説法の集まり)。訳さずに残した。
  • 四衆:比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷。訳さずに残した。
  • 八部:宗務庁版英訳の注は、大乗の経典で仏の説法の聴衆としてしばしば現れる八種の存在(天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦)の通例の列挙とする。訳さずに残した。
  • 三十七部:宗務庁版英訳の注は、金剛界曼荼羅の「三十七尊」(五仏と三十二の菩薩)を指すのかもしれないとし、「三十七道品」とする説もあるがここでは意味をなさないだろう、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 八万四千部:宗務庁版英訳の注は、仏が教えるあらゆる衆生とする。訳さずに残した。
  • 仏界を結せること、あらたなる仏会なり:仏界を結した(境を結んだ)ものであって、あらたな仏会である。「あらたなる」を、あらたか・明らかな、と取るか、新しい、と取るかは決めかねるので、訳文は原文の語のまま「あらたな」とした。宗務庁版英訳は "The realm of the buddha fixed by all these is the obvious buddha assembly" と、あらたか・明らかな、の向きに取る(→読みの分かれるところ)。
  • いづれの会(え)か比丘尼なき、女人なき、八部なき:どの会に、比丘尼がいなかったか、女人がいなかったか、八部がいなかったか。
  • 天魔界なるがゆえに:(そのような結界は)天魔の界であるから。天魔界は訳さずに残した。
  • 自界他方:この世界と他方の世界。
  • 三世千仏:宗務庁版英訳の注は、過去・現在・未来の三つの劫に、それぞれ千仏があるという伝えをいう、とする。訳さずに残した。
  • 法儀:法としての作法、きまり。訳さずに残した。

四果・妙覚と、天女・神女#

【3】いわゆる四果は極位である。大乗においても小乗においても、極位の功徳は差別(しゃべつ)しない。そうであって、比丘尼で四果を証する者は多い。

語注

  • 四果は極位なり:四果(阿羅漢(あらかん)果)は(声聞の)最高の位である。四果は第三回の【4】【6】の語注を参照。訳さずに残した。
  • 極位の功徳は差別せず:極位の功徳は(大乗・小乗で)差別しない。宗務庁版英訳の注は、大乗の多くの文献が、仏の無上正覚に至る菩薩の道で得られる徳は阿羅漢の四果に至る声聞の道の徳をはるかにこえると強調するのに反する、かなり意外な主張で、道元禅師自身もふだんは小乗を退けているが、阿羅漢を仏と等しく扱うことは「阿羅漢」の巻にも見られる、とする(→読みの分かれるところ)。
  • しかあるに:そうであって、しかも。宗務庁版英訳は "Yet" と訳す。
  • 四果を証する:四果をさとる。

【4】三界の内においても、十方の仏土においても、(比丘尼が)どの界に至らないことがあろうか。だれがこの行履をふさぐことがあろうか。

語注

  • いづれの界にかいたらざらん:どの界に至らないことがあろうか(どこにでも至る)。主語は前の段落の、四果を証した比丘尼と取った。
  • 行履:おこない、あゆみ。訳さずに残した。

【5】

書き下し(漢文の部分) 遍く十方を照らす

訳 また、妙覚は無上の位である。女人はすでに作仏する。諸方の、どのものが究め尽くされないことがあろうか。だれがこれをふさいで、至らせまいとするだろうか。すでに「遍く十方を照らす」功徳がある。界畔(境界のくぎり)をどうしようというのか。

語注

  • 妙覚は無上位なり:妙覚(仏のさとり)は無上の位である。【1】の語注を参照。
  • 女人すでに作仏す:女人はすでに作仏する(仏と成る)。宗務庁版英訳の注は、「女人はすでに作仏するのだから」とも読めるとし、「作仏」は妙覚を得ることにひとしく、通例の定義ではすべての法に通達することであり、女人が仏と成るという主張は多くの仏典に反する論争のある主張で、道元禅師はここで第三回の【5】の竜女の例を念頭においているのであろう(ただし竜女は男子の身に変じてから成仏した)、とする。作仏は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 諸方いづれのものか究尽せられざらん:諸方の、どのものが究尽されない(究め尽くされない)ことがあろうか。「諸方」を十方・あらゆる方処と取り、作仏した女人の至らない(究め尽くさない)ところはない、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
  • 遍く十方を照らす:本山版に拠る活字本に付けられた読み下し。宗務庁版英訳の注は、仏の、とくにあまねく行きわたる法身をいう通例の言い方で、道元禅師はここで、『法華経』で竜女が仏のさとりをたたえる偈の「深く罪福の相に達し、遍く十方を照らす」を思い起こしているのであろう、とする(偈の前半の書き下しは本書の読み)。
  • 界畔いかがせん:界畔(境界のくぎり、さかい)をどうしようというのか(区切ることはできない)。宗務庁版英訳は "what could their boundary be?" と訳す。界畔は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

【6】また、天女をもふさいで至らせないのか。神女をもふさいで至らせないのか。天女・神女も、まだ断惑の類ではなく、やはり流転の衆生である。犯罪(ぼんざい)があるときにはあり、ないときにはない。人女・畜女も、罪があるときにはあり、罪がないときにはない。天の道、神の道を、ふさごうとする人はだれか。(彼女たちは)すでに三世の仏会に参詣し、仏所で参学している。仏所・仏会と異なるもの(の言うこと)を、だれが仏法と信受しようか。これはただ、誑惑世間人(せけんにん)の至愚である。野干が、(自分の)窟穴を人に奪われまいと惜しむのよりも、愚かである。

語注

  • 天女・神女:天の女・神の女。宗務庁版英訳は "devī"、"goddess" と訳す。訳さずに残した。
  • 断惑の類:惑いを断った者のたぐい。
  • 流転の衆生:(生死(しょうじ)に)流転する衆生。
  • 犯罪あるときはあり、なきときはなし:犯罪があるときには(罪が)あり、ないときにはない(女であることによって罪があるのではない)、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
  • 人女・畜女:人間の女・畜生の女。
  • 天(てん)のみち、神(じん)のみち:天(の者)の道、神(の者)の道。
  • すでに三世の仏会に参詣す、仏所に参学す:すでに三世の仏会に参詣し、仏所で参学している。宗務庁版英訳の注は、主語が示されず、天・神とも、それらの女とも、より広く女たちとも取れる、とする。訳文は(彼女たちは)と補った(→読みの分かれるところ)。
  • 仏所・仏会にことならん、たれか仏法と信受せん:仏所・仏会と異なるものを、だれが仏法と信受しようか。
  • 誑惑世間人の至愚:宗務庁版英訳の注は、「世間の人を誑惑する」の句は『法華経』で、経の反対者が、外道の教えを説く経を作った者を攻撃することばに見える、とし、「これ」が指すのは、女人を入れない区域を設けるという考えとならわしそのものであろう、とする。訳文は「誑惑世間人」を原文の語のまま残した(→読みの分かれるところ)。至愚は訳さずに残した。
  • 野干の、窟穴を人にうばはれざらんとをしむ:野干(狐の類)が、巣穴を人に奪われまいと惜しむ。

仏弟子第二の位#

【7】また、仏弟子の位は、菩薩であっても、たとえ声聞であっても、第一が比丘、第二が比丘尼、第三が優婆塞、第四が優婆夷、このとおりである。この位は、天上・人間ともに知っており、久しく聞こえている。そうであるから、仏弟子第二の位は、転輪聖王よりもすぐれ、釈提桓因よりもすぐれているはずである。至らないところがあってはならない。まして、小国辺土の国王・大臣の位と並べるべきものではない。いま、比丘尼は入ってはならない、という道場を見ると、田夫・野人・農夫・樵翁が、みだれ入っている。まして国王・大臣・百官・宰相で、だれが入らない者があろうか。田夫などと比丘尼とを、学道について論じ、得位について論じるならば、勝劣はつまるところどうであろうか。たとえ世法で論じても、たとえ仏法で論じても、比丘尼の至るところへ、田夫・野人は、とうてい至ることはできない。錯乱のはなはだしいことよ。小国(わが国)が、はじめてこの跡をのこしたのである。あわれむべきことだ、三界慈父の長子が、小国に来て、ふさがれて至らせてもらえないところがあったとは。

語注

  • 菩薩にもあれ、たとひ声聞にもあれ:菩薩であっても、声聞であっても。
  • 第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷:仏弟子の四衆の順。
  • このくらい:この位(の順)。
  • 天上・人間:天上界と人間界。
  • しかあるを:そうであるから。宗務庁版英訳は "Thus" と訳す。「しかあるを」は「それなのに」の意にもなるので、決めかねる(→読みの分かれるところ)。
  • 転輪聖王:宗務庁版英訳の注は、正義の力によって治める、仏教の理想の王(梵語 cakravartin)とする。訳さずに残した。
  • 釈提桓因:宗務庁版英訳の注は、インドラ(帝釈天)とする。第一回の【7】の天帝釈(てんたいしゃく)と同じ。訳さずに残した。
  • いたらざるところあるべからず:至らないところがあってはならない(どこへでも至るはずだ)。
  • 小国辺土:第三回の【7】の「小国辺地」の語注を参照。訳さずに残した。
  • 国王・大臣の位にならぶべきにあらず:(比丘尼の位は)国王・大臣の位と並べるべきものではない(はるかにまさる)。宗務庁版英訳は「まして小国辺土の国王・大臣の位に並べられるべきではない」と訳す。
  • 田夫・野人・農夫・樵翁:田を耕す男・いなかの人・農夫・木こりの老人。訳さずに残し、語注で意を示した。
  • みだれいる:みだりに(区別なく)入る。
  • たれかいらざるあらん:だれが入らない者があろうか(みな入っている)。
  • 学道・得位:道を学ぶこと・位を得ること。
  • 勝劣つひにいかん:勝ち負け(優劣)はつまるところどうか。
  • 比丘尼のいたらんところえ、田夫・野人、あへていたるべからず:比丘尼の至るところへ、田夫・野人は、とうてい(あえて)至ることはできない。「ところえ」の「え」は助詞「へ」にあたる。「いたるべからず」を、至ることができない(境地として及ばない)と取るか、至ってはならないと取るかで意味が変わる。宗務庁版英訳は "country hicks and rustic clods should not be able to go where the bhikṣuṇīs cannot" と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 錯乱:まちがい乱れること。
  • 小国、はじめてこのあとをのこす:小国が、はじめてこの跡をのこした。宗務庁版英訳の注は、日本は、このならわしのしるしの見られる最初の仏教国である、の意とする。
  • 三界慈父の長子:三界の慈父(釈尊)の長子。宗務庁版英訳の注は、釈尊のもっとも上位の弟子たちの意で、「長子」はふつう長男をいうが、男女どちらをも指しうるとし、「三界の慈父」は『法華経』の火宅のたとえを思わせる、とする。ここでは比丘尼を指すと取った。長子は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • ふさぎていたらしめざるところありき:ふさがれて(ふさいで)至らせないところがあった。

結界にすめるやから#

【8】また、あの結界と称するところに住んでいる者たちは、十悪をおそれることがなく、十重をことごとく犯している。(そこを)ただ造罪の界として、罪を造らない人を嫌うのか。まして逆罪は重いこととされる。結界の地に住む者は、逆罪をも造りかねない。このような魔界は、まさに破るべきである。仏化を学ぶべきである。仏界に入るべきである。(それこそが)まさに仏恩を報ずることであろう。このような古先よ、おまえは結界の旨趣を知っているのか、どうか。だれから相承したのか。だれの印をこうむったのか。

語注

  • かの結界と称するところにすめるやから:あの結界と称するところに住む連中。
  • 十悪:宗務庁版英訳の注は、通例の列挙の一つとして、殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見を挙げる。訳さずに残した。
  • 十重:宗務庁版英訳の注は、おそらく『梵網経』の菩薩の十の重い戒とする。訳さずに残した。
  • つぶさにをかす:ことごとく犯す。
  • ただ造罪界として、不造罪人をきらふか:(そこを)ただ造罪(罪を造る)の界として、罪を造らない人を嫌うのか。宗務庁版英訳も "Do they simply take it as a realm for commission of evil and reject those people who do not commit evil?" と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • いはんや逆罪をおもきこととす:まして逆罪は重いこととされる。宗務庁版英訳の注は、もっとも一般には無間地獄に生まれるという五つの行い(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏の身から血を出す、僧団を破る)をいうとし、ほかに「根本重罪」と呼ばれる列挙もある、とする。逆罪は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 逆罪もつくりぬべし:逆罪をも造りかねない(造るにちがいない)。
  • 魔界:魔の界。訳さずに残した。
  • 仏化:仏の教化。訳さずに残した。
  • 仏恩を報ずる:仏の恩に報いる。
  • かくのごとくの古先:このような古先。【1】の「古先の遺風」の「古先」を受けて、(結界を古先の遺風と称する)その古先、またはそれを言いたてる者たちに呼びかけたものと取った。宗務庁版英訳は "You 'old forebears'" と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 旨趣:本旨、趣意。訳さずに残した。
  • 相承:(師から)受け継ぐこと。訳さずに残した。
  • たれが印をかかうぶる:だれの印(印可、認可)をこうむったのか。宗務庁版英訳の注は、だれがあなたに「結界」を定める権限を与えたのか、の意とする。

諸仏所結の大界#

【9】

書き下し(漢文の部分) 頌(じゅ)に云く、茲(こ)の界は法界(ほっかい)に遍く、無為にして清浄(しょうじょう)を結せり

訳 いわゆる、この諸仏所結の大界に入るものは、諸仏も衆生も、大地も虚空(こくう)も、繋縛を解脱し、諸仏の妙法に帰源するのである。そうであるから、この界をひとたび踏む衆生は、ことごとく仏功徳をこうむるのである。不違越の功徳があり、得清浄の功徳がある。一方を結するとき、すなわち法界がみな結せられ、一重を結するとき、法界がみな結せられるのである。あるいは水をもって結する界があり、あるいは心をもって結界することがあり、あるいは空をもって結界することがある。(これらは)かならず相承相伝があって知るべきことがある。まして、結界のときには、灑甘露ののち、帰命の礼がおわり、乃至(さらに)浄界などののちに、頌にいう。「茲(こ)の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり(この界は法界にあまねく、無為であって清浄を結している)」。

語注

  • 諸仏所結の大界:諸仏の結したところの大界(大いなる界)。宗務庁版英訳の注は、ここではおそらく法界全体をいうが、「大界」は僧院の律の文献では、一つの寺院から一地域までの、僧たちが一つの儀礼の共同体とみなされる範囲をいう術語でもある、とする。大界は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 繋縛を解脱し:しばりから解き放たれ。
  • 帰源する:みなもとに帰る。
  • しかあればすなはち:そうであるから。
  • しかしながら:ことごとく、すべて。
  • 不違越の功徳・得清浄の功徳:宗務庁版英訳の注は、それぞれ仏法にかなう(違わない)功徳と、精神的なけがれを離れる功徳で、前者は理解の上での一致にも倫理の上での順守にも用いられ、後者は『法華経』で諸仏が世に出る理由として挙げられる「清浄を得せしめんが故に」でよく知られる、とする。訳さずに残した。
  • 一方を結する・一重を結する:一方(ひとつの方域)を結する・一重(ひとえ)を結する。宗務庁版英訳の注は、「一重」は、儀礼の場そのものから周辺、さらに大きな僧の区域へと、同心円状に区切られる聖域の層をいうのであろう、とする。法界は訳さずに残した。
  • 水をもて結する界・心をもて結界する・空をもて結界する:宗務庁版英訳の注は、「水をもて」は次の段の「甘露」で聖域を浄めることを指すのであろうとし、「空をもて」は「空(くう)をもって」とも取れる、とする。
  • かならず相承相伝ありてしるべきことあり:かならず相承・相伝があって(それによって)知るべきことがある。宗務庁版英訳は「かならず、それによって知られる相承相伝がある」と訳す(→読みの分かれるところ)。相承相伝は訳さずに残した。
  • いはんや結界のとき:まして(そのうえ)結界(の作法)のときには。
  • 灑甘露:甘露をそそぐこと。宗務庁版英訳の注は、「甘露」は梵語 amṛta(不死)の訳で、神々の飲みものをいうが、ここでは儀礼の場を浄める香水を指す、とする。訳さずに残した。
  • 帰命の礼、をはり:帰命の礼(身をなげ出して礼拝すること)が終わり。
  • 乃至浄界等ののち:さらに浄界(界を浄めること)などののちに。宗務庁版英訳の注は、「浄界」の正確な意は不明で、浄めの儀礼全体の完了か、その最後の作法を指すのかもしれない、とする。浄界は訳さずに残した。
  • 頌(じゅ)に云く、茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり:本山版に拠る活字本に付けられた読み下し。宗務庁版英訳の注は、この頌の典拠は不明で、英訳は仮の訳であるとする。宗務庁版英訳は「この界と遍き法界とは、無為にして清浄と結せられている」の意に訳す。訳文は活字本の読み下しに従った。無為は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

【10】この旨趣を、いま、日ごろ結界と称している古先老人は、知っているのか、どうか。思うに、おまえたちは、結(結界)の中に遍法界が結せられていることを、知ることができないのであろう。わかった。おまえは声聞の酒に酔って、小界を大界と思っているのである。願わくは、日ごろの迷酔からすみやかに醒めて、諸仏の大界は遍界に違越すべきではない(遍界とたがわない)(と知り)、済度摂受によって一切衆生がみな化をこうむるであろう功徳を、礼拝恭敬すべきである。だれが、これを得道髄と言わないことがあろうか。

語注

  • ひごろ結界と称する古先老人:日ごろ結界と称している古先老人(たち)。【8】の「古先」への呼びかけを受ける。古先老人は訳さずに残した。
  • なんだち:おまえたち。
  • 結の中に遍法界の結せらるること:結(結界)の中に遍法界(あまねき法界)が結せられていること。宗務庁版英訳の注は、聖域を区切るとき、区切られるのは全宇宙である、の意とする。遍法界は訳さずに残した。
  • しるべからざるなり:知ることはできないのであろう。
  • しりぬ:わかった(見て取った)。
  • 声聞の酒にえふて:第四回の【6】の「声聞の酒」の語注を参照。
  • 小界を大界とおもふなり:(結界された)小さな界を(諸仏の)大界と思っている。小界・大界は訳さずに残した。
  • ねがはくは:願わくは。
  • 迷酔:迷い酔うこと。
  • 諸仏の大界の、遍界に違越すべからず:諸仏の大界は、遍界(あまねき世界)に違越すべきではない(遍界とたがわず、こえない)。「すべからず、」は終止形なので、ここでいったん意味が切れる、と取り、「(と知り)」を補った(→読みの分かれるところ)。遍界・違越は訳さずに残した。
  • 済度摂受に一切衆生みな化をかうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし:済度摂受(救い渡し、おさめとること)によって、一切衆生がみな化(教化)をこうむるであろう功徳を、礼拝恭敬すべきである。「かうぶらん」を「功徳」にかけた。済度摂受・化・礼拝恭敬は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 得道髄:道の髄を得ること。宗務庁版英訳の注は、「得道」と「得髄」の二語を一つに合わせたもの、とする。巻名「礼拝得髄(らいはいとくずい)」と、巻頭の「これ得髄の面目(めんもく)なり」(第一回の【1】)に呼応する。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。

巻末題#

訳文

『正法眼蔵』礼拝得髄(の巻)

語注

  • 巻末題:巻の終わりを示す題。本書の底本の巻末題には巻番号がない。
  • 巻の番号:宗務庁版英訳は、七十五巻本の本文の終わり(第三回の【5】のあと)に、七十五巻本の番号を付した巻末題「正法眼藏禮拜得髓第二十八」を置き、付録の終わりに、番号のない「正法眼藏禮拜得髓」を置く。

奥書#

訳文

書き下し 延応庚子、清明の日に記す。観音導利興聖宝林寺。

延応庚子(1240年)、清明の日に記す。観音導利興聖宝林寺(において)。

語注

  • 書き下しは本書の読みで、底本に付された訓ではない。「清明日記」を「清明の日に記す」と読んだ(→読みの分かれるところ)。
  • 延応庚子:延応の、庚子(かのえ・ね)の年。1240年にあたる。本書の底本の奥書は、年号のあとに年数を記さず、干支だけを記す。宗務庁版英訳の解題は、この巻(七十五巻本の形)を1240年春、興聖寺でのものとする。
  • 清明:宗務庁版英訳の注は、字義は「清く明らか」で、古い太陽暦を二十四に分けた節気の第五にあたる節日で、春分から十五日目にあたる、とする。
  • 観音導利興聖宝林寺:寺名。興聖寺の正式の名と取った(第七巻「洗浄」の奥書の語注にそろえた)。宗務庁版英訳は "Kannon Dōri Kōshō Hōrin Monastery" と訳す。
  • この奥書の位置:宗務庁版英訳は、この奥書を龍門寺本のものとして、七十五巻本の本文の終わり(第三回の【5】のあと)に置く。本書の底本では、七十五巻本にない部分を含む本文全体のあとに置かれている(→読みの分かれるところ)。
  • 本山版の奥書のあとにある募刻識語は、本文ではないので訳していない。

解説#

はじめに――「また、日本国に、ひとつのわらひごとあり」#

「礼拝得髄」の巻は、五回に分けて読んでまいりました。今回は、その最終回です。

ふりかえっておきますと、第一回では、巻のはじめに「修行阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の時節には、導師をうること、もともかたし」(第一回の【1】)と示され、導師に出会ったならば万縁をなげすてて精進(しょうじん)弁道(べんどう)すべきこと、髄をうること・法をつたうることは至誠(しせい)と信心(しんじん)によること、そして「ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり」(第一回の【4】)と、法をおもくする志気が説かれました。第二回では、趙州真際(じょうしゅうしんさい)大師の行脚のことば、末山(まっさん)了然(りょうねん)尼を礼拝して師資の礼をとった志閑(しかん)禅師、廨院主(かいいんじゅ)に選ばれ十七人の蜀僧(しょくそう)を導いた妙信尼(みょうしんに)の話が引かれました。第三回では、「いづれも得法を敬重(きょうじゅう)すべし、男女(なんにょ)を論ずることなかれ。これ仏道極妙(ごくみょう)の法則なり」(第三回の【4】)と示され、第四回では、女流(にょりゅう)を貪婬所対(とんいんしょたい)の境とみること、「ながく女人をみることなからん」と願うことが退けられ、「おほよそ境をみては、あきらむることをならふべし」(第四回の【10】)と言われました。

今回読むのは、次のところです。

  • 【1】 日本国の結界というわらひごと
  • 【2】 如来在世の仏会には四衆あり
  • 【3】〜【6】 四果・妙覚と、天女・神女
  • 【7】 仏弟子第二の位
  • 【8】 結界にすめるやから
  • 【9】 諸仏所結の大界
  • 【10】 小界を大界とおもふ――巻の結び
  • 巻末題・奥書

この回の範囲は、すべて、七十五巻本にはない部分にあたります。宗務庁版英訳の解題によれば、この巻は七十五巻本では第二十八にあたり、『秘密正法眼蔵』にはおよそ二倍の長さの形で収められていて、本山版はその増えた部分を含む形でこの巻を収めている、とされます。本書の底本とする本山版では、本文は第三回の途中から切れ目なく続いていますので、本書もそのまま一続きの本文として読んでいます。同じ解題は、この巻が、ある種の仏教の聖域を女人の入れないところと定める、道元禅師の時代の日本に広く見られたならわしへの批判で結ばれている、と述べています。

この回で取りあげられるのは、比丘尼や女人を入れない「結界」です。ここで、はじめにお断りしておきたいことがあります。本文は、「日本国に、ひとつのわらひごとあり」として、結界というならわしとその考え方を論じていますが、どこの山、どこの寺とは名を挙げていません。本書でも、本文にない地名や寺名を補うことはいたしません。また、結界という作法そのものについて、他の宗派でどのように説かれ、行われてきたかを説明することも、本書ではいたしません。本文が何を言っているのかを、本文の言葉に沿って確かめることに努めます。

本文には、「わらひごと」「至愚」「天魔界」「魔界」といった語が出てきます。それらは本文の語ですので、本書では言いかえず、そのまま示します。そのうえで、本文の言うところを強めることも、和らげることもせずに読んでまいります。

読み方の手順は、これまでと同じです。まず、何が言われているかを字面のうえで確かめ、そのうえで、それが何を指して言われているのかを考えます。今回の範囲にも、読みの決めにくい箇所が少なくありません。それらは末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。解説でも、それらの箇所では、読みの幅を残したまま、訳文の読みに沿って要点を述べるにとどめます。そのうえで、坐禅や日々の修行、暮らしとのつながりを、一つの受けとめ方として申し添えてまいります。

日本国の結界というわらひごと〔【1】〕#

「あるひは結界の境地と称し、あるひは大乗の道場と称して」#

「また、日本国に、ひとつのわらひごとあり。いはゆる、あるひは結界の境地と称し、あるひは大乗の道場と称して、比丘尼・女人等を来入せしめず」(【1】)。

また、日本の国には、ひとつの笑いごとがある。すなわち、あるいは結界の境地と称し、あるいは大乗の道場と称して、比丘尼や女人などを来り入らせないのである、と。

「結界」は、字のとおりには、界を結ぶこと、境を区切ることです。宗務庁版英訳の注は、「結界の地」は、儀礼の上で清浄とされ、ある種の人や物を入れない聖域で、「結界」の語はさまざまな聖域に広く用いられ、とくに女人を入れないものは「女人結界」と呼ばれる、としています。

ここで目にとめておきたいのは、本文が問題にしているのが、結界ということばや作法そのものではなく、「比丘尼・女人等を来入せしめず」ということだ、という点です。あとの【9】の段で、禅師は「諸仏所結の大界」を説き、結界の作法の頌を引いて、結界のほんとうの旨趣を示されます。結界そのものが退けられているのではないことは、巻の終わりまで読むと、字面から確かめられます。この段で「わらひごと」と言われているのは、結界と称して比丘尼・女人を入れない、そのならわしのことです。

「邪風ひさしくつたはれて」#

「邪風ひさしくつたはれて、人、わきまふることなし。稽古の人、あらためず、博達の士も、かんがふることなし」(【1】)。

この邪風が久しく伝わって、人はそれをわきまえることがない。古を学ぶ人も改めず、ひろく物事に通じた人も考えることがない、と。

「邪風」という語は、第三回にも出てきていました。わが国では、帝者のむすめや大臣のむすめの家門に、僧侶が走りよって頭をはきものにつけて拝む、ということについて、禅師は、「小国辺地にうまれぬるに、かくのごときの邪風ともしらざることは。天竺・唐土にはいまだなし、我国のみなり、かなしむべし」(第三回の【7】)と言われていました。そこでも、ここでも、問題にされているのは、それが邪風であることを人が知らない、わきまえない、ということです。長く伝わっているために、だれも疑わない。学ぶ人も、ものに通じた人も、改めず、考えない。

「わらはば人の腸もたえぬべし」#

「あるひは権者の所為と称し、あるひは古先の遺風と号して、さらに論ずることなき、わらはば人の腸もたえぬべし」(【1】)。

あるいは権者のしわざと称し、あるいは古先の遺風と号して、まったく論じることがない。これを笑うならば、人の腸もちぎれてしまうにちがいない、と。

結界を立てる人々は、それを、権者のしたことだ、あるいは昔の先人ののこしたならわしだ、と言って、それ以上論じない。禅師はそのことを、笑えば腸もちぎれるほどだ、と言われます。

この「わらはば人の腸もたえぬべし」を、訳文では、腹がよじれるほど笑うべきことだ、と、あまりにばかげている、という向きに取りました。けれども、笑おうにも、あまりのことに腸がちぎれる、という、悲しみや憤りの含みを読むこともできます。本書ではどちらにも決めずにおきます。

第三回のはじめには、「村人の身心(しんじん)に沈溺(ちんでき)せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや仏法には、いふにたらず」(第三回の【1】)とありました。世俗においてさえ笑われるようなことが、仏法においてはなおさら論ずるにたりない、と。巻の後半の結界の段が「わらひごと」という語で始まることを、第三回のこの言葉と並べて受けとめることもできるかもしれません。もとより、二つの箇所を結びつけるのは、巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

「権者とはなにものぞ」#

「権者とはなにものぞ、賢人か聖人か、神か鬼か、十聖か三賢か、等覚か妙覚か」(【1】)。

権者とは何者か。賢人か、聖人か。神か、鬼か。十聖か、三賢か。等覚か、妙覚か、と。

宗務庁版英訳の注は、「権者」を、仏・菩薩などが仮にあらわれた姿で、「権現」「権化」の名でよく知られるもの、としています。結界を立てたのは権者だ、と言うならば、その権者とはいったい何者なのか。禅師は、賢人・聖人、神・鬼、十聖・三賢、等覚・妙覚と、さまざまな位を挙げて問われます。

ここに「十聖か三賢か」と出てくることにも、目をとめておきたいと思います。第一回では、不聞仏法(ふもんぶっぽう)の愚痴(ぐち)のたぐいが思うこととして、「われは三賢十聖(さんけんじっしょう)なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」(第一回の【7】)が挙げられ、第二回では、妙信尼の一言で十七人の僧がみな省悟したことについて、「まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず、仏祖嫡嫡(てきてき)の道業(どうごう)なり」(第二回の【23】)と言われていました。位の高さを言いたてることが、得法を敬うことの妨げにはならない、という筋が、巻のはじめから通っているようにも読めます。もとより、これは巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

「ふるきをあらためざるべくは」#

「また、ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか」(【1】)。

また、古いものを改めてはならないというのならば、生死流転をも捨ててはならないというのか、と。

古くから伝わっているから改めない、と言うならば、生死流転ほど古くからのものはない。それも捨ててはならないのか。この問いは、古いということ、長く伝わってきたということ自体は、それを守る理由にはならない、という向きに読めます。

ただ、禅師は、古いものをすべて退けておられるわけではありません。この巻でも、第二回では志閑禅師のことばを聞いて「昔日のあとを慕古(もこ)するに」(第二回の【17】)と言われ、第三回では、大宋国で比丘尼が住持となるときに衆僧がみな上参して聴法(ちょうぼう)することを「これ古来の規矩(きく)なり」(第三回の【3】)、得法の者を供養恭敬(くようくぎょう)することを「これすなはち仏道の古儀なり」(第三回の【5】)と言われていました。そして、この回の【8】【9】では、「たれよりか相承せりし」「かならず相承相伝ありてしるべきことあり」と、相承が問われます。古いかどうかではなく、仏祖から正しく相承されたものかどうか。そのように受けとめることもできるでしょう。

如来在世の仏会には四衆あり〔【2】〕#

「いはんや大師釈尊、これ無上正等覚なり」#

「いはんや大師釈尊、これ無上正等覚なり。あきらむべきは、ことごとくあきらむ、おこなふべきは、ことごとくこれをおこなふ、解脱すべきは、みな解脱せり。いまのたれか、ほとりにもおよばん」(【2】)。

まして、大師釈尊は無上正等覚である。あきらめるべきことはことごとくあきらめ、行うべきことはことごとく行い、解脱すべきことからはみな解脱している。今のだれが、そのそばにも及ぼうか、と。

段のはじめの「いはんや」は、前の段の権者・古先とくらべて、まして釈尊は、ともちだす言葉と訳文では取りましたが、そもそも、言うまでもなく、という向きに取ることもできます。いずれにしても、ここで禅師は、権者や古先よりも、まず釈尊のなさったことを見よ、と言われているように読めます。

「在世の仏会に、みな……四衆あり」#

「しかあるに、在世の仏会に、みな比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆あり、八部あり、三十七部あり、八万四千部あり」(【2】)。

それなのに、その釈尊の在世の仏会には、どれにも比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷などの四衆があり、八部があり、三十七部があり、八万四千部があった、と。

完全なさとりを得て、あきらむべきをあきらめ、行うべきを行った釈尊。その釈尊の説法の会座には、比丘尼も、在家の女性である優婆夷も、ともにいた。禅師の論は、ここに足場を置いています。

「八部」について、宗務庁版英訳の注は、大乗の経典で仏の説法の聴衆として現れる八種の存在の通例の列挙とし、「八万四千部」は仏が教えるあらゆる衆生とする、としています。「三十七部」については、同じ注が一つの見方を示しつつ断定はしておらず、本書でもその比定には立ち入りません。いずれにしても、仏会には、人だけでなく、あらゆるたぐいのものが集まっていた、ということが言われています。

「みなこれ仏界を結せること、あらたなる仏会なり」#

「みなこれ仏界を結せること、あらたなる仏会なり。いづれの会か比丘尼なき、女人なき、八部なき」(【2】)。

これらはみな、仏界を結したものであって、あらたな仏会である。どの会に、比丘尼がいなかったか、女人がいなかったか、八部がいなかったか、と。

前半の一句は、読みの決めにくいところです。「あらたなる」を、あらたか・明らかな、と取るのか、新しい、と取るのか。宗務庁版英訳は前の向きで、明らかな仏会、と訳しています。また、「仏界を結す」という言い方に、仏会そのものがほんとうの結界である、という含みを読み、あとの【9】の「諸仏所結の大界」へのつながりを見ることもできるでしょう。本書では、そのどれか一つに決めずにおきます。

ただ、どの読みに立つにしても、続く問いの向きははっきりしています。「いづれの会か比丘尼なき、女人なき」。釈尊の仏会のどこに、比丘尼のいない会、女人のいない会があったか、と。

「天魔界なるがゆえに」#

「如来在世の仏会よりもすぐれて清浄ならん結界をば、われらねがふべきにあらず、天魔界なるがゆえに。仏会の法儀は、自界他方、三世千仏、ことなることなし。ことなる法あらんは、仏会にあらずとしるべし」(【2】)。

如来在世の仏会よりもすぐれて清浄であるような結界を、われらは願うべきではない。それは天魔界であるからである。仏会の法儀は、この世界でも他方の世界でも、三世の千仏でも、異なることはない。異なる法があるならば、それは仏会ではないと知るべきである、と。

比丘尼・女人を入れないことによって清浄を保とうとする結界は、如来在世の仏会よりも清浄であろうとすることになる。釈尊の仏会には比丘尼も女人もいたのだから。そのような結界は願うべきではない、と禅師は言われ、その理由を「天魔界なるがゆえに」と示されます。

そして、仏会の法儀は、どの世界でも、過去・現在・未来のどの仏のもとでも異ならない、と。ここで「法儀」という語が用いられていることにも、目をとめておきたいと思います。どこかの土地で、その土地のならわしとして加えられた決まりが、仏会の法儀と異なるならば、それは仏会ではない。ここでも、問われているのは、それが仏の会座の法儀と同じかどうか、ということです。

四果・妙覚と、天女・神女〔【3】〜【6】〕#

「極位の功徳は差別せず」〔【3】【4】〕#

「いはゆる四果は極位なり。大乗にても小乗にても、極位の功徳は差別せず。しかあるに、比丘尼の、四果を証するおほし」(【3】)。

いわゆる四果は極位である。大乗においても小乗においても、極位の功徳は差別しない。そうであって、比丘尼で四果を証する者は多い、と。

「四果」は、声聞の修行の四つの段階の果で、その最後が阿羅漢果です。その四果が極位、最上の位であり、極位の功徳は、大乗でも小乗でも差別しない、と言われます。この「差別せず」を、訳文では、大乗・小乗のあいだで差別はない、と取りましたが、極位の功徳は男女などによって差別されない、という含みを読むこともできます。宗務庁版英訳の注は、この一句を、大乗の多くの文献の説くところに照らせばかなり意外な主張であるとし、阿羅漢を仏と等しく扱うことは「阿羅漢」の巻にも見られる、としています。

第三回では、「阿羅漢となれる比丘尼のあるには、四果にしたがふ功徳みなきたる」(第三回の【6】)と言われ、その功徳は、三界の諸天もみなうやまうところだ、と言われていました。この段は、それを受けて、比丘尼で四果を証する者は多い、と言うのです。

続く【4】は、「三界のうちにも、十方の仏土にも、いづれの界にかいたらざらん。たれかこの行履をふさぐことあらん」(【4】)。三界の内でも、十方の仏土でも、どの界に至らないことがあろうか。だれがこの行履をふさぐことがあろうか、と。四果を証した比丘尼の行履、そのおこないとあゆみは、三界にも十方の仏土にも至る。それを、だれがふさぐことができるのか、と問われます。

「女人すでに作仏す」〔【5】〕#

「また、妙覚は無上位なり。女人すでに作仏す、諸方いづれのものか究尽せられざらん。たれかこれをふさぎて、いたらしめざらんと擬せん。すでに遍照於十方の功徳あり、界畔いかがせん」(【5】)。

また、妙覚は無上の位である。女人はすでに作仏する。諸方の、どのものが究め尽くされないことがあろうか。だれがこれをふさいで、至らせまいとするだろうか。すでに「遍く十方を照らす」功徳がある。界畔、境界のくぎりを、どうしようというのか、と。

【3】の四果から、ここでは、さらに妙覚、仏のさとりそのものへと進みます。「女人すでに作仏す」。女人はすでに仏と成っている、と。

この段にも、読みの幅があります。「女人すでに作仏す」を、事実としてそう述べるものと取るか、女人がすでに作仏する以上は、と次の句へ続けて取るか。宗務庁版英訳の注は、後の読みもありうるとし、道元禅師はここで、第三回の「たとへば竜女成仏のごとし」(第三回の【5】)に見えた竜女の例を念頭においているのであろう、としています。同じ注は、竜女は男子の身に変じてから成仏したとされることにもふれています。本書では、注の指摘を記すにとどめ、それ以上立ち入りません。

また、「諸方いづれのものか究尽せられざらん」の「諸方」を、訳文では、十方、あらゆるところと取り、作仏した女人の至らない、究め尽くさないところはない、の意に取りました。

そして段の結びは、「すでに遍照於十方の功徳あり、界畔いかがせん」です。宗務庁版英訳の注は、「遍く十方を照らす」は、仏の、とくにあまねく行きわたる法身をいう通例の言い方で、道元禅師はここで『法華経』で竜女が仏のさとりをたたえる偈の句を思い起こしているのであろう、としています。あまねく十方を照らす功徳に対して、界畔、境のくぎりをどうしようというのか。十方を照らすものを、ここまでと線を引いて区切ることはできない、という向きに読めます。結界とは、まさに界畔を立てることでした。そのことを思い合わせると、この「界畔いかがせん」の一句は、この回全体のなかで、とくに心にとめておきたいところであるように思われます。

「天女・神女も、いまだ断惑の類にあらず」〔【6】〕#

「また、天女をもふさぎていたらしめざるか、神女をもふさぎていたらしめざるか。天女・神女も、いまだ断惑の類にあらず、なほこれ流転の衆生なり。犯罪あるときはあり、なきときはなし。人女・畜女も、罪あるときはあり、罪なきときはなし」(【6】)。

また、天女をもふさいで至らせないのか。神女をもふさいで至らせないのか。天女・神女も、まだ惑いを断った者のたぐいではなく、やはり流転の衆生である。犯罪があるときにはあり、ないときにはない。人間の女・畜生の女も、罪があるときにはあり、罪がないときにはない、と。

ここで禅師は、人の女人だけでなく、天女・神女、さらに畜生の女にまで目を広げて問われます。天女・神女もまた惑いを断っていない流転の衆生である。罪は、あるときにはあり、ないときにはない。

この「犯罪あるときはあり、なきときはなし」を、訳文では、罪は行いによってあるときにはあり、ないときにはないのであって、女であることによって罪があるのではない、という向きに取りました。けれども、天女・神女も流転の衆生として罪をもつこともある、それでも仏会に参ずるのだ、と取ることもできます。

第四回では、「また、むかし犯罪ありしとてきらはば、一切、菩薩をもきらふべし」(第四回の【7】)と言われ、また「もし未断惑(みだんわく)のときは、男子・女人おなじく未断惑なり。断惑証理(だんわくしょうり)のときは、男子・女人、簡別(けんべつ)さらにあらず」(第四回の【6】)と言われていました。未断惑であることも、罪のあるなしも、男女によって分かれるのではない。この段の天女・神女の問いは、その筋道を、天・神・畜生のたぐいにまで広げたもの、と受けとめることもできるでしょう。

「ただこれ誑惑世間人の至愚なり」#

「天のみち、神のみち、ふさがん人はたれぞ。すでに三世の仏会に参詣す、仏所に参学す。仏所・仏会にことならん、たれか仏法と信受せん。ただこれ誑惑世間人の至愚なり。野干の、窟穴を人にうばはれざらんとをしむよりも、おろかなり」(【6】)。

天の道、神の道をふさごうとする人はだれか。(彼女たちは)すでに三世の仏会に参詣し、仏所で参学している。仏所・仏会と異なるものを、だれが仏法と信受しようか。これはただ、誑惑世間人の至愚である。野干が、自分の巣穴を人に奪われまいと惜しむのよりも、愚かである、と。

「すでに三世の仏会に参詣す」の主語は、本文に示されていません。宗務庁版英訳の注は、天・神とも、それらの女とも、より広く女たちとも取れる、としています。訳文では「彼女たち」と補いましたが、これも一つの読みです。

「誑惑世間人の至愚」も、世間の人を誑惑する者の至愚、と取るか、誑惑された世間の人の至愚、と取るかで、向きが変わります。宗務庁版英訳の注は、「世間の人を誑惑する」の句が『法華経』に見えるとし、ここで「これ」が指すのは、女人を入れない区域を設けるという考えとならわしそのものであろう、としています。

段の終わりの「野干」は、狐のたぐいです。第一回には、「むかし、野干を師として礼拝問法する天帝釈あり」(第一回の【7】)とありました。天帝釈が野干を師として礼拝し法を問うた、と。法をおもくするならば、野干をも師として礼拝する。その巻のはじめの野干と、この段の、自分の巣穴を惜しむ野干とが、巻の両端に置かれていることにも、目をとめておきたいと思います。もとより、二つの箇所を結びつけるのは、巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

仏弟子第二の位〔【7】〕#

「第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷」#

「また、仏弟子の位は、菩薩にもあれ、たとひ声聞にもあれ、第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷、かくのごとし。このくらい、天上・人間ともにしれり、ひさしくきこえたり」(【7】)。

また、仏弟子の位は、菩薩であっても、声聞であっても、第一が比丘、第二が比丘尼、第三が優婆塞、第四が優婆夷、このとおりである。この位は、天上界・人間界ともに知っており、久しく聞こえている、と。

この段で禅師は、仏弟子の位の順に目を向けられます。四衆の順で、比丘尼は第二の位にある。それは天上でも人間でもよく知られている。

「転輪聖王よりもすぐれ、釈提桓因よりもすぐるべし」#

「しかあるを、仏弟子第二の位は、転輪聖王よりもすぐれ、釈提桓因よりもすぐるべし、いたらざるところあるべからず。いはんや小国辺土の国王・大臣の位にならぶべきにあらず」(【7】)。

そうであるから、仏弟子第二の位は、転輪聖王よりもすぐれ、釈提桓因よりもすぐれているはずである。至らないところがあってはならない。まして、小国辺土の国王・大臣の位と並べるべきものではない、と。

段のはじめの「しかあるを」を、訳文では、宗務庁版英訳にならって「そうであるから」と取りましたが、「それなのに」の意に取ることもできます。

宗務庁版英訳の注は、転輪聖王を、正義の力によって治める仏教の理想の王とし、釈提桓因をインドラ、帝釈天としています。釈提桓因は、第一回で野干を師として礼拝した「天帝釈」と同じです。理想の王よりも、天の帝よりもすぐれた位。それが仏弟子第二の位、比丘尼の位である、と言われます。

「田夫・野人・農夫・樵翁みだれいる」#

「いま、比丘尼いるべからず、といふ道場をみるに、田夫・野人・農夫・樵翁みだれいる。いはんや国王・大臣・百官・宰相、たれかいらざるあらん」(【7】)。

いま、比丘尼は入ってはならない、という道場を見ると、田夫・野人・農夫・樵翁が、みだりに入っている。まして国王・大臣・百官・宰相で、だれが入らない者があろうか、と。

比丘尼を入れない、という道場に、ほかの人々は区別なく入っている。ここで挙げられているのは、そのような道場の、本文の時代のありさまです。

「田夫等と比丘尼と、学道を論じ、得位を論ぜんに、勝劣つひにいかん。たとひ世法にて論ずとも、たとひ仏法にて論ずとも、比丘尼のいたらんところえ、田夫・野人、あへていたるべからず」(【7】)。

田夫などと比丘尼とを、学道について論じ、得位について論じるならば、勝劣はつまるところどうであろうか。たとえ世法で論じても、たとえ仏法で論じても、比丘尼の至るところへ、田夫・野人は、とうてい至ることはできない、と。

ここで禅師が論の基準として挙げておられるのは、「学道を論じ、得位を論ぜんに」、すなわち、道を学ぶことと、仏弟子としての位を得ることです。比丘尼は、出家して道を学び、仏弟子第二の位にある。その比丘尼が入れず、ほかの者が入っている、という逆さまのありさまが指摘されています。

この「比丘尼のいたらんところえ、田夫・野人、あへていたるべからず」は、読みの分かれるところです。訳文では、比丘尼の至る境地へ、田夫・野人はとうてい至れない、と取りました。けれども、比丘尼が至るはずのところに田夫・野人が至ってよいはずがない、と取ることも、宗務庁版英訳のように、比丘尼の入れないところに田夫・野人が入れるはずがない、と取ることもできます。本書では、どれか一つに決めずにおきます。

「小国、はじめてこのあとをのこす」#

「錯乱のはなはだしき、小国、はじめてこのあとをのこす。あはれむべし、三界慈父の長子、小国にきたりて、ふさぎていたらしめざるところありき」(【7】)。

錯乱のはなはだしいことよ。小国が、はじめてこの跡をのこしたのである。あわれむべきことだ、三界慈父の長子が、小国に来て、ふさがれて至らせてもらえないところがあったとは、と。

宗務庁版英訳の注は、「小国、はじめてこのあとをのこす」を、日本は、このならわしのしるしの見られる最初の仏教国である、の意としています。第三回の「天竺・唐土にはいまだなし、我国のみなり」(第三回の【7】)と、同じ向きの言い方です。第三回で「小国辺地」と言われていたこととも、この段の「小国辺土」「小国」は響きあっています。宗務庁版英訳の注は、「小国辺地」を、仏教世界の辺境にある取るに足りない国の意で、道元禅師の時代の日本の仏教者が日本をいうのによく用いた言い方としていました。

「三界慈父の長子」について、宗務庁版英訳の注は、釈尊のもっとも上位の弟子たちの意で、「長子」はふつう長男をいうが男女どちらをも指しうる、としています。訳文では、仏弟子第二の位にある比丘尼を指すと取りましたが、仏弟子一般を指すと取ることもできます。いずれにしても、三界の慈父である釈尊の子が、この国では、ふさがれて至らせてもらえないところがあった、と言われています。

結界にすめるやから〔【8】〕#

「ただ造罪界として、不造罪人をきらふか」#

「また、かの結界と称するところにすめるやから、十悪をおそるることなし、十重つぶさにをかす。ただ造罪界として、不造罪人をきらふか。いはんや逆罪をおもきこととす。結界の地にすめるもの、逆罪もつくりぬべし」(【8】)。

また、あの結界と称するところに住んでいる者たちは、十悪をおそれることがなく、十重をことごとく犯している。そこをただ罪を造る界として、罪を造らない人を嫌うのか。まして逆罪は重いこととされる。結界の地に住む者は、逆罪をも造りかねない、と。

ここで禅師の目は、結界の外に置かれた人々から、結界の内に住む人々へと向けられます。宗務庁版英訳の注は、十悪を、殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見の通例の列挙とし、十重を、おそらく『梵網経』の菩薩の十の重い戒としています。

「ただ造罪界として、不造罪人をきらふか」は、結界の地を罪を造る界として、罪を造らない人、すなわち比丘尼・女人を嫌うのか、と訳文では取りました。けれども、皮肉として、罪を造る者だけの界にしようとするのか、と取ることもできます。続く「いはんや逆罪をおもきこととす」の働きや、「逆罪」がどの罪の列挙を指すかについても、幅があります。宗務庁版英訳の注は、もっとも一般には無間地獄に生まれるという五つの行いをいうとし、ほかに「根本重罪」と呼ばれる列挙もある、としています。

【6】では、罪は「あるときはあり、なきときはなし」と言われていました。【2】では、如来在世の仏会よりもすぐれて清浄であろうとする結界が退けられていました。比丘尼・女人を入れずに清浄を保とうとしながら、その結界の内に住む者が、十悪をおそれず十重を犯しているならば、結界は清浄を守るものになっていない。字面からは、そのような論の運びが読みとれます。

「かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし」#

「かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし。仏化を学すべし、仏界にいるべし、まさに仏恩を報ずるにてあらん」(【8】)。

このような魔界は、まさに破るべきである。仏化を学ぶべきである。仏界に入るべきである。それこそが、まさに仏恩を報ずることであろう、と。

【2】で「天魔界なるがゆえに」と言われたことが、ここで「魔界」として受けられます。そして、その魔界は破るべきだ、と言われる。

ここで目にとめておきたいのは、「まさにやぶるべし」のあとに、すぐ「仏化を学すべし、仏界にいるべし」と続いていることです。破ることだけが言われているのではありません。仏の教化を学び、仏の界に入る。その「仏界」は、【2】の「仏界を結せること」、そして次の【9】の「諸仏所結の大界」へとつながってゆく言葉であるように読めます。そうすることが、まさに仏恩に報いることだ、と。

「たれよりか相承せりし、たれが印をかかうぶる」#

「かくのごとくの古先、なんぢ結界の旨趣をしれりやいなや。たれよりか相承せりし、たれが印をかかうぶる」(【8】)。

このような古先よ、おまえは結界の旨趣を知っているのか、どうか。だれから相承したのか。だれの印をこうむったのか、と。

「古先」は、【1】の「古先の遺風」を受けています。結界を立てたとされる昔の先人への呼びかけと取ることも、結界を「古先の遺風」と言いたてる今の者たちへの呼びかけと取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、「たれが印をかかうぶる」を、だれがあなたに「結界」を定める権限を与えたのか、の意としています。

ここで問われているのは、相承と印です。結界の旨趣、その本旨を、だれから受け継いだのか。だれの認可を受けたのか。

法が師から弟子へと正しく伝えられることは、この巻でも、くり返し言われてきたことでした。第一回は「導師をうること、もともかたし」と始まり、髄をうること、法をつたうることが説かれ、第二回では妙信尼の為道(いどう)が「仏祖嫡嫡の道業なり」(第二回の【23】)と言われ、第三回では「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし」(第三回の【5】)と言われていました。【1】で、古いものだから改めない、という態度が問われていたことを思い合わせると、禅師がここで問うておられるのは、古いかどうかではなく、仏祖からの相承があるかどうかである、と受けとめることもできるでしょう。

諸仏所結の大界〔【9】〕#

「この諸仏所結の大界にいるものは」#

「いはゆる、この諸仏所結の大界にいるものは、諸仏も衆生も、大地も虚空も、繋縛を解脱し、諸仏の妙法に帰源するなり。しかあればすなはち、この界をひとたびふむ衆生、しかしながら仏功徳をかうぶるなり。不違越の功徳あり、得清浄の功徳あり」(【9】)。

いわゆる、この諸仏の結したところの大界に入るものは、諸仏も衆生も、大地も虚空も、しばりから解き放たれ、諸仏の妙法に、そのみなもとに帰るのである。そうであるから、この界をひとたび踏む衆生は、ことごとく仏の功徳をこうむるのである。不違越の功徳があり、得清浄の功徳がある、と。

ここで、この回の論は大きく向きを変えます。【1】から【8】まで、比丘尼・女人を入れない結界の非が論じられてきました。この【9】では、禅師はあらためて、ほんとうの結界とは何か、を示されます。それが「諸仏所結の大界」、諸仏が結したところの大いなる界です。

「大界」について、宗務庁版英訳の注は、ここではおそらく法界全体をいうが、僧院の律の文献では、僧たちが一つの儀礼の共同体とみなされる範囲をいう術語でもある、としています。法界全体と取るか、律の術語としての大界を、諸仏の結したものとして言いひろげたものと取るか、読みには幅があります。

そのうえで、字面から確かめられることがあります。この大界に入るものは、「諸仏も衆生も、大地も虚空も」と言われています。そこには、比丘も比丘尼も、男子も女人も、という区別が立てられていません。そして、この界をひとたび踏む衆生は、ことごとく仏の功徳をこうむる、と。入れない者を定めるのが結界なのではなく、踏む者がみな功徳をこうむるのが諸仏の大界である。そう読むこともできるでしょう。

宗務庁版英訳の注は、「不違越の功徳」を、仏法にかなう、違わない功徳とし、「得清浄の功徳」を、精神的なけがれを離れる功徳で、『法華経』で諸仏が世に出る理由として挙げられる「清浄を得せしめんが故に」でよく知られるもの、としています。比丘尼・女人を入れないことによって清浄を保とうとする結界に対して、ここでは、界を踏む者が清浄を得る、と言われているのです。

「一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ」#

「一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ、一重を結するとき、法界みな結せらるるなり。あるひは水をもて結する界あり、あるひは心をもて結界することあり、あるひは空をもて結界することあり。かならず相承相伝ありてしるべきことあり」(【9】)。

一方を結するとき、すなわち法界がみな結せられ、一重を結するとき、法界がみな結せられるのである。あるいは水をもって結する界があり、あるいは心をもって結界することがあり、あるいは空をもって結界することがある。これらは、かならず相承・相伝があって知るべきことである、と。

一つの区切りを結ぶことが、そのまま法界全体を結ぶことである。ここが、この段の中心であるように思われます。小さな一角を区切るとき、区切られているのは、その一角だけではない。法界がみな結せられている。そうであれば、ある場所を区切って、ある人々をその外に置く、ということは、もとより成り立たないことになります。【5】の「界畔いかがせん」と、ここでつながってくるようにも読めます。

宗務庁版英訳の注は、「一重」を、儀礼の場そのものから周辺、さらに大きな僧の区域へと、同心円状に区切られる聖域の層をいうのであろうとし、「水をもて」は次の段の「甘露」で聖域を浄めることを指すのであろう、としています。

そして、「かならず相承相伝ありてしるべきことあり」。これは、【8】の「たれよりか相承せりし」と呼びあう一句です。結界のことは、かならず相承・相伝があってはじめて知るべきことである、と訳文では取りました。宗務庁版英訳のように、かならず相承相伝があり、それによって知られる、と取ることもできます。いずれにしても、結界の旨趣は、自分たちのならわしから知られるものではなく、相承相伝によって知られるものだ、と言われています。

「茲界遍法界、無為結清浄」#

「いはんや結界のとき、灑甘露ののち、帰命の礼、をはり、乃至浄界等ののち、頌云、「茲界遍法界、無為結清浄」」(【9】)。

まして、結界のときには、甘露をそそいだのち、帰命の礼が終わり、さらに界を浄めることなどののちに、頌にいう、「茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」、と。

ここで禅師は、結界の作法のなかでとなえられる頌を引かれます。宗務庁版英訳の注は、この「甘露」は儀礼の場を浄める香水を指すとし、「浄界」の正確な意は不明であるとしています。そして、この頌の典拠は不明で、英訳は仮の訳である、としています。本書でも、頌の出典を推測で補うことはいたしません。

頌の読みにも幅があります。訳文では、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従って、「茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」と取りました。宗務庁版英訳は、この界と遍き法界とは、無為にして清浄と結せられている、の意に訳しています。

どちらに取るにしても、結界の作法そのもののなかで、この界は法界にあまねい、と唱えられている、ということは字面から確かめられます。結界を結ぶその作法が、すでに、この界が法界全体にゆきわたることを唱えている。それならば、結界を、人を入れない狭い区切りとすることは、結界の作法そのものの言葉とくいちがうことになる。禅師の論は、そのように運ばれているように読めます。

小界を大界とおもふ――巻の結び〔【10】〕#

「なんぢ声聞の酒にえふて」#

「この旨趣、いま、ひごろ結界と称する古先老人、しれりやいなや。おもふに、なんだち、結の中に遍法界の結せらるること、しるべからざるなり。しりぬ、なんぢ声聞の酒にえふて、小界を大界とおもふなり」(【10】)。

この旨趣を、いま、日ごろ結界と称している古先老人は、知っているのか、どうか。思うに、おまえたちは、結の中に遍法界が結せられていることを、知ることができないのであろう。わかった。おまえは声聞の酒に酔って、小界を大界と思っているのである、と。

【8】で「かくのごとくの古先、なんぢ結界の旨趣をしれりやいなや」と問われたことが、ここでもう一度問われます。そして、その答えを、禅師は、「なんぢ声聞の酒にえふて、小界を大界とおもふなり」と示されます。宗務庁版英訳の注は、「結の中に遍法界の結せらるること」を、聖域を区切るとき、区切られるのは全宇宙である、の意としています。

「声聞の酒」という言い方は、第四回にも出てきていました。「ながく女人をみることなからん」と願った唐国の僧について、禅師は、「ただこれ声聞の酒にえふことふかきによりて、酔狂の言(ごん)語(ご)なり」(第四回の【6】)と言われていました。宗務庁版英訳の注は、その「声聞の酒」を、衆生を度する菩薩の誓いを含まない、声聞の乗の教えをいう、としていました。また、第四回の終わりには、「おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行(きょうぎょう)なり」(第四回の【10】)とありました。境をおそれて逃げることばかり学ぶのは、小乗声聞の教えと行いである、と。

女人を見まいと願うこと、境をおそれて逃げること、そして結界を区切って比丘尼・女人を入れないこと。第四回と第五回とで、それらが同じ「声聞」の語によって言われていることを、並べて受けとめることもできるでしょう。もとより、これは巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

「小界を大界とおもふ」を、本書は、結界された小さな界を、諸仏の大界と思いちがえている、の意に読んでいます。

「ねがはくは、ひごろの迷酔すみやかにさめて」#

「ねがはくは、ひごろの迷酔すみやかにさめて、諸仏の大界の、遍界に違越すべからず、済度摂受に一切衆生みな化をかうぶらん功徳を、礼拝恭敬すべし」(【10】)。

願わくは、日ごろの迷い酔いからすみやかに醒めて、諸仏の大界は遍界とたがわないと知り、救い渡し、おさめとることによって、一切衆生がみな教化をこうむるであろう功徳を、礼拝恭敬すべきである、と。

この一文は、句の切り方によって意味の運びが変わるところです。本書の底本は「遍界に違越すべからず、」と、ここでいったん言い切る形になっています。訳文では、そこでいったん意味が切れると取り、「(と知り)」を補いました。けれども、「違越すべからず」を、次の「功徳」にかかるように読み、遍界に違越せず、済度摂受によって一切衆生が化をこうむる、という諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬すべし、と取ることもできます。

どの読みに立つにしても、この一文が、「ねがはくは」で始まっていることには、目をとめておきたいと思います。【1】で「わらひごと」と言われ、【2】で「天魔界」、【8】で「魔界」と言われたあと、巻の結びに置かれているのは、迷酔からすみやかに醒めてほしい、という願いの言葉です。そして、醒めたものがなすべきこととして示されるのは、一切衆生がみな化をこうむる功徳を「礼拝恭敬」することです。

「済度摂受に一切衆生みな化をかうぶらん」。一切衆生が、みな。ここにも、男女の別も、出家・在家の別も立てられていません。第四回で、「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)のときも、女人をばすつべきか。すてては菩薩にあらず」(第四回の【6】)と言われていたことが、ここで、一切衆生がみな化をこうむる功徳として、言いなおされているようにも読めます。

「たれかこれを得道髄といはざらん」#

「たれかこれを得道髄といはざらん」(【10】)。

だれが、これを得道髄と言わないことがあろうか、と。

これが、「礼拝得髄」の巻の本文の、最後の一文です。

宗務庁版英訳の注は、「得道髄」を、「得道」と「得髄」の二語を一つに合わせたもの、としています。道を得ること、髄を得ること。その二つが一つの語になって、巻は閉じられます。

この「これ」が何を指すのかは、原文に示されていません。直前の、諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬すること、と取ることもできますし、諸仏の大界そのもの、と取ることもできます。本書では、どちらか一つに決めずにおきます。

ただ、どちらに取るにしても、巻の最後の言葉が、「礼拝恭敬すべし」と「得道髄」とで結ばれていることは、巻名の「礼拝得髄」を思い合わせると、意味の深いところであるように思われます。巻のはじめ、第一回の【1】では、導師について、「これ得髄の面目なり」(第一回の【1】)と言われていました。巻名の「礼拝得髄」、巻頭の「得髄の面目」、巻末の「礼拝恭敬」と「得道髄」。礼拝して髄を得る、ということが、巻の両端に置かれているのです。

第一回では、釈迦牟尼仏のことばとして、無上菩提を演説する師にあったならば、種姓(しゅしょう)を観ず、容顔(ようがん)を見ず、非をきらわず、行をかんがえず、「日日(にちにち)三時に礼拝し恭敬(くぎょう)して」(第一回の【6】)と言われていました。巻のはじめでは、法を得た導師を礼拝恭敬すること。巻の終わりでは、一切衆生がみな化をこうむる諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬すること。礼拝恭敬するその向かう先が、巻の歩みのなかで、一人の導師から法界全体へとひろがっている、と受けとめることもできるかもしれません。もとより、これは巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

坐禅と暮らしのなかの「結界」#

ここまで読んできたことを、坐禅と日々の暮らしのなかで受けとめてみたいと思います。

一坐の坐禅と、遍法界#

【9】【10】で、「一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ」「結の中に遍法界の結せらるること」と言われていました。一つの区切りを結ぶとき、法界全体が結せられている、と。

この言葉を、坐禅と結びつけて受けとめることもできるように思われます。もとより、この巻の本文に坐禅のことが言われているわけではなく、これは一つの受けとめ方としてお示しするものです。

弁道話で禅師は、坐禅について、次のように示しておられました。

「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(『弁道話』第二回の【3】)。

もし人が、ひとときであっても、身・口・意の三業に仏印をしるし、三昧に端坐するとき、遍法界がみな仏印となり、尽虚空がことごとくさとりとなる、と。そしてまた、「わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去・来・現に、常恒の仏化道事をなすなり」(『弁道話』第二回の【6】)とも言われていました。

坐禅は、一枚の坐蒲の上の、ひとときのことです。けれども、その一坐に、遍法界が仏印となる。一人一時の坐禅が、無尽法界のなかで仏化道事をなす。この弁道話の言葉と、この巻の「一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ」という言葉とを、並べて受けとめることもできるでしょう。坐る場所は小さく区切られていても、その坐は、法界をへだてるものではない。もとより、二つの巻を結びつけるのは、両方を読む者の一つの受けとめ方です。

「男女・貴賎をえらぶべからず」#

弁道話には、また、次の問答もありました。「とふていはく、この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。しめしていはく、祖師のいはく、仏法を会すること、男女・貴賎をえらぶべからず、ときこゆ」(『弁道話』第七回の【5】【6】)。そして続く問答では、仏祖が広大の慈門をひらいておかれたのは一切衆生を証入させるためであるとして、「人天(にんでん)、たれかいらざらんものや」(『弁道話』第七回の【8】)と言われていました。

坐禅の行は、男女・貴賎をえらばない。仏祖の慈門に、人も天も、だれが入らないことがあろうか。この巻の【7】で、比丘尼が入れず、ほかの者が入っている道場のありさまが問われ、【9】で、諸仏所結の大界に入るものは「諸仏も衆生も、大地も虚空も」と言われていたことと、この弁道話の言葉とを、思い合わせることもできるでしょう。

礼拝ということ#

この巻は、礼拝の巻でもあります。

宗門の寺院や坐禅会では、仏前で礼拝をし、また人と人とが合掌して礼をかわします。その礼拝は、形のうえでは毎日くり返されるものです。けれども、この巻を読み終えてみると、礼拝とは何に向かってするものなのか、ということを、あらためて考えさせられます。

第三回では、「いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ」(第三回の【4】)と言われていました。礼拝するのは、相手の男女や位や年齢に対してではなく、得法に対してである。そしてこの回の結びでは、一切衆生がみな化をこうむる諸仏の大界の功徳を、礼拝恭敬すべし、と言われました。日々の一つ一つの礼拝を、そのような礼拝として受けとめることもできるかもしれません。

暮らしのなかの「界畔」#

この巻に書かれている結界の問題は、道元禅師の時代の、比丘尼・女人を入れないとされた場所についてのものです。本書では、この段を、今日のどこかの場所にそのまま当てはめて論じることはいたしません。

けれども、この段が示していることのなかには、今日の暮らしのなかでも受けとめられることがあるように思われます。

一つは、【1】の「ふるきをあらためざるべくは、生死流転をばすつべからざるか」という問いです。長く伝わってきたから、だれもが疑わないから、という理由で、そのままにしていることが、私たちの身のまわりにもあるかもしれません。禅師は、古いものをすべて退けられたのではなく、それが仏祖から相承されたものかどうかを問われました。日々のならわしを、ときに立ちどまって、それが何に基づいているのかを確かめてみる。そう受けとめることもできるでしょう。

もう一つは、【5】の「界畔いかがせん」です。私たちは、知らず知らずのうちに、ここからは内、ここからは外、と、心のなかに線を引いていることがあるかもしれません。「一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ」という言葉を、自分の引いている線の内にも、外にも、同じ法界がひろがっている、と受けとめることもできるように思われます。もとより、これは本文をはなれて、今日の暮らしの上に引きよせた一つの受けとめ方です。

坐禅をはじめたばかりの方は、坐禅会などで、指導を受けながら坐ってみていただければと思います。坐禅会では、坐り方だけでなく、合掌や礼拝の仕方なども教わることがあります。

巻末題と奥書#

「正法眼蔵礼拝得髄」#

本文のあとに、「正法眼蔵礼拝得髄」と巻末題が記されます。

本書の底本とする本山版では、この巻末題には巻番号がありません。宗務庁版英訳は、七十五巻本の本文の終わりに「正法眼藏禮拜得髓第二十八」と七十五巻本の番号を付した巻末題を置き、さらに付録の終わりに、番号のない「正法眼藏禮拜得髓」を置いています。

「延応庚子清明日記、観音導利興聖宝林寺」#

「延応庚子清明日記、観音導利興聖宝林寺」。

延応の庚子の年、清明の日に記す。観音導利興聖宝林寺において、という記録です。

奥書の字句は、年を延応の干支「庚子」で、日を「清明」で記しています。庚子の年は1240年にあたります。宗務庁版英訳の注は、「清明」を、字義は「清く明らか」で、二十四に分けた節気の第五にあたり、春分から十五日目にあたる節日である、としています。宗務庁版英訳の解題も、この巻(七十五巻本の形)を1240年の春、興聖寺でのものとしています。「観音導利興聖宝林寺」は、第七巻「洗浄」の奥書と同じく、興聖寺の正式の名と取りました。

ここで、一つ注意しておきたいことがあります。この奥書の置かれている位置です。

本書の底本とする本山版では、この奥書は、今回読んだ結界の段を含む本文全体のあとに置かれています。けれども、宗務庁版英訳は、この奥書を龍門寺本のものとして、七十五巻本の本文の終わり、すなわち第三回の「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし」(第三回の【5】)のあとに置いています。七十五巻本にない後半、第三回の【6】以下は、その奥書のあとに付録として載せられています。

宗務庁版英訳の解題は、その後半を含む『秘密正法眼蔵』の本文について、増えた部分をもとの本文にあとから加えたものとみるより、七十五巻本を編む際にその部分を削った草稿とみるほうがよいだろう、としています。

こうした事情がありますので、本山版で巻末に置かれているこの「延応庚子清明日記」の奥書の日付が、今回読んだ結界の段を含む本文全体にかかるものである、とは言えません。本書では、奥書の字句をそのまま記すにとどめ、この回の範囲がいつ記されたかについては、定めずにおきます。

本山版の募刻識語について#

なお、本書の底本である本山版には、奥書のあとに、この巻の刊刻を助けた人々と、その願いを記した募刻識語があります。これは道元禅師の本文ではありませんので、ここでは立ち入りません。

巻をふりかえって――第一回から第五回へ#

五回にわたって、「礼拝得髄」の巻を読んできました。ここで、巻全体をふりかえってみたいと思います。もとより、これは五つの回を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう要約しているわけではありません。

巻の流れ#

巻は、「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし」(第一回の【1】)と始まりました。その導師は「男女等の相にあらず」(第一回の【1】)と言われ、導師に出会ったならば万縁をなげすてて精進弁道すべきこと、髄をうること・法をつたうることは至誠と信心によること、そして「法をおもくし、身をかろくする」ことが示されました。法をおもくするならば、露柱(ろちゅう)でも、燈籠でも、諸仏でも、野干でも、鬼神(きじん)でも、男女でも、大法を保任(ほにん)し髄を得ているならば、身心を牀座(しょうざ)として無量劫にも奉事(ぶじ)する、と(第一回の【5】)。そして、位や年齢や男女を理由に得法の者を拝さない「不聞仏法の愚痴のたぐひ」が退けられました(第一回)。

続いて、七歳でも自分よりすぐれていれば問う、と言った趙州、末山了然尼を礼拝して師資の礼をとった志閑禅師、廨院主として十七人の僧を導いた妙信尼の話が引かれ、住持や半座の職には得法の比丘尼を請(しょう)ずべし、と言われました(第二回)。そして、「いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり」(第三回の【4】)と示され、たとえ七歳の女流であっても、仏法を修行し道取するならば四衆の導師である、と言われました(第三回)。

巻の後半では、その筋道が、さらに具体的なならわしに向けられます。女流を貪婬所対の境とみること、ながく女人を見まいと願うことが退けられ、境をおそれて逃げるのではなく、境をあきらめることを学ぶべきだ、と言われ(第四回)、そして今回、比丘尼・女人を入れない結界が「わらひごと」として論じられ、諸仏所結の大界が示されて、巻は「たれかこれを得道髄といはざらん」と結ばれました。

法をおもくすることと、結界#

こうして並べてみると、巻のはじめに示された「法をおもくする」ということが、巻の終わりまで、論の足場になっているように見えます。

第四回のはじめには、「これは、法をおもくするこころざしあさく、法をもとむるこころざしあまねからざるゆえなり」(第四回の【1】)とありました。得法の者を男女によって分け、敬わないのは、法をおもくするこころざしが浅いからだ、と。そう受けとめるならば、比丘尼・女人を入れない結界もまた、得法を敬うのではなく、男女の相を先に立てるならわしである、ということになるでしょう。【7】で、比丘尼を「学道を論じ、得位を論ぜんに」と論じておられたのも、男女の相ではなく、道を学び、位を得ていることを見よ、ということであったように読めます。もとより、これは巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

巻頭と巻末――「得髄の面目」と「得道髄」#

巻頭と巻末とを並べてみると、いくつかの言葉が呼びかわしているように見えます。

巻のはじめ、第一回の【1】では、導師は「男女等の相にあらず」、そして「これ得髄の面目なり」(第一回の【1】)と言われました。巻の終わり、今回の【10】では、「礼拝恭敬すべし。たれかこれを得道髄といはざらん」と結ばれます。

第一回では、「礼拝問法する天帝釈」が、野干を師として礼拝した、と言われ、今回は、その釈提桓因よりも仏弟子第二の位がすぐれている、と言われました。第一回では「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」という者が退けられ、今回は、「十聖か三賢か」と、結界を立てた権者が問われました。第三回では「四衆の導師」が言われ、今回は、釈尊の仏会に「四衆あり」と言われました。

巻のはじめに、導師をうること、その導師を男女の相によらずに礼拝することが示され、巻の終わりで、一切衆生がみな化をこうむる諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬することが示される。礼拝して髄を得る、ということが、巻の歩みのなかで、一人の導師への礼拝から、法界の功徳への礼拝恭敬へとひろがっている。そう受けとめることもできるでしょう。

ただし、本回の「これ」が何を指しているのかが決めがたいように、ここに申し上げた巻頭と巻末の照応も、本文がそう明示しているわけではなく、五つの回を並べて読む者の一つの受けとめ方です。

巻名「礼拝得髄」を、あらためて#

五回を読み終えたいま、巻名を、たとえば次のように受けとめることもできるかもしれません。

礼拝得髄とは、礼拝して髄を得ることである。その礼拝は、男女や位や年齢に向けられるのではなく、得法に向けられる。法をおもくし、身をかろくするこころざしがあれば、たとえ七歳の女流であっても、得法の者を導師として礼拝する。そして、礼拝の向かう先は、一人の導師にとどまらず、一切衆生がみな化をこうむる諸仏の大界の功徳にまでひろがる。結界を立てて人を入れないことは、小界を大界と思いちがえることであり、その迷酔からすみやかに醒めて、諸仏の大界を礼拝恭敬するところに、得道髄がある。もとより、巻名の受けとめ方には幅があり、ここに申し上げたことも、その一つにすぎません。

むすびに#

今回読んだところを、あらためてふりかえってみましょう。

日本国に、ひとつの笑いごとがある。結界の境地と称し、大乗の道場と称して、比丘尼・女人を入れない。邪風が久しく伝わって、人はわきまえず、権者の所為、古先の遺風と言って論じない。権者とは何者か。古いものを改めてはならないのなら、生死流転も捨ててはならないのか(【1】)。無上正等覚である釈尊の在世の仏会には、どれにも四衆があり、比丘尼も女人もいた。如来在世の仏会よりも清浄であろうとする結界は、天魔界である。仏会の法儀は、どの世界でも、三世の千仏でも、異ならない(【2】)。四果は極位であり、比丘尼で四果を証する者は多い。だれがその行履をふさぐのか(【3】【4】)。女人はすでに作仏する。遍く十方を照らす功徳に、界畔をどうしようというのか(【5】)。天女・神女も、人女・畜女も、罪はあるときはあり、ないときはない。仏所・仏会と異なるものを、だれが仏法と信受しようか(【6】)。仏弟子第二の位は、転輪聖王よりも、釈提桓因よりもすぐれている。比丘尼を入れないという道場に、ほかの者はみだれ入っている。小国がはじめてこの跡をのこした(【7】)。結界に住む者たちは十悪をおそれず十重を犯す。このような魔界は破るべきであり、仏化を学び、仏界に入るべきである。だれから相承したのか、だれの印をこうむったのか(【8】)。諸仏所結の大界に入るものは、諸仏も衆生も、大地も虚空も、繋縛を解脱する。一方を結するとき、法界がみな結せられる。結界の頌にも、「茲の界は法界に遍く」とある(【9】)。小界を大界と思う迷酔からすみやかに醒めて、一切衆生がみな化をこうむる功徳を礼拝恭敬すべきである。だれがこれを得道髄と言わないことがあろうか(【10】)。禅師は、このように巻を結ばれました。

この回は、結界というならわしを、仏会の法儀、仏弟子の位、そして諸仏所結の大界という、仏法の言葉によって問いなおしている、と読めます。本文には「わらひごと」「天魔界」「魔界」などの語があり、本書ではそれらを言いかえずに示しました。そして巻の結びには、「ねがはくは」で始まる一文と、「礼拝恭敬すべし」という言葉が置かれています。もとより、末尾の「読みの分かれるところ」に挙げたように、一つ一つの句には、読みの幅が少なからず残っています。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。

「礼拝得髄」の巻は、こうして、「たれかこれを得道髄といはざらん」の一句で閉じられます。

導師をうることはかたい、と巻ははじまりました。その導師に、男女の相によらずに礼拝すること。そして、一方を結するとき法界みな結せられる、その大界の功徳に、礼拝恭敬すること。今日の一つ一つの礼拝を、また、そのような礼拝としてつとめてゆきたいと思います。

読みの分かれるところ#

この回の範囲でも、道元禅師の和文の一句一句にも、引かれた頌にも、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「わらはば人の腸もたえぬべし」【1】
    笑えば腸もちぎれるほどだ、あまりにばかげている、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きです。笑おうにも、あまりのことに腸がちぎれる、という、悲しみや憤りの含みを読むこともできます。

  2. 「いはんや大師釈尊」「みなこれ仏界を結せること、あらたなる仏会なり」「極位の功徳は差別せず」【2】【3】
    段のはじめの「いはんや」は、前の段の権者・古先とくらべて、まして釈尊は、と取るのが本書の訳ですが、そもそも、言うまでもなく、という向きに取ることもできます。「あらたなる仏会」は、あらたか・明らかな仏会と取ることも(宗務庁版英訳はこの向きです)、新しい仏会と取ることもできます。また、「仏界を結す」という言い方に、仏会そのものがほんとうの結界である、という含みを読み、【9】の「諸仏所結の大界」へのつながりを見ることもできます。「三十七部」が何を指すかについては、宗務庁版英訳の注も一つの見方を示すにとどめ、断定していません。「極位の功徳は差別せず」は、本文が「大乗にても小乗にても」と言うとおり、大乗・小乗のあいだで差別はない、と取るのが本書の訳ですが、極位の功徳は男女などによって差別されない、という含みを読むこともできます。

  3. 「女人すでに作仏す、諸方いづれのものか究尽せられざらん」「界畔いかがせん」【5】
    「女人すでに作仏す」は、女人はすでに作仏する、と事実として述べるものと取るのが本書の訳ですが、宗務庁版英訳の注のように、女人がすでに作仏する以上は、と次の句へ続けて取ることもできます。「諸方いづれのもの」は、十方・あらゆるところと取り、作仏した女人の至らない、究め尽くさないところはない、と取るのが本書の訳ですが、あらゆる方処の者たちのうち、(作仏した女人によって)究め尽くされない者はない、という含みを読むこともできます。「界畔いかがせん」は、界畔(区切り)をどうしようというのか、区切ることはできない、と取るのが本書の訳ですが、界畔などどこにあろうか、と取ることもできます。

  4. 「犯罪あるときはあり、なきときはなし」「すでに三世の仏会に参詣す」「誑惑世間人の至愚」【6】
    「犯罪あるときはあり、なきときはなし」は、罪は行いによってあるときにはあり、ないときにはないのであって、女であることによって罪があるのではない、と取るのが本書の訳ですが、天女・神女も流転の衆生として罪をもつこともある、それでも仏会に参ずるのだ、と取ることもできます。「すでに三世の仏会に参詣す」の主語は示されていません。宗務庁版英訳の注は、天・神とも、それらの女とも、より広く女たちとも取れる、としています。本書の訳の(彼女たちは)も一つの読みです。「誑惑世間人の至愚」は、世間の人を誑惑する者の至愚と取るか、誑惑された世間の人の至愚と取るかで、向きが変わります。

  5. 「しかあるを」「比丘尼のいたらんところえ、田夫・野人、あへていたるべからず」「三界慈父の長子」【7】
    「しかあるを」は、宗務庁版英訳にならって、そうであるから、と取りましたが、それなのに、の意に取ることもできます。「比丘尼のいたらんところえ……いたるべからず」は、比丘尼の至る境地へ、田夫・野人はとうてい至れない、と取るのが本書の訳です。比丘尼が至るはずのところに田夫・野人が至ってよいはずがない、と取ることも、宗務庁版英訳のように、比丘尼の入れないところに田夫・野人が入れるはずがない、と取ることもできます。「三界慈父の長子」は、仏弟子第二の位にある比丘尼を指すと取るのが本書の訳ですが、宗務庁版英訳の注のように、釈尊のもっとも上位の弟子たち、仏弟子一般を指すと取ることもできます。

  6. 「ただ造罪界として、不造罪人をきらふか」「かくのごとくの古先」「かならず相承相伝ありてしるべきことあり」【8】【9】
    「ただ造罪界として、不造罪人をきらふか」は、結界の地を罪を造る界として、罪を造らない人を嫌うのか、と取るのが本書の訳ですが、皮肉として、罪を造る者だけの界にしようとするのか、と取ることもできます。続く「逆罪」がどの罪の列挙を指すかにも、幅があります。「かくのごとくの古先」は、結界を始めたとされる昔の先人への呼びかけとも、結界を「古先の遺風」と言いたてる今の者たちへの呼びかけとも取れます。【9】の「諸仏所結の大界」は、宗務庁版英訳の注のように法界全体と取ることも、律の術語としての大界を、諸仏の結したものとして言いひろげたものと取ることもできます。「かならず相承相伝ありてしるべきことあり」は、相承相伝があってはじめて知るべきことである、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳は、かならず相承相伝があり、それによって知られる、と訳しています。

  7. 頌「茲界遍法界、無為結清浄」【9】
    本山版に拠る活字本に付けられた読み下し「茲の界は法界に遍く、無為にして清浄を結せり」に従うのが本書の訳です。宗務庁版英訳は、この界と遍き法界とは、無為にして清浄と結せられている、の意に訳しています。宗務庁版英訳の注は、この頌の典拠は不明で、英訳は仮の訳である、としています。

  8. 「遍界に違越すべからず」「たれかこれを得道髄といはざらん」【10】、奥書
    「諸仏の大界の、遍界に違越すべからず」は、ここでいったん意味が切れると取り、諸仏の大界は遍界とたがわない(と知り)、と補うのが本書の訳です。「違越すべからず」を次の「功徳」にかかるように読み、遍界に違越せず、一切衆生がみな化をこうむる、という諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬すべし、と取ることもできます。巻の最後の「これ」が何を指すかは示されていません。諸仏の大界の功徳を礼拝恭敬すること、と取ることも、諸仏の大界そのもの、と取ることもできます。奥書の「清明日記」を、清明の日に記す、と読んだのは本書の読みです。また、この奥書は、本書の底本では本文全体のあとにありますが、宗務庁版英訳はこれを七十五巻本の本文の終わり(第三回の【5】のあと)に置いています。そのため本書では、この回の範囲がいつ記されたかを定めずにおきます。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第八「礼拝得髄」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. II(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 本巻の撰述の時と場所、諸本での位置と巻末題、奥書の伝本と位置、七十五巻本にない部分と巻の結びについての説明、結界の地・権者・賢人と聖人・等覚と妙覚・八部・三十七部・八万四千部・三世千仏・極位の功徳・作仏と竜女・遍照於十方・誑惑世間人・転輪聖王・釈提桓因・小国・三界慈父の長子・十悪・十重・逆罪・印・大界・不違越と得清浄・一重・水と空・灑甘露・浄界・頌・遍法界・得道髄・清明についての説明と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。