一顆明珠(三)明珠の結び#
「しかあればすなはち、この明珠の有如無始は無端なり」から巻の終わりまで、道元禅師がご自身の言葉で一顆明珠を説き結ぶ四つの段落と、巻末題・奥書を読む、この巻の最終回です。
原文#
全身これ明珠#
【1】しかあればすなはち、この明珠の有如無始は無端なり。尽十方世界一顆明珠なり、両顆三顆といはず。全身これ一隻の正法眼なり、全身これ真実体なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全身なり。全身のとき、全身の罣礙なし。円陀陀地なり、転轆轆なり。明珠の功徳かくのごとく見成なるゆゑに、いまの見色聞声の観音弥勒あり、現身説法の古仏新仏あり。
衣裏・頷下・髻中の珠#
【2】正当恁麼時、あるひは虚空にかかり、衣裏にかかる、あるひは頷下にをさめ、髻中にをさむる、みな尽十方世界一顆明珠なり。ころものうらにかかるを様子とせり、おもてにかけんと道取することなかれ。髻中頷下にかかるを様子とせり、髻表頷表に弄せんと擬することなかれ。酔酒の時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり。
既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり#
【3】既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり。しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色あり。既得恁麼なるには、われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり。たどりうたがひ、取舎する作無作も、ただしばらく小量の見なり、さらに小量に相似ならしむるのみなり。愛せざらんや、明珠かくのごとくの彩光きはまりなきなり。彩彩光光の片片條條は、尽十方界の功徳なり。たれかこれを攙奪せん、行市に甎をなぐる人あらず。六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ。不昧本来の頭正尾正なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛なり。
黒山鬼窟の進歩退歩#
【4】しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は、明明の草料をむすびきたれども、玄沙の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん。たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行にも念にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。
巻末題#
正法眼蔵 一顆明珠
奥書#
爾時嘉禎四年四月十八日、在雍州宇治県観音導利興聖宝林寺示衆。
寛元元年癸卯閏七月二十三日、書写于越州吉田郡志比荘吉峰寺院主房。侍者比丘懐弉。
現代語訳#
原文は【1】〜【4】の四段落と、巻末題・奥書です。この回は巻の結びにあたり、第一回の玄沙の伝と問答、前回の拈提を受けて、道元禅師が「尽十方世界是一顆明珠」の句をまとめて説かれます。訳文も原文の段落ごとにつけ、原文の小見出しに従って並べました。小見出しは内容を示すために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。仏教語・禅語・漢語(有如無始・無端・尽十方世界・一顆明珠・正法眼・罣礙・功徳・見成・観音・弥勒・古仏・新仏・虚空・様子・攙奪・行市・六道・因果・面目・眼睛・草料・法道・起滅・取舎・進歩退歩など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後の「語注」で短く説明しました。漢文の句(両顆三顆・円陀陀地・転轆轆・正当恁麼時・既是恁麼・既得恁麼・不落有落・不昧本来・頭正尾正など)は、語注に書き下しを示し、続けて現代語訳を示しました。書き下しは本書の読みで、底本に付された訓ではありません。経典や語録をふまえる句は、宗務庁版英訳の注が述べる範囲で話の筋を示すにとどめ、経文・語録の本文は引いていません。読みの分かれる句には、訳文には一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。
全身これ明珠#
【1】そうであるから、この明珠の有如無始は、無端である。尽十方世界(十方の世界のすべて)が一顆の明珠(ひとつぶの明るい珠)であって、両顆三顆(ふたつぶ、みつぶ)とは言わない。全身が一隻の正法眼であり、全身が真実体であり、全身が一句であり、全身が光明であり、全身が全身である。全身であるとき、全身の罣礙(さまたげ)はない。円陀陀地(まんまる)であり、転轆轆(ころころと転がる)である。明珠の功徳がこのように見成している(現れ成っている)ので、いまの、色を見、声を聞く観音・弥勒があり、身を現して法を説く古仏・新仏がある。
語注
- しかあればすなはち:そうであるから、それゆえ。前回までに述べてきたこと(とくに前回の【8】)を受けて結論を導く語と取った。
- 有如無始:宗務庁版英訳の注は、珍しい言い方であるとし、「有如(ありのまま・如であること)」と「無始(始まりがないこと)」の二語の対と取って訳し("suchness and beginninglessness")、「このような無始を有する」と読むこともできる、とする。二語の対と取る根拠として、『永平広録』に同じ四字が逆の順(無始有如)で出ることを挙げ、訳を「仮の訳」としている。訳文は語を訳さずに残した。
- 無端:はて(際限)がない。宗務庁版英訳の注は、この語が「起こり(始まり)がない」とも「いわれ(理由)がない」とも取れる、とする。訳さずに残した。
- 尽十方世界一顆明珠なり:書き下し「尽十方世界、一顆の明珠なり」。十方(あらゆる方角)の世界のすべてが、ひとつぶの明珠である。玄沙の句「尽十方世界是一顆明珠」(第一回の【10】〜【15】)を受ける。
- 両顆三顆:書き下し「両顆・三顆」(りょうか・さんか)。ふたつぶ、みつぶ。「顆」は粒を数える語。一顆の明珠を、二つ三つと数えるものとしては言わない、の意と取った。
- 全身:からだ全体、まるごと。誰の(何の)「全身」かは原文に示されていない。宗務庁版英訳は「その(明珠の)全身(its whole body)」と訳す。訳文は主語を補わなかった。
- 一隻の正法眼:ただひとつの正法の眼。「一隻」は対になるものの片方、ひとつ。「正法眼」は、正しい法を見る眼(正法眼蔵の「正法眼」)。宗務庁版英訳の注は、九世紀の長沙景岑のことばを思い起こさせるものか、とする。その句の本文は、ここでは示さない。訳さずに残した。
- 真実体:まことの体。宗務庁版英訳の注は、玄沙自身のことば「尽十方界是箇真実人体」(尽十方界は、是れ箇の真実人体なり)を思い起こさせるものか、とし、その所在を真字『正法眼蔵』(第131則)とする。訳さずに残した。
- 一句:ひとつの句、ひとことの言葉。禅で、真実を言い取ったひとことをいう語と取った。訳さずに残した。
- 光明:ひかり。宗務庁版英訳の注は、仏の身をとりまく光(光背)について常に用いられる語、とする。訳さずに残した。
- 全身これ全身なり:全身が全身である。宗務庁版英訳は、結びの語を「全心」の字で読む。「一隻の正法眼」「真実体」「一句」「光明」と言い重ねてきた並びの結びが、同じ語の繰り返しになる形である(→読みの分かれるところ)。
- 全身のとき、全身の罣礙なし:全身であるとき、全身の罣礙はない。「罣礙」は、さまたげ・ひっかかり。宗務庁版英訳の注は、字義どおりには「全身の罣礙がない」で、それが全体であることに(あるいは全体であることによって)限られない、という意味か、とする。「全身の」を、(全身が)さまたげられること、と取るか、全身が(ほかを)さまたげること、と取るかは決めず、原文の形のままに訳した。
- 円陀陀地:書き下しは語のまま「円陀陀地」(えんだだち)。まんまるであるさま。転轆轆:同じく「転轆轆」(てんろくろく)。ころころと自在に転がるさま。宗務庁版英訳の注は、どちらも「陀陀」「轆轆」という音の繰り返しをもつ慣用の言い回しで、前者は完全な円さを、後者は自在な回転を表す、とする。
- 功徳:はたらき、そなわる徳。訳さずに残した。
- 見成:現れ成っていること。宗務庁版英訳は「現れる(appear)」と訳す。訳さずに残し、( )に意を添えた。
- 見色聞声の観音弥勒:書き下し「色を見、声を聞く観音・弥勒」。色(かたちあるもの)を見、声を聞く観音(観世音菩薩)と弥勒(弥勒菩薩)。宗務庁版英訳の注は、二菩薩をこのように言い表したのは、観音の名が「声を観る者(祈る者の声を聞きとる者)」の意であることによるものか、とする。「いまの」がどこにかかるか(いま現に、色を見声を聞いているわれわれの上に観音・弥勒がある、と取るか、いまここに現れている観音・弥勒、と取るか)は決めなかった。
- 現身説法の古仏新仏:書き下し「身を現じて法を説く古仏・新仏」。身を現して法を説く、古い仏・新しい仏。宗務庁版英訳の注は、「現身説法」が法華経の普門品の名高い一節を思い起こさせる、とする。経文は、ここでは引かない。
衣裏・頷下・髻中の珠#
【2】正当恁麼時、あるいは虚空にかかり、衣裏(衣の裏)にかかり、あるいは頷下(あごの下)におさめ、髻中(髻〔もとどり〕の中)におさめる――(それらは)みな尽十方世界一顆明珠である。(珠は)衣の裏にかかっているのを様子(ありよう)としているのであって、表にかけようと言ってはならない。髻の中・あごの下にかかっているのを様子としているのであって、髻の表・あごの表に(出して)もてあそぼうとしてはならない。酒に酔っている時節に珠を与える親友がある。親友には必ず珠を与えるはずである。珠をかけられる時節には、(その人は)必ず酒に酔っているのである。
語注
- 正当恁麼時:書き下し「正当恁麼の時」(しょうとういんものとき)。まさにこのようである時。「恁麼」は「このような・そのような」の意の中国の口語(前回の【1】「恁麼のゆゑに」にも見える)。「この時」が何を指すか(【1】で述べた、明珠の功徳が見成している時、と取るか、それに限らず、まさに今この時、と取るか)は決めなかった。
- 虚空にかかり:空中にかかって。宗務庁版英訳の注は、『菩薩瓔珞経』の、値のつけられない宝珠が仏と会衆の上の空を照らすという場面をふまえるものか、とする。
- 衣裏にかかる:衣の裏にかかる。宗務庁版英訳は「衣裏」を "eri" と読む。宗務庁版英訳の注は、法華経の名高いたとえ、すなわち、ある人の友が、酒に酔って眠っているその人の衣の裏地に、値のつけられない宝珠を縫いつける話をふまえる、とする。経文は、ここでは引かない。この段の後半「酔酒の時節にたまをあたふる親友あり」以下も、このたとえを受ける。
- 頷下にをさめ:あごの下におさめて。宗務庁版英訳の注は、あごの下に宝珠をもつ中国の伝承の黒竜をふまえる(例として『荘子』列御寇篇)、とする。
- 髻中にをさむる:髻(もとどり。髪を頭上で束ねたところ)の中におさめる。宗務庁版英訳の注は、法華経が自らを王の髻の中の宝珠にたとえることをふまえる、とする。経文は、ここでは引かない。
- みな尽十方世界一顆明珠なり:(空にかかる珠も、衣の裏の珠も、あごの下の珠も、髻の中の珠も)みな、尽十方世界一顆明珠である。経典・伝承の珠をすべて玄沙の「一顆明珠」に収めて言うものと取った。
- 様子とせり:様子としている。「様子」は、ありよう・すがた・定まったかたち。宗務庁版英訳は「標準・決まり(the standard)を表す」と訳す。訳さずに残し、( )に意を添えた。
- おもてにかけんと道取することなかれ:表にかけよう(と言って、珠を外に出して見せよう)と言ってはならない。「道取」は、言うこと・言い表すこと(前回の【1】「いま道取する」にも見える)。
- 髻表頷表に弄せんと擬することなかれ:髻の表・あごの表で(珠を)もてあそぼうとしてはならない。「擬する」は、〜しようとする・はかる。「弄す」は、もてあそぶ。宗務庁版英訳は「髻の前、あごの前でそれらをもてあそぼうと考えてはならない」と訳す。
- 酔酒の時節にたまをあたふる親友あり:酒に酔っている時に珠を与える親友がいる。上の衣裏の珠のたとえを受ける。
- 親友にはかならずたまをあたふべし:親友には必ず珠を与えるはずである。「べし」を、当然(必ず〜するものだ)と取るか、当為(〜すべきだ)と取るかは決めなかった。また、誰が誰に与えるのか(親友が、酔った友に与える、と取るか、親友であるからには、その相手に与える、と取るか)も原文に示されていない。宗務庁版英訳は「彼(親友)は必ずその親友に珠を与える」と訳す。
- たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり:珠をかけられるときには、必ず酒に酔っているのである。「かけらるる」は、(衣に)かけられる、の受身と取った。
既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり#
【3】既是恁麼は、尽十方界である一顆明珠である。そうであるから、転・不転(転がる・転がらない)と、おもて(すがた)を変えていくのに似ているけれども、それがそのまま明珠である。まさしく「珠はこのようであったのだ」と知る、それがそのまま明珠である。明珠には、このように聞こえる声色(声と色かたち)がある。既得恁麼であるからには、「われは明珠ではあるまい」と迷い思われることについても、「(それは)珠ではあるまい」と疑ってはならないのである。迷い思い、疑い、取ったり捨てたりする作・無作(はからうこと・はからわないこと)も、ただしばらくの小量の見(小さな見方)であり、さらに(明珠を)小さなものに似せてしまうだけである。愛さずにいられようか。明珠のこのような彩光(いろどりと光)は、きわまりがないのである。彩彩光光(色という色、光という光)の片片條條(ひとかけ、ひとすじ)は、尽十方界の功徳である。だれがこれを攙奪しようか。行市(市場)で甎(かわら)をなげる人はいない。六道の因果に、不落・有落(落ちないこと・落ちること)を思いわずらってはならない。不昧本来の頭正尾正である(とき)、明珠は面目であり、明珠は眼睛である。
語注
- 既是恁麼:書き下し「既に是れ恁麼」(きぜいんも)。すでにこのようである(このようなものである)こと。宗務庁版英訳の注は、雲居道膺(902年没)のものとされる名高いことばをふまえるもので、下にも繰り返される(「既得恁麼」)、とする。そのことばの本文は、ここでは引かない。宗務庁版英訳は "Since you are such"(あなたがすでにこのようであるからには)と、雲居の句の形に寄せて訳し、この一文を【2】の段の終わりに置いて訳す。訳文は句を訳さずに残した。
- 尽十方界にてある一顆明珠:尽十方界である一顆明珠。「尽十方界」は「尽十方世界」に同じ。「にてある」は、〜である。
- 転不転のおもてをかへゆくににたれども:転・不転(転がる、転がらない)と、おもてを変えていくのに似ているけれども。【1】の「転轆轆」を受ける語と取った。宗務庁版英訳は「転がったり転がらなかったりしてその見た目を変えるように見えるけれども」と訳す。何が「おもてを変える」のか(明珠か、われわれの見方か)は原文に示されていない。
- すなはち明珠なり:それがそのまま明珠である。「すなはち」は、そのまま・とりもなおさず。
- まさにたまはかくありけるとしる:まさしく「珠はこのようであったのだ」と知る。「けり」を、いま気づいたことを表す語と取り、「〜であったのだ」と訳した。宗務庁版英訳は「このような珠がまさしくあると知る」と訳す。
- かくのごとくきこゆる声色:このように聞こえる(知られる)声と色。「声色」は、声(音)と色(かたちあるもの)。【1】の「見色聞声」を受ける語と取った。「きこゆる」を、耳に聞こえる、と取るか、(そのように)言われる・知られる、と取るかは決めなかった。宗務庁版英訳は「このように知覚される音とかたち(sound and form that is perceived like this)」と訳す。
- 既得恁麼:書き下し「既に恁麼なることを得」(きとくいんも)。すでにこのようであることを得ている。宗務庁版英訳の注は、上の雲居のことばの変形とする。宗務庁版英訳は「彼らが『すでにこのようであることを得た』とき」と訳す。訳文は句を訳さずに残した。
- われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり:「われは明珠ではあるまい」と迷い思われる(ことがある)のについては、「珠ではあるまい」と疑ってはならない。「たどる」は、迷いながら思いめぐらす・おぼつかなく思う。「たどらるる」の「らるる」は、自発(つい〜と思われる)と取った。「たまにはあらじとうたがはざるべきなり」を、(a)(その迷いを)「珠ではあるまい」と疑ってはならない、と取るか、(b)(迷う者は)珠でないと疑う必要はない、と取るか、で文意が揺れる。宗務庁版英訳は「『われわれは明珠ではない』とまどいながら思う者は、珠でないことについて疑いをもたずにいるべきである」と訳す。訳文は (a) に近い形を置いた。
- たどりうたがひ、取舎する作無作:迷い思い、疑い、取ったり捨てたりする、作(はからうこと)・無作(はからわないこと)。「取舎」は取ることと捨てること(取捨)。「作無作」は、そうした行いをすることもしないことも、の意と取った。宗務庁版英訳は「迷い、疑い、取り捨てする、行為と非行為(actions and non-actions)」と訳す。
- ただしばらく小量の見なり:ただしばらくの小量の見である。「小量」は、小さな器量・狭い見方。「しばらく」を、一時の(仮の)と取るか、ひとまず・ともかくも、と取るかは決めなかった。宗務庁版英訳は「一時の小さな見方(temporary small views)」と訳す。
- さらに小量に相似ならしむるのみなり:さらに小さなものに似せてしまうだけである。宗務庁版英訳の注は、この使役の目的語は示されていないが、おそらく「明珠」である、とする。訳文は(明珠を)と補った。
- 愛せざらんや:愛さずにいられようか(反語)。宗務庁版英訳は、ここから新しい節を立てる。
- 彩光:いろどりと光。彩彩光光:一つ一つの色、一つ一つの光。片片條條:ひとかけらひとかけら、ひとすじひとすじ。宗務庁版英訳は「それぞれの色、それぞれの光の、ひとかけら、ひとすじ」と訳す。
- 尽十方界の功徳なり:尽十方界の功徳である。「功徳」は【1】の語注参照。
- たれかこれを攙奪せん:だれがこれを攙奪しようか。「攙奪」は、無理に奪い取ること。宗務庁版英訳の注は、この語を「力ずくで取る」(あるいは「思いのままにする」)の意に取り、続く「行市」と合わせて、『正法眼蔵』に何度か見える「攙奪行市」(市場を牛耳る。値を左右する、の意か)の句を禅師が思い起こしているらしい、とし、その例に真字『正法眼蔵』(第38則)の玄沙のことばを挙げる。反語(だれも奪い取れない)と取ったが、訳文は問いの形のままにした。
- 行市に甎をなぐる人あらず:市場で甎(かわら)をなげる人はいない。「行市」は、市場。「甎」は、かわら。宗務庁版英訳の注は、「甎をなぐる」を、成句「抛甎引玉」(甎を抛〔な〕げて玉を引く)の前半を禅師が和語に移したものとし、この成句は、文人のあいだでは自分の詩に相手の付け句を求める謙遜の言い方で、転じて、禅の問答では、差し出した以上のものを返してもらうことをいう、とする。この文と前の文(攙奪)との関係、「人あらず」が何を言うのかは決めなかった。
- 六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ:書き下し(句の部分)「不落・有落」(ふらく・うらく)。六道の因果に、落ちない・落ちる、を思いわずらってはならない。「六道」は、生死をくりかえす六つの境涯(宗務庁版英訳の注による)。「因果」は、原因と結果、業の報い。宗務庁版英訳の注は、この句が、百丈懐海(749–814)と、大修行の人は「因果に落ちない(不落因果)」と言ったために野狐に生まれかわった師の名高い話をふまえる、とし、その話の所在に『聯灯会要』と真字『正法眼蔵』(第102則)を挙げる。話の本文は、ここでは引かない。「有落」は「落つること有り」、落ちることがある、の意と取った。
- 不昧本来の頭正尾正なる:書き下し「本来に昧からざる(不昧本来)の、頭正尾正なる」。「不昧本来」は、本来に昧(くら)くない、の意と取った。宗務庁版英訳の注は、難しく、さまざまに読まれる句であるとして訳を「仮の訳」とし、英訳では「不昧本来」を動詞と目的語の形(本来に昧くないこと)に取り、野狐の話で百丈が大修行の人は「因果に昧くない(不昧因果)」と答えたことをもじったものとする。また、「昧くない本来」とも読みうる、とする。「頭正尾正」は、書き下し「頭正しく尾正し」(ずしょうびしょう)、頭から尾まで正しい、始めから終わりまで一貫して正しい。訳文は二語を訳さずに残した。
- 明珠は面目なり、明珠は眼睛なり:明珠は面目であり、明珠は眼睛である。「面目」は、顔・顔かたち、そのもののありのままの姿。「眼睛」は、眼(ひとみ)。宗務庁版英訳は「明珠はその顔、明珠はその眼」と訳し、「その」を前の句(不昧本来の頭正尾正)を受けるものとする。誰の(何の)面目・眼睛かは原文に示されておらず、訳文では補わなかった。
黒山鬼窟の進歩退歩#
【4】しかしながら、われもなんじも、「どのようなものが明珠であるか」「どのようなものが明珠でないか」を知らない百思百不思(百たび思い、百たび思わないこと)は、明明の草料を結んできたけれども、玄沙の法道によって、明珠であった身心の様子をも聞き知り、明らかにしたからには、心はわたくし(のもの)ではない。(その心の)起滅を、だれとして、「明珠である」「明珠ではない」と取舎に思いわずらうことがあろうか。たとえ迷い思いわずらうとしても、明珠でないのではない。明珠でないものがあって起こさせた行(おこない)でも念(思い)でもないのだから、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これが一顆明珠であるばかりである。
語注
- しかあれども:しかしながら。【3】で述べたことを受けて、迷い・疑いのありようへ話を転じる語と取った。
- われもなんぢも:われもなんじも。禅師自身と聞き手(読み手)と取った。
- いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざる:書き下しにならえば「如何なるか是れ明珠、如何なるか是れ明珠にあらざる」。どのようなものが明珠か、どのようなものが明珠でないか。問答の問いの形(いかなるかこれ〜)を和文の中に用いたものと取った。
- 百思百不思:書き下し「百思・百不思」(ひゃくし・ひゃくふし)。百たび思うこと、百たび思わないこと(あれこれと思いはかること、思わないこと)。宗務庁版英訳の注は、この句に「思量箇不思量底」(箇の不思量底を思量す)の言い回しとの言葉遊びもあるかもしれない、とする。訳さずに残し、( )に意を添えた。
- 明明の草料をむすびきたれども:明明の草料を結んできたけれども。「草料」は、まぐさ(家畜の飼料)。宗務庁版英訳の注は、この句を、「明らかなり、百草の頭(tips of the hundred grasses)」という言い回しとの込み入った言葉遊びとし、禅師がその「草頭(草の先)」を「草料(まぐさ)」に置き換えたこと、「草料」が禅で議論の題材を言うのに常に用いられる語(「考えるための糧」のようなもの)であることを述べる。もとの言い回しの漢文の形は、ここでは示さない。「むすぶ」を、(草を)束ねる・たばねる、の意と取った(宗務庁版英訳 "have bundled")。「百思百不思」が主語で、知らないままにあれこれ思うことが草料をたばねてきた、と取ったが、この句全体が何を言うのかは決めなかった。
- 玄沙の法道:玄沙の法のことば(第一回の【10】〜【15】の「尽十方世界是一顆明珠」の句と問答)。宗務庁版英訳は「玄沙の法のことば(the dharma words of Xuansha)」と訳す。
- 明珠なりける身心の様子:明珠であった身心のありよう。「けり」を、気づき(〜であったのだ)と取った。「様子」は【2】の語注参照。
- ききしり、あきらめつれば:聞き知り、明らかにしたからには。「あきらむ」は、明らかにする・はっきり見きわめる。「つれば」は、〜したので・〜したからには。
- 心これわたくしにあらず:心は「わたくし」ではない。「わたくし」を、自分(のもの)、個人の私的なもの、と取った。宗務庁版英訳は「心はわれわれ自身のものではない(not our own)」と訳す。
- 起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん:(心の)起滅(起こること・滅すること)を、だれとして、「明珠である」「明珠ではない」と、取舎に思いわずらうことがあろうか。訳文は反語(思いわずらうことはない)と取った。宗務庁版英訳は「その起滅が、まさしくだれとして明珠であり、あるいは明珠でないのか――その取り捨ては、われわれを悩ませもしよう」と訳し、注で、心がわれわれ自身のものでないのなら、だれの心が明珠とされているのかと問うことにもなろう、の意とする。反語と取るか、推量と取るかで文意が分かれる。
- たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず:たとえ迷い思いわずらうとしても、明珠でないのではない(明珠である)。宗務庁版英訳は「迷い悩むことさえも、明珠でないのではない」と訳す。
- 明珠にあらぬがありておこさせける行にも念にもにてはあらざれば:明珠でないものがあって起こさせた行(おこない)でも念(思い)でもないのだから。宗務庁版英訳は「明珠でないものによって引き起こされる行いも思いも存在しないのだから」と訳す。
- 黒山鬼窟の進歩退歩:黒山鬼窟(黒山の鬼の住む洞窟)の中での進歩退歩(一歩進み一歩退くこと)。「黒山鬼窟」は、第一回の【15】・前回の【8】の玄沙のことば「知汝向黒山鬼窟裏作活計」(書き下し「知る、汝が黒山鬼窟裏に向かって活計を作すことを」)を受ける。宗務庁版英訳の注は、「進歩退歩」が『正法眼蔵』に何度か見える語で、前後への動きを言うほか、あらゆる活動、動と静などをも指しうる、とする。訳さずに残し、( )に意を添えた。
- これ一顆明珠なるのみなり:これが一顆明珠であるばかりである。玄沙が僧の答えに対して言ったことば(黒山鬼窟)が、そのまま一顆明珠の内のこととして収められて巻が結ばれる、と取った。玄沙のことばを僧を叱り退けるものとだけ取るかどうかは、第一回・前回で読みの幅を残しており、ここでも決めない。
巻末題#
訳文
『正法眼蔵』一顆明珠(の巻)
語注
- 巻末題:巻の終わりを示す題。本書の底本の巻末題には巻番号がない。巻頭題にも番号はない(第一回参照)。
- 巻の番号:宗務庁版英訳の巻末題は「第七」とし、これは七十五巻本の番号である。宗務庁版英訳の解題は、この巻が六十巻本・七十五巻本のどちらでも第七、本山版では第四の巻であるとする。
奥書#
訳文
書き下し 爾の時、嘉禎四年四月十八日、雍州宇治県観音導利興聖宝林寺に在りて衆に示す。
そのとき、嘉禎四年(1238年)四月十八日、雍州宇治県の観音導利興聖宝林寺において、大衆に示した。
書き下し 寛元元年癸卯閏七月二十三日、越州吉田郡志比荘吉峰寺の院主房に于いて書写す。侍者比丘懐弉。
寛元元年癸卯(1243年)閏七月二十三日、越州吉田郡志比荘の吉峰寺の院主房において、書き写した。侍者比丘懐弉。
語注
- 爾時:そのとき。この巻を示した時を言う。
- 嘉禎四年四月十八日:嘉禎四年は1238年。宗務庁版英訳はこの日付を西暦1238年6月2日にあてる。宗務庁版英訳の解題は、この巻が1238年の初夏に興聖寺で書かれたもので、禅師の『正法眼蔵』の諸巻への本格的な取り組みの始まりをしるす巻である、とする。
- 雍州宇治県:地名。宗務庁版英訳は "Uji District, Yōshū" と訳し、注に説明はない。ここでは説明を加えない。
- 観音導利興聖宝林寺:寺名。宗務庁版英訳は "Kannon Dōri Kōshō Hōrin Monastery" と訳す。宗務庁版英訳の解題がこの巻の撰述の地を興聖寺とするので、興聖寺の正式の名と取った。観音導利院と興聖寺の関係については、『摩訶般若波羅蜜』第三回の語注「観音導利院」参照。
- 示衆:大衆(修行者たち)に示すこと、説き示すこと。
- 寛元元年癸卯閏七月二十三日:寛元元年は1243年。「癸卯」はその年の干支(みずのと・う)。「閏七月」は閏月の七月(宗務庁版英訳 "intercalary seventh month")。宗務庁版英訳はこの日付を西暦1243年9月8日にあてる。示衆からおよそ五年後にあたる。
- 越州吉田郡志比荘:地名。宗務庁版英訳は "Shihi Estate, Yoshida District, Esshū" と訳し、注に説明はない。説明は加えない。
- 吉峰寺:寺名。宗務庁版英訳は "Kippō Monastery" と訳す。吉峰寺(吉峰精舎)については、『摩訶般若波羅蜜』第三回の語注「吉峰精舎」参照。
- 院主房:院主の居室。宗務庁版英訳は「院(cloister)の長の住まい(the residence of the head of cloister)」と訳す。
- 書写于:〜において書き写した。前の行の示衆の記録とは別の、写本作成の記録である。
- 侍者比丘懐弉:侍者(住持のそば近くに仕える役の僧)であり比丘である懐弉。宗務庁版英訳は「侍者、比丘懐弉(The acolyte, Bhikṣu Ejō)」と訳す。懐弉の伝については、宗務庁版英訳のこの章の注に記述がないので、ここでは補わない。
- この奥書の伝本:宗務庁版英訳の注は、七十五巻本系の写本にはこの巻の奥書がない、とし、宗務庁版英訳は洞雲寺本の奥書として、この二つの奥書を掲げる。
解説#
はじめに――巻の結びに置かれた「しかあればすなはち」#
この巻は、三回に分けて読んでいます。第一回では、玄沙師備禅師の伝と、「尽十方世界是一顆明珠」という句をめぐる、玄沙と一人の僧との問答を読みました(第一回の【1】〜【15】)。前回の第二回では、その句と問答とを、道元禅師が一語一語とりあげて説き示される拈提の段を読みました(前回の【1】〜【8】)。
今回は、その最終回です。読むのは、次のところです。
| 段 | 内容 |
|---|---|
| 【1】全身これ明珠 | 明珠の有如無始、全身、明珠の功徳 |
| 【2】衣裏・頷下・髻中の珠 | 経典・伝承の珠と、酔酒の時節の親友 |
| 【3】既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり | 知ること・疑うことと明珠、彩光、不落有落、不昧本来 |
| 【4】黒山鬼窟の進歩退歩 | 玄沙の法道によって、迷いの歩みも一顆明珠 |
| 巻末題 | 正法眼蔵 一顆明珠 |
| 奥書 | 嘉禎四年の示衆と、寛元元年の書写の記 |
今回の段は、「しかあればすなはち」という言葉で始まります。そうであるから、と。前回の拈提は、玄沙が僧に向けて言った「知汝向黒山鬼窟裏作活計」(前回の【8】)という言葉をとりあげたところで終わっていました。その拈提の全体を受けて、ここから禅師は、もう玄沙の言葉を一句ずつ追うのではなく、「明珠」そのものについて、ご自身の言葉で語ってゆかれます。経典に出てくる珠、伝承に語られる珠、そして最後には、玄沙が僧に向けて言った「黒山鬼窟」という言葉までもが、一顆明珠のうちに収められて、巻が閉じられます。
読み方の手順は、これまでと同じです。まず、何が言われているかを字面のうえで確かめ、そのうえで、それが何を指して言われているのかを考えます。今回の範囲は、この巻のなかでも、とりわけ一句ごとに読みの分かれるところです。解説では、読みの決めにくい箇所では読みの幅を残したまま、訳文の読みに沿って要点を述べるにとどめ、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。典拠となる経典や祖師の語などは、宗務庁版英訳の注が挙げる範囲で示し、それ以上は補いません。そのうえで、坐禅や日々の修行、暮らしとのつながりを、一つの受けとめ方として申し添えてまいります。
全身これ明珠〔【1】〕#
「有如無始は無端なり」#
「しかあればすなはち、この明珠の有如無始は無端なり」。
最初の一句から、読みの難しい言葉が並びます。
「有如無始」という四字は、ほかではあまり見かけない言い方です。宗務庁版英訳の注は、これを「有如」と「無始」の二つの語の組み合わせと取り、「ありのままであること(如であること)」と「始まりのないこと」と訳しています。その根拠として、『永平広録』に同じ四字が逆の順で「無始有如」と出ることを挙げ、同時に、「このような無始を有する」と一続きに読むこともできる、と添えて、訳を「仮の訳」としています。「無端」についても、同じ注は、「起こりがない」とも「いわれがない」とも取れる語である、としています。現代語訳では、どちらの語も訳さずに残しました。
このように、この一句を一つの意味に定めることはできません。ただ、どの読みに立つとしても、「始まり」「端(はし)」をもたない、という向きの言葉が重ねられていることは、字面から確かめられます。明珠は、いつかどこかで始まったものではなく、どこかに端があって、そこから先は明珠でない、というものでもない。そう受けとめるならば、前回読んだ「一顆珠は、直須万年なり。亙古未了なるに亙今到来なり」(前回の【3】)という言葉とも、響きあうように思われます。もとより、二つの箇所を結びつけるのは、巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。
「両顆三顆といはず」#
「尽十方世界一顆明珠なり、両顆三顆といはず」。
尽十方世界は一顆の明珠であって、二つぶ、三つぶとは言わない。玄沙の句をそのまま受けて、「一顆」であることを念を押すように言われます。
数えることは、分けることです。これは一つ、あれはもう一つ、と数えるとき、私たちは、ものとものとのあいだに境目を引いています。「両顆三顆」と言わないのは、そのような境目の引きようがない、ということだ、と受けとめることもできるでしょう。上の「無端」、端がない、という言葉とも、ひとつながりに読めるところです。
「全身これ一隻の正法眼なり」――全身これ全身なり#
「全身これ一隻の正法眼なり、全身これ真実体なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全身なり」。
ここで「全身」という言葉が、五たび重ねて言われます。全身は一隻の正法眼である。全身は真実体である。全身は一句である。全身は光明である。そして、全身は全身である、と。
まず、だれの「全身」なのかが、原文には示されていません。宗務庁版英訳は、これを明珠の全身、「その全身」と訳しています。それとともに、尽十方世界の全体と取ることも、修行する人の全身、身心と取ることもできるでしょう。訳文では、主語を補いませんでした。
並べられた語については、宗務庁版英訳の注が、いくつかの響きを指摘しています。「一隻の正法眼」は、九世紀の長沙景岑のことばを思い起こさせるものか、とされ、「真実体」は、玄沙自身の「尽十方界是箇真実人体」という言葉を思い起こさせるものか、とされています。また、「光明」は、仏の身をとりまく光について常に用いられる語である、とされます。とくに「真実体」については、玄沙自身に、尽十方界をまことの人の身と言い表した言葉がある、ということになります。尽十方世界を一顆の明珠と言い、また尽十方界を真実の人体と言う。そうであれば、「全身」を、明珠の全身とも、尽十方世界の全体とも、そして人の全身とも、重ねて読みうる余地があるように思われます。ただ、どれか一つに決めることは、ここではいたしません。
この並びの結びは、「全身これ全身なり」です。この形で読むと、並びは、一隻の正法眼、真実体、一句、光明、と四たび言いかえたあとで、最後に、全身は全身である、と同じ語にもどって閉じられることになります。これを、ほかの何に言いかえても言い尽くせない、全身そのものを言うもの、と取ることもできますし、前の四つの言いかえを、もう一度「全身」にまとめて返すもの、と取ることもできるでしょう。どちらに取るにせよ、正法眼と言い、真実体と言い、一句と言い、光明と言っても、それは全身から離れた別のものではない、ということは、この同じ語の繰り返しから受けとめてよいように思われます。
坐禅の上で申しますと、宗門では、坐禅を、頭や心だけでするものではなく、身をもってするものとして大切にしてきました。足を組み、手を組み、背をのばし、呼吸をととのえる。その全身の坐が、そのまま仏の行である、と。「全身これ一隻の正法眼なり」という言葉を、坐る私たちの身に引きよせて受けとめるならば、正法の眼は、どこか頭のなかにひそんでいるのではなく、全身で坐るその坐のところに開いている、と味わうこともできるでしょう。もとより、この段は坐禅について直接に語っているわけではなく、これは坐禅を行ずる者としての一つの受けとめ方です。
「全身のとき、全身の罣礙なし」――円陀陀地、転轆轆#
「全身のとき、全身の罣礙なし。円陀陀地なり、転轆轆なり」。
全身であるとき、全身の罣礙、さまたげはない。まんまるであり、ころころと自在に転がる、と。
「全身の罣礙なし」の「全身の」をどう取るかで、読みが分かれます。全身が何かにさまたげられることがない、と取ることも、全身がほかをさまたげることがない、と取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、字義どおりには「全身の罣礙がない」で、全体であることに(あるいは全体であることによって)限られない、という意味か、としています。全体であるということさえも、一つの枠になって明珠をしばることはない、という受けとめ方です。訳文は、原文の形のままにしておきました。
続く「円陀陀地」「転轆轆」について、宗務庁版英訳の注は、どちらも音の繰り返しをもつ慣用の言い回しで、前者は完全な円さを、後者は自在な回転を表す、としています。
珠は、まるいものです。まるいものには、角がありません。どこかにひっかかるところがない。そして、ころころと転がる。止まっているのではなく、どこへでも、自在に動いてゆく。前の「罣礙なし」を、このまるさ、転がるさまで言い表した、と受けとめることもできるでしょう。この「転」の字は、【3】の「転不転」という言葉にも、もう一度出てきます。
「見色聞声の観音弥勒」「現身説法の古仏新仏」#
「明珠の功徳かくのごとく見成なるゆゑに、いまの見色聞声の観音弥勒あり、現身説法の古仏新仏あり」。
明珠の功徳がこのように見成している、現れ成っているから、いまの、色を見、声を聞く観音・弥勒があり、身を現して法を説く古仏・新仏がある、と。
宗務庁版英訳の注は、観音・弥勒をこのように言い表したのは、観音の名が「声を観る者」、祈る人々の声を聞きとる者の意であることによるものか、としています。また、「現身説法」は、法華経の普門品の名高い一節を思い起こさせる、としています。
この「いまの」がどこにかかるのかは、決めがたいところです。いま、ここに現れている観音・弥勒、と取ることもできますし、いま色を見、声を聞いている、私たちのはたらきの上の観音・弥勒、と取ることもできるでしょう。また、「古仏新仏」を、過去の仏と新たに成る仏と取るのか、古今のあらゆる仏と取るのかにも、幅があります。
後の読みに立つならば、ここには、たいへん身近なことが言われていることになります。色を見る、声を聞く。朝、目をあければ光が見え、鳥の声や人の声が聞こえる。そのごくあたりまえのはたらきのところに、観音・弥勒がある、と。『現成公案』の巻で読んだ「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに」(『現成公案』第一回の【7】)という言葉も、思い合わされます。色を見、声を聞くのに、身心をあげて、全身で見、全身で聞く。そう受けとめるならば、【1】の段の「全身」と、この「見色聞声」とは、ひとつながりに読めるかもしれません。もとより、二つの巻の言葉を結びつけるのは、両方を読んできた者の一つの受けとめ方です。
いずれの読みに立つにしても、この段の運びは、はっきりしています。「明珠の功徳かくのごとく見成なるゆゑに」、明珠の功徳がこのように現れているから、観音・弥勒があり、古仏・新仏がある。仏・菩薩が、明珠の外にあって明珠を照らしているのではなく、明珠の功徳の現れとして、仏・菩薩がある、という言い方になっていることは、心にとめておきたいと思います。
衣裏・頷下・髻中の珠〔【2】〕#
珠のありか#
「正当恁麼時、あるひは虚空にかかり、衣裏にかかる、あるひは頷下にをさめ、髻中にをさむる、みな尽十方世界一顆明珠なり」。
まさにこのような時、あるいは空にかかり、衣の裏にかかり、あるいはあごの下におさめ、髻(もとどり)の中におさめる――それらはみな、尽十方世界一顆明珠である、と。
ここに挙げられた四つの珠には、それぞれ典拠があるとされます。宗務庁版英訳の注によれば、空にかかる珠は、『菩薩瓔珞経』の、値のつけられない宝珠が仏と会衆の上の空を照らす場面をふまえるものか、とされます。衣の裏の珠は、法華経の名高いたとえ、すなわち、酒に酔って眠っている人の衣の裏地に、その友が値のつけられない宝珠を縫いつける話をふまえる、とされます。あごの下の珠は、あごの下に宝珠をもつという中国の伝承の黒竜(例として『荘子』列御寇篇)を、髻の中の珠は、法華経が自らを王の髻の中の宝珠にたとえることを、それぞれふまえる、とされています。経文や本文は、ここでは引かずにおきます。
また、宗務庁版英訳の解題は、仏教の文献のなかで、珠はさまざまなたとえとして用いられてきた、と述べています。
禅師はここで、そうした名高い珠を、つぎつぎに挙げてゆかれます。そして、それを「みな尽十方世界一顆明珠なり」と、一つに収められます。経典の珠も、伝承の珠も、ほかの珠ではない。どれも、玄沙の言った一顆明珠である、と。
「正当恁麼時」、まさにこのような時、が何を指すのかにも幅があります。【1】で述べた、明珠の功徳が見成しているその時、と取ることもできますし、それに限らず、まさにいまこの時、どの時も、と取ることもできるでしょう。また、四つの珠が、空に「かかる」か、衣の裏に「かかる」か、あごの下・髻の中に「をさむる」か、という所在の違いに意味を見るかどうかも、読みの分かれるところです。
「おもてにかけんと道取することなかれ」#
「ころものうらにかかるを様子とせり、おもてにかけんと道取することなかれ。髻中頷下にかかるを様子とせり、髻表頷表に弄せんと擬することなかれ」。
珠は、衣の裏にかかっているのを、そのありようとしている。表にかけようと言ってはならない。髻の中、あごの下にかかっているのを、そのありようとしている。髻の表、あごの表に出して、もてあそぼうとしてはならない、と。
「様子」という語を、訳文では「ありよう」と取りましたが、宗務庁版英訳は、これを「標準・決まり」の意に訳しています。また、この戒めの意味も、いくつかに取れます。珠を外に出して見せびらかそうとするな、隠れたままのありようが、そのまま珠のありようなのだ、と取ることもできますし、衣の裏の珠を、表にあるはずのものとして探し求めるな、と取ることもできるでしょう。なお、前の文では頷下・髻中に「をさむる」と言い、ここでは「かかる」と言っています。この語の違いに意味を見るかどうかも、決めずにおきます。
訳文の読みに沿って、一つの受けとめ方を申し上げてみます。
衣の裏に縫いつけられた珠は、外からは見えません。けれども、見えないからといって、そこにないのではない。訳文の読みでは、むしろ、衣の裏にかかっていることこそが、その珠のありようである、と言われていることになります。それを、わざわざ表にかけて、人に見えるようにしよう、と言ってはならない。
これを修行の上に置きかえてみると、こう受けとめることもできるでしょう。私たちは、ともすると、仏法をわが身の表に出して、目に見えるかたちで確かめたい、人にも示したい、と思います。自分はこれだけわかった、これだけ修行した、と。けれども、明珠は、衣の裏にかかっているのを様子としている。外から見えるかどうかにかかわらず、すでにかかっている。それを表にかけて見せようとすることは、かえって明珠のありようから離れることになるのかもしれません。
宗門では、修行を、人に見せるためではなく、ただ黙々と行ずるものとして大切にしてきました。「おもてにかけんと道取することなかれ」という言葉を、そのような修行の姿勢に重ねて受けとめることもできるでしょう。もとより、これは訳文の読みに立った一つの受けとめ方です。
「酔酒の時節にたまをあたふる親友あり」#
「酔酒の時節にたまをあたふる親友あり、親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり」。
酒に酔っている時節に珠を与える親友がいる。親友には必ず珠を与えるはずである。珠をかけられる時節には、その人は必ず酒に酔っているのである、と。
これは、先に見た法華経の衣裏の珠のたとえを受けた言葉です。宗務庁版英訳の注が述べるところによれば、そのたとえでは、友が、酒に酔って眠っている人の衣の裏地に、宝珠を縫いつけるのでした。
この三つの文は、たとえの筋を追っているようでいて、言い方が少しずつ変わってゆきます。最初の文は、酔っている時に珠を与える親友がいる、と、たとえの筋をなぞります。次の「親友にはかならずたまをあたふべし」は、だれがだれに与えるのかが原文に示されていません。親友は、その友に必ず珠を与えるものだ、と取ることも(宗務庁版英訳はこの向きに訳します)、親友であるならば、必ず珠を与えよ、と取ることも、また、珠が与えられるのは、必ず親友の間柄においてである、と取ることもできるでしょう。与える者も、与えられる者も、どちらも「親友」と呼びうる言い方になっています。そして最後の「かならず酔酒するなり」は、珠をかけられる時、その人は必ず酔っている、と言います。これを、たとえの筋をそのままなぞったものと取ることもできますし、酔っていることを、ただ迷いのたとえとしてだけでなく、珠を受ける時のありようとして言っている、と取ることもできるでしょう。訳文は、字義どおりにとどめました。
ここで、一つのことに心をとめておきたいと思います。注が述べるたとえのなかで、珠を縫いつけられた人は、酔って眠っていました。眠っているその時には、珠を与えられたことに気づいていないはずです。それでも、珠は、たしかに衣の裏にかかっています。珠がかかるのは、その人が目ざめて、珠を受けとる用意ができた時ではない。酔っている、その時節に、珠はかけられるのです。
これを、私たち自身に引きよせて受けとめることもできるかもしれません。私たちは、自分が明珠であることを知りません。ものごとにとらわれ、あれこれと思いわずらい、いわば酔ったように日を送っています。けれども、明珠は、私たちが目ざめてからかかるのではない。迷い、とらわれている、いまのこの身に、すでにかかっている。「たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり」という言葉を、そのように受けとめるならば、それは、私たちを責める言葉ではなく、迷いのただなかにある身に向けられた言葉として響いてくるように思われます。もっとも、「酔酒」をどう受けとめるかは、上に見たとおり読みの分かれるところであり、ここに申し上げたことも、その一つにすぎません。
この受けとめ方は、次の【3】【4】の段で、迷いや疑いもまた明珠のうちにある、と言われていくこととも、ひとつながりに読めるように思われます。
既是恁麼〔【3】前半〕#
「既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり」#
「既是恁麼は、尽十方界にてある一顆明珠なり」。
「既是恁麼」、すでにこのようである、それは、尽十方界である一顆明珠である、と。
宗務庁版英訳の注は、この「既是恁麼」が、雲居道膺(902年没)のものとされる名高いことばをふまえるもので、下に「既得恁麼」として繰り返される、としています。そのことばの本文は、ここでは引きません。
だれが、あるいは何が「すでにこのようである」のかは、原文に示されていません。宗務庁版英訳は、これを「あなたがすでにこのようであるからには」と、雲居の句の形に寄せて訳しています。また、すでにこのようであること、そのあり方そのものと取ることも、明珠がすでにこのようであることと取ることもできるでしょう。
なお、本書の原文では、この文から新しい段落が始まりますが、宗務庁版英訳は、この文を前の衣裏の珠の段の終わりに置いて訳しています。前の段を結ぶ文と見れば、酔って眠る人も、すでにこのようである、すでに一顆明珠である、と受けとめることになり、次の展開を始める文と見れば、ここから、知ること、疑うこと、迷うことの話が、「すでにこのようである」ところから語りだされる、ということになるでしょう。
「まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり」#
「しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。明珠はかくのごとくきこゆる声色あり」。
そうであるから、転がる・転がらないと、おもてを変えていくのに似ているけれども、それがそのまま明珠である。まさしく「珠はこのようであったのだ」と知る、それがそのまま明珠である。明珠には、このように聞こえる声と色がある、と。
ここにも、読みの幅がいくつも重なっています。「転不転」を、【1】の「転轆轆」を受けて、転がる・転がらない、と取るのか、迷いから悟りへ、などと、転じる・転じない、と取るのか。「おもてをかへゆく」のは、明珠なのか、明珠を見る私たちの見え方なのか。「たまはかくありける」を、珠はこのようであったのだ、という気づきと取るのか(訳文)、宗務庁版英訳のように、このような珠がまさしくある、と取るのか。「きこゆる」を、耳に聞こえる、と取るのか、知られる・言われる、と取るのか、宗務庁版英訳のように、知覚される、と取るのか。
読みの幅を残したうえで、この段の運びに目をとめておきたいと思います。ここでは、「すなはち明珠なり」「すなはちこれ明珠なり」と、同じ言い方が重ねられています。転がったり転がらなかったり、すがたを変えてゆくように見える、そのことが、そのまま明珠である。そして、珠はこのようであったのだと知る、その知ることが、そのまま明珠である、と。
宗務庁版英訳の解題は、この巻について、巻の終わり近くで禅師が、ただこれを知ることがそのまま明珠であり、疑うことさえ明珠である、と言うことができるのだ、と述べています。
ここで、知ることが明珠である、と言われていることに、心をとめておきたいと思います。知る私が一方にいて、知られる明珠が向こうにある、というのではない。知ることそのものが、明珠のうちのこととして言われているのです。そして、続く「明珠はかくのごとくきこゆる声色あり」の「声色」は、【1】の「見色聞声」を受けた言葉と取ることができます。色を見、声を聞く、そのはたらきのところで、明珠は、このように聞こえる声と色として現れている、と受けとめることもできるでしょう。
「われは明珠にはあらじとたどらるるは」#
「既得恁麼なるには、われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり」。
すでにこのようであることを得ているからには、「われは明珠ではあるまい」と迷い思われることについても、「それは珠ではあるまい」と疑ってはならない、と。
ここは、この回のなかでも、とりわけ読みの分かれるところです。
「既得恁麼」は、宗務庁版英訳の注によれば、上の雲居のことばの変形とされます。これを、すでにこのようであることを得ているからには、と取るのか(訳文)、宗務庁版英訳のように、すでにこのようであることを得たときに、と取るのか。「たどらるる」の「らるる」を、つい迷い思われる、という自発と取るのか(訳文)、ほかの意に取るのか。そして文全体の意味も、少なくとも三通りに取れます。(a)「明珠ではあるまい」という迷いそのものを、「明珠ではない」と疑ってはならない、迷いもまた明珠である、と取る読み(訳文の向き)。(b) 宗務庁版英訳の訳の字面のように、迷う者は、自分が明珠でないことについて疑わずにいるがよい、と取る読み。(c) 迷う者も、「珠ではない」と疑う必要はない、迷いがそのまま明珠だから、と取る読み。
訳文の読みに沿って、一つの受けとめ方を申し上げてみます。
尽十方世界が一顆明珠である、と聞いても、私たちは、なかなかそうは思えません。「世界は明珠かもしれない。けれども、この私は、とても明珠などではあるまい」。迷い、とらわれ、思いわずらう自分を見るとき、そう思うのは、むしろ自然なことでしょう。禅師は、そのように迷い思うこと、「われは明珠にはあらじ」と思うこと、それについても、「これは珠ではあるまい」と疑ってはならない、と言われるのです。
先に、【2】の段で、珠をかけられる時節には、その人は必ず酒に酔っている、という言葉を読みました。酔っている人が、自分が珠をかけられていることを知らないように、私たちは、自分が明珠であることを知らず、「われは明珠にはあらじ」と迷います。けれども、その迷っているところにも、珠はすでにかかっている。そう受けとめるならば、ここで禅師が言われていることは、迷う私たちをつき放す言葉ではなく、迷いのただなかにある者に、その迷いもまた明珠の外ではない、と告げる言葉として聞こえてきます。
『現成公案』の巻に、次の言葉がありました。「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」(『現成公案』第一回の【6】)。諸仏がまさしく諸仏であるとき、自分は諸仏であると知覚することを必要としない。けれども、仏を証している、と。自分が明珠であると知っているかどうか、思えるかどうかによって、明珠であることが決まるのではない。二つの巻の言葉は、言い方は違っても、同じ方向を向いているように思われます。もとより、これは二つの巻を並べて読む者の一つの受けとめ方です。
「ただしばらく小量の見なり」#
「たどりうたがひ、取舎する作無作も、ただしばらく小量の見なり、さらに小量に相似ならしむるのみなり」。
迷い思い、疑い、取ったり捨てたりする、はからうこともはからわないことも、ただしばらくの小さな見方であり、さらに(明珠を)小さなものに似せてしまうだけである、と。
ここにも読みの幅があります。「作無作」を、はからうこと・はからわないことと取るのか、宗務庁版英訳のように、行為と非行為と取るのか。「しばらく」を、一時の、仮の、と取るのか(宗務庁版英訳は「一時の」と訳します)、ひとまず、ともかくも、と取るのか。そして、「相似ならしむる」の目的語は示されていませんが、宗務庁版英訳の注は、おそらく「明珠」であろう、としています。訳文はこれに従って(明珠を)と補いました。
前の文で、迷いもまた明珠の外ではない、と受けとめました。けれども、それは、迷ったり疑ったりすることを、そのままでよいとほめているのではないようです。ここで禅師は、迷い、疑い、取ったり捨てたりすることを、「小量の見」、小さな見方である、と言われます。そして、それは明珠を小さなものに似せてしまうだけだ、と。
これは、前の文と矛盾するようにも見えます。けれども、二つを合わせて、こう受けとめることもできるでしょう。迷いや疑いが起こること、それ自体も明珠の外ではない。けれども、それにとらわれて、あれは明珠、これは明珠でない、と取ったり捨てたりして思いはかるとき、私たちは、果てのない明珠を自分の小さな物差しにあてはめ、小さなものに似せてしまう。そして「しばらく」を「一時の」と取るならば、その小さな見方も一時のことである、と言われていることになります。
彩光きはまりなし〔【3】後半〕#
「愛せざらんや」#
「愛せざらんや、明珠かくのごとくの彩光きはまりなきなり。彩彩光光の片片條條は、尽十方界の功徳なり」。
愛さずにいられようか。明珠のこのような彩光、いろどりと光は、きわまりがないのである。色という色、光という光の、ひとかけ、ひとすじは、尽十方界の功徳である、と。
「愛せざらんや」。ここで禅師の言葉は、ふと、調子を変えるように見えます。それまでの、知ること、疑うこと、取ったり捨てたりすることをめぐる言葉から、愛さずにいられようか、という言葉へ。宗務庁版英訳も、ここから新しい節を立てています。
前の文で、取ったり捨てたりする見方は、明珠を小さなものに似せてしまう、と言われました。それに対して、ここでは、明珠の彩光は「きはまりなきなり」、きわまりがない、と言われます。取ったり捨てたりして思いはかるのではなく、そのきわまりのない光を、ただ愛する。その向きの違いに、心をとめておきたいと思います。
「彩彩光光の片片條條」。色の一つ一つ、光の一つ一つの、ひとかけら、ひとすじ。前回読んだ拈提には、「たれか片片なりと見徹するあらん」(前回の【1】)という言葉がありました。ここでふたたび「片片」の語が出てきます。二つの「片片」をどう結びつけて読むかは、読む者に委ねられていますが、ここでは、ひとかけら、ひとすじの光の一つ一つが、そのまま「尽十方界の功徳」である、と言われていることを確かめておきます。きわまりのない明珠の光は、ぼんやりと一面に広がる光ではなく、ひとかけら、ひとすじに分かれて輝きながら、その一つ一つが尽十方界の功徳である、と。
暮らしのなかに引きよせて受けとめるならば、朝の光、庭の草の色、器に盛られた食事の色あい、そうしたひとかけら、ひとすじの彩りの一つ一つを、尽十方界の功徳として愛する、ということになるかもしれません。
「行市に甎をなぐる人あらず」#
「たれかこれを攙奪せん、行市に甎をなぐる人あらず」。
だれがこれを攙奪しようか。行市、市場で、甎、かわらを投げる人はいない、と。
この二つの文は、典拠をふまえた、たいへん読みの難しいところです。宗務庁版英訳の注は、「攙奪」を「力ずくで取る」(あるいは「思いのままにする」)の意に取り、続く「行市」と合わせて、『正法眼蔵』に何度か見える「攙奪行市」、市場を牛耳る、という意の句を、禅師が思い起こしているらしい、としています。そして、「甎をなぐる」は、「抛甎引玉」、甎を投げて玉を引く、という成句の前半を和語に移したもので、この成句は、文人のあいだでは、自分の詩に相手の付け句を求める謙遜の言い方であり、転じて、禅の問答では、差し出した以上のものを返してもらうことをいう、としています。
この典拠をふまえて、いくつかの読み方が考えられます。尽十方界の功徳を前にしては、甎を投げて玉を得ようとするような取り引きをする者はいない、と取る読み。明珠の功徳は、市場で値をつけて取り引きするようなものではない、と取る読み。また、だれもがすでに珠そのものなので、甎、劣ったものを投げる者が、そもそもいない、と取る読み。訳文は字義どおりにとどめ、「攙奪」の文は、だれも奪い取ることはできない、という反語と取りましたが、問いの形のままにしておきました。
訳文の読みと、上の初めの二つの読みに沿えば、ここでは、明珠の功徳が、だれかに奪い取られたり、取り引きされたりするものではない、という向きで語られていることになります。明珠の光は、だれかが力ずくで手に入れるものでもなく、何かと引きかえに得るものでもない。
これを修行の上に置きかえてみると、宗門で大切にしてきたことに重なるように思われます。坐禅は、何かを差し出して、それ以上のものを得るための取り引きではない。これだけ坐ったから、これだけのさとりが得られる、という勘定をするものではない。弁道話には、修行の用心を授けるにも「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教える、とありました(『弁道話』第五回の【3】)。修行のほかに証を待つ思いをもってはならない、と。甎を投げて玉を引こうとする取り引きの心を離れて、ただ行ずる。「行市に甎をなぐる人あらず」という言葉を、そのような修行のありように引きよせて受けとめることもできるでしょう。もとより、これは典拠の読みも定まらないところでの、一つの受けとめ方です。
「六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ」――因果を否定するのではない#
「六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ」。
六道の因果に、落ちる・落ちないを思いわずらってはならない、と。
「六道」は、宗務庁版英訳の注によれば、生死をくりかえす六つの境涯のことです。そして同じ注は、この句が、百丈懐海禅師(749–814)と、大修行の人は「因果に落ちない(不落因果)」と言ったために野狐に生まれかわった師との名高い話をふまえる、としています。話の本文は、ここでは引きません。
この句は、誤って受けとられやすいところですので、ていねいに見ておきたいと思います。
「因果に落ちる・落ちないを思いわずらうな」。これを、字面だけで、因果など気にしなくてよい、善いことをしても悪いことをしても同じだ、という意味に受けとるならば、それは、この句の読み方として成りたたないと思われます。宗門では、因果の道理を深く信じることを大切にしてきました。また、宗務庁版英訳の注が示す典拠の話は、大修行の人は「因果に落ちない」と答えた師が、そのために野狐の身に生まれかわった、という話でした。その話をふまえた句であることを思えば、この句を、因果をないものとして退ける言葉と受けとるのは当たらない、と受けとめておきたいと思います。
では、何を「わづらふことなかれ」と言われるのか。ここにも幅があります。落ちる落ちないということにとらわれて思いわずらうな、と取る読み。六道の因果のただなかも明珠のうちにあるのだから、落・不落を問題にしない、と取る読み。また、「有落」という語が、「不落」に対して禅師が用いた語なのか、典拠のどの語にあたるのかも、決めがたいところです。
一つの受けとめ方を申し上げるならば、この句の前の段で、禅師は、迷い、疑い、取ったり捨てたりする「小量の見」について語っておられました。「自分は因果に落ちるのか、落ちないのか」と、自分の身の行く末を、損か得かのように思いはかること。それもまた、取ったり捨てたりする小さな見方の一つである、と受けとめることもできるかもしれません。因果をおろそかにせよ、というのではなく、因果を、自分の取り引きの勘定として思いわずらうことを離れて、因果のただなかで、ただ明珠として行ずる。そのように読むこともできるでしょう。
なお、この野狐の話は、本書の底本である本山版のなかでは、「大修行」「深信因果」の巻でとりあげられています。それらの巻での禅師の示しと、この句との関わりについては、それぞれの巻を読むときにあらためて見ることにし、ここでは立ち入らずにおきます。
「不昧本来の頭正尾正なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛なり」#
「不昧本来の頭正尾正なる、明珠は面目なり、明珠は眼睛なり」。
本来に昧くない、頭から尾まで正しいところ、明珠は面目であり、明珠は眼睛である、と。
宗務庁版英訳の注は、この句を、難しく、さまざまに読まれる句であるとして、訳を「仮の訳」としています。そして、英訳では「不昧本来」を「本来に昧くないこと」と取り、野狐の話のなかで百丈禅師が、大修行の人は「因果に昧くない(不昧因果)」と答えたことをもじったものとし、また「昧くない本来」とも読みうる、としています。
ここでも読みが分かれます。「不昧本来」を、本来に昧くない、と取るのか、昧くない本来、と取るのか。「頭正尾正なる、」を、「〜であるとき(ところ)、明珠は面目である」と後へかけて読むのか、「不昧本来の頭正尾正なる」を主語として、それが明珠の面目・眼睛である、と取るのか。そして、だれの、何の、面目・眼睛なのか。訳文では補いませんでした。
注によれば、典拠の話で、百丈禅師の答えは「不昧因果」、因果に昧くない、でした。注は、ここの「不昧本来」を、その「不昧」の語をもじったものとしています。もし、そのように典拠をふまえた語と取るならば、前の句と合わせて、こう受けとめることができるでしょう。因果に落ちる落ちないを思いわずらうのではなく、昧くない、くらまされない、はっきりとしたありようのところ、頭から尾まで正しいところに、明珠は面目、顔として現れ、明珠は眼睛、眼として開いている、と。
「眼睛」という語は、【1】の段の「全身これ一隻の正法眼なり」を思い起こさせます。明珠は、全身として一隻の正法眼であり、そしてまた、明珠は眼睛である。見られるものとしての珠であるだけでなく、見る眼としての珠でもある、と受けとめることもできるかもしれません。もとより、二つの箇所の結びつきは、本文がそう言っているのではなく、一つの受けとめ方です。
黒山鬼窟の進歩退歩〔【4】〕#
「われもなんぢも」――百思百不思#
「しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は、明明の草料をむすびきたれども」。
しかしながら、われもなんじも、どのようなものが明珠であるか、どのようなものが明珠でないかを知らない、百たび思い、百たび思わないこと、それは、明明の草料を結んできたけれども、と。
最後の段は、「しかあれども」、しかしながら、と始まります。そして、「われもなんぢも」と言われます。語注では、これを禅師ご自身と、聞き手・読み手と取りました。その取り方に立てば、ここまで明珠について語ってこられた禅師が、ここで、ご自身をも含めて、われもなんじも、と言われていることになります。どのようなものが明珠で、どのようなものが明珠でないかを、知らない、と。
この文も、読みの難しいところです。宗務庁版英訳の注は、「百思百不思」に、「思量箇不思量底」という言い回しとの言葉遊びもあるかもしれない、とし、また「明明の草料」を、「明らかなり、百草の頭」という意の言い回しとの込み入った言葉遊びで、禅師がその「草頭」、草の先を、「草料」、まぐさに置き換えたもの、としています。そして、「草料」は、禅で議論の題材をいうのに常に用いられる語で、「考えるための糧」のようなものである、としています。もとの言い回しの漢文は注に示されていないので、ここでは補いません。
この「むすびきたれども」をどう受けとめるかで、読みが分かれます。知らないままの思い・思わぬことが、明らかな題材をたばねてきた、と肯定的に取る読み。思い・思わぬことが、題材をあれこれたばねるばかりで、知るには至らなかったけれども、と取る読み。また、「むすぶ」を、実を結ぶ、まとめあげる、と取る読み。そして「きたれども」の「ども」と、次の「玄沙の法道によりて」とを、どれほど強く対比させて読むか。
ここでは、一つのことだけを確かめておきたいと思います。「百思百不思」、思うことも、思わないことも、それぞれ百たびと言われています。明珠について、あれこれと思いめぐらすこと。思いめぐらすのをやめること。その両方が、ここで「しらざる」、知らないままのものとして並べられています。思えば知れる、というのでもなく、思わなければ知れる、というのでもない。
「玄沙の法道によりて」――心これわたくしにあらず#
「玄沙の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん」。
玄沙の法のことばによって、明珠であった身心のありようをも聞き知り、明らかにしたからには、心はわたくしのものではない。その起滅を、だれとして、明珠である、明珠でない、と取ったり捨てたりして思いわずらうことがあろうか、と。
「玄沙の法道によりて」。ここで、巻のはじめの玄沙の言葉に、もう一度もどってきます。思うことによっても、思わないことによっても、知らなかった。けれども、玄沙の「尽十方世界是一顆明珠」という言葉によって、身心のありようを聞き知った。「玄沙の法道によりて」、玄沙の言葉によって、と言われていることに、心をとめておきたいと思います。
宗門では、仏法は、自分ひとりの思いはかりによってではなく、仏祖の言葉、師の言葉を聞くことによって伝えられ、明らめられてゆくものと受けとめてきました。前回の拈提には、「玄沙の道は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」なり」に続けて、「この道取は、仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣す、玄沙は玄沙に嗣する道得なり」(前回の【5】)という言葉がありました。玄沙の言葉を、仏から仏へ、祖から祖へと嗣がれてゆく言葉の列に連なるものとして読むこともできます(前回は、この句の読みに幅を残しました)。その言葉を「ききしり」、聞き知る、と言われていることは、そうした嗣法・正伝の受けとめ方とつながるもの、と受けとめることもできるでしょう。
「明珠なりける身心の様子」。訳文では、「けり」を気づきと取り、「明珠であった身心のありよう」と訳しました。ここで、明珠は、ついに「身心」の上で言われます。尽十方世界が一顆明珠である、という玄沙の言葉は、世界についての言葉であると同時に、この身心についての言葉でもあった、と。前回の拈提に、「身今あり、心今ありといへども明珠なり」(前回の【3】)とあったことも思い合わされます。
そして、「心これわたくしにあらず」。この「わたくし」をどう取るかにも幅があります。宗務庁版英訳は、「心はわれわれ自身のものではない」と訳しています。そのほか、個人に閉じた私的なもの、と取ることも、自分のものとして取りこむこと、と取ることもできるでしょう。
続く「起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん」も、読みが大きく分かれます。訳文は、これを反語と取り、だれとして取捨に思いわずらうことがあろうか、思いわずらうことはない、と訳しました。一方、宗務庁版英訳は、これを推量に取り、その注で、心がわれわれ自身のものでないのなら、だれの心が明珠とされているのかと問うことにもなろう、という意味とし、取捨に悩みもしよう、と訳しています。
どちらの読みに立つとしても、すぐあとに「たとひたどりわづらふも」、たとえ迷い思いわずらうとしても、と続きます。思いわずらうことは、ここでは否定しきられずに、次の文へと受けわたされてゆく、と言ってよいでしょう。
訳文の読みに沿って、一つの受けとめ方を申し上げます。心が、私のものであるならば、私は、私の心に起こる思いを、一つ一つ自分の手でえり分けて、これは明珠、これは明珠でない、と取ったり捨てたりしなければならないでしょう。けれども、心は、私のものではない。思いは起こり、また滅する。その起滅を、私が自分の持ちものとして管理しているのではない。そうであれば、だれが、何をもって、その起滅を明珠である、明珠でない、と取ったり捨てたりすることがあろうか、と。
坐禅のなかで、私たちは、このことを身をもって知らされます。坐っていると、思いがつぎつぎに起こり、また消えてゆきます。起こすまいとしても起こり、追いかけまいとしても追いかけてしまう。その思いを、よい思い、わるい思いとえり分けて、よい思いだけを残そうとすれば、坐禅は、かえって思いの取捨に追われるものになってしまうでしょう。宗門では、坐禅を只管打坐、ただひたすらに坐ることとして大切にしてきました。そうであれば、坐禅は、思いを取ったり捨てたりすることに追われるのではなく、思いの起滅のなかで、ただ坐ることである、と受けとめることもできるでしょう。「心これわたくしにあらず」という言葉を、坐禅の上で、そのように受けとめることもできるかもしれません。もとより、この段は坐禅について直接に語っているわけではなく、これは坐禅を行ずる者としての一つの受けとめ方です。
「たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず」#
「たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行にも念にもにてはあらざれば」。
たとえ迷い思いわずらうとしても、明珠でないのではない。明珠でないものがあって起こさせた行(おこない)でも、念(思い)でもないのだから、と。
ここでも読みが分かれます。訳文は、明珠でないものがあって起こさせた行・念ではないのだから、と取りました。宗務庁版英訳は、明珠でないものによって引き起こされる行いも思いも存在しないのだから、と訳しています。
どちらの読みに立つとしても、ここで言われていることの向きは、はっきりしています。迷い、思いわずらうこと。それもまた、明珠でないのではない。なぜなら、その迷いを起こさせた何か、明珠でない何かが、どこか別にあるのではないから。行いも、思いも、明珠の外から起こってくるものではない、と。
これは、【3】の段で読んだ「われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり」(【3】)という言葉を、もう一度、別の角度から言い直したもの、と受けとめることもできるでしょう。そこでも、ここでも、同じ「たどる」という語が用いられています。迷い思うことは、明珠の外ではない。
ただし、ここでも、先に【3】の段で受けとめたことを忘れないでおきたいと思います。迷いが明珠の外ではない、ということは、迷いにとらわれて取ったり捨てたりする「小量の見」を、そのままでよいとほめることではありませんでした。迷いが起こる。それを明珠の外のものとして憎んで捨てようとするのでもなく、迷いのままでよいと居直るのでもない。その迷いもまた明珠のうちのことと受けとめて、なお歩んでゆく。そのことが、次の、巻の最後の一句で言われているように思われます。
「黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」#
「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」。
ただまさに、黒山鬼窟のなかでの、一歩進み一歩退く歩み、これが一顆明珠であるばかりである、と。
この巻は、この一句で閉じられます。
「黒山鬼窟」。この言葉を、私たちは、すでに二度読んでいます。第一回で、玄沙は、自分の言葉をそのまま返して「用会作麼」と答えた僧に、「知汝向黒山鬼窟裏作活計」(第一回の【15】)と言いました。おまえが黒山鬼窟のなかで暮らしを立てていることがわかった、と。そして前回の拈提の最後に、禅師はこの言葉をとりあげておられました(前回の【8】)。宗務庁版英訳の注は、「黒山鬼窟」を、禅の文献で、固定した知的・精神的な立場の狭い囲いをいう、ありふれた像である、としています。
玄沙が僧に向けたその言葉を、禅師は、巻の最後に、もう一度とりあげて、「黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」と言われるのです。玄沙の言葉を、僧を叱り退ける言葉とだけ受けとめるかどうかについては、第一回・前回でも読みの幅を残してきました。
ここにも読みの幅があります。迷いの暗がりのたとえを、そのまま一顆明珠のうちに収めた、と取るのか、玄沙にそう言われた僧のあり方も明珠である、と取るのか。「進歩退歩」について、宗務庁版英訳の注は、『正法眼蔵』に何度か見える語で、前後への動きを言うほか、あらゆる活動、動と静なども指しうる、としています。一歩進み一歩退く、迷い悟りの行きつ戻りつ、と取ることも、行住坐臥のあらゆるはたらき、と取ることもできるでしょう。また、「のみなり」を、ほかに何もない、という強調と取るのか、ただそれだけ、という限定と取るのか。
読みの幅を残したうえで、訳文の読みに沿って、一つの受けとめ方を申し上げます。
黒山鬼窟は、明るいところではありません。暗い山の、鬼の住む洞窟です。そこは、ふつうには出てゆきたいと思われる場所であり、玄沙の言葉も、ふつうに読めば、僧をたしなめる言葉として受けとられます。ところが禅師は、その黒山鬼窟のなかでの一歩一歩を、「これ一顆明珠なるのみなり」と言われます。明るい場所に出てから明珠になるのではない。暗がりのなかで、進んだり退いたりしている、その歩みが、そのまま一顆明珠である、と。
ここで、【2】の段の、酔って眠る人の衣の裏にかけられた珠を思い起こしたいと思います。珠をかけられる時節には、その人は必ず酔っている、と言われていました。そして、【3】の段では、「われは明珠にはあらじ」と迷うことも、珠ではない、と疑ってはならない、と言われ、【4】の段では、迷い思いわずらうことも、明珠でないのではない、と言われました。酔酒、迷い、思いわずらい、そして黒山鬼窟。この巻の後半は、明るく澄んだところではなく、むしろ暗く、迷いの多いところを、くり返し一顆明珠のうちに収めてゆく、と受けとめることもできるでしょう。
もとより、それは、黒山鬼窟にとどまっていてよい、ということではないと思われます。禅師は「黒山鬼窟の進歩退歩」と言われました。とどまることではなく、進み、退く、歩みです。暗がりのなかで、それでも一歩を踏み出し、ときに退き、また踏み出す。その歩みのところに、一顆明珠がある、と。そう受けとめるならば、この最後の一句は、迷いを肯定するだけの言葉ではなく、迷いのただなかでの修行を、そのまま一顆明珠として示す言葉として聞こえてきます。
坐禅と暮らしのなかの明珠#
ここまで読んできたことを、坐禅と日々の暮らしのなかで受けとめてみたいと思います。
一坐のところに#
弁道話に、次の言葉がありました。
「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(『弁道話』第二回の【3】)。
たとえ一時であっても、身・口・意の三業に仏の印をあらわし、三昧に端坐するとき、あらゆる法界がみな仏の印となり、尽虚空がことごとくさとりとなる、と。
「尽十方世界是一顆明珠」という玄沙の言葉と、この弁道話の言葉とは、もとより別の言葉です。けれども、一人の坐るところに、遍法界、尽虚空が仏の印となり、さとりとなる、という弁道話の言葉と、尽十方世界が一顆の明珠であり、全身がそのまま一隻の正法眼である、というこの巻の言葉とは、坐禅を行ずる者にとっては、互いに照らしあうものとして受けとめられるように思われます。一坐の全身のところに、尽十方世界の一顆明珠が、まるく、ころころと、さまたげなく現れている、と。もとより、これは二つの巻を並べて読む者の一つの受けとめ方です。
「明珠かどうか」を問わずに坐る#
坐禅をしていると、ときに、こういう思いが浮かぶかもしれません。「自分は、ちゃんと坐れているのだろうか。こんなに雑念ばかりで、これで坐禅と言えるのだろうか」。
それは、この巻の言葉でいえば、「われは明珠にはあらじ」と迷うこと、と言ってよいかもしれません。禅師は、そのように迷い思うことについても、珠ではあるまい、と疑ってはならない、と言われました。そして、迷い思いわずらうことも、明珠でないのではない、と言われました。
弁道話で禅師は、修証一等の教えを、次のように示しておられました。
「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり」(『弁道話』第五回の【3】)。
修行と証とは、別々のものではない。初心の弁道が、そのまま本証の全体である、と。雑念の多い、おぼつかない初心の一坐も、そのまま本証の全体である。そのように受けとめるならば、「自分の坐禅は明珠であるかどうか」と取ったり捨てたりして思いわずらうことを離れて、ただ、今日もまた坐る。そこに、この巻の「黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」という言葉が、坐禅の上で生きてくるように思われます。
ただ、これは、坐禅がどのようであってもかまわない、ということではないでしょう。弁道話には、さらに、「修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」(『弁道話』第五回の【5】)とありました。迷いもまた明珠の外ではない、と受けとめることは、修行をゆるくしてよい、ということではない。迷いのなかでも、一歩を踏み出し、姿勢をととのえ、呼吸をととのえて、ていねいに坐る。進歩退歩の、その一歩一歩を、おろそかにしない。そのように受けとめておきたいと思います。
衣の裏の珠と、日々の行持#
寺の暮らしでは、毎日、同じことがくり返されます。朝起きて坐り、お経を読み、掃除をし、食事をいただき、また坐る。だれも見ていないところで廊下を拭き、草を抜く。それは、人に見せるための行いではありません。先の【2】の段の受けとめ方を重ねるならば、表にかけて見せなくても、衣の裏にかかった珠のように、その一つ一つの行いのところに、明珠はすでにかかっている、と受けとめることもできるでしょう。
そして、思うようにいかない日もあります。気が散り、いらだち、人とうまくいかない日もある。そうした日の歩みもまた、黒山鬼窟の進歩退歩であって、明珠の外ではない。そう受けとめるとき、うまくいった日だけでなく、うまくいかなかった日をも、ていねいに歩みなおしてゆけるのではないかと思います。もとより、これらも本文が直接に語ることではなく、坐禅と暮らしのなかでの一つの受けとめ方です。
巻末題と奥書#
「正法眼蔵 一顆明珠」#
本文のあとに、「正法眼蔵 一顆明珠」と巻末題が記されます。
本書の底本とする本山版では、この巻末題には巻番号がありません。宗務庁版英訳の巻末題は「第七」となっていて、これは七十五巻本の番号です。宗務庁版英訳の解題は、この巻が六十巻本・七十五巻本のどちらでも第七の巻であり、本山版では第四の巻である、としています。
嘉禎四年四月十八日、興聖寺にて示衆#
「爾時嘉禎四年四月十八日、在雍州宇治県観音導利興聖宝林寺示衆」。
そのとき、嘉禎四年四月十八日、雍州宇治県の観音導利興聖宝林寺において、大衆に示した、という記録です。
嘉禎四年は1238年で、宗務庁版英訳は、この日付を西暦1238年6月2日にあてています。奥書には、この巻が観音導利興聖宝林寺で大衆に示された、と記されています。宗務庁版英訳の解題も、この巻は1238年の初夏に興聖寺で書かれたものとしており、この巻が、禅師の『正法眼蔵』の諸巻への本格的な取り組みの始まりをしるすものである、と述べています。この巻は、そのように興聖寺で撰述されたとされます。
これまで読んできた巻と比べてみると、第二巻「摩訶般若波羅蜜」と第三巻「現成公案」は、ともに天福元年(1233年)の年記をもっていました。「現成公案」の奥書には、鎮西の在家の弟子に書き与えたことが記されていましたが、この巻の奥書は、「摩訶般若波羅蜜」と同じく「示衆」、大衆に示した、と記しています。
寛元元年、吉峰寺にて懐弉書写#
「寛元元年癸卯閏七月二十三日、書写于越州吉田郡志比荘吉峰寺院主房。侍者比丘懐弉」。
寛元元年癸卯の閏七月二十三日、越州吉田郡志比荘の吉峰寺の院主房において、書き写した。侍者比丘懐弉、という記録です。
寛元元年は1243年で、宗務庁版英訳は、この日付を西暦1243年9月8日にあてています。嘉禎四年の示衆から、およそ五年後のことです。前の行が、この巻を示したときの記録であるのに対して、この行は、それを書き写したときの記録です。書き写したのは、侍者であり比丘である懐弉です。「雍州宇治県」「越州吉田郡志比荘」という地名については、宗務庁版英訳の注に説明がないので、ここでは立ち入りません。吉峰寺については、『摩訶般若波羅蜜』第三回の語注にふれたとおりです。
なお、宗務庁版英訳の注によれば、七十五巻本系の写本には、この巻の奥書がない、とされています。宗務庁版英訳は、洞雲寺本の奥書として、この二つの奥書を掲げています。
宇治で示された一つの巻が、五年ののち、越州の地で、侍者の手によって書き写された。奥書の二行は、それだけを簡潔に記しています。それ以上のことは記されていませんので、ここでも、記されていることを確かめるにとどめます。ただ、雪峰の法を嗣いだ玄沙の言葉が、時と所をへだてて禅師のもとに届き、禅師が大衆に示されたその言葉が、さらに書き写されて伝えられてきたこと、そして、いま私たちがそれを読んでいることは、【4】の段の「玄沙の法道によりて」「ききしり、あきらめつれば」という言葉と重ねて、心にとめておいてよいように思われます。
本山版の募刻識語について#
なお、本書の底本である本山版には、奥書のあとに、この巻の刊刻を助けた人々と、その願いを記した識語があります。これは道元禅師の本文ではありませんので、ここでは立ち入りません。ただ、その識語のなかに「伏願人人具足、一顆明珠、照他照自、不隔賢愚」という言葉があることだけを申し添えておきます。後の時代の人々が、この巻を刻んで伝えるにあたって、一人ひとりにそなわる一顆明珠に願いを託していたことが、そこからうかがわれます。
巻をふりかえって――第一回から第三回へ#
三回にわたって、「一顆明珠」の巻を読んできました。ここで、巻全体をふりかえってみたいと思います。もとより、これは三つの回を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう要約しているわけではありません。
第一回――玄沙の伝と、僧との問答#
巻は、玄沙師備禅師の伝から始まりました。釣りを好んだ人が出家して雪峰山に登り、真覚大師(宗務庁版英訳の注によれば、雪峰義存禅師)に参じた。諸方に参じようと山を出たとき、足の指を石にぶつけて「是身非有、痛自何来」(第一回の【2】)と猛省し、雪峰のもとにかえった。そして遍参しない理由を問われて、「達磨不来東土、二祖不往西天」(第一回の【8】)と答えた。
その玄沙が、道を得てのちに示したのが、「尽十方世界是一箇明珠」(第一回の【10】)という言葉でした。ある僧が、それをどう会得すればよいかと問うと、玄沙は「用会作麼」、会得してどうする、と答えます。翌日、玄沙がかえってその僧に、どう会得するかと問うと、僧は玄沙の答えをそのまま返して「用会作麼」と言い、玄沙は「知汝向黒山鬼窟裏作活計」と言った(第一回の【11】〜【15】)。
今回、巻の最後まで読んできて、この問答の「黒山鬼窟」が、巻の最後の一句にもう一度現れることに、あらためて心をとめたいと思います。巻のはじめでは、玄沙が僧に向けた言葉として語られた黒山鬼窟が(第一回では、まず僧を叱る言葉として受けとめるのが自然としつつ、読みの幅を残しました)、巻の終わりでは、その進歩退歩が一顆明珠である、と言われる。巻の最初の問答と、最後の一句とが、こうして呼びかわしている、と受けとめることもできるでしょう。
また、第一回の玄沙の伝で、足の指を傷めて痛みを覚えたことが、玄沙の猛省のきっかけとして語られていたことも、思い起こされます。「是身非有」、この身はあるのでない、と。そして今回、「明珠なりける身心の様子」と、明珠がついに身心の上で言われました。巻のはじめの、痛む身から、巻の終わりの、明珠である身心へ。もとより、二つの箇所を結びつけるのは、巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。
第二回――尽十方世界の拈提#
第二回では、道元禅師が、玄沙の句と問答を一語一語とりあげて説き示される拈提を読みました。尽十方世界は、広大にあらず、微小にあらず、方円にあらず、と、さまざまな尺度が退けられ、「さらに生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり」(前回の【1】)と言われました。「一顆珠は、直須万年なり」(前回の【3】)、「身今あり、心今ありといへども明珠なり」(前回の【3】)とも言われました。
そして、僧の「学人如何会得」という問いについても、禅師は、「この道取は、たとひ僧の弄業識に相似せりとも、大用現前是大軌則なり」(前回の【4】)と言われていました。これを、僧の問いさえも、退けてしまうのではなく、その言葉のところに大用が現前している、と見るものと読むならば(第二回では、この句の読みにも幅を残しました)、今回の段で、迷い、疑い、思いわずらうことも明珠の外ではない、と言われ、黒山鬼窟の進歩退歩が一顆明珠である、と言われたことは、第二回のこうした拈提の運びを、さらに推し進めたもの、と受けとめることもできるように思われます。
巻名「一顆明珠」を、あらためて#
宗務庁版英訳の解題は、この巻が、玄沙師備の「尽十方世界は一顆の明珠である」という一つの言葉に、全体をあてたものである、と述べています。
三回を読み終えたいま、巻名を、たとえば次のように受けとめることもできるかもしれません。一顆明珠は、どこか遠くにある、美しく澄んだ宝ではない。尽十方世界が、そのまま一顆の明珠であり、その明珠は、全身として、見色聞声のはたらきとして、衣の裏に、髻の中に、すでにかかっている。知ることのところにも、迷い疑うことのところにも、そして黒山鬼窟の暗がりのなかの一歩一歩のところにも、明珠でないところはない。そしてそれを明らめるのは、自分ひとりの思いはかりではなく、玄沙の法道を聞くことによる。もとより、巻名の受けとめ方には幅があり、ここに申し上げたことも、その一つにすぎません。
むすびに#
今回読んだところを、あらためてふりかえってみましょう。
明珠には始まりも端もなく、全身がそのまま正法眼であり、明珠の功徳の現れとして観音・弥勒、古仏・新仏がある(【1】)。経典や伝承に語られる珠はみな一顆明珠であり、衣の裏にかかるのをそのありようとし、珠をかけられる時節には必ず酔っている(【2】)。知ることも明珠であり、「われは明珠ではあるまい」と迷うことも、珠ではないと疑ってはならない。明珠の彩光はきわまりなく、(訳文の読みでは)だれにも奪い取られず、六道の因果に落ちる落ちないを思いわずらってはならない(【3】)。そして、玄沙の法道によって明珠である身心のありようを聞き知ったからには、迷い思いわずらうことも明珠でないのではなく、黒山鬼窟の進歩退歩が、そのまま一顆明珠である(【4】)。禅師は、このように巻を結ばれました。
この段は、迷いや疑いを、明珠の外のものとして退けることをしません。けれども、それは、迷いにとどまってよい、修行をゆるくしてよい、ということではない、と本書では受けとめてきました。取ったり捨てたりする小さな見方を離れて、迷いのただなかでも、なお一歩を進め、ときに退き、また進む。その歩みのところに、一顆明珠がある。宗門で、修証一等として、初心の弁道がそのまま本証の全体であると受けとめてきたことが、ここでは、黒山鬼窟の進歩退歩として示されている、と受けとめることもできるでしょう。また、「六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ」という言葉も、因果を否定するものとしてではなく、典拠の野狐の話をふまえて、因果を取り引きの勘定として思いわずらうことを離れるよう示すもの、と受けとめておきました。もとより、「読みの分かれるところ」に挙げたように、一つ一つの句には、読みの幅が少なからず残っています。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。
「一顆明珠」の巻は、こうして、黒山鬼窟の一歩で閉じられます。
迷う日もあれば、思いわずらう日もあります。自分はとても明珠などではない、と思う日もあるでしょう。そのような日にも、衣の裏には、すでに珠がかかっている。そう思い起こしながら、今日の一坐、今日の一歩を、また、ていねいに歩んでゆきたいと思います。
読みの分かれるところ#
この回は巻の結びで、道元禅師がご自身の言葉で一顆明珠を説き結ばれるところですが、ほとんど一句ごとに読み方が分かれます。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「この明珠の有如無始は無端なり」【1】
「有如無始」を、「有如」(ありのままであること)と「無始」(始まりのないこと)の二つの語の組み合わせと取ることも、「このような無始を有する」と一続きに読むこともできます。「無端」も、はてがない、始まり(起こり)がない、いわれ(理由)がない、と幾通りにも取れ、「無始」と「無端」が重なることをどう見るかにも幅があります。宗務庁版英訳は二つの語の組み合わせと取って訳していますが、その注は、訳を仮のものと断っています。 -
「全身これ一隻の正法眼なり……全身これ全身なり」【1】
だれの、何の「全身」なのかが示されていません。宗務庁版英訳のように明珠の全身と取ることも、尽十方世界の全体と取ることも、修行する人の全身(身心)と取ることもできます。結びの「全身これ全身なり」も、ほかの何にも言いかえられない全身そのものを言うと取ることも、前の四つの言いかえ(正法眼・真実体・一句・光明)をもう一度「全身」にまとめて返すと取ることもできます。なお、宗務庁版英訳はこの結びの語を「全心」の字で読んでおり、その形では身と心の対が読みに入ってきます。 -
「親友にはかならずたまをあたふべし。たまをかけらるる時節、かならず酔酒するなり」【2】
法華経の衣裏の珠のたとえを受ける句ですが、だれがだれに与えるのかが示されていません。親友は(その友に)必ず珠を与えるものだ、と取ることも(宗務庁版英訳はこの向き)、親友であるならば必ず珠を与えよ、と取ることも、珠が与えられるのは必ず親友の間柄においてである、と取ることもできます。「かならず酔酒するなり」も、たとえの筋をそのままなぞったものと取ることも、酔っていることを、迷いのたとえとしてだけでなく、珠を受ける時のありようとして言っている、と取ることもできます。解説の後半では後の受けとめ方に沿って述べたところが多いのですが、それは一つの読みとして申し上げたものです。 -
「われは明珠にはあらじとたどらるるは、たまにはあらじとうたがはざるべきなり」【3】
「明珠ではあるまい」という迷いそのものを、「珠ではない」と疑ってはならない(迷いもまた明珠である)と取ることも、宗務庁版英訳の訳の字面のように、迷う者は、自分が明珠でないことについて疑わずにいるがよい、と取ることも、迷う者も「珠ではない」と疑う必要はない(迷いがそのまま明珠だから)と取ることもできます。前の「既得恁麼なるには」を、得ているからには、と取るか、得たときに、と取るか、「たどらるる」を、つい迷い思われる(自発)と取るか、ほかの意に取るかでも文意が揺れます。 -
「たれかこれを攙奪せん、行市に甎をなぐる人あらず」と「六道の因果に不落有落をわづらふことなかれ」【3】
宗務庁版英訳の注は、「攙奪」を力ずくで取る(あるいは思いのままにする)の意とし、「市場を牛耳る」という意の句を思い起こしたものらしいとし、「甎をなぐる」を、甎を投げて玉を引く、という成句の前半とします。そこから、甎を投げて玉を得るような取り引きをする者はいない、と取ることも、明珠の功徳は市場で値をつけるものではない、と取ることも、だれもがすでに珠なので甎を投げる者がそもそもいない、と取ることもできます。続く「不落有落」は、百丈禅師と野狐の話をふまえる句とされます。因果に落ちる・落ちないにとらわれて思いわずらうな、と取ることも、六道の因果のただなかも明珠であるから落・不落を問題にしない、と取ることもでき、「有落」が典拠のどの語にあたるのかも決めがたいところです。どちらに取るにしても、因果をないものとして退ける句と受けとるのは当たらない、というのが本書の受けとめ方です。 -
「起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん」【4】
本書の訳文は、これを反語と取り、だれとして取捨に思いわずらうことがあろうか、思いわずらうことはない、としました。一方、宗務庁版英訳は推量に取り、心がわれわれ自身のものでないなら、だれの心が明珠とされているのかと問うことにもなろう、取捨に悩みもしよう、と読んでいます。直前の「心これわたくしにあらず」の「わたくし」も、自分のもの、個人に閉じた私的なもの、自分のものとして取りこむこと、と幅があります。どちらの読みでも、すぐあとの「たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず」へと受けわたされてゆきます。 -
「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」【4】
第一回・前回で読んだ玄沙のことば「知汝向黒山鬼窟裏作活計」を受ける結びの一句です。迷いの暗がりのたとえを、そのまま一顆明珠のうちに収めたと取ることも、玄沙にそう言われた僧のあり方もまた明珠である、と取ることもできます。玄沙のことばを、僧を叱る言葉とだけ受けとめるかどうかは、第一回・前回でも読みの幅を残してきました。「進歩退歩」は、一歩進み一歩退く、迷い悟りの行きつ戻りつと取ることも、宗務庁版英訳の注のように、あらゆる活動、動と静などをも指しうる語と取ることもできます。「のみなり」を、ほかに何もない、という強調と取るか、ただそれだけ、という限定と取るかにも幅があります。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第四「一顆明珠」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 「有如無始」「無端」の説明、長沙景岑・玄沙のことば(真実人体)と「光明」、円陀陀地・転轆轆、観音の名と普門品、四つの珠の典拠(『菩薩瓔珞経』、法華経の衣裏珠・髻中珠のたとえ、『荘子』の黒竜)、雲居道膺のことば、「相似ならしむる」の目的語、攙奪行市・抛甎引玉、六道と百丈禅師・野狐の話、不昧本来、百思百不思・明明の草料、黒山鬼窟、進歩退歩、真覚大師(雪峰義存)、奥書の年代と写本、本巻の撰述の時と場所、諸本での位置、巻の主題と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。