コンテンツにスキップ

現成公案(二)薪と灰、月と水#

舟と岸、薪と灰、水に宿る月という三つのたとえによって、自己と万法、生と死、悟と人との関わりが語られる三つの段落を読む回です。

原文#

舟と岸#

【1】人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

薪と灰#

【2】たきぎ、はいとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり、先あり。かの薪、はいとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

月と水#

【3】人の、悟をうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。悟の、人をやぶらざること、月の、水をうがたざるがごとし。人の、悟を罣礙せざること、滴露の、天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことは、たかき分量なるべし。時節の長短は、大水・小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし。

現代語訳#

原文は【1】〜【3】の三段落です。原文の小見出し(舟と岸/薪と灰/月と水)は、内容を示すために付けたもので、原文にはありません。【2】【3】は長いので、現代語訳では意味の切れ目で三つずつに分け、【2-1】【2-2】【2-3】のように示しました。この区切りは原文にはありません。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。仏教語・禅語(万法・自心・自性・常住・行李・箇裏・法位・前後際断・不生・不滅・法輪・仏転・罣礙・天月など)は訳さずに残し、段落の後に「語注」として短く説明しました。読みの分かれる句は、訳文には一つの読みを置き、主なものを「読みの分かれるところ」に挙げました。

【1】人が舟に乗って進んでゆくとき、目を(まわりへ)めぐらして岸を見ると、岸が動いていると思い違える。目を(自分の乗る)舟に親しくつけて(見て)みれば、舟が進んでいるのだと分かる。(それと)同じように、身心を乱れた思いでとらえたまま万法を見定めて(そうだと)受けとるときには、自心・自性(自分の心、自分の本性)は常住なのではないかと思い違える。もし行李を親しくして箇裏に帰れば(自分の行いにぴったりと寄りそって、いま・ここに立ち帰れば)、万法が我ではないという道理が明らかである。

語注

  • めをしたしくふねにつくれば:目を親しく舟につけると。目を(遠くの岸ではなく)自分の乗っている舟そのものに向ける、の意に取った。
  • ごとく:ように。舟と岸の比喩(前半)と、身心と万法の事柄(後半)とをつなぐ。比喩の何が何に当たるか(岸=万法、舟=自己の身心、など)は原文に示されていない。
  • 身心を乱想して:「乱想」は乱れた思い、取り違えた思い。訳文は「身心を乱れた思いでとらえたまま」とした。宗務庁版英訳は「身心についての混乱した考えをもって」の意に訳す。「身心を乱想して」を、身心について思い違えている、と取るか、身心(全体)が乱れた思いのうちにある、と取るかで読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 万法:あらゆる事物・現象。前回【2】の語注参照。
  • 弁肯する:見分けて、そうだと肯(うけが)う。見定めて受けとる、と訳した(→読みの分かれるところ)。
  • 自心・自性:自分の心と、自分の本性(ものがもともとそなえている性質)。訳さずに残した。
  • 常住:いつまでも変わらずにあること。仏教語。訳さずに残した。
  • なるか:「〜ではないか」と疑いの形で言う。思い違えている中身を、断定でなく「〜かと(思う)」の形で示している(→読みの分かれるところ)。
  • 行李:禅語。もとは旅の荷物、また旅をすること。禅籍では、日々の行い・ふるまい(行履)の意に用いられる。訳さずに残した。宗務庁版英訳の注は、この句全体を「自分の居るところで自分の行いに親しく注意を向けるとき」の意とする(→読みの分かれるところ)。
  • したしくして:親しくして。ぴったりと寄りそって、身近にして、の意に取った。
  • 箇裏:禅語。この(ところ)・ここ。「箇」は「この」、「裏」は「うち・ところ」。訳さずに残し、(いま・ここ)と補った(→読みの分かれるところ)。
  • 帰すれば:帰れば、立ち帰れば。
  • 万法のわれにあらぬ道理:万法が我ではないという道理。前回【2】「万法ともにわれにあらざる時節」と同じ言い方で、訳文の語もそろえた。「われ」を「固定した実体としての我」と取るか、「自分(のもの)」と取るかで読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • あきらけし:明らかである。

【2-1】薪が灰となる。(その灰が)さらにもとへ戻ってまた薪となる、というものではない。そうではあるが、灰は後、薪は先と見てとってはならない。知るべきである、薪は薪の法位に住していて、先があり、後がある。前後はあるけれども、前後際断している。灰は灰の法位にあって、後があり、先がある。

語注

  • たきぎ:薪。
  • さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず:「べき」を、訳文では「〜というものではない(そういうことはない)」と取った。「〜はずがない」「〜できない」(宗務庁版英訳)とも取れる。
  • しかあるを:そうではあるが。前の句(灰は薪に戻らない)を受けて、そこから「薪が先、灰が後」と考えることを戒める。
  • 見取:見てとること。そうだと見なすこと。
  • 法位:仏教語。ものごとがそれぞれに住している(定まった)位置・ありかた。訳さずに残した。宗務庁版英訳の注は、それぞれの法が、他のものに変わることなく、それ自身の時(時間上の位置)に住している、という仏教一般の教えをふまえるとし、また『法華経』の、「諸法はその法位に住する」と読める一節への言及とする(→読みの分かれるところ)。
  • 住して:住していて、とどまっていて。灰については「ありて」と言う。
  • さきあり、のちあり:先があり、後がある。何の「先」「後」か(薪になる前・薪であった後、という前後の時か、薪というありかたの中にある前後か)は原文に示されていない(→読みの分かれるところ)。
  • 前後際断:仏教語。前と後とのきわ(境)が断ち切れていること。前と後とが(一つの流れとして)つながっていないこと。訳さずに残した。宗務庁版英訳の注は、般若経典類に見える常套の言い方とする(→読みの分かれるところ)。
  • 灰は灰の法位にありて、後あり、先あり:薪については「さきあり、のちあり」、灰については「後あり、先あり」と、順序を逆にして言う。順序の入れかえに意味を見るかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。

【2-2】あの薪が、灰となってしまった後に、もう一度薪とはならないように、人が死んだ後に、もう一度生(生きている者)とはならない。そうではあるが、生が死になると言わないのは、仏法の定まったならわしである。このゆえに不生という。死が生にならないのは、法輪の定まった仏転(仏が法輪を転ずること)である。このゆえに不滅という。

語注

  • 生とならず:生とはならない。訳文は(生きている者)と補った。「生(いのち・生きている状態)に戻らない」とも取れる。
  • しかあるを:そうではあるが。前の句(死んだ人は生に戻らない)を受けて、そこから「生が死になる」と言うことはしない、と続ける。
  • 生の死になるといはざる:生が死になると言わないこと。【2-1】の、薪が灰になる、と言いながら「灰は後、薪は先」とは見ない、という言い方に対応する。
  • 仏法のさだまれるならひ:仏法の定まったならわし。仏法でそう言い決めているあり方。
  • 不生:仏教語。生じないこと。訳さずに残した。
  • 不滅:仏教語。滅しないこと。訳さずに残した。宗務庁版英訳の注は、「不生・不滅」は多くの大乗の典籍で、一切の法は空であって生ぜず滅せず、という教えを表す一対の語であるとし、禅師はここで「生滅」(生じることと滅すること)を「生死」(生きることと死ぬこと)に重ねている、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 法輪:仏教語。仏の教えを、すべてを打ちくだいて進む輪にたとえた語。訳さずに残した。
  • 仏転:仏が(法輪を)転ずること。訳さずに残し、( )で言い換えた。宗務庁版英訳の注は、「仏転法輪」(仏が法輪を転ずる)というよく知られた言い方を組みかえた言い方とする。「法輪のさだまれる仏転」を「仏の説法として定まっていること」と取るか、ほかの取り方をするかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 「生」と「不生」、「死」と「不滅」の対応:生が死にならない→不生、死が生にならない→不滅、と、語の組み合わせが一見ねじれて見える。どう対応させて読むかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。

【2-3】生も一時のくらい(位)であり、死も一時のくらいである。たとえば冬と春とのようなものである。(わたしたちは)冬が春になるとは思わず、春が夏になるとは言わないのである。

語注

  • 一時のくらゐ:「一時」は、ひとときの・その時その時の。「くらゐ」は位、位置、ありかた。【2-1】の「法位」の「位」と通じる語と見て、訳文は「くらい(位)」と原文の語を残した。宗務庁版英訳は「時のなかの一つの位置」の意に訳す。「一時」を「かりそめの・一時的な」の意に取るか、「その時における(それとして完結した)」の意に取るかで、読みが大きく分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり:冬が春に「なる」とは思わず、春が夏に「なる」とは言わない。ふつうの言い方(冬が春になる)を、ここでは打ち消している。比喩が生死のどの点を言うのかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 「冬と春とのごとし」と言いながら、後の句では「冬・春」に加えて「春・夏」を挙げる。原文のままに訳した。

【3-1】人が悟を得るのは、水に月が宿るようなものである。月は濡れず、水は破れない。(月は)広く大きな光であるけれども、一尺一寸(ほど)のわずかな水にも宿り、月の全体(全月)も天いっぱい(弥天)も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。

語注

  • 悟:さとり。
  • やどる:宿る。映る、の意をふくむ。
  • 水に月のやどるがごとし:前回【7】には「水と月とのごとくにあらず」(水と月とのようなのではない)とあり、ここでは「水に月のやどるがごとし」と、同じ水と月の比喩を、逆の向きで用いている。二つの箇所をどう読み合わせるかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 月ぬれず、水やぶれず:月は(水に宿っても)濡れず、水は(月が宿っても)破れない。「やぶれず」を、訳文は「破れない」とした。宗務庁版英訳は「乱されない」の意に訳す。「こわれない・くずれない」「(水面が)乱れない」とも取れる(→読みの分かれるところ)。
  • 尺寸の水:一尺や一寸ほどの水。わずかな水。
  • 全月も弥天も:月の全体も、天いっぱい(の空)も。「弥天」は天にあまねく満ちること。宗務庁版英訳は「月の全体も、天のすべても」の意に訳す。「全月も弥天も」を、月と天との二つと取るか、「天いっぱいに光る月の全体」のように一つのものを重ねて言うと取るかで読みが分かれる。

【3-2】悟が人を破らないことは、月が水をうがたない(穴をあけない)ようなものである。人が悟を罣礙しないことは、滴露(ひとしずくの露)が天月を罣礙しないようなものである。

語注

  • やぶらざる:破らない。【3-1】の「水やぶれず」と同じ語で、訳文も「破らない」とそろえた。
  • うがたざる:うがたない。穴をあけない、掘りぬかない。
  • 罣礙:仏教語。さまたげること、さえぎること。訳さずに残した。
  • 滴露:ひとしずくの露。
  • 天月:天の月。訳さずに残した。宗務庁版英訳は「天あるいは月」の意に訳し、「天」と「月」の二つと取る。「天にある月」と一つに取るか、「天と月」と二つに取るかで読みが分かれる。
  • 前後の二句の対応:「悟が人を破らない」(月―水)と「人が悟を罣礙しない」(滴露―天月)とで、主語と目的語が入れかわっている。原文の向きのままに訳した。

【3-3】深いことは、高い(ことの)分量であるにちがいない。時節の長短(を知るに)は、大水か小水かを検点し、天月の広い狭いを見きわめるがよい。

語注

  • ふかきことは、たかき分量なるべし:深いことは、高いことの分量であるはずだ。何の深さ・何の高さかは原文に示されていない。訳文は(ことの)と補うにとどめた。宗務庁版英訳の注は、おそらく、悟の深さは、その悟を起こさせた法の高さに応じたものである、の意であろうとする。水の深さと月の高さ(比喩の側)と取る読みもありうる(→読みの分かれるところ)。
  • べし:「〜にちがいない・〜はずだ」(推量)と取った。「〜であるべきだ」(当然)とも取れる。
  • 時節の長短:時の長い短い。宗務庁版英訳の注は、おそらく悟の時(あるいは悟に至るまでの時)を言うのであろうとする(→読みの分かれるところ)。
  • 大水・小水:大きな水と小さな水。【3-1】の「尺寸の水」「くさの露」「一滴の水」を受ける。
  • 検点:調べあらためること、点検すること。訳さずに残した。
  • 天月の広狭:天月(【3-2】の語注参照)の広い狭い。
  • 弁取すべし:見きわめて取るべきである。訳文は「見きわめるがよい」とした。
  • 文の組み立て:訳文は「時節の長短(を知るに)は」と補い、大水・小水を検点し、天月の広狭を弁取する、という二つの動作の主語を、読む者(修行する者)と取った。宗務庁版英訳は「時の長さは、水が大きいか小さいかによって定められ、天や月の広さによって見積もられねばならない」の意に訳し、「時節の長短」を、定められ見積もられるものの側に置く。何によって何を知るのかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。

解説#

はじめに――「自己をならふ」から、三つのたとえへ#

前回は、「現成公案」の巻の冒頭から、「仏道をならふといふは、自己をならふなり」の段を経て、「法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」までを読みました。短い言葉が、一句ごとに重なり合うように続く部分でした。

その中に、今回を読むうえでとくに心にとめておきたい言葉が二つあります。一つは、前回の【4】の言葉です。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」。

自己をはこんでいって万法を修証するのを迷いとし、万法が進んできて自己を修証するのが悟りである、と。

もう一つは、前回の【8】、この巻でもっともよく引かれる一節です。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」。

どちらも、自己と万法との関わりの向きを言う言葉です。自己の側から万法へと向かってゆくのか、万法の側から自己が明らかにされるのか。けれども、これだけでは、言葉としては深く響いても、それが私たちの見たり考えたりするはたらきの上で、どういうことなのかは、つかみにくいところがあります。

今回読む三つの段落で、禅師は、たとえを用いて語りはじめられます。

段 たとえ
【1】舟と岸 舟に乗って岸を見る人
【2】薪と灰 薪と灰、生と死、冬と春
【3】月と水 水に宿る月、草の露、一滴の水

舟に乗る人、燃える薪、水に宿る月。いずれも、当時の人々にとっても、いまの私たちにとっても、身近に思い浮かべることのできる光景です。前回の言葉が、自己と万法の関わりを、いわば骨組みとして示していたとすれば、今回の三つのたとえは、その骨組みを、目に見える光景の中で確かめさせてくれるものだ、と受けとめることができるでしょう。舟と岸のたとえは、「自己をはこびて万法を修証する」とはどういう取り違えなのかを、薪と灰のたとえは、ものごとをどう見ないことが「万法に証せらるる」見方につながるのかを、そして月と水のたとえは、悟と人との関わりを、それぞれ具体的に示している、と読むことができます。もとより、三つのたとえと前回の言葉との対応を、本文がそう明言しているわけではありません。巻の流れに沿って読む者の、一つの読み方として申し上げておきます。

読み方の手順も、これまでと同じにしておきます。まず、たとえとして何が言われているかを、字面のうえで確かめます。そのうえで、それが何を指して言われているのかを考えます。現代語訳は訳者の一つの読みであり、読みの決めにくい箇所では、読みの幅を残したまま要点を述べるにとどめます(主なものは、末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました)。そのうえで、坐禅や日々の修行、暮らしとのつながりを、一つの受けとめ方として申し添えていきます。

【1】舟と岸#

岸がうごく、と思いちがえる#

「人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく」。

川や湖を舟で渡ったことのある方なら、思い当たる光景ではないでしょうか。舟に乗って、ふと目をあげて岸のほうを見ると、岸の木々や家並みが、すうっと流れてゆくように見えます。動いているのは、ほんとうは自分の乗っている舟のほうです。けれども、目を遠くの岸にだけ向けていると、自分は止まっていて、岸のほうが動いているように感じてしまう。電車の窓から外を見ていて、となりの電車が動き出したのか、自分の電車が動き出したのか、一瞬わからなくなる、あの感覚にも似ています。

禅師は、これを「あやまる」、思いちがえる、と言われます。そして、目を「したしく」舟につけてみれば、つまり、遠くの岸ではなく、自分の乗っている舟そのものに目を寄せてみれば、進んでいるのは舟のほうだと知られる、と続けられます。

このたとえの何が何に当たるのか――岸が万法、舟が自己の身心、と一つ一つ対応させて読むのか、それとも、たとえは「動いているのはどちらか」を取りちがえる、その取りちがえの形だけを示しているのか――は、本文には示されていません。たとえの「岸が動く」という思いちがえと、そのあとの事柄の側の「自心自性は常住」という思いちがえとが、向きのうえでどう重なるのかも、すっきりとは割り切れないところがあります。ここでは、どちらか一つに決めることはせず、「自分の立っているところを動かないものとして、その外側に目を向けるとき、ものの見え方が取りちがえられる」という、たとえの大きな形をまず受けとっておきたいと思います。

自心自性は常住なるか#

「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」。

たとえの次に、事柄の側が語られます。身心を乱れた思いでとらえたまま、万法を見定めて受けとるとき、自分の心、自分の本性は常住なのではないか、と思いちがえる、と。

この一句は、語の一つ一つに読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。「身心を乱想して」を、身心について取りちがえた思いをもったまま、と取るのか、身心まるごとが乱れた思いのうちにある、と取るのか。「弁肯する」を、見定めて受けとる、と取るのか、分別して「これでよし」と認めてしまう、という含みで取るのか。「自心自性」を、自分の心と自分の本性の二つと取るのか、自分の心の本性という一つの語と取るのか。そして「なるか」という、疑いの形の語気をどう受けとるのか。

そのうえで、たとえと重ねて、一つの読み方を申し上げてみます。舟に乗っている人は、自分は止まっていると思い、岸が動いていると見ます。それと同じように、私たちは、見たり考えたりしている「この自分」は、ずっと変わらずにここにある、と思いがちです。変わってゆくのは外の世界、移りゆくのはまわりのものごとであって、それを見ている自分の心の奥には、何か変わらないものがある、と。前回の【4】の言葉を借りれば、それは「自己をはこびて万法を修証する」、自分というものを動かない基点として立て、そこから万法を見定めにゆく、というあり方に近いのかもしれません。もとより、この重ね方は本文が明言しているものではなく、一つの受けとめ方です。

ここで思い起こされるのは、『弁道話』第六回で読んだ問答です。弁道話の問10で、問う人は、「心性の常住なることはりをしるなり」、心の本性が常住であるという道理を知ることが、生死を出離するすみやかな道だ、という説を持ち出しました。この身体は滅びても、心性は滅することがない、と。禅師はこれに、「いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり」と、きっぱりと答えられました。そして、「常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし」と示しておられます。

現成公案の「自心自性は常住なるかとあやまる」と、弁道話の「心性の常住なることはり」とは、言葉のうえで響き合っています。二つの巻の言葉を、そのまま同じことを言うものとして重ねてよいかどうかは、慎重であるべきでしょう。けれども、身心を離れて、自分の内側に変わらない何かを立てる見方を、禅師が「あやまる」「仏法にあらず」と退けておられることは、二つの箇所に共通して読みとれるように思われます。

行李をしたしくして箇裏に帰すれば#

「もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」。

では、どうすればその思いちがえがほどけるのか。禅師は、たとえの「めをしたしくふねにつくれば」と同じ「したしく」という言葉を用いて、「行李をしたしくして箇裏に帰すれば」と言われます。

「行李」は、もとは旅の荷物、また旅をすることを言う語ですが、禅の書物では、日々の行い、ふるまい(行履)の意に用いられます。「箇裏」は「ここ」「このところ」。宗務庁版英訳の注では、この句全体を、自分の居るところで、自分の行いに親しく注意を向けるとき、の意と説明しています。ただ、「行李」をもとの旅の荷物の意を生かして読むか、「したしく」を前の「めをしたしくふねにつくれば」と重ねて読むか、「箇裏」を「いま・ここ」と取るか「自己の足もと・本来の場所」と取るか、と、読みの幅は少なくありません(→読みの分かれるところ)。

それを承知のうえで、宗門の修行に引き寄せて受けとめてみたいと思います。舟のたとえでは、目を遠い岸から、自分の乗っている舟へと寄せました。事柄の側では、思いを遠くの万法へと運んでいって見定めるのではなく、いま・ここの、自分の行いそのものに親しく寄りそう。そうするとき、「万法のわれにあらぬ道理」、万法がわれではないという道理が、明らかになる、というのです。

ここで私が思い浮かべるのは、坐禅のすがたです。正法眼蔵の「坐禅儀」の巻には、足を組み、手を組み、「正身端坐すべし」と示され、耳と肩、鼻と臍とを対するようにし、舌や唇、目や息にいたるまでをととのえることが、こまやかに説かれています。そして「かくのことく身心をととのへて」と続きます。坐禅は、思いを遠くへ運んで、何かを見定めにゆくことではありません。この身を、この場に、ていねいにととのえて坐る。それは、まさに自分の行いに親しく寄りそい、いま・ここに帰ることだ、と受けとめることができるのではないでしょうか。もとより、本文の「行李」が坐禅だけを指しているわけではありません。むしろ、坐禅に限らず、日々の立ち居ふるまいのすべてが「行李」でしょう。坐禅は、その行李に親しくすることを、もっとも端的なかたちで身に学ぶ場だ、と申し上げておきます。

「万法のわれにあらぬ道理」という言葉は、前回の【2】の「万法ともにわれにあらざる時節」と同じ言い方です。この「われ」を、固定した実体としての我と取るのか、自分(のもの)と取るのか、あるいは直前の「自心自性」を受けたものと取るのかで、読みが分かれます(→読みの分かれるところ)。いずれの読みに立つとしても、自分の行いに親しく寄りそうとき、万法が「わたしのもの」でも「わたしの思いの中のもの」でもなく、それぞれにそれぞれとしてある、ということが明らかになる――そのように受けとめることは、許されるように思います。そしてそれは、次の段の薪と灰の話へと、そのままつながってゆきます。

暮らしの中の舟と岸#

日々の暮らしの中でも、私たちはよく岸のほうばかりを見ています。まわりの人が変わった、世の中が変わった、状況が悪くなった、と、動いているのはいつも外のほうで、自分はもとのままだ、と感じがちです。けれども、少し目を自分の足もとに寄せてみると、自分のほうも、日々に動き、移り、変わっていることに気づかされます。

台所で食器を洗うとき、玄関で履物をそろえるとき、手を合わせるとき。そうした小さな行いの一つ一つに、親しく心をそえてみる。それは、外の世界を思いどおりに見定めようとするのとは違う向きの、静かな注意です。その注意のなかで、まわりのものごとは、「わたしの都合」の側からではなく、それぞれのありようのままに見えてくる。舟に目をつけた人が、舟の進むのを知るように。この段は、そのような日々の修行の手がかりとしても読むことができるでしょう。

【2】薪と灰#

薪は灰となり、灰は薪にもどらない#

「たきぎ、はいとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」。

二つめのたとえは、薪と灰です。薪は燃えて灰になります。灰がもう一度、もとの薪にもどることはありません。ここまでは、誰もが知っている、あたりまえのことです。「べきにあらず」を、「〜というものではない」と取るか、「〜できない」「〜はずがない」と取るかで、言い方の強さに多少の違いはありますが、薪が灰になり、灰が薪にはもどらない、という事実そのものは動きません。

ところが、禅師はすぐに「しかあるを」と、向きを変えられます。そうではあるけれども、灰は後、薪は先、と見てとってはならない、と。

ここで、多くの人は首をかしげるのではないでしょうか。薪が燃えて灰になるのですから、薪が先、灰が後なのは、あたりまえではないか、と。禅師が退けておられるのは、何なのでしょうか。前後の順序そのものを否定しておられるのか、それとも、前後はあるけれども、それを一つの流れの「前」と「後」として、薪を灰になるための途中のもの、灰を薪のなれの果て、と見ることを退けておられるのか(→読みの分かれるところ)。次の句の「前後際断」とつなげて読むと、後のほうの読みが浮かんでくるように思われますが、ここでは一つに決めずにおきます。

法位――薪は薪の法位に住して#

「しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり、先あり」。

ここに、この段の要となる言葉が出てきます。「法位」です。

「法位」は、ものごとがそれぞれに住している、定まった位置、ありかたを言う仏教の言葉です。宗務庁版英訳の注では、この句は、それぞれの法が、他のものに変わることなく、それ自身の時、時間の上での位置に住している、という仏教一般の教えをふまえたもので、また『法華経』の、「諸法はその法位に住する」と読める一節への言及である、とされています。ここでは注のその範囲にとどめ、経文そのものには立ち入りません。

「薪は薪の法位に住して」。薪は、薪として、薪のありかたに住している。灰になるための途中の段階として、仮にそこにあるのではなく、薪はそのとき、まったく薪である、と読むことができます。そして「さきあり、のちあり」、薪には先があり、後がある。この「先」「後」が何を言うのか――薪になる前、たとえば木であった時と、薪のあと、灰となる時なのか、それとも、薪というありかたそのものの中にある前後なのか、あるいは薪それ自身が先と後との全体をそなえているということなのか――は、本文には示されていません(→読みの分かれるところ)。

前後ありといへども、前後際断せり#

「前後ありといへども、前後際断せり」。前後はあるけれども、前後のきわが断ち切れている。宗務庁版英訳の注では、「前後際断」は般若経典類に見える、よく用いられる言い方とされています。前と後とが、ひとつづきの流れとしてつながっていて、薪がそのまま滑るように灰へと移ってゆく、というのではない。薪のときは薪、灰のときは灰、それぞれがそれぞれのところで、きっぱりとそれ自身である。そのように受けとめることができるでしょう。

そして、「灰は灰の法位にありて、後あり、先あり」。灰もまた、薪のなれの果てとしてではなく、灰として、灰の法位にある。ここで禅師は、薪について言った「さきあり、のちあり」の順序を入れかえて、「後あり、先あり」と言われます。この順序の入れかえに意味を見るのか、言葉の調子のうえのことと見るのか、また、薪には「住して」、灰には「ありて」と言い分けていることに意味を見るのかも、読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。読む者としては、薪から見れば先と後、灰から見れば後と先、と、どちらの側から見ても、それぞれが自分の位置を中心として前後をもっている、という響きを感じとることもできるかもしれません。ただ、それは一つの味わい方にとどめておきます。

人のしぬるのち――不生・不滅#

「かの薪、はいとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ」。

ここで、たとえは、いよいよ人の生と死の上に重ねられます。薪が灰になったのち、もう一度薪にならないように、人が死んだのち、もう一度生とはならない。

この一句は、読む人の胸に、まっすぐに届く言葉でしょう。身近な人を見送った経験のある方なら、なおのことです。けれども、禅師はここでも「しかあるを」と言葉を継がれます。そうではあるけれども、生が死になる、とは言わない。それが仏法の定まったならわしであり、だから「不生」と言う。死が生にならないのは、法輪の定まった仏転、訳文の取り方で言えば、仏が法輪を転じて説いてこられたところであり、だから「不滅」と言う、と。

宗務庁版英訳の注では、「不生・不滅」は、多くの大乗の典籍で、一切の法は空であって生ぜず滅せず、という教えを表す一対の語であり、禅師はここで「生滅」、生じることと滅することを、「生死」、生きることと死ぬことに重ねている、とされています。また「法輪のさだまれる仏転」は、「仏転法輪」、仏が法輪を転ずる、というよく知られた言い方を組みかえたもの、とされています。

この一節は、語の組み合わせが一見ねじれて見えるところで、読みが分かれます(→読みの分かれるところ)。生が死に「なる」と言わないから「不生」、死が生に「ならない」から「不滅」――この対応を、たとえば、死は生から生じたものではないので不生、生は死によって滅したのではないので不滅、と一つ一つ読むのか、それとも、生は生として、死は死として、それぞれ生じも滅しもしない、と全体として読むのか。また、前の句が「いはざる」(言わない)、後の句が「ならざる」(ならない)と言い分けられていることに、言い方の問題と事柄の問題との区別を見るのかどうか。「法輪のさだまれる仏転」を、仏の説法として定まっていることと取るのか、法輪が定まって転じていることと取るのか。本解説では、どれか一つの読みに決めることはいたしません。

ただ、薪と灰の話の流れの中に置いてみると、一つの筋は見えてくるように思います。薪は灰になるけれども、灰を後、薪を先と見てはならない。薪は薪の法位に、灰は灰の法位にある。それと同じように、人は死ぬけれども、生が死に「なる」とは言わない。生は生の位に、死は死の位にある。生を、死に向かって流れてゆく途中の段階としてではなく、死を、生のなれの果てとしてでもなく、それぞれをそれぞれとして見る。その見方が、「不生」「不滅」という言葉に託されている、と受けとめることができるでしょう。

ここで、一つお断りしておきたいことがあります。この段で禅師が語っておられるのは、薪と灰、生と死を、どう見るか、どう言うかということだと、本解説では読んでいます。「人のしぬるのち」という言葉はありますが、この段は、人が死んだのちに何があるのか、ないのかを、それとして全面的に論じた箇所ではありません。「人のしぬるのち、さらに生とならず」という言葉も、薪が灰にもどらないことと並べて、生と死とをそれぞれの位において見る、という文脈の中で言われています。死後のことをどう受けとめるかは、この段の本文が語る範囲を越えますので、本解説では断定することを控えます。また、亡き人を偲び、供養することを退ける言葉が、この段に語られているわけではありません。

そのうえで、弁道話の問10の答えの中で、禅師が「生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」(『弁道話』第六回)と示しておられたことを、あわせて思い起こしておきたいと思います。生死を、そこから逃れ出るべきものとしてではなく、そのただなかに仏法があるものとして見る。今回の薪と灰の段も、生と死とを、厭うたり、すがったりする対象としてではなく、それぞれの位にあるものとして見る、という点で、弁道話のその言葉と響き合っているように思われます。もとより、これも二つの巻を並べて読む者の受けとめ方であり、本文がそう言っているのではありません。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり#

「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」。

この一句も、読みが大きく分かれるところです(→読みの分かれるところ)。「一時」を、「かりそめの」「一時的な」の意に取れば、生も死もはかないものだ、という響きになります。一方、「一時」を「その時その時の」「ひとときの、それとして完結した」の意に取れば、生はその時における一つの位であり、死もまたその時における一つの位である、という意味になります。宗務庁版英訳は、後のほうに近く、「時のなかの一つの位置」の意に訳しています。

そして、「くらゐ」という言葉は、前の「法位」の「位」と通じる語です。薪が薪の法位に住し、灰が灰の法位にあったように、生も生の位にあり、死も死の位にある。この流れの中で読むと、「一時のくらゐ」は、生と死のはかなさを嘆く言葉というよりは、生と死とがそれぞれに一つの位として住している、ということを言う言葉として、まず受けとめられるように思われます。ただし、生死のはかなさを見つめる読みにも、それなりの重みがあります。訳文では「一時のくらい(位)」と原文の語を残しましたが、それはこの読みの幅を残すためです。

なお、本山版の第92巻「生死」の巻にも、よく似た言葉が見えます。「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆへに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ」。「ひとときのくらゐ」「さきあり、のちあり」「不生」「不滅」と、今回の段と同じ言葉が並んでいます。二つの巻の言葉が呼びかわしていることは、心にとめておいてよいでしょう。ただ、この「生死」の巻の言葉によって、今回の「一時のくらゐ」の読みを一つに決めることはせず、ここでは並べて示すにとどめます。

冬と春#

「たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」。

段の最後に、禅師はもう一つ、季節のたとえを添えられます。冬と春とのようなものだ。冬が春になるとは思わない。春が夏になるとは言わない、と。

私たちはふだん、「冬が春になる」「春が夏になる」と、ごく自然に言います。けれども、よく考えてみると、冬という何かが、姿を変えて春になったわけではありません。冬は冬として、寒さの中にまるごとあり、春は春として、芽吹きの中にまるごとある。冬が過ぎて春が来る、と言うことはできても、冬そのものが春に「なる」のではない。そう受けとめると、このたとえは、薪と灰、生と死について言われてきた「前後際断」を、季節の上で確かめさせるものだ、と読むことができます。

一方で、季節がめぐるように、生と死もめぐるのだ、という読み方を思い浮かべる方もあるかもしれません。けれども、その読みは、前の「人のしぬるのち、さらに生とならず」という言葉や、すぐあとの「冬の春となるとおもはず」という言い方とは、向きが合わないおそれがあります。ただ、これはこの段のたとえの向きについてのことで、この段から、死後や後の世についての教えを引き出して断定するものではありません(先の「人のしぬるのち――不生・不滅」の項のお断りを参照)。また、「冬と春とのごとし」と言いながら、後では「春の夏となる」まで挙げておられること、「おもはず」(思わない)と「いはぬ」(言わない)とを言い分けておられることをどう受けとるかも、読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。

坐禅と暮らしの中の「法位」#

薪と灰の段を、坐禅と日々の修行に引き寄せて、もう少し考えてみたいと思います。

坐禅をしていると、私たちはつい、「この坐禅は、何かの途中だ」と思いがちです。いまはまだ足が痛い、心も落ちつかない、でも続けていけば、いつかもっと深い坐禅ができるようになるはずだ、と。その思いは、今日の坐禅を、明日のよりよい坐禅のための「先」、薪のようなものとして見ていることになるのかもしれません。

弁道話で、禅師は、「修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり」と示し、さらに「修のほかに証をまつおもひなかれ」、「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」と言われました(『弁道話』第五回)。修行と証とは別々のものではなく、初心の修行がそのまま本証の全体である。修行の外に証を待つ思いを持ってはならない。

この弁道話の言葉と、「薪は薪の法位に住して」「前後際断せり」という言葉とを並べてみると、今日の一坐を、明日の一坐の手前の段階としてではなく、今日の一坐として、まるごと坐る、という受けとめ方が浮かんできます。初心の坐禅は、熟達した坐禅になるための「先」なのではなく、初心の坐禅として、その位に住している。そう受けとめるとき、坐禅は、どこかへ向かう途中の時間ではなく、その一坐一坐が、それとして完結した修行となる、と言えるのではないでしょうか。これは、二つの言葉を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文が坐禅についてそう語っているのではないことを、申し添えておきます。

暮らしの中でも、同じことが言えるように思います。若い日の自分を、いまの自分の「先」として、未熟な途中の段階と見る。年老いた自分を、若さを失ったなれの果てと見る。病の日を、健康な日の欠けたものとして見る。私たちは、そのように、いまの自分を、何かの前後の流れの中に置いて、どこか足りないものとして見がちです。けれども、薪が薪の法位に、灰が灰の法位にあるように、若い日には若い日の位があり、老いの日には老いの日の位がある。冬には冬の、春には春の位がある。この段は、そのように、その時その時の自分の位を、厭わず、すがらずに受けとめてゆく、そのための一つの見方を示しているように思われます。

【3】月と水#

水に月のやどる――月ぬれず、水やぶれず#

「人の、悟をうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず」。

三つめのたとえは、月と水です。人が悟を得るのは、水に月が宿るようなものだ。月は濡れず、水は破れない、と。

夜、池や水たまりに月が映っている光景を思い浮かべてみてください。月は、たしかに水の中にあるように見えます。けれども、月が水に濡れるわけではありません。そして、水のほうも、月が宿ったからといって、破れたり、こわれたりするわけではありません。月は月のまま、水は水のまま、それでいて月は水に宿っている。

ここで、前回の【7】の言葉を思い起こす方もあるでしょう。前回、禅師は、身心をあげて色を見、声を聞くとき、親しく会得するけれども、「かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず」と言われました。鏡に影を宿すようなのではない、水と月とのようなのではない、と。同じ水と月のたとえが、前回は「〜のようではない」と退けられ、今回は「〜のようだ」と用いられているのです。

この二つをどう読み合わせるかは、読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。一つの読み方としては、前回の段は見聞きのしかた、たとえば見るものと見られるものとが二つに分かれて映る、そうした映り方を退けているのであり、今回の段は、悟と人とが互いに損なわないことを言うので、同じたとえが違う点に用いられている、と見ることができます。けれども、前回の【7】の段全体をどう読むか――二つに分かれない見聞きを言う段と読むのか、ふつうの、かたよった見聞きを、ゆがみのない映り方と対比する段と読むのか――によって、二つの関係の説明そのものが変わってきます。本解説では、どちらか一つに決めることはいたしません。同じ水と月のたとえが、巻の中で二度、向きを変えて現れる、ということ自体を、読む者の問いとして心にとどめておきたいと思います。

もう一つ、この句の中で、何が何に当たるのかも確かめておきましょう。後の句に「悟の、人をやぶらざること、月の、水をうがたざるがごとし」とあることから、月が悟、水が人、と対応させて読むのが、字面に沿った読み方です。一方で、月を法や仏、水を人の身心と取る読み方もあります。また、「水やぶれず」の「やぶれず」を、「破れない」と取るか、宗務庁版英訳のように「乱されない」と取るか、「こわれない・くずれない」と取るかも、読みの分かれるところです(→読みの分かれるところ)。

尺寸の水にも、草の露にも#

「ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる」。

月の光は、広く大きい。けれども、その月は、一尺一寸ほどのわずかな水にも宿る。月の全体も、天いっぱいの空も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。

ここは、このたとえのもっとも美しいところかもしれません。大きな湖にだけ月が宿るのではありません。道ばたの小さな水たまりにも、朝の草の葉に置いた一粒の露にも、月はその全体のまま宿ります。露が小さいからといって、月が欠けて映るわけではない。

「全月も弥天も」を、月の全体と、天いっぱいの空との二つと取るのか、天いっぱいに光る月の全体という一つのものを重ねて言うと取るのかは、読みが分かれます。いずれにしても、大きなものが、小さなものの中に、その大きさのまま宿る、という光景が、ここには描かれています。

このたとえを、人と悟の上に重ねてみると、どうでしょうか。悟は、すぐれた器量をもった、特別な人にだけ宿るのではない。一滴の水のような、小さな私たち一人一人の上にも、その全体のまま宿る。そのように受けとめることができるように思います。

悟の、人をやぶらざること#

「悟の、人をやぶらざること、月の、水をうがたざるがごとし。人の、悟を罣礙せざること、滴露の、天月を罣礙せざるがごとし」。

悟が人を破らないことは、月が水に穴をあけないようなものだ。人が悟を罣礙しない、さまたげないことは、ひとしずくの露が天の月をさまたげないようなものだ。

前半と後半とで、主と客が入れかわっています。前半は「悟が人を」、後半は「人が悟を」。前半は「月が水を」、後半は「露が天月を」。悟と人との関わりを、両方の側から言っているのです。「やぶらざる」を「破らない」と取るか、「乱さない・そこなわない」と取るか、「天月」を天にある月と一つに取るか、天と月の二つと取るか、「罣礙せざる」にどこまでの含みを読むかは、それぞれ読みの分かれるところです。

そのうえで、この対句の大きな向きは、悟と人とが互いに損なわず、さまたげない関係にある、ということだと受けとめてよいように思われます。

悟が人を破らない。悟ったからといって、その人が何か別の人間に変わってしまうのではない、と受けとめることができるでしょう。月が宿っても、水は水のままであるように、悟を得ても、人は、その人の身心のままにある。そして、人が悟をさまたげない。私たちの身心が小さく、不完全であるからといって、それが悟をさまたげるのではない。露が小さくても、天の月はそこに宿るように。

これは、修行する者にとって、大きな励ましとなる言葉ではないでしょうか。坐禅をしていて、「自分のような者に悟などあるはずがない」と思ったり、逆に「悟れば、自分はすっかり別の人間になれるはずだ」と思ったりすることがあります。前のほうは、自分を、月を宿すには小さすぎる水と見る思いであり、後のほうは、月が宿れば水は水でなくなる、と思う思いだ、と言えるかもしれません。けれども、このたとえは、そのどちらでもないことを示しているように思われます。先に引いた弁道話の「初心の辦道すなはち本証の全体なり」という言葉とも、響き合うところがあるように感じられます。もとより、これも並べて読む者の受けとめ方です。

ふかきことは、たかき分量なるべし#

「ふかきことは、たかき分量なるべし」。

この一句は、この回の中でももっとも難解な句の一つです(→読みの分かれるところ)。何の深さ、何の高さなのかが、本文には示されていません。

宗務庁版英訳の注では、おそらく、悟の深さは、その悟を起こさせた法の高さに応じたものである、という意味であろう、とされています。一方で、たとえの側で読んで、水の深さは、そこに宿る月の高さの分量である、と取ることもできます。さらに、深いことと高いこととを、一つのことの両面と見て、深いことはそのまま高いことの分量である、と読む読み方もありえます。また「べし」を、「〜にちがいない」と推しはかる意味に取るか、「〜であるべきだ」と当然の意味に取るかでも、響きが変わってきます。

どの読みに立つとしても、この一句が、前の「尺寸の水」「くさの露」「一滴の水」という、小さな水の話のあとに置かれていることは、心にとめておいてよいでしょう。小さな水にも月は全体として宿る。けれども、それは、深さや高さということがどうでもよい、ということではない。深さと高さとの間には、何らかの見合う関わりがある。禅師は、小さな水にも月が宿るという言葉で修行する者を励ましながら、同時に、深さと高さとのことを、一句でさりげなく示しておられる、と受けとめることもできるでしょう。

時節の長短#

「時節の長短は、大水・小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし」。

最後の一句も、読みが分かれます(→読みの分かれるところ)。「時節の長短」が何の時の長さ短さなのか。宗務庁版英訳の注では、おそらく悟の時、あるいは悟に至るまでの時を言うのであろう、とされています。修行の時の長さ短さと取ることも、たとえの側で、月が水に宿る時の長さ短さと取ることもできます。

文の組み立ても、一つではありません。訳文では、時節の長短を知るには、大水か小水かを検点し、天月の広い狭いを見きわめるがよい、と、読む者、修行する者を主語として訳しました。一方、宗務庁版英訳は、時の長さは、水の大小によって定められ、天や月の広さによって見積もられねばならない、という意味に訳しており、「時節の長短」を、定められ見積もられるものの側に置いています。「すべし」を、勧めと取るか、当然と取るか、推しはかりと取るかでも、読み方が変わってきます。「天月」を一つと取るか二つと取るかも、前の句と同じく読みの分かれるところです。

ここでは、一つの受けとめ方だけを申し上げておきます。修行の時が長いか短いか、悟るのが早いか遅いか。私たちは、そうしたことを、ほかの人とくらべて気にかけがちです。けれども、この一句は、その長短を、ただ時計の上の長さとしてではなく、水の大小、天月の広狭との関わりの中で、よくよく見きわめるべきことだ、と示しているように読めます。他人の時節の長短を、自分の物差しで測るのではなく、それぞれの水に、それぞれに月が宿っている、そのありようを検点する。そうした落ちついたまなざしを、この一句から受けとることができるのではないでしょうか。

坐禅と月の光#

月と水の段を、坐禅に引き寄せて受けとめてみたいと思います。

坐禅をするとき、私たちは、何か特別な心の状態を作り出そうとして、かえって苦しくなることがあります。けれども、水は、月を宿そうとして努力するわけではありません。水が静かであれば、月はおのずから宿ります。月が、水をうがって入りこむのでもありません。坐禅は、何かを自分の力で手に入れることではなく、この身心をととのえて、ただ坐る。そこに、悟が、月が水に宿るように宿っている、と受けとめることができるでしょう。前回の言葉で言えば、「自己をはこびて万法を修証する」のではなく、「万法すすみて自己を修証する」、その向きだと言えるかもしれません。

もとより、本文の「人の、悟をうる」は坐禅に限って言われているわけではありませんし、坐禅を「水を静かにすること」とたとえるのは、本文にない私のたとえです。ただ、宗門で坐禅を修行の根本とすることを思うとき、この月と水のたとえを、坐禅のすがたに重ねて味わうことは、自然なことのように思われます。

そして、坐禅を終えて立ちあがり、日々の暮らしに戻ったとき。洗いものの水に、朝の露に、雨上がりの水たまりに、月は、そして天は、変わらず宿っています。小さな器にも、大きな器にも。私たちの一つ一つの行いもまた、尺寸の水、一滴の露のように、小さなものです。けれども、その小さな行いの中にも、その全体のまま宿るものがある。月と水の段は、そのことを、静かに語っているように思われます。

むすびに#

今回読んだ三つの段落を、あらためてふりかえってみましょう。

舟と岸の段では、舟に乗る人が、目を岸にばかり向けて岸が動くと思いちがえるように、私たちは、身心を乱れた思いでとらえたまま万法を見定めるとき、自分の心、自分の本性は常住なのではないか、と思いちがえる、と示されました。そして、自分の行いに親しく寄りそい、いま・ここに帰るとき、万法がわれではないという道理が明らかになる、と言われました(【1】)。

薪と灰の段では、薪は灰になり、灰は薪にもどらない。けれども、灰を後、薪を先と見てはならない、薪は薪の法位に、灰は灰の法位にあり、前後はあっても前後際断している、と示されました。そして、それを人の生と死の上に重ねて、生が死になるとは言わない、だから不生、死が生にならない、だから不滅、生も一時の位、死も一時の位であり、冬と春とのようだ、と言われました(【2】)。

月と水の段では、人が悟を得るのは、水に月が宿るようなものであり、月は濡れず、水は破れない、と示されました。月は、尺寸の水にも、草の露にも、一滴の水にも、その全体のまま宿る。悟は人を破らず、人は悟をさまたげない。そして、深さと高さ、時節の長短についての、難解な二句で段が結ばれました(【3】)。

三つのたとえをこうして並べてみると、そこに共通して見えてくるのは、それぞれのものを、それぞれのところで、それぞれとして見る、というまなざしではないでしょうか。舟に乗る人は、動かない自分を基点として、外の岸を動くものと見ていました。薪と灰を一つの流れの前と後として見るとき、私たちは、薪を灰になる途中のもの、灰を薪のなれの果てと見ていました。どちらも、ある一つの見る位置から、ものごとを、その位置に都合よく並べてしまう見方だ、と言えるかもしれません。前回の「自己をはこびて万法を修証する」とは、そのような見方のことだと受けとめることもできるでしょう。それに対して、自分の行いに親しく寄りそい、薪を薪の法位に、灰を灰の法位に見、月が濡れず水が破れないままに月が水に宿るのを見るとき、そこには、自分の側からものごとを並べるのではなく、ものごとがそれぞれのありようのままに明らかになる、という向きがあります。前回の「万法に証せらるる」という言葉の具体的な姿の一端が、この三つのたとえに示されている、と受けとめてよいように思われます。もとより、これは三つのたとえを並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう要約しているわけではありません。また、「読みの分かれるところ」に挙げたように、一つ一つの句には読みの幅が少なからず残っています。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。

最後に、三つの光景を、もう一度思い浮かべてみたいと思います。岸を流れる景色から、自分の乗る舟へと、目を寄せる。燃えている薪を、灰になる途中のものとしてではなく、いま燃えている薪として見る。草の葉に置いた一粒の露に、天の月が、まるごと宿っているのを見る。

私たちの暮らしも、坐禅も、どこかへ向かう途中の時間として過ごしてしまうことができます。けれども、この三つのたとえは、いまの行いに親しく寄りそい、今日の一坐を今日の一坐として坐り、小さな身のままに月を宿す、そのような日々のあり方を、静かに指し示しているように思われます。

次回は、「身心に、法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ」と始まる段落を読みます。そこでは、舟に乗って山のない海に出て四方を見る、という、もう一つの舟のたとえが語られます。今回の舟と岸のたとえと、どのように呼びかわしているかにも、心をとめながら読んでいきたいと思います。

読みの分かれるところ#

この回の三つのたとえには、言葉の取り方によって意味の変わる句がいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」【1】
    「身心を乱想して」を、身心について取りちがえた思いをもったまま、と取るか、身心まるごとが乱れた思いのうちにある、と取るか、身心をあれこれと思いめぐらして、と取るかで幅があります。「弁肯する」も、見定めて受けとる、と取るほか、分別して「これでよし」と認めてしまう、という否定の含みで取ることもできます。「自心自性」を自分の心と自分の本性の二つと取るか、自分の心の本性という一語と取るか、「なるか」の疑いの語気をどこまで訳に残すかにも幅があります。宗務庁版英訳は、身心についての混乱した考えをもって万法を確かめるとき、自分の心と自分の本性が常住であると思い違える、という形に訳しています。

  2. 「もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」【1】
    「行李」は日々の行い・ふるまいと取るのが一つの読み方ですが、もとの「旅の荷物・旅」の意を生かして読むこともできます。「したしく」を前の「めをしたしくふねにつくれば」と重ねて読むかどうか、「箇裏」を、いま・ここ、と取るか、自己の足もと・本来の場所と取るかでも響きが変わります。「われ」も、固定した実体としての我、自分(のもの)、直前の「自心自性」を受けたもの、と幅があります。宗務庁版英訳は、自分の行いに親しくなってここに帰れば、という形に訳し、注では、自分の居るところで自分の行いに親しく注意を向けるとき、の意と説明しています。

  3. 「灰はのち、薪はさきと見取すべからず。……薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり」【2-1】
    退けられているのが、薪から灰へという前後の順の見方そのものなのか、前後はあるがそれを一つの連続の前と後と見ることなのかで読みが分かれます。「法位」を、それぞれのものが住しているありかたと取るか、時の上での位置と取るかにも幅があり、宗務庁版英訳の注は、それぞれの法がそれ自身の時に住するという教えをふまえ、『法華経』の一節への言及と見ています。「さきあり、のちあり」の先と後が、薪になる前と灰となる後なのか、薪というありかたの中の前後なのか、薪それ自身が先と後の全体をそなえていることなのかは、本文に示されていません。灰について「後あり、先あり」と順序を逆にし、薪には「住して」、灰には「ありて」と言い分けていることに意味を見るかどうかも、読み手によって分かれます。

  4. 「生の死になるといはざるは、……このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、……このゆゑに不滅といふ」【2-2】
    生が死に「なる」と言わない→不生、死が生に「ならない」→不滅、という組み合わせは、一見ねじれて見えます。死は生から生じたのではないので不生、生は死によって滅したのではないので不滅、と一つ一つ対応させて読むことも、生は生として、死は死として、それぞれ生じも滅しもしない、と全体で読むこともできます。「いはざる」(言わない)と「ならざる」(ならない)の言い分けに、言い方の問題と事柄の問題との区別を見るかどうか、「法輪のさだまれる仏転」を、仏の説法として定まっていることと取るか、法輪が定まって転じていることと取るかにも幅があります。宗務庁版英訳の注は、「不生・不滅」を、一切の法は空であって生ぜず滅せず、という大乗の典籍の一対の語とし、禅師はここで生滅を生死に重ねている、としています。

  5. 「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」【2-3】
    「一時」を「その時その時の」「ひとときの、それとして完結した」と取れば、生も死もそれぞれ一つの位として住している、という意味になり、「かりそめの」「一時的な」と取れば、生死のはかなさを見つめる響きになります。「くらゐ」を、前の「法位」の「位」と同じ意と見るかどうかにも幅があります。宗務庁版英訳は「時のなかの一つの位置」の意に訳しています。続く冬と春のたとえも、冬は冬、春は春としてそれぞれある、と読む読み方のほか、季節がめぐるように生と死もめぐる、と読む読み方を思い浮かべる人もあるでしょう。ただし後者は前後の句と向きが合わないおそれがあります。「おもはず」と「いはぬ」の言い分けや、「春の夏となる」まで挙げることをどう受けとるかにも幅が残ります。

  6. 「人の、悟をうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず」【3-1】
    月を悟、水を人と取るのが後の句に沿った読み方ですが、月を法や仏、水を人の身心と取る読み方もあります。「やぶれず」も、破れない、乱されない(宗務庁版英訳)、こわれない・くずれない、と幅があります。また、前回の【7】では「水と月とのごとくにあらず」と、同じたとえが退けられていました。前回は見るものと見られるものとが分かれる映り方を退け、今回は悟と人とが互いに損なわないことを言うので、たとえを違う点に用いている、と見ることもできますが、前回の段全体をどう読むかによって、二つの関係の説明は変わってきます。

  7. 「ふかきことは、たかき分量なるべし。時節の長短は、大水・小水を検点し、天月の広狭を弁取すべし」【3-3】
    何の深さ、何の高さなのかが示されていません。悟の深さはそれを起こさせた法の高さに応じる(宗務庁版英訳の注が「おそらく」として示す読み)、水の深さは宿る月の高さの分量である(たとえの側で読む)、深いことと高いことは一つのことの両面である、と読むことができます。「時節の長短」も、悟の時(あるいは悟に至るまでの時)、修行の時、月が水に宿る時、と幅があります。文の組み立ても、読む者・修行する者が水の大小を検点し、天月の広狭を見きわめよ、と読むか、宗務庁版英訳のように、時の長さは水の大小によって定められ、天や月の広さによって見積もられる、と読むかで分かれます。「べし」「すべし」を推しはかり・当然・勧めのどれに取るかにも幅があります。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第三「現成公案」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 「法位」「前後際断」「不生・不滅」「仏転」などの語句の典拠の説明と、語注・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。