礼拝得髄(四)女人をきらう愚#
原文#
法をおもくするこころざし#
【1】いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。無上菩提のため、なんぞ得法のうやまふべきをうやまはざらん。これは、法をおもくするこころざしあさく、法をもとむるこころざしあまねからざるゆえなり。すでにたからをむさぼるとき、女人のたからにてあれば、うべからずとおもはず、法をもとめんときは、このこころざしにはすぐるべし。もししかあらば、草木牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法をあたふるなり。かならずしるべき道理なり。真善知識にあふといへども、いまだこの志気をたてて法をもとめざるときは、法水のうるほひ、かうぶらざるなり。審細に功夫すべし。
女流を貪婬所対の境とみること#
【2】また、いま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてあり、とおもふこころをあらためずして、これをみる。仏子かくのごとくあるべからず。貪婬所対の境となりぬべし、とていむことあらば、一切男子もまたいむべきか。染汚の因縁となることは、男も境となる、女も境縁となる。非男非女も境縁となる、夢幻空華も境縁となる。あるひは水影を縁として非梵行あることあり。あるひは天日を縁として非梵行ありき。神も境となる、鬼も境となる。その縁、かぞへつくすべからず、八万四千の境界ありといふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。
【3】律云、「男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷不共住」。
【4】しかあれば、婬所対の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女人と、たがひにあひきらふて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に撿点すべし。
【5】外道も妻なきあり。妻なしといへども、仏法にいらざれば、邪見の外道なり。仏弟子も、在家の二衆は夫婦あり。夫婦あれども、仏弟子なれば、人中・天上にも肩をひとしくする余類なし。
「ながく女人をみることなからん」の願#
【6】また、唐国にも、愚癡僧ありて、願志を立するにいはく、「生生世世、ながく女人をみることなからん」。この願、なにの法にかよる。世法によるか、仏法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがかある、男子なにの徳かある。悪人は、男子も悪人なるあり、善人は、女人も善人なるあり。聞法をねがひ、出離をもとむること、かならず男子・女人によらず。もし未断惑のときは、男子・女人おなじく未断惑なり。断惑証理のときは、男子・女人、簡別さらにあらず。また、ながく女人をみじと願せば、衆生無辺誓願度のときも、女人をばすつべきか。すてては菩薩にあらず、仏慈悲といはんや。ただこれ声聞の酒にえふことふかきによりて、酔狂の言語なり。人天、これをまことと信ずべからず。
【7】また、むかし犯罪ありしとてきらはば、一切、菩薩をもきらふべし。もし、のちに犯罪ありぬべし、とてきらはば、一切発心の菩薩をもきらふべし。かくのごとくきらはば、一切みなすてん、なにによりてか仏法現成せん。
【8】かくのごとくのことばは、仏法をしらざる癡人の狂言なり、かなしむべし。もしなんぢが願のごとくにあらば、釈尊、および在世の諸菩薩、みな犯罪ありけるか、またなんぢよりも菩提心もあさかりけるか、しづかに観察すべし。付法蔵の祖師、および仏在世の菩薩、この願なくば、仏法にならふべきところやある、と参学すべきなり。もし汝が願のごとくにあらば、女人を済度せざるのみにあらず、得法の女人、よにいでて、人天のために説法せんときも、きたりてきくべからざるか。もしきたりてきかずは、菩薩にあらず、すなはち外道なり。
大宋国の女人と、境をあきらむること#
【9】いま大宋国をみるに、久修練行に似たる僧侶の、いたづらに海沙をかぞへて、生死海に流浪せるあり。女人にてあれども、参尋知識し、弁道功夫して、人天の導師にてあるあり。餅をうらず、餅をすてし老婆等あり。あはれむべし、男子の比丘僧にてあれども、いたづらに教海のいさごをかぞへて、仏法は夢にもいまだみざることを。
【10】おほよそ境をみては、あきらむることをならふべし。おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり。東をすてて西にかくれんとすれば、西にも境界なきにあらず。たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり、なほこれ解脱の分にあらず、遠境はいよいよふかかるべし。
現代語訳#
段落番号【1】〜【10】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。【1】のはじめは、第三回の【7】の、后宮・院号の女人に仕える僧侶の話を受けているので、訳もそのつながりで訳しました。【3】の律の文は、まず「書き下し」を示し、続けて訳をつけました。書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・読点もそのままとしました。底本の本文そのものではなく、一つの読み方です。【6】の願のことば(「生生世世、ながく女人をみることなからん」)は和文なので、書き下しを立てていません。この回の範囲は、すべて七十五巻本にない部分にあたります。この回は、女流を貪婬の対象とみる考えや、女人を見まいとする願への批判を扱います。「貪婬」「婬所対」「非梵行」「波羅夷」など性にかかわる語、「女人」「至愚」「癡人」などは本文の語のまま訳し、語注で意味を示すにとどめました。言いかえたり和らげたりはしていません。仏教語・禅語(世途・無上菩提・得法・草木牆壁・正法・天地・万法・善知識・志気・法水・審細・功夫・至愚・女流・貪婬所対・境界・仏子・染汚・因縁・境縁・非男非女・夢幻空華・非梵行・八万四千・律・波羅夷・不共住・婬所対・得度・撿点・外道・邪見・在家の二衆・人中・天上・愚癡僧・願志・生生世世・世法・天魔・聞法・出離・未断惑・断惑証理・簡別・衆生無辺誓願度・菩薩・仏慈悲・声聞・酔狂・犯罪・発心・現成・癡人・狂言・菩提心・付法蔵・参学・済度・説法・久修練行・海沙・生死海・流浪・参尋知識・弁道功夫・導師・教海・境・小乗・教行・解脱の分・遠境など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名や典拠は、宗務庁版英訳の注が挙げる範囲で示しています。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。
法をおもくするこころざし#
【1】むなしい世途(世わたり)のためにさえ、なおこのようにする。(それなのに)無上菩提のためには、どうして得法の、うやまうべき(人)をうやまわないのか。これは、法を重くする志が浅く、法を求める志があまねくない(ゆきわたっていない)からである。たからをむさぼるときには、女人のたからであるからといって、受けてはならないとは思わない。法を求めるときには、この志にまさるべきである。もしそうであるならば、草木・牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法を与えるのである。かならず知るべき道理である。真の善知識に会うとしても、まだこの志気を立てて法を求めないときには、法水のうるおいをこうむらないのである。審細に功夫すべきである。
語注
- いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす:むなしい世途のためにさえ、なおこのようにする。第三回の【7】の、僧侶が后宮・院号の女人の家に走りより、はきものに頭を打ちつけ、奴僕となって年を経る、ということを受ける。宗務庁版英訳の注は、「世途」を世わたり、世の中での暮らしの道とする。世途は訳さずに残した。
- 得法のうやまふべきをうやまはざらん:得法の(人で)うやまうべき者を、うやまわないのか。宗務庁版英訳は「得法のゆえにうやまわれるべき者を」と訳す(→読みの分かれるところ)。
- あまねからざるゆえ:あまねくない(行きわたらない、十分でない)から。宗務庁版英訳は "not all-encompassing" と訳す。
- すでにたからをむさぼるとき:たからをむさぼるときには。「すでに」は、現に(たからをむさぼる場面では)の意に取った。宗務庁版英訳は "When they covet riches" と訳す。
- 女人のたからにてあれば、うべからずとおもはず:女人のたからであるからといって、受けてはならないとは思わない。【2】以下の、女人を忌む考えと対比する。
- このこころざしにはすぐるべし:この(たからをむさぼる)志にまさるべきである。宗務庁版英訳は「この態度はさらに強くあるべきだ」と訳す(→読みの分かれるところ)。
- 草木牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法をあたふる:草木・牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法を与える。宗務庁版英訳の注は、「天地・萬法」と中黒で並べる句読に従ったもので、それがなければ「天地の萬法」と読むこともできる、とする。訳文は底本の中黒に従い「天地・万法」と並べた。草木牆壁・天地・万法・正法は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 真善知識:まことの善知識。訳さずに残した。
- 法水のうるほひ、かうぶらざる:法水(法の水)のうるおいをこうむらない。宗務庁版英訳の注は、仏の教えの利益をいう通例の喩えとする。法水は訳さずに残した。
- 審細に功夫すべし:つまびらかに、こまやかに功夫すべきである。審細・功夫は訳さずに残した。
女流を貪婬所対の境とみること#
【2】また、いま、至愚のはなはだしい人が思うことには、女流は貪婬所対の境界である、と思う心を改めないで、これ(女流)を見る。仏子はこのようであってはならない。貪婬所対の境となるにちがいない、といって忌むのならば、一切の男子もまた忌むべきであろうか。染汚の因縁となるということでは、男も境となり、女も境縁となる。非男非女も境縁となり、夢幻空華も境縁となる。あるいは、水影を縁として非梵行があることもある。あるいは、天日を縁として非梵行があった。神も境となり、鬼も境となる。その縁は数えつくすことができない。八万四千の境界があるという。これをみな捨てるべきか。見てはならないというのか。
語注
- 至愚のはなはだしき人:この上なく愚かなことのはなはだしい人。至愚は訳さずに残した。
- 貪婬所対の境界:貪婬(むさぼりの婬欲)が対する境界(対象)。宗務庁版英訳の注は、字義どおりには「婬欲がその対象とする知覚の対象」とする。訳さずに残した。
- これをみる:これ(女流)を見る。
- 仏子:仏の子、仏弟子。宗務庁版英訳の注は、仏教徒をいい、ここで思い描かれている親は、弟子たちの父としてしばしば描かれる釈尊であろう、とする。訳さずに残した。
- いむ:忌む、避ける。
- 染汚の因縁:染汚(けがれ)の因縁。訳さずに残した。
- 男も境となる、女も境縁となる:境・境縁(対象となる縁)は訳さずに残した。
- 非男非女:宗務庁版英訳の注は、黄門・二形の者をいうのに用いられる語、とする。訳さずに残した。
- 夢幻空華:夢・まぼろし・空中の花(実体のない見かけのもの)。第三回の【7】の語注を参照。訳さずに残した。
- 水影を縁として非梵行あることあり。あるひは天日を縁として非梵行ありき:水に映った影を縁として非梵行があることがあり、天の日を縁として非梵行があった。宗務庁版英訳の注は、「非梵行」は梵語 abrahmacarya(梵行〔清らかな行い〕でないこと)の音写と訳を合わせた語で、道元禅師がここでどんな典拠を念頭においていたかは明らかでない、とする。非梵行は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 神も境となる、鬼も境となる:宗務庁版英訳の注は、「神」「鬼」を善い霊と悪い霊と取り、『梵網経』が畜生・諸天・鬼神の女との性の行いを禁じていることを挙げる。
- 八万四千の境界:数かぎりない境界。八万四千は訳さずに残した。
- これみなすつべきか、みるべからざるか:これをみな捨てるべきか、見てはならないのか(そうではあるまい)。
書き下し 律に云く、男の二所、女の三所、おなじくこれ波羅夷不共住。
訳 律にいう。「男の二所、女の三所(に婬を行うこと)は、同じくこれ波羅夷であり、不共住である」。
語注
- 書き下し:本山版に拠る活字本に付けられた読み下しは「律に云く、男の二所、女の三所」までで、続く「おなじくこれ波羅夷不共住」は本文のまま続けた。訳文では、引用であることを示すために「 」を加えた。
- 律:戒律の書。宗務庁版英訳の注は、この文は律の規定の要約で、比丘が女の三所、または男の二所に(婬を)行えば波羅夷の罪となる、とする規定をいうとし、たとえば『四分律』に見える、とする。訳文は(に婬を行うこと)と補った。
- 波羅夷不共住:宗務庁版英訳の注は、波羅夷はもっとも重い罪で、犯した者は僧団から追放される(不共住)、とする。波羅夷・不共住は訳さずに残した。
- この引用の働き:男も女もひとしく(婬の)境となりうることを、律の規定によって示すもの、と取った(→読みの分かれるところ)。
【4】そうであるから、婬所対の境になるにちがいないといって嫌うならば、一切の男子と女人とが互いに嫌いあって、決して得度の期はないであろう。この道理を、子細に撿点すべきである。
語注
- 婬所対の境:婬(欲)が対する境。訳さずに残した。
- たがひにあひきらふて:互いに嫌いあって。
- 得度の期:得度(迷いの世界を渡って救われること)の時。宗務庁版英訳の注は、ここの文脈では「得度」を僧団への出家得度の意に取ることもできる、とする。得度は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 子細に撿点すべし:こまかに点検すべきである。撿点は訳さずに残した。
【5】外道にも妻のない者がいる。妻がないといっても、仏法に入らないのであれば、邪見の外道である。仏弟子でも、在家の二衆には夫婦がある。夫婦があっても、仏弟子であるから、人中・天上にも肩を並べる余類(ほかの類)はない。
語注
- 外道:宗務庁版英訳の注は、仏教以外の教えにしたがう者で、インドではおもにヒンドゥー教徒・ジャイナ教徒、東アジアでは道教・儒教についても用いられる、とする。訳さずに残した。
- 仏法にいらざれば:仏法に入らないならば。
- 邪見:よこしまな見解。訳さずに残した。
- 在家の二衆:宗務庁版英訳の注は、優婆塞(在家の男)と優婆夷(在家の女)をいう、とする。訳さずに残した。
- 人中・天上:人間の世界と天上の世界。訳さずに残した。
- 肩をひとしくする余類なし:肩を並べるほかのたぐいはない。
「ながく女人をみることなからん」の願#
【6】また、唐国にも愚癡の僧がいて、願志を立てて言った。「生生世世、ながく女人を見ることがないように」。この願は、何の法によるのか。世法によるのか、仏法によるのか、外道の法によるのか、天魔の法によるのか。女人に何の咎があるのか。男子に何の徳があるのか。悪人については、男子でも悪人である者がいる。善人については、女人でも善人である者がいる。聞法を願い、出離を求めることは、決して男子・女人によるのではない。もし未断惑のときは、男子・女人は同じく未断惑である。断惑証理のときは、男子・女人の簡別はまったくない。また、ながく女人を見まいと願うならば、衆生無辺誓願度のときにも、女人は捨てるべきなのか。(女人を)捨てては菩薩ではない。(まして)仏の慈悲といえようか。これはただ、声聞の酒に深く酔っているための、酔狂の言語である。人天は、これをまことと信じてはならない。
語注
- 唐国:中国。
- 愚癡僧ありて:愚癡(おろか)の僧がいて。宗務庁版英訳の注は、「愚かな僧たちがいる(いた)」とも読めるとし、ここでもっともありそうな対象は、名高い華厳の学僧、澄観で、その立てた十の誓いの第三が「目に女人を視ず」である(『宋高僧伝』)、とする。本文は人名を挙げないので、訳文は人名を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
- 願志を立する:願を立てる。
- 生生世世:生まれかわり死にかわりする、いつの世までも。訳さずに残した。
- なにの法にかよる:何の法によるのか。宗務庁版英訳の注は、「法」は教え・規則・規範のいずれとも取れる、とする。
- 世法・天魔:世間の法・天の魔(仏道をさまたげる魔王)。訳さずに残した。
- かならず男子・女人によらず:決して男子か女人かによるものではない。
- 未断惑:まだ惑いを断っていないこと。訳さずに残した。
- 断惑証理:惑いを断ち、理を証すること。訳さずに残した。
- 簡別さらにあらず:区別はまったくない。
- みじと願せば:見まいと願うならば。
- 衆生無辺誓願度:衆生は無辺なれども、誓って度せんことを願う。宗務庁版英訳の注は、菩薩の四弘誓願の第一とする。訳さずに残した。
- すてては菩薩にあらず、仏慈悲といはんや:捨てては菩薩ではない。仏の慈悲といえようか(いえない)(→読みの分かれるところ)。
- 声聞の酒:宗務庁版英訳の注は、衆生を度する菩薩の誓いを含まない、声聞の乗の教えをいう、とする。声聞は訳さずに残した。
- えふ:酔う。
- 酔狂の言語:酔ったうえの狂ったことば。
【7】また、むかし犯罪があったからといって嫌うのならば、一切の菩薩をも嫌うべきである。もし、のちに犯罪があるにちがいない、といって嫌うのならば、一切の発心の菩薩をも嫌うべきである。このように嫌うのならば、一切をみな捨てることになろう。何によって仏法が現成するのか。
語注
- むかし犯罪ありしとてきらはば:むかし(過去の世に)犯罪があったといって嫌うならば。宗務庁版英訳の注は、目的語は明示されないが、まちがいなく「女人」であり、女人は過去の世の悪業によって不幸な身に生まれたとしばしば考えられた、とし、この文が述べるように、すぐれた菩薩を含むあらゆる衆生が過去の世に数えきれない悪業を作っている、とする。訳文は目的語を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
- 一切、菩薩をもきらふべし:(そうであれば)すべて、菩薩をも嫌うべきである。「一切」を「菩薩」にかけて「一切の菩薩」と取った。読点を生かして「すべてのものを(嫌うべきであり)、菩薩をも嫌うべきである」とも読める(→読みの分かれるところ)。
- 発心の菩薩:発心した(菩提心をおこした)菩薩。
- 仏法現成せん:仏法が現成する(あらわれ成り立つ)。現成は訳さずに残した。
【8】このような言葉は、仏法を知らない癡人の狂言であり、かなしむべきである。もしおまえの願のとおりであるならば、釈尊や(釈尊の)在世の諸菩薩は、みな犯罪があったのか、またおまえよりも菩提心が浅かったのか、と、しずかに観察すべきである。付法蔵の祖師や仏在世の菩薩に、この願がないのであれば、(この願に)仏法としてならうべきところがあるのか、と参学すべきである。もしおまえの願のとおりであるならば、女人を済度しないだけではない。得法の女人が世に出て、人天のために説法するときにも、来て聞いてはならないのか。もし来て聞かないのならば、菩薩ではない。すなわち外道である。
語注
- かくのごとくのことば:このような言葉。宗務庁版英訳の注は、女人を見まいとする誓いのような言葉、とする。
- 癡人の狂言なり、かなしむべし:癡人(おろかな人)の狂ったことばであり、かなしむべきである。「かなしむべし」を前に付けて訳した。句の切り方によっては、「かなしむべし」が後の「もし……」を導くようにも読める(→読みの分かれるところ)。
- もしなんぢが願のごとくにあらば:もしおまえの願のとおりであるならば。宗務庁版英訳の注は、ここまでは一般的に述べていたかもしれないが、ここではっきりと、誓いを立てた「愚かな僧」に向けて問うている、とし、釈尊とその菩薩の弟子たちは経典で女人に教えを説いているのだから、その僧の誓いに背くことになる、とする。
- 釈尊、および在世の諸菩薩:釈尊と、(釈尊の)在世の菩薩たち。
- みな犯罪ありけるか、またなんぢよりも菩提心もあさかりけるか、しづかに観察すべし:みな犯罪があったのか、またおまえよりも菩提心が浅かったのか、と、しずかに観察すべきである。「しづかに観察すべし」が前の二つの問いを受ける、と取った。句の切り方によっては、「しづかに観察すべし」が後ろの「付法蔵の祖師……」を導くようにも読める。菩提心は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 付法蔵の祖師:法蔵(仏法)を付嘱された祖師たち。訳さずに残した。
- この願なくば、仏法にならふべきところやある、と参学すべきなり:この願がないのであれば、(この願に)仏法として学ぶべきところがあるのか、と参学すべきである。宗務庁版英訳の注は、仮の訳であるとし、「(祖師や菩薩たちに)仏法に学ぶべきところがあるのか」とも読める、とする。訳文は「この願に」と補った(→読みの分かれるところ)。
- 汝が願:おまえの願。
- 済度:(迷いの世界から)救い渡すこと。訳さずに残した。
- よにいでて:世に出て(師として立って)。
- きたりてきくべからざるか:来て聞いてはならないのか。
- 菩薩にあらず、すなはち外道なり:菩薩ではなく、すなわち外道である。
大宋国の女人と、境をあきらむること#
【9】いま大宋国を見ると、久修練行に似た僧侶で、いたずらに海の砂を数えて、生死の海に流浪している者がいる。女人であっても、知識を参尋し、弁道功夫して、人天の導師となっている者がいる。餅を売らず、餅を捨てた老婆などがいる。あわれむべきことだ、男子の比丘僧でありながら、いたずらに教海の砂を数えて、仏法は夢にもまだ見ていないことを。
語注
- 久修練行に似たる僧侶:久しく修行を積んだ者のように見える僧侶。第一回の【7】の「われは久修練行なり」と同じ語。訳さずに残した。
- いたづらに海沙をかぞへて:むなしく海の砂を数えて。宗務庁版英訳の注は、「砂を数える」は、仏典の文字に学問として取りくむことの通例の喩えである、とする。
- 生死海に流浪せる:生死の海に流浪している。
- 女人にてあれども:女人であっても。
- 参尋知識し:知識(師)を参じ尋ね。宗務庁版英訳の注は、仏教の師について学ぶこととする。訳さずに残した。
- 弁道功夫:道をつとめ、工夫すること。訳さずに残した。
- 人天の導師:人天をみちびく師。
- 餅をうらず、餅をすてし老婆等:宗務庁版英訳の注は、学僧の徳山宣鑑(780–865)が法についての問いに答えられなかったので、餅を売らなかった餅売りの老婆の話をふまえる、とする。「餅をすてし」の具体(餅を捨てたのか、売ることをやめたのか)は原文からは決まらない。訳文は原文の語のまま訳した(→読みの分かれるところ)。
- 教海のいさご:教えの海の砂(経論の文字)。
- 仏法は夢にもいまだみざることを:仏法は夢にもまだ見ていないことを。
【10】およそ境を見たならば、(それを)あきらめることを習うべきである。おじて逃げるとばかり習うのは、小乗声聞の教行である。東を捨てて西に隠れようとしても、西にも境界がないわけではない。たとえ逃げおおせたと思っても、あきらめていないのであれば、遠くにあっても境である。それはなお解脱の分ではない。遠境は、いよいよ深くなるであろう。
語注
- 境をみては、あきらむることをならふべし:境を見たならば、(それを)明らかにすることを習うべきである。宗務庁版英訳の注は、明示されないが、この段を通じて「境」「境界」は、【2】の「貪婬所対の境界」を指すことは明らかである、とする。境は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- おぢてにぐるとのみならふ:おじて逃げる、とばかり習う。
- 小乗声聞の教行:小乗の声聞の教えと行。訳さずに残した。
- たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも:たとえ逃げたと思っても、(境を)明らかにしていないならば(→読みの分かれるところ)。
- 遠にても境なり:遠くにあっても境である。
- 解脱の分にあらず:解脱の分(解脱にかかわる分、解脱に向かう段)ではない。宗務庁版英訳の注は、仏教の通例の語「解脱分」(解脱にかかわる、解脱を助ける)の言いかえと読む、とする。解脱は訳さずに残した。
- 遠境はいよいよふかかるべし:遠ざけた境(遠くにある境)は、いよいよ深くなるであろう。宗務庁版英訳は「遠い境への(執着)はいよいよ深くなるだろう」と補って訳す。直前の「遠にても境なり」を受けると取った。遠境は訳さずに残し、( )で意を添えるにとどめた(→読みの分かれるところ)。
解説#
はじめに――第三回から今回へ#
后宮・院号の段からのつながり#
前回の第三回では、「得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」(第三回の【4】)という一句を中心に、得法した比丘尼や、七歳の女流であっても仏法を修行し道取する者を、諸仏如来と等しく供養恭敬すべきことを読みました。そして、前回の範囲の終わり(【7】)では、わが国で、名をむさぼり利を愛する僧侶が、后宮や院号の女人の家門に走りより、はきものに頭を打ちつけ、奴僕となって年を経るありさまが嘆かれていました。
今回の範囲は、その話のすぐ続きから始まります。
「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。無上菩提のため、なんぞ得法のうやまふべきをうやまはざらん。」(【1】)
底本ではここで段落が改まるので、本書ではここからを第四回としましたが、内容のうえでは、この二文は前回の【7】を受けています。宗務庁版英訳も、前回の【7】から今回の【1】の「……あまねからざるゆえなり。」までを、一つの節として訳しています。今回は、この前回とのつながりを確かめるところから読み始めます。
七十五巻本にない部分#
前回にもふれたように、宗務庁版英訳が拠る七十五巻本の本文は、前回の【5】の終わりで結ばれ、前回の【6】以下は『秘密正法眼蔵』の本文に拠る部分として、宗務庁版英訳では付録(Appendix)に置かれています。今回の範囲は、その全体が七十五巻本には見えない部分にあたります。本書では、底本である本山版の本文として、前回からひと続きに読んでいきます。
宗務庁版英訳の解題は、この付録の部分で道元禅師が男女の問題をさらに追い、裕福な女人にへつらう僧、女人をただ婬欲の対象としてのみ見る僧、女人を見まいと誓う僧、女人を過去世の悪業のゆえにおとしめる僧などを取り上げ、最後に、女人を立ち入らせない「結界」のならわしを退けている、とまとめています。今回の範囲は、そのうち、名利の僧への嘆きを受けた結びから、女人を婬欲の対象として忌む考え、女人を見まいとする願への批判、そして境をみて「あきらむることをならふべし」(【10】)と言われるところまでにあたります。
今回読むところ#
今回は、「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。」(【1】)から、「遠境はいよいよふかかるべし。」(【10】)までを読みます。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。
- 【1】 法をおもくするこころざし
- 【2】〜【5】 女流を貪婬所対の境とみること――律の文、得度の期、外道と在家の二衆
- 【6】〜【8】 「ながく女人をみることなからん」の願
- 【9】 大宋国の僧侶と女人
- 【10】 境をあきらむること
本文には、「至愚」「愚癡僧」「癡人の狂言」「酔狂の言語」など、強い言葉が続きます。また、「貪婬」「婬所対」「非梵行」「波羅夷」など、性にかかわる語も出てきます。訳文ではそれらを言いかえず、本文の語のまま訳しました。解説でも、それらを強めたり和らげたりせず、本文が何を、どういう理由で退けているのかを、本文に即してたどっていきたいと思います。
読みの分かれる箇所では、訳文の読みに沿って説きながら、一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示します。そのうえで、曹洞宗の宗門で大切にされてきた坐禅と日々の修行のなかで、これらの言葉をどう受けとめることができるかを考えていきたいと思います。
法をおもくするこころざし(【1】)#
いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす#
「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。無上菩提のため、なんぞ得法のうやまふべきをうやまはざらん。」(【1】)
むなしい世途(世わたり)のためにさえ、なおこのようにする。それなのに、無上菩提のためには、どうして得法の、うやまうべき人をうやまわないのか、と。
「かくのごとくす」――このようにする、というのは、前回の【7】で言われた、名利の僧が権勢ある家門に走りより、はきものに頭を打ちつけ、奴僕となって年を経る、ということです。宗務庁版英訳の注は、「世途」を、世わたり、世の中での暮らしの道としています。前回の範囲の終わりには、「これひとへに夢幻空華の世途をわするるによりて、女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。」(第三回の【7】)とありました。
むなしい世わたりのためには、そこまで頭を下げる。それなのに、この上ないさとりのためには、得法の人をうやまおうとしない。この落差が、ここで突きつけられます。
前回の【6】では、女人の帝王を人々がうやまうのは「位をうやまふ」のであり、比丘尼をうやまうのは「ひとへに得法をうやまふ」のだ、と言われていました。名利の僧が頭を下げているのは、得法ではなく、家門の権勢です。そして、頭を下げるべき得法には、頭を下げない。この一文は、前回の【6】【7】と今回とを結ぶ、要の言葉と受けとめることができるでしょう。
「得法のうやまふべきをうやまはざらん」は、訳文では、得法の(人で)うやまうべき者を、うやまわないのか、と取りました。宗務庁版英訳も、得法のゆえにうやまわれるべき者を、という向きに訳しています。一方、得法そのものの、うやまうべきところをうやまわない、と受けとめることもできるでしょう。前回の「ひとへに得法をうやまふなり」という言葉を思えば、どちらの読みでも、うやまわれるべきは得法である、ということは変わりません。
法をおもくするこころざしあさく#
「これは、法をおもくするこころざしあさく、法をもとむるこころざしあまねからざるゆえなり。」(【1】)
これは、法を重くする志が浅く、法を求める志があまねくない(行きわたっていない)からである、と。
得法の人をうやまわないのはなぜか。本文は、その理由を、うやまわない者の側の志の浅さに見ています。
「法をおもくする」という言葉は、この巻の第一回で、くり返し出てきた言葉でした。
「ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。」(第一回の【4】)
「いささかも身をかへりみること法よりもおもきには、法つたはれず、道うることなし。」(第一回の【4】)
ただまさに法を重くし、身を軽くするのである。少しでも、身をかえりみることが法よりも重いならば、法は伝わらず、道を得ることはない、と。そして、法をおもくするとは、たとえ露柱でも燈籠でも、野干でも鬼神でも、男女であっても、大法を保任しているならば、身心を牀座として無量劫にも仕えることだ、と示されていました(第一回の【5】)。
今回の【1】は、巻のはじめのこの言葉に、もう一度立ち返っている、と受けとめることができるでしょう。得法の人をうやまわないのは、相手が女人だからではなく、うやまわない者の、法をおもくする志が浅いからである。そういう向きで、本文は語っています。
たからをむさぼるとき#
「すでにたからをむさぼるとき、女人のたからにてあれば、うべからずとおもはず、法をもとめんときは、このこころざしにはすぐるべし。」(【1】)
たからをむさぼるときには、女人のたからであるからといって、受けてはならないとは思わない。法を求めるときには、この志にまさるべきである、と。
ここには、身近なたとえが置かれています。たからをむさぼる者は、それが女人のたからであっても、受けてはならないとは思わない。たからであれば、だれのものであってもほしがる。前回の【7】の名利の僧のありさまにも、通じる言葉です。
そうであるならば、法を求めるときには、その志にまさるべきである、と言われます。「このこころざしにはすぐるべし」は、訳文では、たからをむさぼるこの志よりも、さらにまさるべきである、と取りました。宗務庁版英訳も、この態度はさらに強くあるべきだ、という向きに訳しています。また、女人のたからでも受けるという、分けへだてのない志を、法については、なおいっそう強くもつべきである、という含みを読むこともできるでしょう。
たからを求めるときに、だれのたからかを問わないように、法を求めるときにも、だれの法かを問わない。女人の伝える法であるからといって、受けてはならないとは思わない。そのたとえとして受けとめることができます。
草木牆壁も正法をほどこす#
「もししかあらば、草木牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法をあたふるなり。かならずしるべき道理なり。」(【1】)
もしそうであるならば、草木・牆壁も正法をほどこす。天地・万法も正法を与えるのである。かならず知るべき道理である、と。
法を求める志が、そのように深く、分けへだてのないものであるならば、草や木や垣や壁さえも、正法をほどこしてくれる。天地も、よろずの法も、正法を与えてくれる、と言われます。
これは、第一回で読んだ言葉と、まっすぐに響きあっています。
「しかあれば、若樹・若石も、とかましとねがひ、若田・若里も、とかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。」(第一回の【7】)
また前回の【2】には、「土石沙礫にも、誠感の至神はあるなり。」(第三回の【2】)とありました。草木も牆壁も、土も石も、法を求める誠の前では、法を説くものとなる。そうであるならば、得法した女人を拝さない、その法を聴かない、ということが、どれほど法から遠いことであるかは、おのずから明らかである。そのような流れとして受けとめることができるでしょう。
なお、「天地・万法」は、本書の底本の中黒に従って並べて読みましたが、宗務庁版英訳の注は、中黒がなければ「天地の万法」と読むこともできる、としています。
法水のうるほひ、かうぶらざるなり#
「真善知識にあふといへども、いまだこの志気をたてて法をもとめざるときは、法水のうるほひ、かうぶらざるなり。審細に功夫すべし。」(【1】)
まことの善知識に会ったとしても、まだこの志気を立てて法を求めないときには、法水のうるおいをこうむらないのである。審細に功夫すべきである、と。
巻の冒頭は、「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。」(第一回の【1】)という言葉でした。導師に会うことは、もっともむずかしい。けれども、ここでは、たとえまことの善知識に会ったとしても、こちらに法を求める志気が立っていなければ、法の水のうるおいを受けることはない、と言われます。
導師に会えるかどうかは、相手の側の問題のように思われがちです。けれども本文は、法を受けるかどうかは、求める者の志にかかっている、と言います。そして、その志は、相手が男であるか女であるかを問わず法を求める志でなければならない。【1】の流れからは、そのように受けとめることができるでしょう。「審細に功夫すべし」――こまやかに、よくよく工夫しなさい、と結ばれます。
女流を貪婬所対の境とみること(【2】〜【5】)#
至愚のはなはだしき人#
「また、いま至愚のはなはだしき人おもふことは、女流は貪婬所対の境界にてあり、とおもふこころをあらためずして、これをみる。仏子かくのごとくあるべからず。」(【2】)
また、いま、至愚のはなはだしい人が思うことには、女流は貪婬所対の境界である、と思う心を改めないで、女流を見る。仏子はこのようであってはならない、と。
「貪婬所対の境界」について、宗務庁版英訳の注は、字義どおりには「婬欲がその対象とする知覚の対象」としています。女流を、ただ婬欲の向かう対象としてのみ見て、その見方を改めないで女流に向きあう。本文は、そのような人を「至愚のはなはだしき人」と呼び、「仏子かくのごとくあるべからず」――仏の子たる者は、このようであってはならない、と言います。
ここで本文が退けているのは、女流を、法を求め法を伝える人として見るのではなく、婬欲の対象という一つの見方でしか見ない、その見方です。前回までの範囲で、得法の比丘尼は「一箇の真箇なる古仏」であり、「むかしのたれにて相見すべからず」と言われていました。女流を貪婬の対象としてしか見ない心は、まさに、目の前の人を、その人の得法によってではなく、男女の相によって見る心だ、と受けとめることができるでしょう。
一切男子もまたいむべきか#
「貪婬所対の境となりぬべし、とていむことあらば、一切男子もまたいむべきか。」(【2】)
貪婬所対の境となるにちがいない、といって忌むのならば、一切の男子もまた忌むべきであろうか、と。
本文の批判は、ここで一つの問いの形をとります。女流が婬欲の対象となりうるから忌むのだ、というのならば、男子もまた婬欲の対象となりうるのだから、すべての男子も忌むべきなのか、と。
そして本文は、婬欲の対象となりうるものを、次々と挙げていきます。
「染汚の因縁となることは、男も境となる、女も境縁となる。非男非女も境縁となる、夢幻空華も境縁となる。あるひは水影を縁として非梵行あることあり。あるひは天日を縁として非梵行ありき。神も境となる、鬼も境となる。その縁、かぞへつくすべからず、八万四千の境界ありといふ、これみなすつべきか、みるべからざるか。」(【2】)
染汚の因縁となるということでは、男も境となり、女も境縁となる。非男非女も境縁となり、夢幻空華も境縁となる。あるいは、水に映った影を縁として非梵行があることもあり、天の日を縁として非梵行があった。神も境となり、鬼も境となる。その縁は数えつくすことができない。八万四千の境界があるという。これをみな捨てるべきか、見てはならないというのか、と。
男も、女も、非男非女も、夢や幻のようなものも、水に映る影も、天の日も、神も、鬼も、みな染汚の因縁、つまり心がけがれに向かう縁となりうる。その縁は数えきれず、八万四千の境界がある、と言われます。宗務庁版英訳の注は、「非男非女」を、黄門・二形の者をいうのに用いられる語としています。
この巻の一つ前、本山版で第七の「洗浄」の巻は、「仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。」(『洗浄』第一回の【1】)という言葉で始まっていました。ここで「染汚の因縁」と言われている「染汚」も、同じ言葉です。
水影と天日の話については、宗務庁版英訳の注は、道元禅師がここでどのような典拠を念頭においていたかは明らかでない、としています。本書でも、この二つの話が何を指すのかについては、推し量ることをせずにおきます。本文の流れのうえでは、婬欲の縁となりうるものは、人に限らず、思いもよらないところにまで及ぶ、ということを示す例として挙げられている、と受けとめておけばよいでしょう。
そのうえで、本文は問います。「これみなすつべきか、みるべからざるか」。縁となりうるものをすべて捨て、すべてを見ないようにするのか、と。もちろん、それはできません。八万四千の境界をすべて避けて生きることなど、だれにもできない。そうであるならば、女流だけを、婬欲の対象となりうるからといって忌み避けることには、筋が通らない。本文は、この問いによって、女流を忌む考えの理屈そのものが成り立たないことを示している、と受けとめることができるでしょう。
律の文#
「律云、「男二所、女三所、おなじくこれ波羅夷不共住」。」(【3】)
本山版に拠る活字本に付けられた読み下しでは、「律に云く、男の二所、女の三所」、続けて「おなじくこれ波羅夷不共住」となります。律にいう、男の二所、女の三所(に婬を行うこと)は、同じくこれ波羅夷であり、不共住である、と。
宗務庁版英訳の注は、この文は律の規定の要約で、比丘が女の三所、または男の二所に婬を行えば波羅夷の罪となる、とする規定をいうとし、たとえば『四分律』に見える、としています。また、波羅夷はもっとも重い罪で、犯した者は僧団から追放される(不共住)、としています。
ここで律の文が引かれている働きについては、受けとめ方に幅があります。訳文の取り方では、男も女もひとしく婬の対象となりうることを、律の規定によって示すもの、と見ました。律は、男も女も、ひとしく婬の対象となりうるものとして定めている。だから、女だけを忌む理由はない、という流れです。また、律が男女の別なく同じ重い罪としていることを示すもの、と受けとめることもできるでしょう。どちらの受けとめ方でも、律もまた、婬の境として女だけを特別にあつかってはいない、という点は共通しています。
さらに得度の期あるべからず#
「しかあれば、婬所対の境になりぬべしとてきらはば、一切の男子と女人と、たがひにあひきらふて、さらに得度の期あるべからず。この道理、子細に撿点すべし。」(【4】)
そうであるから、婬所対の境になるにちがいないといって嫌うならば、一切の男子と女人とが互いに嫌いあって、決して得度の期はないであろう。この道理を、子細に点検すべきである、と。
女が男の婬の境となりうるのと同じく、男も女の婬の境となりうる。そうであれば、婬の境となるからといって嫌うのならば、男も女も互いに嫌いあうことになり、得度のときは決して来ない、と言われます。
「得度」は、訳文では、迷いの世界を渡って救われること、と取りました。宗務庁版英訳の注は、ここの文脈では、僧団に入る出家得度の意に取ることもできる、としています。迷いを渡ることと受けとめれば、男女が互いに嫌いあえば、だれも救われることがない、という意味になります。出家得度と受けとめれば、男女が互いに嫌いあえば、だれも出家して仏道に入ることができない、という意味になるでしょう。どちらにしても、婬の境となるから嫌う、という考えをおし進めれば、仏道そのものが成り立たなくなる、ということが言われています。
「この道理、子細に撿点すべし」。この道理を、こまかに点検しなさい、と。【1】の「審細に功夫すべし」と同じく、読む者に、自分で確かめることを求める言葉で結ばれています。
外道も妻なきあり#
「外道も妻なきあり。妻なしといへども、仏法にいらざれば、邪見の外道なり。仏弟子も、在家の二衆は夫婦あり。夫婦あれども、仏弟子なれば、人中・天上にも肩をひとしくする余類なし。」(【5】)
外道にも妻のない者がいる。妻がないといっても、仏法に入らないのであれば、邪見の外道である。仏弟子でも、在家の二衆には夫婦がある。夫婦があっても、仏弟子であるから、人中・天上にも肩を並べるほかのたぐいはない、と。
宗務庁版英訳の注は、「在家の二衆」を、優婆塞(在家の男)と優婆夷(在家の女)としています。
妻があるかないか、女人から離れているかどうか。それが、仏弟子であるかどうかを決めるのではない、と本文は言います。妻がなくても、仏法に入っていなければ外道である。夫婦があっても、仏弟子であれば、人間の世界にも天上の世界にも、肩を並べるものはない。問われているのは、妻があるかないかではなく、仏法に入っているかどうかである、ということです。
前回の【5】で、宋の居士には「庵居して夫婦そなはれるもあり」、それでも明らかにしたところがあれば出家の宗匠と同じく礼拝される、と言われていたことと、同じ向きの言葉と受けとめることができます。また、弁道話の「ただこれ、こころざしのあり・なしによるべし、身の在家・出家にはかかはらじ。」(『弁道話』第七回の【8】)という言葉も、思い起こされます。
「ながく女人をみることなからん」の願(【6】〜【8】)#
唐国の愚癡僧#
「また、唐国にも、愚癡僧ありて、願志を立するにいはく、「生生世世、ながく女人をみることなからん」。この願、なにの法にかよる。世法によるか、仏法によるか、外道の法によるか、天魔の法によるか。」(【6】)
また、唐国(中国)にも愚癡の僧がいて、願を立てて言った。「生まれかわり死にかわりする、いつの世までも、ながく女人を見ることがないように」。この願は、何の法によるのか。世法によるのか、仏法によるのか、外道の法によるのか、天魔の法によるのか、と。
この「愚癡僧」がだれであるかを、本文は記していません。宗務庁版英訳の注は、ここは「愚かな僧たちがいる(いた)」とも読める、としたうえで、もっともありそうな対象として、華厳の学僧として名高い澄観の名を挙げ、その立てた十の誓いの第三が「目に女人を視ず」であることを『宋高僧伝』によって示しています。これは宗務庁版英訳の注の見方です。本文は人名を挙げていませんので、本書では、ここで批判されている僧がだれであるかを決めることはせず、注の紹介にとどめておきます。ある一人の僧のことと受けとめることもできますし、そのような願を立てる僧たち一般のことと受けとめることもできるでしょう。
本文にとって大切なのは、だれがその願を立てたかではなく、その願そのものが何の法によっているか、ということです。「この願、なにの法にかよる」。宗務庁版英訳の注は、ここでの「法」は、教え・規則・規範のいずれとも取れる、としています。世間の法か、仏法か、外道の法か、天魔の法か。四つの問いが重ねられます。
女人なにのとがかある、男子なにの徳かある#
「女人なにのとがかある、男子なにの徳かある。悪人は、男子も悪人なるあり、善人は、女人も善人なるあり。聞法をねがひ、出離をもとむること、かならず男子・女人によらず。もし未断惑のときは、男子・女人おなじく未断惑なり。断惑証理のときは、男子・女人、簡別さらにあらず。」(【6】)
女人に何の咎があるのか。男子に何の徳があるのか。悪人については、男子でも悪人である者がいる。善人については、女人でも善人である者がいる。聞法を願い、出離を求めることは、決して男子か女人かによるのではない。もし未断惑のとき、つまりまだ惑いを断っていないときは、男子も女人も同じく未断惑である。惑いを断ち理を証するときは、男子と女人の区別はまったくない、と。
この段落は、今回の範囲のなかでも、本文が男女のことをもっとも正面から述べているところです。
「女人なにのとがかある、男子なにの徳かある」。この問いは、前回の【4】の「男児なにをもてか貴ならん」と、同じ形をしています。女人であることが咎になるのでも、男子であることが徳になるのでもない。
そして、本文は、仏道のどの段階をとっても、男女の別がないことを示していきます。悪人にも善人にも、男子も女人もいる。法を聞こうと願い、迷いの世界を出ることを求める、その発心は、男子か女人かによらない。まだ惑いを断っていないときは、男子も女人も同じく惑いのなかにある。惑いを断ち、理をさとるときには、男子と女人の区別はまったくない。
発心のとき、修行のさなか、そしてさとりのとき。そのどこにも、男女による区別を立てるところはない、と本文は言っている、と受けとめることができるでしょう。前回の【4】で「得道はいづれも得道す」と言われていたことを、ここでは、迷いのときと、さとりのときとに分けて、くわしく言いなおしているようにも見えます。
衆生無辺誓願度のときも#
「また、ながく女人をみじと願せば、衆生無辺誓願度のときも、女人をばすつべきか。すてては菩薩にあらず、仏慈悲といはんや。」(【6】)
また、ながく女人を見まいと願うならば、衆生無辺誓願度のときにも、女人は捨てるべきなのか。(女人を)捨てては菩薩ではない。(まして)仏の慈悲といえようか、と。
宗務庁版英訳の注は、「衆生無辺誓願度」を菩薩の四弘誓願の第一としています。衆生は数かぎりないけれども、誓ってすべてを度そうと願う。
その誓いを立てる者が、女人を見まいと願うならば、衆生を度すと誓うそのときにも、女人だけは捨てることになるのか、と本文は問います。女人を捨てるならば、それは菩薩ではない。まして、仏の慈悲などとは言えない、と。
「仏慈悲といはんや」を、仏の慈悲といえようか、と反語に取ることもできますし、菩薩でさえないのに、まして仏の慈悲を口にすることができようか、と受けとめることもできるでしょう。
ここで女人を見まいとする願が退けられているのは、衆生を度するという菩薩の誓いと、ぶつかりあうからです。女人を見まいとすることは、女人を救いの外に置くことになる。それは、すべての衆生を度そうとする誓いに背く。本文の論の筋道は、そのように受けとめることができます。
声聞の酒にえふ#
「ただこれ声聞の酒にえふことふかきによりて、酔狂の言語なり。人天、これをまことと信ずべからず。」(【6】)
これはただ、声聞の酒に深く酔っているための、酔狂の言語である。人天は、これをまことと信じてはならない、と。
宗務庁版英訳の注は、「声聞の酒」を、衆生を度する菩薩の誓いを含まない、声聞の乗の教えをいう、としています。自分ひとりが惑いを離れることを求めて、衆生を度するという誓いを忘れる。そのような教えに酔いしれているから、女人を見まいなどという願を立てるのだ、と本文は言います。
同じ「声聞の酒」という言葉は、この巻の終わり近く、次回の第五回の範囲にも、「なんぢ声聞の酒にえふて、小界を大界とおもふなり。」(第五回の【10】)と出てきます。女人を見まいとする願と、女人を立ち入らせない結界と。どちらも「声聞の酒」に酔ったものとして退けられていることは、心にとめておいてよいでしょう。
むかし犯罪ありしとてきらはば#
「また、むかし犯罪ありしとてきらはば、一切、菩薩をもきらふべし。もし、のちに犯罪ありぬべし、とてきらはば、一切発心の菩薩をもきらふべし。かくのごとくきらはば、一切みなすてん、なにによりてか仏法現成せん。」(【7】)
また、むかし犯罪があったからといって嫌うのならば、一切の菩薩をも嫌うべきである。もし、のちに犯罪があるにちがいない、といって嫌うのならば、一切の発心の菩薩をも嫌うべきである。このように嫌うのならば、一切をみな捨てることになろう。何によって仏法が現成するのか、と。
この段落では、何を嫌うのか、その目的語が本文に示されていません。宗務庁版英訳の注は、明示されてはいないが、目的語はまちがいなく「女人」であろうとし、女人は過去の世の悪業によって不幸な身に生まれたとしばしば考えられていた、としています。そして、この文が述べるとおり、すぐれた菩薩をふくめ、あらゆる衆生が過去の世に数えきれない悪業を作っている、としています。訳文は目的語を補いませんでした。前後の流れからは、女人を嫌う理由として挙げられるものの一つを取り上げている、と受けとめることができますが、本文は目的語も、その理由の背景も述べていません。背景についての説明は、宗務庁版英訳の注の見方として紹介するにとどめます。
本文の論の運びは、前の【2】と同じ形をしています。婬欲の境となるから女人を忌むのなら、男子も忌むべきか、と問うたように、ここでも、むかし罪があったから嫌うのなら、菩薩も嫌うべきだ、と言います。本文は、むかしの罪を理由に嫌うのなら菩薩をも嫌わなければならない、と言います。菩薩もまた過去には罪を作ってきた、ということが前提にされているのでしょう(宗務庁版英訳の注も、すぐれた菩薩をふくめあらゆる衆生が過去の世に悪業を作っている、としていました)。のちに罪を犯すかもしれないから嫌うのなら、発心したばかりの菩薩も、みな嫌うべきことになる。そうして嫌っていけば、すべてを捨てることになり、仏法が現成するよりどころがなくなってしまう、と。
「一切、菩薩をもきらふべし」の「一切」は、訳文では「一切の菩薩」と取りましたが、読点を生かして、「すべてのものを(嫌うべきであり)、菩薩をも嫌うべきである」と受けとめることもできます。
仏法をしらざる癡人の狂言#
「かくのごとくのことばは、仏法をしらざる癡人の狂言なり、かなしむべし。もしなんぢが願のごとくにあらば、釈尊、および在世の諸菩薩、みな犯罪ありけるか、またなんぢよりも菩提心もあさかりけるか、しづかに観察すべし。」(【8】)
このような言葉は、仏法を知らない癡人の狂言であり、かなしむべきである。もしおまえの願のとおりであるならば、釈尊や在世の諸菩薩は、みな犯罪があったのか、またおまえよりも菩提心が浅かったのか、と、しずかに観察すべきである、と。
宗務庁版英訳の注は、ここまでは一般的に述べていたかもしれないが、ここではっきりと、誓いを立てた「愚かな僧」に向けて「なんぢ」と問いかけている、とし、釈尊とその菩薩の弟子たちは経典で女人に教えを説いているのだから、その僧の誓いに背くことになる、としています。
注のいうように、経典では、釈尊も、釈尊の在世の菩薩たちも、女人を見まいとはせず、女人にも法を説きました。そうであれば、女人を見まいとするおまえの願から見れば、釈尊も菩薩たちも、罪ある者であり、おまえよりも菩提心が浅かったことになるのか、と。
この段落は、句の切り方によって、読みの流れが少し変わります。本書は、「癡人の狂言なり、かなしむべし。」と、「かなしむべし」を前に付け、また「あさかりけるか、しづかに観察すべし。」と、「しづかに観察すべし」が前の二つの問いを受ける、と読みました。宗務庁版英訳も同じ切り方です。句の切り方によっては、「かなしむべし」が後ろの「もし……」を導き、「しづかに観察すべし」が後ろの「付法蔵の祖師……」を導く流れにも読めます。
付法蔵の祖師#
「付法蔵の祖師、および仏在世の菩薩、この願なくば、仏法にならふべきところやある、と参学すべきなり。」(【8】)
付法蔵の祖師や仏在世の菩薩に、この願がないのであれば、(この願に)仏法として学ぶべきところがあるのか、と参学すべきである、と。
この一文は、読みのむずかしいところです。宗務庁版英訳の注も、仮の訳であるとし、「(祖師や菩薩たちに)仏法に学ぶべきところがあるのか」とも読める、としています。訳文は、祖師や菩薩がこのような願を立てていないのであれば、この願には、仏法として学ぶべきところがあるのか、と取りました。また、この願がなければ仏法に学ぶところがない、とでもいうのか、と反語に受けとめることもできるでしょう。
どの読みを取るにしても、仏法を伝えてきた祖師たちも、仏の在世の菩薩たちも、女人を見まいという願を立てていない、ということを、自分で確かめなさい、という向きは変わりません。「しづかに観察すべし」「参学すべきなり」と、本文はここでも、読む者が自ら確かめることを求めています。
得法の女人の説法を#
「もし汝が願のごとくにあらば、女人を済度せざるのみにあらず、得法の女人、よにいでて、人天のために説法せんときも、きたりてきくべからざるか。もしきたりてきかずは、菩薩にあらず、すなはち外道なり。」(【8】)
もしおまえの願のとおりであるならば、女人を済度しないだけではない。得法の女人が世に出て、人天のために説法するときにも、来て聞いてはならないのか。もし来て聞かないのならば、菩薩ではない。すなわち外道である、と。
ここで、話は、前回の中心であった「得法の女人」へと戻ってきます。女人を見まいとする願は、女人を救わないということにとどまらない。得法の女人が師として世に出て、法を説くときにも、その法を聞きに行かないことになる。それは、前回の【3】で、宋の寺院で比丘尼が上堂し、住持以下の比丘僧がみな立って法を聴く、と言われていたこととは、まったく逆のありかたです。
そして、得法の女人の説法を聞きに来ないのならば、それは菩薩ではなく、外道である、と言われます。【5】で、妻がなくとも仏法に入らなければ外道である、と言われていたことと、同じ物差しがあてられています。
大宋国の僧侶と女人(【9】)#
「いま大宋国をみるに、久修練行に似たる僧侶の、いたづらに海沙をかぞへて、生死海に流浪せるあり。女人にてあれども、参尋知識し、弁道功夫して、人天の導師にてあるあり。餅をうらず、餅をすてし老婆等あり。あはれむべし、男子の比丘僧にてあれども、いたづらに教海のいさごをかぞへて、仏法は夢にもいまだみざることを。」(【9】)
いま大宋国を見ると、久しく修行を積んだ者のように見える僧侶で、いたずらに海の砂を数えて、生死の海に流浪している者がいる。女人であっても、知識を参尋し、弁道功夫して、人天の導師となっている者がいる。餅を売らず、餅を捨てた老婆などがいる。あわれむべきことだ、男子の比丘僧でありながら、いたずらに教えの海の砂を数えて、仏法は夢にもまだ見ていないことを、と。
海沙をかぞへる僧と、人天の導師たる女人#
宗務庁版英訳の注は、「砂を数える」は、仏典の文字に学問として取りくむことの通例の喩えである、としています。「久修練行」は、第一回で「不聞仏法の愚痴のたぐひ」が「われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず」(第一回の【7】)と言っていた、その同じ言葉です。
ここには、二つのすがたが並べられています。一方は、長く修行を積んだように見え、男子の比丘僧でありながら、経論の文字を数えるばかりで、生死の海をさまよい、仏法を夢にも見ていない僧侶。もう一方は、女人でありながら、師をたずねて参じ、道をつとめ工夫して、人天の導師となっている人々。
「仏法は夢にもいまだみざる」という言葉は、第二回で妙信尼が十七人の僧に向けて言った「仏法也未夢見在」(第二回の【19】)、前回の【5】の「仏法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも」と、くり返し響きあっています。本文は、この巻の全体を通じて、得法しているかどうかを、男女や、年の多さや、比丘という身分よりも先に問うている、と受けとめることができるでしょう。
餅をうらず、餅をすてし老婆#
「餅をうらず、餅をすてし老婆」について、宗務庁版英訳の注は、学僧の徳山宣鑑(780–865)が法についての問いに答えられなかったので、餅を売らなかった餅売りの老婆の話をふまえる、としています。
ここでは、本文の流れのなかで、この老婆は、女人でありながら学僧に問いを発した人の例として、海の砂を数える僧と対比して挙げられている、と受けとめることができます。また、「餅をすてし」が、餅そのものを捨てたことをいうのか、売ることをやめたことをいうのかも、原文からは決まりません。訳文は原文の語のまま訳しました。
境をあきらむること(【10】)#
今回の範囲は、次の段落で結ばれます。
「おほよそ境をみては、あきらむることをならふべし。おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり。東をすてて西にかくれんとすれば、西にも境界なきにあらず。たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり、なほこれ解脱の分にあらず、遠境はいよいよふかかるべし。」(【10】)
およそ境を見たならば、それをあきらめる(明らかにする)ことを習うべきである。おじて逃げるとばかり習うのは、小乗声聞の教行である。東を捨てて西に隠れようとしても、西にも境界がないわけではない。たとえ逃げおおせたと思っても、あきらめていないのであれば、遠くにあっても境である。それはなお解脱の分ではない。遠境は、いよいよ深くなるであろう、と。
境とは何か#
ここでの「境」が何を指すかには、受けとめ方の幅があります。宗務庁版英訳の注は、明示されてはいないが、この段を通じて「境」「境界」は、【2】の「貪婬所対の境界」を指すことは明らかである、としています。訳文もその向きで取りました。そう読めば、この段落は、【2】から続いてきた、女流を貪婬の境として忌み避ける考えへの、本文の側からの答えということになります。
一方、ここでの「境」を、もう少し広く、私たちの心が向かい、とらわれるさまざまな対象(境界)一般のことと受けとめることもできるでしょう。【2】で、男も女も、夢幻空華も、水影も天日も、神も鬼も、みな境縁となり、その境界は八万四千ある、と言われていたことを思えば、そのような広がりのなかで読むこともできます。本書では、どちらにも決めずにおきます。
おぢてにぐるとのみならふは#
「おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり。」
境を見て、おじて逃げる、とばかり習うのは、小乗の声聞の教えと行である、と言われます。【6】で、女人を見まいとする願が「声聞の酒にえふ」ものとされていたことと、同じ向きの言葉です。女人を見まいとすること、婬欲の境となるからといって女人を忌み避けることは、境から逃げることにほかならない。本文は、それを声聞の教行として退けています。
「東をすてて西にかくれんとすれば、西にも境界なきにあらず。」
東を捨てて西に隠れても、西にもまた境界はある。逃げた先にも、境はある、と。【2】で、境縁は数えつくせず、八万四千ある、と言われていたことが、ここで生きてきます。境をすべて避けることはできない。逃げても逃げても、行く先にはまた境がある。
遠にても境なり#
「たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり、なほこれ解脱の分にあらず、遠境はいよいよふかかるべし。」
この一文は、読みの分かれるところです。訳文は、たとえ逃げおおせたと思っても、(境を)明らかにしていないのであれば、遠くにあっても、それは境である、と取りました。逃げたと思うことも、明らかにしないことも、どちらも、遠くにあってもなお境であることに変わりない、と受けとめることもできるでしょう。
宗務庁版英訳の注は、「解脱の分」を、仏教の通例の語「解脱分」(解脱にかかわる、解脱を助ける)の言いかえと読んでいます。逃げることは、解脱にかかわる行いではない、ということです。
そして最後の「遠境はいよいよふかかるべし」。訳文は、遠ざけた境(遠くにある境)はいよいよ深くなるであろう、と取りました。宗務庁版英訳は、遠い境への(執着)はいよいよ深くなる、と補って訳しています。また、遠くに置いた境ほど、いよいよ深く心に残る、と受けとめることもできるでしょう。
細かな読みは開いておきますが、この段落の向きははっきりしています。境から逃げることは、境を離れることにはならない。遠ざけた境は、明らかにされないまま、かえって深くなる。だから、境を見たならば、逃げるのではなく、あきらめる――明らかにする――ことを習え、と。
女流を婬欲の境として忌み避け、女人を見まいと願うことは、境から逃げることでした。本文は、それを退けて、境を明らかにすることを求めます。女人を見ないようにするのではなく、見て、明らかにする。女流を貪婬の境とだけ見る自分の心を、明らかにする。そう受けとめることもできるでしょう。【2】で、至愚の人が「女流は貪婬所対の境界にてあり、とおもふこころをあらためずして」女流を見る、と言われていたことを思えば、問題は女流の側にあるのではなく、改められていない見る者の心の側にある、ということが、ここで示されていると読むこともできます。
坐禅と日々の暮らしのなかで#
今回の範囲を、坐禅と日々の修行のなかで受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文が直接に坐禅について語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。
法をおもくする志と、うやまう心#
【1】で、本文は、名利のためには頭を下げる者が、無上菩提のためには得法の人をうやまわないことを、法をおもくする志の浅さとして示しました。
私たちの日々のなかでも、肩書きや、力のある人や、得になる相手には、自然と頭を下げるのに、法を伝えてくれる人、大切なことを教えてくれる人には、相手の年齢や立場や男女の別によって、すなおに頭を下げられないことがあるかもしれません。何に頭を下げ、何に頭を下げていないか。この【1】の言葉は、そのことを静かにふり返らせる言葉として受けとめることができるでしょう。
逃げるのではなく、あきらめる#
【10】の「おほよそ境をみては、あきらむることをならふべし」という言葉は、坐禅のなかでのありようとも、通いあうところがあるように思われます。
坐禅をしていると、さまざまな思いや、心を引くものの姿が、浮かんできます。それを追いかけていけば、坐禅は思いの中にまぎれてしまいます。けれども、浮かんでくるものを無理に追いはらおう、見ないようにしよう、と力むことも、またそのものにとらわれることになるでしょう。坐禅会などでは、浮かんでくる思いを追いかけもせず、追いはらおうともせず、坐ることにまかせていくように、と指導されることがあります。
本文の言葉に照らすならば、東を捨てて西に隠れても、西にもまた境はあります。逃げる先に、境のない場所はありません。逃げずに、おじずに、それを明らかにする。坐禅のなかで、心に浮かぶものから逃げも追いもせず坐ることを、この「あきらむることをならふ」ことに重ねて受けとめることもできるかもしれません。ただし、本文がここで直接に言っているのは、女流を貪婬の境として忌み避けることへの批判であって、坐禅の心得として説かれているのではない、ということは申し添えておきます。
人を「境」としてだけ見ないこと#
【2】で本文が退けていたのは、女流を、婬欲の対象という一つの見方でしか見ないことでした。
人を、自分にとって何であるか――自分の欲を向ける相手、自分を惑わすもの、自分に得をもたらすもの――という見方だけで見るとき、私たちは、目の前の人を、その人のありのままに見ることができなくなります。前回の「むかしのたれにて相見すべからず」という言葉ともあわせて、この【2】の言葉を、人をそのような見方だけで見ないことへの戒めとして受けとめることもできるでしょう。それは、相手が女人であっても男子であっても、変わることのない戒めです。
衆生無辺誓願度#
【6】で本文は、女人を見まいとする願を、衆生無辺誓願度の誓いと照らしあわせて退けました。
四弘誓願は、宗門の寺院でも折々にお唱えするものです。衆生は数かぎりないけれども、誓ってすべてを度そうと願う。その「すべて」から、だれかを除いてしまうことはないか。この巻の言葉は、四弘誓願を唱えるたびに、その誓いの広さを思い起こさせてくれるものとして受けとめることができるでしょう。
坐禅会で#
坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけでなく、近くの寺院の坐禅会などで指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。坐禅のなかで心に浮かぶものにどう向きあうかは、文字で読むよりも、指導する方のもとで実際に坐りながら確かめていくほうが、ずっとよくわかるものです。
むすびに――得法をうやまい、境をあきらめる#
今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。
前回の【7】の、名利のために后宮・院号の家門に走る僧侶の話を受けて、本文は、むなしい世途のためにさえそこまでするのに、無上菩提のためには得法の人をうやまわないのはなぜか、と問い、それは法をおもくする志が浅いからだ、と示しました。たからを求めるときに女人のたからでもいとわないように、法を求めるときにはそれにまさる志をもて、そうすれば草木牆壁も正法をほどこす、と(【1】)。
続いて、女流を貪婬所対の境とみて忌む考えが取り上げられ、それならば男子も忌むべきか、男も女も、非男非女も、夢幻空華も、神も鬼も境縁となり、その境界は八万四千ある、これをみな捨てるのか、と問われました(【2】)。律の文が引かれ(【3】)、婬の境となるから嫌うのなら男女は互いに嫌いあって得度の期はない、と言われ(【4】)、妻がなくても仏法に入らなければ外道であり、夫婦があっても仏弟子であれば並ぶものはない、と示されました(【5】)。
さらに、「生生世世、ながく女人をみることなからん」という願が取り上げられ、女人に何の咎があり、男子に何の徳があるのか、未断惑のときも断惑証理のときも男子・女人の区別はない、女人を見まいとするなら衆生無辺誓願度のときにも女人を捨てるのか、と問われ、その願は声聞の酒に酔った言葉として退けられました(【6】)。むかしの罪を理由に嫌うのなら菩薩をも嫌うべきだと言われ(【7】)、釈尊や在世の菩薩、付法蔵の祖師に照らして、その願の誤りを静かに観察せよ、得法の女人の説法を聞かないのなら外道である、と示されました(【8】)。
そして、大宋国には、海の砂を数えて仏法を夢にも見ない男子の比丘僧がいる一方で、師をたずねて道をつとめ、人天の導師となっている女人がいることが挙げられ(【9】)、最後に、境を見たならば、おじて逃げるのではなく、あきらめることを習え、逃げても境はなくならず、遠ざけた境はいよいよ深くなる、と結ばれました(【10】)。
今回の範囲の要は、二つのことにあると受けとめることができるでしょう。一つは、前回から続く、うやまうべきは得法であって男女ではない、ということ。もう一つは、女人を婬欲の境として忌み避けることは、境から逃げることにすぎず、仏道は境から逃げるのではなく、境をあきらめることを求める、ということです。本文は、その二つを、律の文、四弘誓願、釈尊と菩薩の行い、宋の国の女人の導師といった、さまざまな面から示していました。
次の第五回は、この巻の最後の回です。「また、日本国に、ひとつのわらひごとあり。」(第五回の【1】)という言葉に始まり、「結界の境地」「大乗の道場」と称して、比丘尼や女人を立ち入らせない、わが国のならわしが取り上げられていきます。
読みの分かれるところ#
この回の範囲でも、道元禅師の和文の一句一句に、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「得法のうやまふべきをうやまはざらん」「このこころざしにはすぐるべし」「天地・万法」【1】
「得法のうやまふべき」は、得法の(人で)うやまうべき者を、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も、得法のゆえにうやまわれるべき者を、と訳しています。得法そのものの、うやまうべきところを、と取ることもできます。「このこころざしにはすぐるべし」は、たからをむさぼるこの志よりも、さらにまさるべきである、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きです。女人のたからでも受けるという分けへだてのない志を、法についてはなおいっそう強くもつべきである、という含みを読むこともできます。「天地・万法」は、底本の中黒に従って並べて読みましたが、宗務庁版英訳の注は、「天地の万法」と読むこともできる、としています。 -
「水影を縁として……天日を縁として非梵行ありき」、律の文【2】【3】
水影と天日の話が何を指すかについて、宗務庁版英訳の注は、典拠は明らかでないとしています。本書でも推し量ることはしていません。律の文が引かれている働きは、男も女もひとしく婬の境となりうることを示すもの、と取るのが本書の訳ですが、律が男女の別なく同じ重い罪としていることを示すもの、と受けとめることもできます。どちらでも、律が婬の境として女だけを特別にあつかってはいない、という点は共通しています。 -
「さらに得度の期あるべからず」【4】
「得度」は、迷いの世界を渡って救われること、と取るのが本書の訳ですが、宗務庁版英訳の注は、ここの文脈では僧団に入る出家得度の意に取ることもできる、としています。 -
「愚癡僧ありて」「すてては菩薩にあらず、仏慈悲といはんや」【6】
「愚癡僧」がだれであるかを、本文は記していません。宗務庁版英訳の注は、もっともありそうな対象として、華厳の学僧として名高い澄観の名を挙げ、その立てた十の誓いの第三が「目に女人を視ず」であることを『宋高僧伝』によって示していますが、これは注の見方です。ある一人の僧のことと受けとめることも、そのような願を立てる僧たち一般のこと(宗務庁版英訳の注も、「愚かな僧たちがいる」とも読めるとしています)と受けとめることもできます。「仏慈悲といはんや」は、仏の慈悲といえようか、と反語に取るのが本書の訳ですが、菩薩でさえないのに、まして仏の慈悲を口にすることができようか、と受けとめることもできます。 -
「むかし犯罪ありしとてきらはば、一切、菩薩をもきらふべし」【7】
何を嫌うのか、目的語が本文に示されていません。宗務庁版英訳の注は、目的語はまちがいなく「女人」であろうとし、女人は過去の世の悪業によって不幸な身に生まれたとしばしば考えられていた、という背景を述べていますが、本文は目的語も、その背景も述べていません。本書の訳は目的語を補っていません。「一切、菩薩をも」は、一切の菩薩をも、と取るのが本書の訳ですが、読点を生かして、すべてのものを(嫌うべきであり)、菩薩をも嫌うべきである、と受けとめることもできます。 -
「狂言なり、かなしむべし」「しづかに観察すべし」「この願なくば、仏法にならふべきところやある」【8】
本書は「かなしむべし」を前に付け、「しづかに観察すべし」が前の二つの問いを受けると読みましたが、句の切り方によっては、「かなしむべし」が後ろの「もし……」を導き、「しづかに観察すべし」が後ろの「付法蔵の祖師……」を導く流れにも読めます。「この願なくば、仏法にならふべきところやある」は、祖師や菩薩にこの願がないのであれば、この願に仏法として学ぶべきところがあるのか、と取るのが本書の訳です。宗務庁版英訳の注は、仮の訳であるとし、(祖師や菩薩たちに)仏法に学ぶべきところがあるのか、とも読めるとしています。この願がなければ仏法に学ぶところがない、とでもいうのか、と反語に受けとめることもできます。 -
「餅をうらず、餅をすてし老婆」【9】
宗務庁版英訳の注は、徳山宣鑑に問いを発して餅を売らなかった老婆の話をふまえる、としています。「餅をすてし」が、餅そのものを捨てたことをいうのか、売ることをやめたことをいうのかは、原文からは決まりません。本書の訳は原文の語のまま訳しています。 -
「境」「たとひにげぬるとおもふとあきらめざるにも、遠にても境なり」「遠境はいよいよふかかるべし」【10】
「境」は、宗務庁版英訳の注のように、【2】の「貪婬所対の境界」を指すと取るのが本書の訳ですが、私たちの心が向かい、とらわれるさまざまな対象一般のことと、広く受けとめることもできます。「遠にても境なり」の文は、逃げたと思っても、明らかにしていなければ、遠くにあっても境である、と取るのが本書の訳ですが、逃げたと思うことも、明らかにしないことも、どちらも、遠くにあってもなお境であることに変わりない、と受けとめることもできます。「遠境はいよいよふかかるべし」は、遠ざけた境(へのとらわれ)はいよいよ深くなる、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きに補って訳しています。遠くに置いた境ほど、いよいよ深く心に残る、と受けとめることもできます。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第八「礼拝得髄」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. II(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 七十五巻本にない部分と、その部分の内容についての説明、世途・法水・貪婬所対・仏子・非男非女・非梵行・神と鬼・律の文と波羅夷・得度・外道・在家の二衆・愚癡僧と澄観・「法」・衆生無辺誓願度・声聞の酒・【7】の目的語と女人の過去の悪業についての見方・「なんぢ」と経典の説法・付法蔵の句・海沙・参尋知識・餅売りの老婆・境・解脱の分についての説明と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。