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現成公案(一)自己をならふ#

『現成公案』の巻頭から、「仏道をならふといふは、自己をならふなり」の一節を経て、「本分人なり」で結ばれる段落までの、九つの段落を読む回です。

原文#

正法眼蔵第一 現成公案

【1】諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり衆生あり。

【2】万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく生なく、滅なし。

【3】仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

【4】自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

【5】迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

【6】諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

【7】身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

【8】仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

【9】人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。

現代語訳#

段落番号【1】〜【9】は原文の段落番号と対応します。( )内は、原文にない語を補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。仏教語(諸法・万法・迷悟・修証・豊倹・生仏・証仏・脱落・悟迹・休歇・本分人など)は訳さずに残し、段落の後に「語注」として説明しました。巻名「現成公案」も訳さずに残しました。この回の範囲は、ほぼ一句ごとに読みの分かれる句が続きます。訳文では、一つの読みに寄りすぎないよう、原文の語(「証」「時節」など)をなるべく残しました(→読みの分かれるところ)。

巻頭題 正法眼蔵 第一 現成公案(げんじょうこうあん)

語注

  • 正法眼蔵:書名。訳さずに残した。
  • 第一:本巻は七十五巻本・六十巻本では第一巻、本山版(九十五巻本)では第三巻に置かれる(宗務庁版英訳の解題による)。ただし本山版の刊本でも、巻頭題・巻末題は「正法眼蔵第一」となっている。巻の置き順と題の番号とが一致していない。
  • 現成公案:巻名。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
    • 現成:現に成っていること。隠れずにありありと現れ出て、そのまま成りたっていること。道元禅師が多く用いる語。
    • 公案:もとは役所の公の文書・裁きの案件の意。禅の語録では、祖師の言行(古則)を修行者が参究する課題として示すものをもいう。
    • 「現成公案」の語:禅籍によく出る語で、もとは、裁きの決着がすでについている・明白である案件、という法律上の意味あいをもっていた。禅での用法は、唐代の陳尊宿が、やって来る僧を見て「(お前は)現成公案だ、(だが)三十棒は許してやる」という意味のことを言った、と伝えられる語に由来すると考えられている。「見成公案」とも書く(宗務庁版英訳の解題・注による)。
    • 曹洞宗の伝統では、究極の真理が現象の世界にそのまま現れ出ていることを言う語として用いられてきた(宗務庁版英訳の解題による)。宗務庁版英訳の巻名の訳は "The Realized Kōan"。

【1】諸法が仏法である時節には、まさに(そこに)迷悟があり、修行があり、生があり、死があり、諸仏があり、衆生がある。

語注

  • 諸法:あらゆる事物・現象。存在するもののすべて。
  • 仏法:仏の説いた教え。また、その教えの示す真理。
  • 時節:とき、ころ。訳文では原文の語を残した。「〜である時」と時間の意に取るか、「〜という見方に立つとき・〜という面から言えば」と取るかで読みが分かれる。宗務庁版英訳の注は、「(諸法の仏法なる時節)」を「あらゆるものを仏の教えにしたがって見るとき」の意に取るのがおそらく妥当とする(→読みの分かれるところ)。
  • すなはち:そのまま、まさに、とりもなおさず。前の「時節」を受けて「その時にこそ」の意。
  • 迷悟:迷いとさとり。
  • 修行:仏道の行をつとめること。
  • 諸仏:もろもろの仏。
  • 衆生:生きとし生けるもの。迷いの世界に生きる者。仏と対にして言われることが多い。

【2】万法がいずれも我ではない時節には、まどい(迷い)もなく、さとりもなく、諸仏もなく、衆生もなく、生もなく、滅もない。

語注

  • 万法:諸法と同じく、あらゆる事物・現象。【1】の「諸法」に対して、ここでは「万法」の語が用いられる(→読みの分かれるところ)。
  • ともに:いずれも、みな、ことごとく。
  • われにあらざる:我(固定した実体としての自己)ではない、の意に取った。宗務庁版英訳の注は、「あらゆるものが独立した実体をもたない(空である)と見るとき」の意に取るのがおそらく妥当とする。「われ」を「自分(のもの)」と取る読みもありうる(→読みの分かれるところ)。
  • まどひ・さとり:【1】の「迷悟」を、ここでは和語の「まどひ」「さとり」で言う。
  • 生・滅:生じることと滅すること。【1】では「生・死」、【2】では「生・滅」と言い、【3】では「生滅」と言う。

【3】仏道はもともと豊倹から跳び出ている(豊倹を超え出ている)ので、生滅があり、迷悟があり、生仏がある。しかしながら、そうではあっても、華は(人が)惜しむなかで散り、草は(人が)嫌うなかで生い茂る、ただそれだけのことである。

語注

  • 仏道:仏の道。仏の教えにしたがって歩む道、また仏のさとりそのもの。
  • もとより:もともと、はじめから。
  • 豊倹:豊かなことと倹しい(乏しい)こと。多いと少ない。訳さずに残した。何の「豊」と「倹」を言うかは読みが分かれる。宗務庁版英訳の注は、仏道が前の二文(【1】の「あり」と【2】の「なし」)の肯定と否定を超え出ていることを言うのであろう、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 跳出:とび出ること。超え出ること。
  • 生仏:衆生と仏。
  • しかも:それでいて、しかしながら。
  • 華は愛惜にちり、草は棄嫌におふる:中国の牛頭精禅師の語「華從愛惜落、草逐棄嫌生」(『天聖広灯録』)を和文に言い換えたもの。禅師が自らの家風を問われて答えた語とされる。道元禅師は『永平広録』でもこの句を引く(宗務庁版英訳の注による)。
    • 愛惜:愛し惜しむこと。棄嫌:きらって捨てること。
    • 「に」:「惜しまれながら・惜しむなかで」と取るか、「惜しむことによって・惜しむからこそ(散るのがつらい)」と取るかで読みが分かれる。訳文は前者に近く訳した。
    • おふる:生ふる。生える、生い茂る。
    • のみなり:ただ〜だけである。

【4】自己を(万法の方へ)運んで万法を修証するのを、迷いとする。万法が(自己の方へ)進んできて自己を修証するのは、さとりである。

語注

  • 自己:自分、おのれ。
  • はこびて:運んで、持ち出して。自分の方から万法の方へ出向いていく、の意に取った。
  • 修証:修行と証(さとり)。ここでは「修証する」と動詞で用いられ、修行して(それを)明らかにする・確かめる、の意。訳さずに残した。道元禅師の修と証との関わりの考え方は、解説で扱う(→読みの分かれるところ)。
  • 迷:迷い。
  • すすみて:進んで。訳文は「万法が進んできて」と、万法を「すすみて」の主語に取った。宗務庁版英訳の注は、「万法が進むなかで(主語は示さず)自己を修証する」と読むこともできる、とする(→読みの分かれるところ)。

【5】迷いを大悟するのが諸仏であり、悟りについて大いに迷っているのが衆生である。さらに、悟りの上にさらに悟りを得る者があり、迷いの中でさらに迷う者がある。

語注

  • 大悟:大いにさとること。
  • 迷を大悟する:「迷い(というもの)について大悟する」「迷いを迷いと見きわめる」など、「を」の取り方で読みが分かれる。
  • 悟に大迷なる:「悟りについて大いに迷っている」の意に取った。「悟りに(対して)大いに迷う」「悟りを求めて大いに迷う」とも取れる。
  • 漢:男。ここでは、人・者。
  • 悟上に得悟する:悟りの上にさらに悟りを得る(さとりにとどまらず、さらに深める)。
  • 迷中又迷:迷いの中でさらに迷う。漢文の言い回しで、『正法眼蔵』に何度か出る。『大慧普覚禅師語録』をふまえたものかもしれない、とされる(宗務庁版英訳の注による)。
  • 後の一文の二つの「漢」が、前の一文の諸仏・衆生とどう対応するか(悟上得悟=諸仏、迷中又迷=衆生、と単純に重ねるかどうか)は読みが分かれる。

【6】諸仏がまさしく諸仏であるときには、(その諸仏は)自己が諸仏であると覚知することを必要としない。そうではあるが、(諸仏は)証仏であり、仏を証しつづけてゆく。

語注

  • 覚知:自覚して知ること、意識すること。
  • もちゐず:用いない、必要としない。
  • しかあれども:そうではあるけれども。
  • 証仏:「証した仏」「証のうえの仏」と名詞に取るか、「仏を証する」と動詞+目的語に取るかで読みが分かれる。宗務庁版英訳は本文では前者で訳し、注で後者の読みを挙げ、この語は『正法眼蔵』に何度か出て、ふつうは動詞+目的語の形で用いられる、とする。訳文は原文の語を残した(→読みの分かれるところ)。
  • 証:さとること。明らかにすること、確かめること。訳さずに残した。
  • 証しもてゆく:「もてゆく」は「だんだん〜してゆく」「〜しつづけてゆく」の意。仏を証することが終わらずにつづいてゆく、の意に取った(→読みの分かれるところ)。

【7】身心を挙げて(身も心もまるごとで)色を見てとり、身心を挙げて声を聞きとるとき、(それを)親しく会得するけれども、鏡に影を映すようなのではなく、水と月とのようなのでもない。一方を証するときは、(もう)一方は暗い。

語注

  • 身心:身と心。からだと心。
  • 挙して:挙げて。訳文は「身心全体をあげて、まるごとで」の意に取った。宗務庁版英訳の注は、多くの解釈者がこの句を「(われわれ、あるいは諸仏が)身心全体で見る」と取るとしたうえで、単に「身心を用いて見る」と取ることもできる、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 色:目でとらえられるもの、形あるもの。いわゆる色彩に限らない。
  • 声:耳でとらえられるもの、音。
  • 見取・聴取:見てとる、聞きとる。
  • したしく:親しく。じかに、親密に、身にぴったりと。
  • 会取:会得すること。わがものとして受けとること。
  • かがみにかげをやどす:鏡に影(像・姿)を映す。
  • 水と月とのごとく:水に月が映るような(関係)。月が水に宿ることは、本巻の次の回の範囲で、さとりのたとえとして別に語られる。
  • 一方を証するときは一方はくらし:一方を証するときは、もう一方は暗い(隠れて見えない)。宗務庁版英訳の注は、対象(月)と主体(水)とがそれぞれそれ自体で完結している、二つに分かれない知覚のありさまを言うのかもしれない、とする。
  • この段全体が、二つに分かれない(主客の対立のない)見聞きを言うのか、ふつうの(かたよった)見聞きを鏡や水のゆがみのない映り方と対比して言うのかで、読みが大きく分かれる(宗務庁版英訳の注による)。訳文はどちらにも寄せずに訳した(→読みの分かれるところ)。

【8】仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、万法に証せられることである。万法に証せられるというのは、自己の身心と他己の身心とを脱落させることである。悟迹の休歇している(さとりの跡がやんでいる)ありかたがあり、(その)休歇した悟迹を長長と出させてゆく(長く長くどこまでもつづけてゆかせる)。

語注

  • ならふ:習う、学ぶ。くり返し身につける、慣れ親しむ、の意をふくむ(→読みの分かれるところ)。
  • わするる:忘れる。
  • 証せらるる:証される。「証」は前段と同じく、さとる・明らかにする・確かめる。「万法に」は「万法によって」の意に取った。宗務庁版英訳は "to be verified by the myriad dharmas"(万法によって確かめられる)と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 他己:他者としての自己。他人。「自己」に対する語。
  • 脱落:抜け落ちること。ここでは「身心……脱落せしむる」と、身心が抜け落ちることを言う。道元禅師の重んじた「身心脱落」の語にかかわる句で、内容は解説で扱う。
  • せしむる:〜させる(使役)。誰が・何が脱落させるのか(万法か、自己か、主語を立てない言い方か)は読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 悟迹:さとりの跡。さとったという痕跡。
  • 休歇:休みやむこと。やすむこと、止むこと。
  • 悟迹の休歇なるあり:「悟迹が休歇している(ありかたがある)」の意に取った。
  • 長長出:長く長く出ること。訳文は「どこまでも長くつづけて出してゆく」の意に取った。宗務庁版英訳の注は、難解な箇所で、ふつう「悟迹を休歇したその跡がいつまでもつづいてゆく」の意に取られる、とし、この珍しい語について、長沙景岑の「長長出不得」(長く長く出ることができない)の語を禅師が念頭に置いていたかもしれない、とする(→読みの分かれるところ)。

【9】人が、はじめて法を求めるとき、(その人は)はるかに法の辺際から離れてしまっている。法が、すでに自分に正しく伝わったとき、(その人は)すみやかに本分人である。

語注

  • 法:仏法。仏の教え、また真理。
  • 辺際:ほとり、境界、きわ。
  • 離却せり:離れてしまっている。「却」は動作の完了を強める。
  • おのれ:自分。
  • 正伝:正しく伝わること。師から弟子へ、まさしく伝えられること。
  • すみやかに:ただちに、すぐさま。
  • 本分人:本来の分(もちまえ)に落ち着いている人。禅籍に何度か出る語で、自らの本性・本来の分を悟った人を言う(宗務庁版英訳の注による)。
  • 後の一文の主語:訳文は「本分人なり」の主語を(その人)と補った。宗務庁版英訳は本文では、前の一文と構文をそろえるため「法」を両方の動詞の主語として訳し、注で、「法が伝わったとき、(その人は)ただちに本分人である」と読む方がおそらく自然である、とする(→読みの分かれるところ)。

解説#

はじめに――『現成公案』という巻#

巻頭題と、巻の置かれる位置#

本書では、ここから「現成公案」の巻を読んでいきます。巻のはじめには、

「正法眼蔵第一 現成公案」

とあります。巻の終わりにも、本文の最後に続けて「正法眼蔵現成公案第一」(本巻第四回)と記されています。

本書の底本とする本山版(九十五巻本)では、この巻は、弁道話・摩訶般若波羅蜜に続く第三巻に置かれています。それでも題は「第三」ではなく「第一」です。本山版の刊本でも、巻頭題・巻末題ともに「正法眼蔵第一」となっています。巻の置かれる順と、題に記された番号とが一致していないのです。本書では、題は本文のとおり「第一」として写しています。

宗務庁版英訳の解題では、この巻は、七十五巻本と六十巻本の両方で第一の巻に置かれ、九十五巻本の本山版では第三である、とされています。題に残る「第一」は、七十五巻本・六十巻本でこの巻が巻頭に置かれていることと一致しています。『正法眼蔵』の古い編集のいくつかにおいて、この巻が全体の最初に掲げられてきたということは、心にとめておいてよいことでしょう。

奥書――鎮西の俗弟子に与えられた巻#

巻の終わり、巻末題のあとには、次のような奥書があります。

「これは、天福元年中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ」(本巻第四回)。

天福元年の中秋のころ(秋のなかばのころ)に書いて、鎮西の俗弟子、楊光秀に与えた、という記録です。そしてその次の行に、「建長壬子拾勒」(本巻第四回)と、のちの年記の一行が添えられています。

宗務庁版英訳の解題では、この巻は1233年の秋に、京都の南、深草に開かれてまもない興聖寺で書かれたとされます。また解題は、この巻にはめずらしい奥書があって、俗弟子の楊光秀(解題は「ようこうしゅう」とも「やなぎみつひで」とも読みうるとしています)に与えられたことが記されている、としています。解題によれば、楊光秀は、今の九州、筑前の役所にいた役人であったらしいけれども、その人についてはほとんど何もわかっていない、ということです。

ここで二つのことに気づきます。

一つは、年記です。前の巻「摩訶般若波羅蜜」の奥書には、「爾時天福元年夏安居日、在観音導利院示衆」(「摩訶般若波羅蜜」第三回)とありました。同じ天福元年の夏安居に、観音導利院で大衆に示されたのが「摩訶般若波羅蜜」であり、その年の秋のなかばに書かれたのが「現成公案」だということになります。さらにさかのぼれば、「弁道話」の奥書は「寛喜辛卯中秋日 入宋伝法沙門道元記」(『弁道話』第九回)でした。弁道話も、中秋の日の記です。本書がここまで読んできた三つの巻は、年記の上でも、ひとつながりの時期のものとして並んでいます。

もう一つは、与えられた相手です。「摩訶般若波羅蜜」は、夏安居のなかで修行者の大衆に「示衆」されたものでした。それに対して「現成公案」は、鎮西の、出家していない「俗弟子」に書き与えられたものです。のちに『正法眼蔵』の古い編集のいくつかで巻頭に置かれ、多くの人に読まれてきたこの巻が、もとは一人の在家の弟子に与えられたものであった、ということは、私たちにとって大切な意味をもつように思われます。

弁道話には、在家の人もこの行をつとめるべきか、という問いがありました。「とふていはく、この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか」。これに対して禅師は、祖師の言葉として「仏法を会すること、男女貴賎をえらぶべからず」と答え、さらに、在俗の繁務のなかでどうして修行できるのか、という重ねての問いには、「ただこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ」と示しておられました。そして、「世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり」(『弁道話』第七回)とまで言われていました。

この巻が楊光秀にどのような事情で与えられたのかは、奥書の一行のほかには何もわかりません。けれども、弁道話でこのように在家の人の修行を説いておられた禅師が、のちに、在家の弟子に向けて書き与えたのがこの巻であった、ということは、確かなこととして受けとめてよいでしょう。この巻の言葉は、僧堂のなかだけで通じる言葉ではなく、在家の人にも差し出された言葉なのです。

巻名「現成公案」#

巻名の「現成公案」については、現代語訳の語注で説明しました。「現成」は、現に成っていること、隠れずにありありと現れ出て、そのまま成りたっていること。「公案」は、もとは役所の公の文書・裁きの案件のことで、禅の語録では、祖師の言行を修行者が参究する課題として示すものをも言います。宗務庁版英訳の解題では、「現成公案」はもともと、決着がすでについている、明白である案件、という法律上の意味あいをもつ語で、禅での用法は唐代の陳尊宿の言葉に由来すると考えられていること、そして曹洞宗の伝統では、究極の真理が現象の世界にそのまま現れ出ていることを言う語として用いられてきたこと、が述べられています。

この巻名をどう受けとめるかには幅があります(→読みの分かれるところ)。目の前にありありと成りたっている、そのままのありようが公案である、と受けとめることもできますし、修行のなかで公案が現成する、とはたらきの面から受けとめることもできます。本書では、巻名を一つの訳語に置きかえず、そのまま残しました。この語は、本巻の後のほうで、「このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり」(本巻第三回)と、本文のなかにも出てきます。巻名の意味は、巻全体を読み終えたところで、あらためて味わいなおすことにしたいと思います。

今回読むところ#

宗務庁版英訳の解題は、この巻の内容について、仏道修行についての名高い一篇であり、とりわけ、修行を「自己をならふ」ことと言い、そこでは自己を忘れ、身心を脱落し、万法に証せられる、と述べるところでよく知られている、と紹介しています。また、そのような修行には終わりがなく、魚にとっての水、鳥にとっての空のように、修行する人のおのずからなる場である、とこの巻は説き、それはまた、扇を使うときにも、いつも吹いている風のようなものだ、とも述べています。魚と鳥、そして扇の話は、本巻の後の回で読むところです。

今回は、巻の冒頭から、「本分人なり」で結ばれる段落まで、九つの段落(【1】〜【9】)を読みます。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。

  • 【1】〜【3】前半 冒頭三段――「迷悟あり」「まどひなく」「跳出せる」
  • 【3】後半 華は愛惜にちり、草は棄嫌におふる
  • 【4】 「自己をはこびて」と「万法すすみて」
  • 【5】 迷を大悟する、悟に大迷なる
  • 【6】 証仏なり、仏を証しもてゆく
  • 【7】 身心を挙して
  • 【8】前半 仏道をならふといふは、自己をならふなり
  • 【8】後半 悟迹の休歇
  • 【9】 本分人

短い段落が続きますが、一句一句が重く、また、古来さまざまに読まれてきたところです。そのうちの主なものは、回の終わりの「読みの分かれるところ」にまとめました。この解説でも、そうした箇所では一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示しながら進むことにします。そのうえで、曹洞宗の宗門に伝えられてきた、坐禅を中心とする修行のなかでこれらの言葉をどう受けとめるか、ということを、原文に即して考えていきたいと思います。

冒頭三段――「迷悟あり」「まどひなく」「跳出せる」(【1】〜【3】前半)#

三つの文を並べてみる#

巻の冒頭の三つの文は、並べてみると、はっきりした形をもっています。

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり衆生あり」(【1】)。

「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく生なく、滅なし」(【2】)。

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」(【3】)。

一つめの文は「あり」を重ね、二つめの文は「なく」「なし」を重ねます。そして三つめの文は、ふたたび「あり」と言います。迷いとさとり、生と死(あるいは生と滅)、諸仏と衆生という、同じような対の言葉が、三つの文に、あるいは「ある」と言われ、あるいは「ない」と言われ、またあらためて「ある」と言われているのです。

この三つの文をどのような関係にあるものと受けとめるかは、本巻を読むうえで大きな問題の一つで、古来さまざまに読まれてきました(→読みの分かれるところ)。

一つの受けとめ方は、【1】を「あり」と肯定する立場、【2】を「なし」と否定する立場、【3】をその両方を超え出た仏道の立場、と三段に展開していくものと見る読み方です。宗務庁版英訳の注も、【3】の「豊倹より跳出せる」を、仏道が前の二文の肯定と否定とを超え出ていることを言うのであろう、としています。

また、三つの文を、低いところから高いところへ登っていく段階や順序とは見ずに、一つの事実を三つの面から言ったものと見る受けとめ方もあります。さらに、【1】と【2】を仏教の教えの二つの面と見て、【3】でそれを超え出たうえで、ふたたび「あり」に戻ってくる、と見ることもできるでしょう。

ここでは、どれか一つの読みに決めることはしません。ただ、どの読み方をとるにしても、本文の言葉そのものに目をとめておきたいと思います。

「諸法の仏法なる時節」(【1】)#

一つめの文は、「諸法の仏法なる時節」と始まります。あらゆるものが仏法である時節、と訳しました。

「時節」を「とき」の意に取るか、「〜という見方に立つとき」「〜という面から言えば」の意に取るか、には幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の注は、この句を「あらゆるものを仏の教えに即して見るとき」の意に取るのがおそらく妥当であろう、としています。あらゆるものが、そのありようとして仏法である、と受けとめるか、あらゆるものを仏法として見る、という見る側の立場の問題として受けとめるか、ここにも幅があります。

そのうえで、文の形に即して見ておきましょう。あらゆるものが仏法である、その時節には、「すなはち」、まさにそこに、迷いもさとりもあり、修行があり、生があり死があり、諸仏があり衆生がある、と。

ここで「修行あり」と言われていることには、心をとめておきたいと思います。迷悟・生死・諸仏衆生は、いずれも二つで一対の言葉です。そのなかに一つだけ、対にならない「修行」が置かれています。あらゆるものが仏法であるところには、修行がある。仏法であるのだから修行はいらない、というのではありません。仏法であるところに、まさに修行がある、と言われているのです。

弁道話の冒頭には、「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」(『弁道話』第一回)とありました。仏法は一人ひとりにゆたかにそなわっているけれども、修行しなければ現れず、証しなければ得ることはない、と。【1】の「修行あり」は、この弁道話の言葉と響き合っているように思われます。

「万法ともにわれにあらざる時節」(【2】)#

二つめの文は、「万法ともにわれにあらざる時節」と始まります。あらゆるものが、いずれも「われ」ではない時節、と訳しました。

この「われにあらざる」をどう受けとめるかにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。語注では、「我」すなわち固定した実体としての自己ではない、という意に取りました。宗務庁版英訳の注は、「あらゆるものが独立した実体をもたない(空である)と見るとき」の意に取るのがおそらく妥当であろう、としています。また、あらゆるものは自分のもの、自分の思いどおりになるものではない、と受けとめることも、万法と自己とが向かい合って対立することがない、と受けとめることもできるでしょう。

この「万法のわれにあらぬ」という言い方は、実は、次の回で読む段落の結びにも出てきます。「もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」(本巻第二回)。その段落は、舟に乗って岸を見ると岸が動くように見誤る、というたとえを用いて、自分の身心を乱して万法を見ようとすると、自分の心や本性が常住であるかのように誤る、と説くところです。そして、自らの行い(行李)に親しく、いまここに立ちかえるならば、万法の「われにあらぬ」道理が明らかになる、と言われます。この言い方の詳しいことは次の回に譲りますが、【2】の「われにあらざる」と同じ言い方が、本巻のなかで、ものの見方の問題としてだけでなく、自らの行いに親しむことのなかで明らかになることとしても語られていることは、ここで心にとめておいてよいでしょう。

そのうえで、二つめの文は言います。そのような時節には、まどいもなく、さとりもなく、諸仏もなく、衆生もなく、生もなく、滅もない、と。

一つめの文で「あり」と言われたものが、ここではすべて「なし」と言われています。ただ、よく見ると、一つめの文にあった「修行」は、二つめの文の「なし」の列挙には出てきません。この違いに意味を認めるかどうかは、本文からは決められませんが、目にとめておいてよいことかもしれません。また、【1】の「迷悟」が【2】では「まどひ」「さとり」と和語で言われていること、【1】の「生・死」が【2】では「生・滅」と言われていることなど、言葉の違いに意味を見るかどうかにも幅があります(→読みの分かれるところ)。

「仏道もとより豊倹より跳出せる」(【3】前半)#

三つめの文は、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに」と始まります。仏道はもともと豊倹から跳び出ている(超え出ている)ので、と訳しました。

「豊倹」は、豊かなことと倹しい(乏しい)ことです。何の豊かさと乏しさを言うのかには幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の注のように、【1】の「あり」と【2】の「なし」、すなわち肯定と否定を言うと受けとめることもできますし、多いと少ない、豊かと乏しいといった、私たちが日ごろ立てる比べ合いの区別一般を言うと受けとめることも、修行やさとりの深い浅い、多い少ないを言うと受けとめることもできるでしょう。

注意したいのは、「もとより」という一語です。仏道は、修行を重ねていった末に、ある時から豊倹を超え出るようになるのではありません。もともと、はじめから、豊倹を超え出ている、と言われています。

そして、その「ゆゑに」、生滅があり、迷悟があり、生仏(衆生と仏)がある、と続きます。超え出ているから、何もない、というのではありません。超え出ているからこそ、生滅も迷悟も衆生と仏も、ある。この「ゆゑに」のつながりをどう受けとめるかにも読みの幅があり(→読みの分かれるところ)、また、この【3】の「あり」が【1】の「あり」とどう違うのか、同じことのくり返しなのか、超え出たうえでの「あり」なのかにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。

坐禅のなかで、冒頭三段を受けとめる#

この冒頭三段は、ともすると、ものの見方についての抽象的な議論のように読めてしまいます。けれども、弁道話を読んできた私たちには、思い起こされる言葉があります。

弁道話の問答のなかで、禅師は、坐禅について次のように言われていました。「いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し」(『弁道話』第四回)。いま、まさしく仏の印によって万事を放ち下ろし、ひたすらに坐禅するとき、迷いだ悟りだとはかる思いのほとりを超えて、凡夫だ聖者だという道にかかわらず、すみやかに枠の外に遊ぶ、と。

【3】の「豊倹より跳出せる」と、弁道話の「迷悟情量のほとりをこえて」とは、言葉は違いますが、私たちの立てる区別やはからいを超え出ている、という点で通じ合っているように思われます。そして弁道話では、それは、ひたすらに坐禅するときのこととして語られていました。

坐禅をしていると、さまざまな思いが浮かびます。今日の坐禅はよく坐れた、今日は雑念ばかりだった。少しはわかってきた気がする、まだ何もわかっていない。私たちはつい、坐禅のなかにも、豊かさと乏しさ、多い少ないの比べ合いを持ちこんでしまいます。けれども、坐禅は、そうした比べ合いの上に成りたっているものではありません。宗門で大切にされる只管打坐、ただひたすらに坐るという坐禅は、よく坐れたか坐れなかったかを数えあげることとは別のところで坐ることだ、と受けとめることができるでしょう。

そしてまた、その坐禅は、迷いも悟りもない、何もない世界に入りこむことでもありません。坐禅をしている私たちには、足の痛みもあり、浮かんでは消える思いもあり、外から聞こえる音もあります。生があり、滅があり、迷いがあり、さとりがある。冒頭三段を坐禅に引き寄せて受けとめるならば、私たちの坐る坐禅は、「あり」も「なし」も、そのいずれかに片寄ることなく、そのすべてを抱えたまま、ただ坐ることだと言えるかもしれません。ただし、これは本文が坐禅について直接に語っているということではなく、冒頭三段を坐禅のなかで味わうときの、一つの受けとめ方として申し添えておきます。

華は愛惜にちり、草は棄嫌におふる(【3】後半)#

牛頭精禅師の家風#

冒頭三段の第三の文は、さらにこう続きます。

「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」(【3】)。

しかしながら、そうではあっても、華は(人が)惜しむなかで散り、草は(人が)嫌うなかで生い茂る、ただそれだけのことである、と訳しました。

宗務庁版英訳の注では、この句は、中国の牛頭精禅師の言葉を和文に言い換えたもので、禅師が「和尚の家風はどのようなものか」と問われて答えた言葉である、とされています。また、道元禅師は『永平広録』でもこの句を引いておられる、ということです。家風とは、その師の家のあり方、その門下の宗風のことです。「あなたの家風は」と問われて、華は惜しまれて散り、草は嫌われて生える、と答えた。その言葉を、道元禅師は、冒頭三段の結びに置かれたのです。

高い議論から、庭先へ#

ここで、話の調子ががらりと変わることに気づきます。迷悟・生死・諸仏衆生があるか、ないか。仏道は豊倹を超え出ているか。そうした、いかにも高く深い議論が三つの文で続いたあとで、禅師は「しかもかくのごとくなりといへども」、そうではあるけれども、と言って、いきなり庭先の華と草の話をされます。

散ってほしくないと思う華は、惜しまれながら散っていく。生えてほしくないと思う草は、嫌われながら生い茂る。それは、誰もが日々の暮らしのなかで目にしていることです。春に咲いた花は、どれほど惜しんでも散ってゆきます。夏の庭の草は、どれほど抜いても、またすぐに生えてきます。

「かく」が何を指すのかには幅があります。【3】の前半、仏道が豊倹を超え出ているから生滅・迷悟・生仏がある、ということを指すと取ることも、【1】から【3】前半までの全体を指すと取ることもできます。いずれにしても、ここで禅師は、仏道についてどのような言い方をしようとも、私たちの目の前の事実は、華が散り、草が生える、ただそれだけのことである、と言われているように読めます。

「愛惜に」「棄嫌に」の「に」#

この句のなかの「に」をどう受けとめるかは、読みの分かれるところです。

訳文では、「惜しまれながら」「惜しむなかで」と取りました。華は、人が惜しむそのなかで散ってゆく。人の思いにかかわらず、事実はそうである、と受けとめる読み方です。

一方、典拠の漢文が「從」「逐」の字を用いていることから、「惜しむことにしたがって」「惜しむからこそ」と取る読み方もあります。宗務庁版英訳の注は、典拠の句を「華は私がそれを愛することから散り、草は私がそれを憎むことから生える」という意味に訳しています("from my love for them")。そう読むならば、華が散るのがつらいのは、私たちが華を惜しむからであり、草がはびこるのが疎ましいのは、私たちが草を嫌うからだ、ということになるでしょう。さらに、「惜しまれても散り、嫌われても生える」と、逆接に近く取ることもできます。

また、「のみなり」の含みも、受けとめ方が分かれます。ありのままの事実をそのまま言う、と取ることも、人の愛憎の思いにかかわらず事実はこうである、という含みを読むことも、愛憎の思いのはたらく私たち凡夫の現実を言う、という含みを読むこともできます。

日々の暮らしのなかで#

どの読み方をとるにしても、この一句は、私たちの日々の暮らしに、深く結びついています。

私たちは、好ましいものを惜しみ、好ましくないものを嫌いながら暮らしています。好きな人と別れなければならないことがあり、嫌な出来事が次々に起こることもあります。若さや健康は、惜しんでも去ってゆき、老いや病は、嫌っても訪れてきます。それを、仏道は豊倹を超え出ているのだから、惜しむことも嫌うこともなくなるはずだ、と考えるとすれば、それはこの一句の示すところとは違うように思われます。禅師は、華は惜しまれて散り、草は嫌われて生える、と言われます。惜しむ思いも、嫌う思いも、そこにはあるのです。

寺の暮らしでは、境内の掃除や草とりが、日々の作務として行われます。草を抜いても、しばらくすれば、また草は生えてきます。それでも、また草を抜く。落ち葉を掃いても、風が吹けば、また葉は落ちてきます。それでも、また掃く。この一句を、そうした日々の務めのなかで味わってみることもできるでしょう。草は嫌われながら生える。それをそのまま見つめながら、なすべきことを、今日もまた行う。高い議論のあとに庭先の華と草を置かれた禅師の言葉は、私たちの目を、いま・ここの暮らしの事実へと引き戻してくれるように思われます。

「自己をはこびて」と「万法すすみて」(【4】)#

迷いとさとりの分かれ目#

続いて、本巻のなかでもよく知られた一文が置かれます。

「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(【4】)。

自己を(万法の方へ)運んで万法を修証するのを、迷いとする。万法が(自己の方へ)進んできて自己を修証するのは、さとりである、と訳しました。

この一文は、訳文のように読むならば、迷いとさとりとが、どちらからどちらへ向かうか、という向きの違いとして言われていることになります。自己が万法の方へ出かけていって、万法を修証しようとする。それが迷いである。万法の方が進んできて、自己を修証する。それがさとりである。

ここで、迷いとさとりが、何か別々の二つの境地として言われているのではなく、同じ「修証」ということの、向きの違いとして言われていることに、まず目をとめておきたいと思います。迷いの側にも「修証」があり、さとりの側にも「修証」がある。違うのは、自己が主となって万法に向かっていくのか、万法の方から進んできて自己が修証されるのか、ということです。

読みの幅#

この一文にも、いくつかの読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。

「修証」を、修行して明らかにする、確かめる、という一つの動きと取るか、修行と証悟という二つの語の並びと取るか。「はこびて」を、自己を万法の方へ運んで、持ち出して、と取るか、自己を中心に立てて、自己をよりどころにして、と取るか。そして「万法すすみて」を、訳文のように万法を主語に取って、万法が(自己の方へ)進んできて、と読むか、宗務庁版英訳の注が挙げるように、主語を示さず、万法が進むなかで自己を修証する、と読むか。

これらの読みのどれをとるかによって、細かな意味あいは変わってきます。けれども、自己を先に立てて万法に向かっていくことが迷いであり、そうでないところにさとりがある、という一文の骨組みは、どの読みにも共通していると言ってよいでしょう。

修証一等と、この一文#

ここで、弁道話の言葉を思い起こしたいと思います。弁道話では、修行とさとりの関わりについて、次のように示されていました。

「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ」(『弁道話』第五回)。

修行とさとりは一つではないと思うのは、仏法の外の見方である。仏法では、修行とさとりは一等、一つである。いまの修行も、さとりの上での修行(証上の修)であるから、はじめて道を志した人の修行が、そのまま本来のさとりの全体である。だから修行の心がまえを授けるときにも、修行のほかにさとりを待つ思いをもってはならない、と教える、と。宗門では、これを「修証一等」の教えとして大切にしてきました。

弁道話の序にも、「いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり」(『弁道話』第一回)とありました。いま教える功夫弁道は、証の上に万法をあらしめ、出路において一如を行ずることである、と。ここで言われる「証上」もまた、修証一等の「証上の修」と結びついた言葉として受けとめられます。修行は、まだ得ていないさとりを、これから得るための手段ではない。さとりの上でなされる修行である。その「証上」において、万法があらしめられている、と言われているのです。

この弁道話の言葉と、【4】の一文とを並べてみると、どうでしょうか。

自己をはこびて万法を修証する、というあり方は、自己を先に立て、自己が主となって、万法を、つまり外にあるさとりを、明らかにしよう、確かめよう、手に入れようとすることだ、と受けとめることができます。それは、修行のほかにさとりを待ち、さとりを修行の向こうに置いて、そこへ向かって進んでいこうとする心に通じます。弁道話が「修のほかに証をまつおもひなかれ」と戒めていたのも、そうした心であったと受けとめることができるでしょう。

それに対して、万法すすみて自己を修証する、というあり方は、自己がさとりを取りに出かけていくのではなく、さとりの方から、万法の方から、自己が修証されている、というあり方です。【4】で「修証」という語が「修」と「証」とを分けずに一語として用いられていること(→読みの分かれるところ)も、この一文を修証一等の教えに照らして受けとめるとき、意味深いものに思われてきます。ただし、この一文の「修証」という語そのものを、修と証とを分けない修証一等の意に取るかどうかには、なお読みの幅があることを申し添えておきます。

坐禅に引き寄せて#

坐禅を始めたばかりの人は、しばしば、坐禅をして何かを得よう、さとりという体験を手に入れよう、と思います。それは、道を求める心として自然なことでもあります。けれども、そうした思いを抱えて坐るとき、私たちは、自己を先に立てて、さとりの方へ自己を運んでいこうとしているのかもしれません。もっと集中しよう、もっと心を静めよう、と自分の力で坐禅を何かに仕立てあげようとすればするほど、坐禅はかえって窮屈なものになっていきます。

弁道話の「修のほかに証をまつおもひなかれ」「初心の辦道すなはち本証の全体なり」という言葉に照らせば、坐禅は、何かを得るための手段としての坐禅ではない、ということになります。足を組み、背筋を伸ばし、手を組み、呼吸を調えて、ただ坐る。そこには、自己が何かをつかみにいく、という向きはない。坐る姿そのもののなかに、仏の道が現れている、と受けとめることができるでしょう。万法すすみて自己を修証する、という言葉は、坐禅のそうしたあり方を、私たちに思い起こさせてくれるように思われます。

迷を大悟する、悟に大迷なる(【5】)#

【4】で迷とさとりの分かれ目を示した禅師は、次に、諸仏と衆生とを、迷いと悟りとの関わりにおいて言われます。

「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり」(【5】)。

迷いを大悟するのが諸仏であり、悟りについて大いに迷っているのが衆生である、と訳しました。

ここで目をとめておきたいのは、諸仏が、迷いのない人、迷いから遠く離れた人として言われていないことです。諸仏は、「迷を大悟する」者である、と言われます。訳文の読みに沿って言えば、迷いとかかわりのないところに諸仏がいるのではなく、迷いについて大悟する、迷いを迷いと見きわめる、そこに諸仏がいる。反対に、衆生は、悟りとかかわりのない者としてではなく、「悟に大迷なる」者、悟りについて大いに迷っている者、と言われます。悟りを求め、悟りについてあれこれと思いめぐらしながら、そのことにおいて大いに迷っている。

この一文の「を」と「に」の受けとめ方にも、幅があります。「迷を大悟する」は、迷いについて大悟する、迷いのただなかでそのまま大悟する、迷いを大悟へと転ずる、などと受けとめることができます。「悟に大迷なる」も、悟りについて大いに迷う、悟りを外に求めて迷う、悟りに執着して迷う、などの受けとめ方があります。

そして、後の一文では、さらに、悟りの上にさらに悟りを得る者があり、迷いのなかでさらに迷う者がある、と言われます。宗務庁版英訳の注によれば、「迷中又迷」は、『正法眼蔵』に何度か出てくる漢文の言い回しで、『大慧普覚禅師語録』をふまえたものかもしれない、ということです。「悟上に得悟する」を、悟りにとどまらず、さらに深めてゆく者と肯定的に受けとめるか、悟りの上に悟りを重ねる者と否定的な含みで受けとめるか。また、前の一文の諸仏・衆生と、後の一文の二種の者とを、どう対応させて読むか。これらも、一つには決められないところです。

この段を、私たちの修行の身の上に引き寄せて受けとめるならば、次のように言うことができるかもしれません。修行をしていても、迷いがすっかりなくなるということはありません。坐禅をしていても、思いは浮かび、心は乱れます。そのとき、迷いのない自分になろうとして迷いを追いはらおうとするのではなく、迷いを迷いとして見きわめる。そこに、諸仏の道に通じるあり方がある。そして、悟りを求める心が、かえって悟りについて大いに迷う心になってしまうことがある、ということも、この一文は私たちに教えてくれているように思われます。

証仏なり、仏を証しもてゆく(【6】)#

「覚知することをもちゐず」#

続く段落は、こうです。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」(【6】)。

諸仏がまさしく諸仏であるときには、(その諸仏は)自己が諸仏であると覚知することを必要としない。そうではあるが、(諸仏は)証仏であり、仏を証しつづけてゆく、と訳しました。

諸仏が本当に諸仏であるとき、その諸仏は、「自分は仏である」と意識することを必要としない、と言われます。「もちゐず」を、必要としない、と取るか、そういう意識の立て方をしない、と取るかには幅があります(→読みの分かれるところ)が、いずれにしても、仏であることは、自分は仏だと意識すること、自覚することによって成りたっているのではない、ということが言われています。

この言葉は、弁道話の、坐禅の功徳を説く段の言葉と深く響き合っています。弁道話では、一人の坐禅が、あらゆる世界にひろく仏のはたらきをおよぼしていくことが説かれたあとで、次のように言われていました。

「しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに」(『弁道話』第二回)。

そうした広大な仏のはたらきが、坐禅する当人たちの知覚に昏まされないのは、静けさのなかの作為のないことであり、じかの証であるからである。もし凡夫の思うように修と証とを二つに分けるならば、それぞれがたがいに覚知するはずである。けれども、覚知がまじわるならば、それは証のありようではない。証のありようには、迷いの思いはおよばないからである、と。

弁道話のこの言葉と、【6】の「自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」とは、同じことを、異なる面から言っているように読めます。坐禅のなかで仏のはたらきが現れていても、坐る人は、「いま自分は仏である」「いまさとりが現れている」と覚知しているわけではない。そのように覚知するならば、それは修と証とを二つに分けて見ていることになる。弁道話の序にも、諸仏は常にこの三昧のなかに住持しているけれども、「各各の方面に知覚をのこさず」(『弁道話』第一回)、それぞれの所に知覚の跡を残さない、とありました。

「しかあれども証仏なり」#

では、自分は仏であると覚知しないのだから、仏であることも定かではないのか、というと、そうではありません。禅師は「しかあれども」、そうではあるけれども、と続けて、「証仏なり、仏を証しもてゆく」と言われます。

「証仏」の語をどう受けとめるかには幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の本文は、これを「証された仏」と名詞に取って訳し、注で、「仏を証する」と動詞と目的語に取る読みも挙げて、この語は『正法眼蔵』に何度か出てきて、ふつうは動詞と目的語の形で用いられる、としています。また、「証しもてゆく」を、仏を証しつづけてゆく、と取るか、次第に証してゆく、と取るかにも幅があります。訳文は前者に近く訳しました。

少なくとも訳文のように読むならば、ここで、仏であることが、ある時に到達して終わる到達点としてではなく、仏を証しつづけてゆく、終わりのないはたらきとして言われていることは、大切に受けとめたいところです。

弁道話には、「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」(『弁道話』第五回)とありました。修行のなかの証であるから、証には限りがなく、証のなかの修行であるから、修行には始まりがない、と。そして、釈迦如来も迦葉尊者も、達磨大師も大鑑高祖も、みな「証上の修に受用せられ」「証上の修に引転せらる」(『弁道話』第五回)と示されていました。仏祖は、さとりを得たからもう修行は終わった、とされたのではない。証の上でなされる修行に、ずっと受け用いられ、引き動かされてきた、というのです。

【6】の「証仏なり、仏を証しもてゆく」は、この「証上の修」と同じことを言っている、と受けとめることができます。諸仏は、自分が仏であると覚知することを必要としないけれども、仏を証しつづけてゆく。さとりは修行の終わりではなく、修行は証の上で、限りなく続いていく。修証一等の教えを、この段にも読みとることができるでしょう。

日々の行持として#

坐禅をする私たちにとって、この段は、大きな励ましにも、また戒めにもなります。

坐禅をして、「今日は何かわかった」「仏の境地に近づいた」と思う。それは、自己が諸仏であると覚知しようとする心かもしれません。反対に、「自分はまだ何もわかっていない」「これでは仏などとはほど遠い」と思うことも、同じ覚知の裏返しかもしれません。【6】の言葉は、そのどちらにもとらわれず、ただ坐ることをうながしているように思われます。

そして、「仏を証しもてゆく」という言葉は、修行に終わりがないことを教えてくれます。一度の坐禅で何かを得て終わるのではなく、今日も坐り、明日も坐る。朝起きて顔を洗い、食事をいただき、務めを果たし、また坐る。そうした日々の行持が、仏を証しつづけてゆくことそのものとして受けとめられるのです。

身心を挙して(【7】)#

身心まるごとで見、聞く#

続く段落は、見ることと聞くことを取りあげます。

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし」(【7】)。

身心を挙げて(身も心もまるごとで)色を見てとり、身心を挙げて声を聞きとるとき、(それを)親しく会得するけれども、鏡に影を映すようなのではなく、水と月とのようなのでもない。一方を証するときは、(もう)一方は暗い、と訳しました。

この段は、本巻のなかでもとりわけ読みの大きく分かれるところです(→読みの分かれるところ)。

宗務庁版英訳の注によれば、多くの解釈者は、「身心を挙して」を、身心全体で、まるごとで見る、と取り、この段を、対象とその映った像とが向かい合うことのない、二つに分かれない見聞きのありさまを言うものと読む、ということです。そう読めば、鏡に影が映る、水に月が映る、というたとえは、映すものと映されるものという二つを立てるので、ここには当たらない、と否定していることになるでしょう。注はさらに、「一方を証するときは一方はくらし」を、対象(月)と主体(水)とがそれぞれそれ自体で完結している、二つに分かれない知覚のありさまを言うのかもしれない、としています。

一方で、注は、「身心を挙して」を単に「身心を用いて」と取り、この段を、私たちのふつうの、かたよった知覚を言うもので、鏡や水のゆがみのない映り方とは違う、と対比していると読むこともできる、としています。そう読めば、「一方を証するときは一方はくらし」は、かたよった知覚では一方しか見えない、ということになるでしょう。

ほかにも、「したしく会取すれども」の「ども」を逆接と取るか軽い接続と取るか、「一方」が何と何を指すのか(見る者と見られるもの、色と声、比喩の鏡と影・水と月)など、受けとめ方の幅はさまざまです(→読みの分かれるところ)。本書では、訳文をどちらにも寄せずに訳しました。

なお、水と月のたとえは、本巻の次の回で読む段落で、「人の、悟をうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず」(本巻第二回)と、別の文脈で、さとりのたとえとしてあらためて用いられます。この段で「水と月とのごとくにあらず」と言われていることと、そこで水に月が宿るように、と言われることとの関わりも、この巻を読み進めるうえで心にとめておきたいところです。

「見色明心し、聞声悟道せし当人」#

色を見ること、声を聞くことについては、弁道話にも一つの問答がありました。昔から、竹の音を聞いて道をさとり、花の色を見て心を明らめた人がいる、釈尊は明星を見て道を証した、その人たちはみな坐禅をした人ばかりではないだろう、という問いです(『弁道話』第八回)。

それに対して禅師は、「古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに辦道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし」(『弁道話』第八回)と答えておられました。昔も今も、色を見て心を明らめ、声を聞いて道をさとった当人は、みな辦道においてあれこれとはかる思いがなく、まさにそのところに第二の人がいないことを知るべきである、と。

この「直下に第二人なき」という言葉は、【7】の段を受けとめるうえで、一つの手がかりになるように思われます。色を見るとき、見ている自分と見られている色とが向かい合い、そのあいだで像が映る、というのではない。声を聞くとき、聞いている自分と聞かれる声とが別々にあって、声が自分のなかに映る、というのでもない。身心まるごとで見、身心まるごとで聞く、そのとき、そこに第二の人はいない。ただし、これは【7】の段を、さきの多くの解釈者の読みの方向で受けとめた場合の一つの受けとめ方であって、本文の読みを一つに決めるものではありません。

坐禅と「身心を挙して」#

前の巻「摩訶般若波羅蜜」の冒頭で、禅師は、『般若心経』の句を、「行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」(「摩訶般若波羅蜜」第一回)と言い換えておられました。照見に「渾身の」、からだまるごとの、という一語を加えておられたのです。

【7】の「身心を挙して」という言葉も、目だけで見る、耳だけで聞く、頭だけで考える、というのではなく、身心をまるごとあげて見、聞く、という意に取るならば、「渾身の照見」と通じる言葉として受けとめることができるでしょう。

坐禅は、身心をまるごとあげてなされるもの、と言うことができるでしょう。足を組み、背筋を伸ばし、手を組み、呼吸を調える。坐禅は、心だけでするものでも、からだだけでするものでもありません。そして坐禅をしていると、外の鳥の声、雨の音、風の音が聞こえてきます。坐禅のなかでは、それを聞こうとして聞くのでも、聞くまいとして耳をふさぐのでもありません。ただ聞こえてくる。そうしたとき、聞いている私と、聞かれる音とのあいだに、隔てがあると言えるでしょうか。【7】の言葉を、そうした坐禅のなかでの見聞きと重ね合わせて味わうこともできるように思われます。

仏道をならふといふは、自己をならふなり(【8】前半)#

本巻の中心の一つ#

いよいよ、本巻でもっともよく知られた一節に入ります。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(【8】)。

仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、万法に証せられることである。万法に証せられるというのは、自己の身心と他己の身心とを脱落させることである、と訳しました。

宗務庁版英訳の解題も、この巻を紹介するにあたって、まずこの一節を挙げていました。道元禅師の言葉のなかでも、とりわけ多くの人に親しまれ、くり返し引かれてきた一節です。

この一節は、「〜といふは、〜なり」という形を四度くり返し、前の文の終わりの言葉を、次の文の始まりに受けて、鎖のように言葉をつないでいきます。仏道をならう、自己をならう、自己をわするる、万法に証せらるる、自他の身心を脱落せしむる。一つ一つの句が、前の句を言いなおし、深めていきます。

この一節の一句一句についても、読みの幅は大きく(→読みの分かれるところ)、ここで一つの読みを唯一の正解として示すことはしません。ただ、句を追いながら、それぞれがどのような方向で受けとめられうるかを見ていき、そのうえで、坐禅と日々の修行のなかで、この一節をどのように受けとめることができるかを考えてみたいと思います。

「仏道をならふ」と「自己をならふ」#

まず、「仏道をならふといふは、自己をならふなり」。

「ならふ」は、習う、学ぶ、という意味です。語注に記したように、この語には、くり返し身につける、慣れ親しむ、という含みもあります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳は、これを「学ぶ」(study)と訳しています。

仏道をならうというのは、自己をならうことである、と言われます。仏道を、どこか自分の外にある教えや道としてではなく、ほかならぬこの自己のこととして示している、と受けとめることができるでしょう。

ここで言われる「自己」とは何か。これにも幅があります(→読みの分かれるところ)。学ぶ対象として、この自己というものを見つめ、明らかにする、という意に取ることもできます。また、自己そのものを行ずること、自己を自己として生きること、と受けとめることもできるでしょう。

ここで、弁道話で禅師が紹介しておられた、一つの古い話を思い起こしたいと思います。法眼禅師の会下に、則公という僧がいました。則公は、かつて青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」、修行者の自己とはどのようなものか、と問い、「丙丁童子来求火」という答えを得て、それを、「丙丁は火に属す」としたうえで、「火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり」、火をもってさらに火を求めるのは、自己をもって自己を求めるのに似ている、と理解した、と言います。法眼禅師は、それを「まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり」と退けました。そして則公は、あらためて同じ問いを法眼禅師に問い、同じ「丙丁童子来求火」の言葉を聞いて、大いに仏法をさとった、という話です(『弁道話』第八回)。

禅師はこの話を受けて、「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを」と言われ、さらに、「ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辦道して、一知半解を心にとどむることなかれ」(『弁道話』第八回)と示しておられました。自己がそのまま仏である、と頭で理解することをもって、仏法を知ったとすることはできない。ただ、はじめて善知識に会ったときから、修行の作法を問い尋ね、ひたすらに坐禅辦道して、なまかじりの理解を心にとどめてはならない、と。

【8】の「自己をならふ」は、この則公の話のように、自己とは何かを頭で理解しようとすることとは、別の方向を向いているように思われます。そのことは、すぐ次の句から読みとることができます。

「自己をわするる」#

「自己をならふといふは、自己をわするるなり」。

自己をならうというのは、自己を忘れることである、と言われます。

ここで、思わず立ちどまらずにはいられません。自己をならう、学ぶ、と言われたすぐあとに、それは自己を忘れることだ、と言われるのです。ふつう、何かを学ぶとは、それをよく見つめ、覚え、身につけることです。けれどもここでは、自己を学ぶことが、自己を忘れることだと言われます。

「自己をわするる」をどう受けとめるかにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。自己へのとらわれを忘れる、と受けとめることもできます。自己を対象として立てて見ることがなくなる、と受けとめることもできます。我を捨てる、と受けとめることもできるでしょう。訳文では、「忘れる」と語どおりに訳しました。

ここでは、【4】の言葉を思い起こしておきたいと思います。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」。自己を先に立てて万法に向かっていくことが、迷いとされていました。自己をならうことが、自己をあれこれと見つめ、分析し、理解しようとすることであるならば、それは、自己を先に立てて、自己を対象として運んでいくことになってしまいます。則公が「自己をもて自己をもとむる」と理解したのも、そうした方向であったのかもしれません。

自己をならうとは、自己を忘れることである。この一句は、自己をならうということが、自己を対象として見つめることの延長線上にあるのではないことを、はっきりと示しているように読めます。

また、【6】の言葉も思い起こされます。「自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」。諸仏は、自分が仏であると覚知することを必要としない、と言われていました。自己を忘れるということは、自己を覚知の対象として立てない、ということとも通じているように思われます。

「万法に証せらるる」#

「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」。

自己を忘れるというのは、万法に証せられることである、と言われます。

「証せらるる」は、証される、ということです。「証」は、さとること、明らかにすること、確かめること。宗務庁版英訳は、これを「万法によって確かめられる」(to be verified by the myriad dharmas)と訳しています。この句も、万法によって証される・明らかにされる、と取るか、万法によって(自己が)さとらされる、と取るか、万法のなかに証が現れる、と取るか、読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。

ここで、この句が「証する」ではなく「証せらるる」と、受け身の形で言われていることに、まず目をとめておきたいと思います。自己が万法を証するのではありません。自己が万法に証せられるのです。

そうすると、この句は、【4】の「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と、きれいに対応しているように見えてきます。自己を忘れるとき、自己が万法の方へ出かけていくのではなく、万法の方から進んできて、自己が証せられる。この二つの句を対応させて読むかどうかは、読む人に委ねられているところですが(→読みの分かれるところ)、並べて味わうことで、それぞれの句の意味あいが、たがいに照らし合うように思われます。

弁道話の、坐禅の功徳を説く段には、次のような言葉がありました。「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(『弁道話』第二回)。もし人が、ひとときであっても、身・口・意の三業に仏の印をしるし、三昧に端坐するとき、あらゆる世界がみな仏の印となり、虚空のすべてがことごとくさとりとなる、と。そして、そのとき「諸法みな正覚を証会し、万物ともに仏身を使用して」(『弁道話』第二回)と続いていました。

弁道話では、坐禅する人のもとで、あらゆるものが正覚を証会する、と言われていました。坐る人が、自分の力で世界をさとりへと変えていくのではありません。坐るとき、あらゆるものの方が、さとりとして現れている。「万法に証せらるる」という言葉を、この弁道話の言葉とともに受けとめるとき、坐禅のなかで、自己が万法に証せられるということの意味が、いくらかでも身近なものとして感じられるのではないでしょうか。

「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」#

そして、鎖の最後の句です。

「万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。

万法に証せられるというのは、自己の身心と他己の身心とを脱落させることである、と訳しました。

「脱落」は、抜け落ちることです。この句は、道元禅師の重んじられた「身心脱落」の語にかかわるものです。

弁道話の、宗門の正伝を示す段には、次のように言われていました。「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」(『弁道話』第二回)。宗門の正しい伝えに言う、この単伝のまっすぐな仏法は、最上のなかの最上である。善知識にまみえたはじめから、焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず、ただ打坐して身心脱落することを得よ、と。「ただし打坐して」、ただひたすらに坐って、とあるこの一句に、宗門で大切にされる只管打坐のあり方が示されている、と受けとめることができます。

また、坐禅の功徳を説く段では、「この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を截断して、天真の仏法に証会し」(『弁道話』第二回)と言われていました。この坐禅人は、確かに身心脱落し、これまでのまじりけのある知見や思いはかりを断ち切って、天真の仏法に証会する、と。

弁道話では、身心脱落は、打坐すること、坐禅することとひとつのこととして語られていました。【8】の「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」という言葉を、宗門の立場から受けとめるとき、この言葉を、何よりもまず、坐禅のなかで示されることとして受けとめることができるでしょう。自己をならうことが、自己を忘れることであり、それが万法に証せられることであり、自他の身心が脱落することである。この鎖の全体が、ただ坐る坐禅のなかに示されている、と受けとめることができるのです。ただし、【8】の本文そのものは坐禅という語を用いておらず、これは弁道話の言葉に照らしての受けとめ方であることを申し添えておきます。

ただし、この句にも読みの幅があります(→読みの分かれるところ)。一つは、「脱落せしむる」の主語、すなわち、何が脱落させるのか、ということです。万法が(自己と他己の身心を)脱落させる、と取ることも、自己が(自他の身心を)脱落させる、と取ることも、主語を立てずに、自他の身心が脱落することだ、と受けとめることもできます。宗務庁版英訳は、主語を立てない形で訳しています。訳文では、「脱落させること」と、原文の使役の形を残しました。

「他己の身心」#

もう一つ、ここで心をとめておきたいのは、脱落するのが「自己の身心」だけでなく、「他己の身心」も、と言われていることです。

「他己」は、他者としての自己、他人のことです。宗務庁版英訳は、これを「他者の身心」と訳しています。他人の意と取るか、他としての己、他の上に現れる自己、という含みを読むかにも幅があります(→読みの分かれるところ)。

いずれにしても、身心脱落は、自分ひとりの身心のこととしてだけ言われているのではありません。自己の身心も、他己の身心も、と言われています。自分が自分の身心を脱落して、自分ひとりが楽になる、というのではない。自他ともに、というのです。

弁道話にも、一人の坐禅が、自分ひとりにとどまらないことが説かれていました。「ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼彼ともに一等の同修なり、同証なり」(『弁道話』第二回)。わずか一人の、ひとときの坐禅であっても、あらゆるものとひそかに通じ合い、あらゆる時とまどかに通じるから、尽きることのない世界のなかで、過去・未来・現在にわたって、常に変わらぬ仏の教化のはたらきをなす。あれもこれも、ともに一つの同じ修行であり、同じ証である、と。

自己の身心と他己の身心とがともに脱落する、という【8】の言葉は、この弁道話の、一人の坐禅があらゆるものと「一等の同修」「同証」である、という言葉と、深く響き合っているように思われます。坐禅は、自分ひとりのためだけの修行ではない。そう受けとめることは、坐禅をする私たちにとって、大切な心がまえになるでしょう。

日々の暮らしのなかで「自己をならふ」#

この一節は、坐禅のときだけのことでしょうか。

本巻が、鎮西の在家の弟子に書き与えられたものであったことを、もう一度思い起こしたいと思います。楊光秀は、筑前の役所にいた役人であったらしい、と解題は伝えています。その人に向けて、禅師は、仏道をならうとは自己をならうことであり、自己をならうとは自己を忘れることである、と書き送られたのです。

私たちの日々の暮らしは、多くの場合、自己を中心に回っています。自分の都合、自分の好み、自分の評価。何かをするときにも、それが自分にとって得か損か、自分がどう見られるか、ということを、つい考えてしまいます。【3】の言葉で言えば、私たちは、華を惜しみ、草を嫌いながら暮らしています。

そうした暮らしのなかで、「自己をわするる」とは、どういうことでしょうか。

たとえば、食事の支度をするとき、ただ食事の支度をする。掃除をするとき、ただ掃除をする。人の話を聞くとき、ただその人の話を聞く。自分がどう見られるか、これが自分にとって何の役に立つか、ということをいったん脇に置いて、目の前のことにまるごと身を投げ入れる。そのとき、私たちは、ほんのひとときであっても、自己を忘れているのかもしれません。そして、そうしたときに、目の前の物事の方から、なすべきことが自然と明らかになってくる、ということを、多くの人が経験として知っているのではないでしょうか。これを「万法に証せらるる」ことの、日々の暮らしにおける一つの姿として受けとめることもできるかもしれません。

ただし、ここで気をつけておきたいことがあります。「自己をわするる」を、ぼんやりと我を忘れること、何も考えずに流されること、と受けとめるとすれば、それはこの一節の示すところとは違うでしょう。【8】の鎖は、「仏道をならふ」ことから始まっていました。仏道をならう、修行するということが、まず置かれているのです。また弁道話では、さきに見たように、「一向に坐禅辦道して、一知半解を心にとどむることなかれ」(『弁道話』第八回)と示されていました。自己を忘れるということは、修行をはなれて、どこかで勝手に起こることではありません。仏道をならう、すなわち、坐禅を中心とする日々の修行のなかで、くり返し身につけ、慣れ親しんでいくこととして受けとめるのが、弁道話以来の禅師の教えの筋に沿った受けとめ方であるように思われます。「ならふ」の語に、くり返し身につける、慣れ親しむ、という含みがある(→読みの分かれるところ)ことも、そのように受けとめるときに、意味深く感じられてきます。

悟迹の休歇(【8】後半)#

難解な一句#

【8】は、さらに次の一句で結ばれます。

「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」(【8】)。

悟迹の休歇している(さとりの跡がやんでいる)ありかたがあり、(その)休歇した悟迹を長長と出させてゆく(長く長くどこまでもつづけてゆかせる)、と訳しました。

宗務庁版英訳の注も、ここを「難解な箇所」としています。読みの幅も大きく(→読みの分かれるところ)、ここでは、要点だけを見ておきたいと思います。

「悟迹」は、さとりの跡、さとったという痕跡です。「休歇」は、休みやむこと。「悟迹の休歇なるあり」は、さとりの跡がやんでいる、というありかたがある、と訳しました。悟迹を休歇する(はたらきがある)、悟迹が休歇する時がある、と取ることもできます。宗務庁版英訳は、「さとりの跡には終わりがある」(There is an ending to the traces of awakening)と訳しています。

続く「休歇なる悟迹を長長出ならしむ」は、さらに難しいところです。宗務庁版英訳の注によれば、この句はふつう、さとりの跡を休歇したその跡が、いつまでも続いてゆく、という意味に取られる、ということです。また注は、「長長出」というめずらしい語について、長沙景岑の「長長出不得」(長く長く出ることができない)という言葉を禅師が念頭に置いておられたかもしれない、としています。そうであれば、この句は、その「出ることができない」を、ひるがえした言い方と見ることもできるでしょう。「ならしむ」の主語が何であるのか、本文には示されていません(→読みの分かれるところ)。

さとりの跡を残さない#

このように読みの分かれる一句ですが、少なくとも、「悟迹」、さとりの跡ということが、ここで問題にされていることは確かです。

【6】では、諸仏は自分が仏であると覚知することを必要としない、と言われていました。弁道話の序でも、諸仏は「各各の方面に知覚をのこさず」(『弁道話』第一回)、と言われていました。さとったということが、跡として残り、それが「自分はさとった」という思いとして心にとどまるならば、それは、【5】の言葉で言えば、悟りの上にさらに悟りを重ねることになるのかもしれません。弁道話の言う「一知半解を心にとどむる」(『弁道話』第八回)ことにもなるでしょう。

そして、悟迹が休歇したそのうえで、それが「長長出」、長く長く出てゆく、と言われます。さとりの跡がやんで終わり、というのではない。跡を残さないさとりが、どこまでも続いていく。そう受けとめるならば、この一句は、【6】の「仏を証しもてゆく」と、また弁道話の「証にきはなく、修にはじめなし」(『弁道話』第五回)と、通じ合うものとして読むことができるかもしれません。ただし、これは一つの受けとめ方であり、この一句の読みを一つに決めるものではありません(→読みの分かれるところ)。

坐禅に引き寄せて言えば、坐禅のなかで、何か特別な体験が訪れたように感じることがあるかもしれません。けれども、その体験を握りしめ、もう一度あれを味わおうと坐るならば、それは悟迹を追いかけることになってしまいます。今日の坐禅は、今日の坐禅として、ただ坐る。そして明日もまた坐る。跡を残さず、しかも終わることなく続いていく。悟迹の休歇の一句は、そうした坐禅のあり方を、私たちに思い起こさせてくれるように思われます。

本分人(【9】)#

法を求めるとき、法から離れる#

今回の範囲の最後の段落は、次のとおりです。

「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」(【9】)。

人が、はじめて法を求めるとき、(その人は)はるかに法の辺際から離れてしまっている。法が、すでに自分に正しく伝わったとき、(その人は)すみやかに本分人である、と訳しました。

前半の一文は、少し不思議に聞こえます。法を求めはじめるとき、その人は、法のほとりからはるかに離れてしまっている、というのです。法を求めることは、法に近づくことのはずです。それなのに、求めるときに、かえって法から遠く離れている、と言われます。

この一文は、【4】の「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」と響き合っているように読めます。法を、自分の外にあるものとして求める。自己を運んで、外にある法をつかみにいく。そのとき、法は、かえってはるかに遠くなってしまう。宗務庁版英訳も、法を求める人は、法の境界からはるかに自らを遠ざけてしまう、という意味に訳しています。「辺際」を「ほとり」と取るか、「果て・限り」と取るか、「はじめて」を、発心のはじめに、と取るか、求めはじめるとき、と取るかにも、幅があります(→読みの分かれるところ)。

ただし、ここで、法を求める心そのものが否定されているわけではないことには、注意しておきたいと思います。法を求める心がなければ、人は仏道に入ることがありません。弁道話でも、禅師ご自身が「予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき」(『弁道話』第一回)と、発心して法を求めて以来、国中に善知識を訪ねた、と述べておられました。法を求める心は、仏道の入口として尊いものです。そのうえで、法を自分の外に求めているかぎり、法ははるかに遠い、ということが、ここで言われていると受けとめることができるでしょう。

「おのれに正伝する」とき#

後半の一文は、「法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」です。

「正伝」は、正しく伝わること、師から弟子へ、まさしく伝えられることです。法が、すでに自分に正しく伝わったとき、その人は、すみやかに、ただちに、本分人である、と言われます。

「本分人」は、宗務庁版英訳の注によれば、禅の書物に何度か出てくる語で、自らの本性、本来の分を悟った人を言う、ということです。

この一文の主語をどう取るかには、幅があります(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の本文は、前の一文と構文をそろえるために、「法」を両方の動詞の主語として、法が伝わるとき、法がただちに本分人である、という形に訳していますが、注では、法が伝わったとき、(その人は)ただちに本分人である、と読む方がおそらく自然であろう、としています。訳文は後者に従いました。また、「正伝する」を、法が自分に正しく伝わる、と自動詞に取るか、法を自分に正しく伝える、と取るかにも幅があります。

ここで、前半と後半の向きの違いに目をとめておきましょう。前半では、「人」が法を「もとむる」と、人の方から法へ向かう動きが言われていました。後半では、「法」が自分に「正伝する」と、法の方から人へ向かう動きが言われています。この向きの違いは、【4】の「自己をはこびて」と「万法すすみて」の向きの違いと、よく対応しているように見えます。

本分――人人の分上にそなわるもの#

「本分人」の「本分」という言葉から、弁道話の冒頭の一句が思い起こされます。「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」(『弁道話』第一回)。

法は、一人ひとりの「分上」、その人の分の上に、ゆたかにそなわっている。本分人とは、その本来の分に落ち着いた人、と受けとめることができるでしょう。そして弁道話は、その法も、修行しなければ現れず、証しなければ得られない、と続けていました。本分人となることは、外から何かを得て別の人になることではなく、もともとそなわっている本来の分に落ち着くことである。けれども、それは修行をはなれて起こることではない。【9】の言葉を、弁道話のこの言葉とともに受けとめるとき、その両面が見えてくるように思われます。

正伝と、師につくこと#

もう一つ、「正伝」という言葉にも、心をとめておきたいと思います。

弁道話には、「西天東地の古今に、仏印を正伝せし諸祖」(『弁道話』第七回)という言葉がありました。仏の印は、インドから中国へ、昔から今へ、諸祖によって正しく伝えられてきた。そして道元禅師ご自身も、宋に渡り、天童山景徳寺で本師如浄禅師に参じて、その法を伝えられました。弁道話では、そのことを「つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ」(『弁道話』第一回)と記しておられます。

「正伝」は、師から弟子へ、まさしく伝えられることを言う言葉です。法が「おのれに正伝する」ということを、自分ひとりで書物を読み、頭で理解することによって起こることとは受けとめにくいでしょう。弁道話でも、「ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して」(『弁道話』第八回)と、まず善知識に会い、修行の作法を問い尋ねることがすすめられていました。

これから坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけで独り合点するのではなく、近くの寺院の坐禅会などで、指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。坐禅の作法を身につけ、ともに坐る人々のなかで坐ることは、法を自分の外に求めて遠ざかるのではなく、法が正しく伝わってくる道を歩むことにつながっていく、と受けとめることができるでしょう。

むすびに――自己をならい、自己を忘れる#

今回読んだ九つの段落を、あらためてふり返ってみましょう。

巻は、迷悟・生死・諸仏衆生が「あり」と言う文、それらが「なし」と言う文、そして仏道がもとより豊倹を超え出ているゆえに、それらが「あり」と言う文の、三つの文から始まりました(【1】〜【3】前半)。そして、そうではあっても、華は惜しまれて散り、草は嫌われて生える、ただそれだけである、と、私たちの目は庭先の事実へと引き戻されました(【3】後半)。

続いて、自己を運んで万法を修証するのが迷いであり、万法が進んできて自己を修証するのがさとりである、と、迷いとさとりの分かれ目が示されました。訳文の読みでは、それは向きの違いとして言われていました(【4】)。諸仏は迷いを大悟する者、衆生は悟りに大いに迷う者と言われ(【5】)、諸仏は自分が仏であると覚知することを必要としないが、証仏であり、仏を証しつづけてゆく、と言われました(【6】)。身心をあげて色を見、声を聞くことが、鏡に影が映るようなのでも、水に月が映るようなのでもない、と言われました(【7】)。

そして、仏道をならうとは自己をならうことであり、自己をならうとは自己を忘れることであり、自己を忘れるとは万法に証せられることであり、万法に証せられるとは自他の身心を脱落させることである、と、本巻の中心の一節が示され、さとりの跡が休歇し、その休歇した悟迹がどこまでも長く出てゆく、と結ばれました(【8】)。最後に、法を外に求めるときには法からはるかに離れ、法が自分に正しく伝わるとき、ただちに本分人である、と言われました(【9】)。

この九つの段落には、一貫した一つの流れがあるように思われます。それは、自己を先に立て、自己の方から何かをつかみにいく向きと、そうではなく、万法の方から、法の方から、自己が証せられ、伝えられる向きとの対比です。【4】の「自己をはこびて」と「万法すすみて」、【8】の「自己をわするる」と「万法に証せらるる」、【9】の「法をもとむる」と「法、すでにおのれに正伝する」。言葉は違っても、同じ向きの対比が、くり返し示されています。そして、修行もさとりも、そこで終わる到達点としてではなく、「仏を証しもてゆく」「長長出」と、どこまでも続いていくものとして語られていました。

宗門では、坐禅を、何かを得るための手段としてではなく、ただひたすらに坐る只管打坐として大切にしてきました。弁道話に示された修証一等の教え、「証上の修」の教えも、この巻の言葉のなかに、くり返し響いていました。自己をはこんで何かを得にいくのではなく、ただ坐る。自分は仏であると覚知することを求めず、さとりの跡を残さず、しかも終わることなく坐りつづける。その坐禅のなかに、自己をならい、自己を忘れ、万法に証せられ、身心脱落する、ということが示されている。そう受けとめることができるでしょう。

そしてこの巻は、もとは、鎮西の一人の在家の弟子に与えられたものでした。坐禅のときだけでなく、食事をいただき、仕事をし、人と会い、華の散るのを惜しみ、草の生えるのを嫌いながら過ごす私たちの日々の暮らしのなかで、自己をならい、自己を忘れることが、どのように行じられていくのか。この巻は、そのことを、静かに私たちに問いかけているように思われます。

本巻は、次の段落から、舟に乗って岸を見るたとえ、薪と灰のたとえ、そして水に月が宿るたとえへと進んでいきます。冒頭の九つの段落で示されたことが、それらのたとえを通して、どのように説き深められていくのかを、次の回で読んでいきます。

読みの分かれるところ#

この回の範囲は、ほぼ一句ごとに読み方が一つに定まらない言い回しが続きます。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 巻名「現成公案」
    「現成」を、現に成っている・ありありと現れ出ている、と取ることも、現れ出させる・成就する、とはたらきの面から取ることもできます。語全体も、目の前に成りたっているありのままが、そのまま公案(真理)である、と受けとめることも、修行のなかで公案が現成する、と受けとめることもできます。宗務庁版英訳は巻名を "The Realized Kōan" と訳し、解題では、もとは決着のついた明白な案件という法律上の意味の語で、曹洞宗の伝統では究極の真理が現象の世界にそのまま現れ出ていることを言う語となった、と説明しています。

  2. 冒頭三段「諸法の仏法なる時節」【1】/「万法ともにわれにあらざる時節」【2】/「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに」【3】
    三つの文を、「あり」と肯定する立場、「なし」と否定する立場、その両方を超え出た仏道、と三段に展開するものと見ることも、段階や順序とは見ずに一つの事実を三つの面から言ったものと見ることも、【1】【2】を教えの二つの面とし、【3】でそれを超え出たうえで「あり」に戻る、と見ることもできます。「時節」を「とき」と取るか「〜という見方に立てば」と取るか、「われにあらざる」を、実体としての我がない、と取るか、自分のもの・思いどおりのものではない、と取るか、「豊倹」を肯定と否定と取るか、多い少ないといった区別一般と取るか、にも幅があります。宗務庁版英訳の注は、【1】【2】をそれぞれ「あらゆるものを仏の教えに即して見るとき」「あらゆるものが独立した実体をもたないと見るとき」の意に取り、【3】を前の二文の肯定と否定を超えることと取っています。

  3. 「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」【4】
    「万法すすみて」を、万法が(自己の方へ)進んできて、と万法を主語に取れば、迷いとさとりは、自己から万法へ、万法から自己へ、という向きの違いとして言われていることになります。一方、主語を示さずに、万法が進むなかで自己を修証する、と読むこともでき、宗務庁版英訳の注はこの読みも挙げています。「修証」を、修行して明らかにする・確かめるという一つの動きと取るか、修行と証の二語の並びと取るか、修と証とを分けない修証一等の含みを読むか、にも幅があります。

  4. 「しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」【6】
    「証仏」を、証した仏・証のうえの仏、と名詞に取ることも、仏を証する、と動詞と目的語に取ることもできます。宗務庁版英訳は、本文では前者の形に訳し、注では後者の読みを挙げて、この語は『正法眼蔵』でふつう動詞と目的語の形で用いられる、としています。「証しもてゆく」も、証しつづけてゆく、と取るか、次第に証してゆく、と段階的に取るかで、受けとめ方が変わります。

  5. 「身心を挙して色を見取し……一方を証するときは一方はくらし」【7】
    「身心を挙して」を、身心全体をあげて・まるごとで、と取り、この段を、見るものと見られるものとが二つに分かれない見聞きを言うものと読むことができます。そう読めば、鏡に影が映る、水に月が映る、というたとえは、映すものと映されるものを立てるので当たらない、と退けていることになるでしょう。一方、単に身心を用いて、と取り、私たちのふつうの、かたよった見聞きを、鏡や水のゆがみのない映り方と対比していると読むこともできます。宗務庁版英訳の注は、この二つの読みをともに挙げています。「一方」が何と何を指すのか(見る者と見られるもの、色と声、たとえの鏡と影・水と月)にも幅があります。

  6. 「仏道をならふといふは、自己をならふなり……自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」【8】
    「ならふ」を、学ぶ、と取るか、くり返し身につける・慣れ親しむ、という含みまで読むか。「自己をわするる」を、自己へのとらわれを忘れる、自己を対象として立てない、我を捨てる、のどれと受けとめるか。「万法に証せらるる」を【4】の「万法すすみて自己を修証する」と対応させて読むかどうか。「他己」を他人と取るか、他としての己と取るか。そして「脱落せしむる」の主語を、万法と取るか、自己と取るか、主語を立てない言い方と取るか。いずれも読みが分かれます。宗務庁版英訳は「学ぶ」と訳し、最後の句は主語を立てない形に訳しています。

  7. 「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」【8】
    宗務庁版英訳の注も難解な箇所としています。前半は、さとりの跡がやんでいる(ありかたがある)、さとりの跡をやめる(はたらきがある)、さとりの跡がやむ時がある、などと読めます。後半は、やんだ悟迹を長く長く出させてゆく、と読むことも、悟迹をやめたその跡がいつまでもつづいてゆく(宗務庁版英訳の注は、ふつうはこう取られるとしています)、と読むこともできます。また注は、長沙景岑の「長長出不得」(長く長く出ることができない)の語が念頭にあったかもしれない、としており、そうであればその否定をひるがえした言い方と見ることもできます。何が「出ならしむ」のか、主語は示されていません。

  8. 「法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」【9】
    「本分人なり」の主語を、(その人)と補って、法が伝わったとき、その人はただちに本分人である、と読むことも、前の一文と構文をそろえて、「法」を主語として読むこともできます。宗務庁版英訳は、本文では「法」を主語として訳し、注では、(その人)を主語とする読みの方がおそらく自然である、としています。「正伝する」を、法が自分に正しく伝わる、と取るか、法を自分に正しく伝える、と取るかにも幅があります。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第三「現成公案」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 本巻の撰述の年代・場所と諸本での位置、楊光秀について、巻名の由来、語句の典拠(牛頭精禅師の語、「迷中又迷」、長沙景岑の語、「本分人」の語義など)と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。