礼拝得髄(三)男女を論ずることなかれ#
原文#
村人の身心に沈溺せらんは#
【1】しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや仏法には、いふにたらず。また女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、学せざるゆえに、畜生にはちかく、仏祖にはとほきなり。
誠感の至神#
【2】一向に仏法に身心を投ぜんことを、ふかくたくはふるこころとせるは、仏法かならず人をあはれむことあるなり。おろかなる人天、なほまことを感ずるおもひあり。諸仏の正位、いかでかまことに感応するあはれみなからん。土石沙礫にも、誠感の至神はあるなり。
大宋国の比丘尼の上堂と、得法をうやまうこと#
【3】見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺にて上堂す。住持以下衆僧みな上参して、立地聴法するに、問話も比丘僧なり。これ古来の規矩なり。
【4】得法せらんは、すなはち一箇の真箇なる古仏にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず。かれ、われをみるに、新條の特地に相接す。われ、かれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問法せんに、比丘尼、この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり、女流もまたかくのごとし。得道はいづれも得道す。ただし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。
居士と七歳の女流#
【5】また、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、また孤独潔白なるもあり。なほ塵労稠林といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて礼拝請益すること、出家の宗匠におなじ。たとひ女人なりとも、畜生なりとも、またしかあるべし。仏法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず、うやまふべからず、ただ賓主の礼のみなり。仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば竜女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。しらず、単伝せざらんは、あはれむべし。
帝位の女人と、阿羅漢となれる比丘尼#
【6】また、和漢の古今に、帝位にして女人あり。その国土、みなこの帝王の所領なり、人、みなその臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたその人をうやまふことは、むかしよりなし、ひとへに得法をうやまふなり。また、阿羅漢となれる比丘尼のあるには、四果にしたがふ功徳みなきたる。功徳なほしたがふ、人天たれか四果の功徳よりもすぐれん。三界の諸天、みなおよぶところにあらず、しかしながらすつるものとなる、諸天みなうやまふところなり。いはんや如来の正法を伝来し、菩薩の大心をおこさん、たれのうやまはざるかあらん。これをうやまはざらんは、おのれがをかしなり。おのれが無上菩提をうやまはざれば、謗法の愚痴なり。
わが国の后宮・院号と僧侶#
【7】また、わが国には、帝者のむすめ、あるひは大臣のむすめの、后宮に準ずるあり、また皇后の院号せるあり。これら、かみをそれるあり、かみをそらざるあり。しかあるに、貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶、この家門にはしるに、かうべをはきものにうたずといふことなし。なほ主従よりも劣なり、いはんやまた奴僕となりて、としをふるもおほし。あはれなるかな、小国辺地にうまれぬるに、かくのごときの邪風ともしらざることは。天竺・唐土にはいまだなし、我国のみなり、かなしむべし。あながちに鬢髪をそりて、如来の正法をやぶる、深重の罪業といふべし。これひとへに夢幻空華の世途をわするるによりて、女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。
現代語訳#
段落番号【1】〜【7】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。この回の範囲は和文で、漢文の引用はありません。和文の中の漢語の句のうち、【1】「拝不肯」と【4】「今日須入今日」は、本山版に拠る活字本に付けられた読み下し(「拝することを肯わず」「今日は須らく今日に入るべし」)を語注に示し、訳文に生かしました。【6】【7】は七十五巻本にない部分にあたります(【5】の語注)が、本書の底本では本文が切れ目なく続くので、訳も同じ扱いにしました。この回は、女人・比丘尼の得法と礼拝、帝位・后宮の女人とそれに仕える僧侶を扱います。「女人」「女流」「畜生」「奴僕」などは本文の語のまま訳し、言いかえたり和らげたりしていません。仏教語・禅語(身心・沈溺・仏法・女人・姉姑・伝法・師僧・拝不肯・畜生・仏祖・人天・正位・感応・誠感・至神・掛搭・得法・官家・尼寺・住持・詔・上堂・衆僧・上参・立地聴法・問話・規矩・古仏・相見・新條・特地・相接・今日須入今日・相待・正法眼蔵・伝持・四果・支仏・三賢十聖・礼拝問法・男児・虚空・四大・五蘊・女流・得道・敬重・極妙・居士・士夫・孤独潔白・塵労稠林・雲衲霞袂・請益・宗匠・賓主・道取・四衆・導師・慈父・竜女成仏・供養恭敬・諸仏如来・古儀・単伝・帝位・帝王・所領・阿羅漢・功徳・三界・諸天・如来・菩薩の大心・無上菩提・謗法・愚痴・后宮・院号・貪名愛利・比丘僧・僧侶・家門・主従・奴僕・小国辺地・邪風・天竺・唐土・鬢髪・深重・罪業・夢幻空華・世途・繋縛など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名や事実は、宗務庁版英訳の注・解題が挙げる範囲で示しています。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。
村人の身心に沈溺せらんは#
【1】ところが、村人の身心に沈溺している者は、かたくなで、世俗においても笑われるにちがいないことが多い。まして仏法においては、言うに足りない。また、女人や姉姑などが伝法の師僧を拝することを、肯わない(認めまい)とする者も、あるにちがいない。これは、知ることがなく、学ばないために、畜生には近く、仏祖には遠いのである。
語注
- しかあるに:ところが、それなのに。第二回の【24】の「比丘尼の得法せらんを請ずべし」を受ける。
- 村人の身心に沈溺せらんは:村人の身心(いなかびとの身と心)に沈みおぼれている者は。宗務庁版英訳の注は、おそらく「素朴な村人の身心をもつ」の意で、「村人の(ような)身心の見方をもつ」の意とする説もあり、言いあらわされていない主語は、前の文(第二回の【24】)の「為衆の主人」である、とする。訳文は主語を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
- 世俗にもわらひぬべき:世俗(の人々)からも笑われるにちがいない。
- いはんや仏法には、いふにたらず:まして仏法においては、(取り上げて)言うに足りない。
- 女人および姉姑等:女人、および姉姑など。「姉姑」は字のとおりには姉と姑(おば・しゅうとめ)。宗務庁版英訳の注は、比丘尼をいう敬称に同じ音の「師姑」という語があることを記す。訳文は字のまま「姉姑」と残した。比丘尼を指すと取るかどうかは決めない(→読みの分かれるところ)。
- 伝法の師僧を拝不肯ならんと擬する:本山版に拠る活字本に付けられた読み下しは「拝することを肯わず」。伝法の師僧を拝することを肯わない(ことにしよう)と擬する(しようとする)。宗務庁版英訳の注は、この文は読みの分かれるところで、英訳ははじめの「の」を主格と取って「女人や師姑が伝法の師僧を拝することを、肯わない(認めない)者もあろう」と訳したが、「の」を連体(所有)と取り、「女人や師姑である伝法の師僧を拝することを肯わない者もあろう」と読む人もあり、この読みのほうが文脈には合うようだが、文としては取りにくい、とする。訳文は、宗務庁版英訳の読みに従い、女人や姉姑などが伝法の師僧を拝することを、(だれかが)肯わない(認めまい)とする、と訳した。ほかの読みは読みの幅として残す(→読みの分かれるところ)。
- ありぬべし:あるにちがいない。
- しることなく、学せざるゆえに:知ることがなく、学ばないので。
- 畜生:鳥獣など、人以外の生き物。本文の語のまま残した。
誠感の至神#
【2】ひたすら仏法に身心を投じようということを、深くたくわえる心としている者には、仏法はかならず(その)人をあわれむことがあるのである。愚かな人天でさえ、なお誠に感じる思いがある。諸仏の正位が、どうして誠に感応するあわれみをもたないことがあろうか。土・石・砂・小石にも、誠感の至神はあるのである。
語注
- 一向に:ひたすら。
- ふかくたくはふるこころとせる:深くたくわえる心(心の底にもちつづける志)としている。
- 仏法かならず人をあはれむことあるなり:仏法はかならずその人をあわれむ(いつくしむ)ことがある。
- 人天:人間と天上の者。訳さずに残した。
- まことを感ずるおもひ:誠に感じ入る思い。
- 諸仏の正位:諸仏の正しい位。正位は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 感応:感じ応ずること。訳さずに残した。
- 土石沙礫:土・石・砂・小石。
- 誠感の至神:誠に感ずる至神(この上なく霊妙なはたらき)。宗務庁版英訳は "a spirit moved by sincerity" と訳す。誠感・至神は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
大宋国の比丘尼の上堂と、得法をうやまうこと#
【3】現在、大宋国の寺院に掛搭している比丘尼が、もし得法の声(評判)があれば、官家から尼寺の住持に補する(任じる)という詔をたまわったときには、即寺(その寺)で上堂する。(その寺の)住持以下の衆僧はみな上参して、立ったまま法を聴き、問話(問いを発する者)も比丘僧である。これが古来の規矩である。
語注
- 見在:現在。
- 掛搭:(修行者として寺に)籍をおくこと。訳さずに残した。
- 得法の声:得法しているという評判。
- 官家:朝廷、官。
- 尼寺の住持に補すべき詔をたまふ:尼寺の住持に任ずるという詔をたまわる。宗務庁版英訳は "an invitation from the court" と訳す。
- 即寺にて上堂す:その寺で上堂する(法堂で大衆に説法する)。宗務庁版英訳の注は、その比丘尼が籍をおく寺の法堂で、正式の集まりに説法することとする。「即寺」を、その(掛搭している)寺と取るか、(住持に補された)その寺と取るかは決めかねる(→読みの分かれるところ)。上堂は訳さずに残した。
- 上参:法堂に上がって参ずること。訳さずに残した。
- 立地聴法:立ったまま法を聴くこと。宗務庁版英訳の注は、師の正式の説法のあいだ立って聴く作法をいう定まった句とする。
- 問話も比丘僧なり:問話(上堂のときに師に問いを発すること、またその者)も比丘僧である。宗務庁版英訳の注は、「問話」は正式の上堂のときに住持に向けて発せられる問いとする。
- 規矩:きまり。訳さずに残した。
【4】得法している者は、すなわち一箇の真箇の古仏であるから、むかしの誰それとして相見してはならない。彼がわたしを見るときは、新條の特地に(まったく新たな場で、ことさらに)相接する。わたしが彼を見るときは、今日は須らく今日に入るべし(今日はまさに今日に入る)という相待であるべきである。たとえば、正法眼蔵を伝持している比丘尼には、四果・支仏や三賢十聖も来て礼拝し法を問うであろうが、(そのとき)比丘尼は、この礼拝を受けるべきである。男児が、何をもって貴いというのか。虚空は虚空であり、四大は四大であり、五蘊は五蘊である。女流もまたこのようである。得道は、いずれも得道する。ただ、いずれも得法を敬重すべきであって、男女を論じてはならない。これが仏道の極妙の法則である。
語注
- 一箇の真箇なる古仏:ひとりの、まことの古仏。宗務庁版英訳の注は、ふつうは過去七仏や禅の系譜のもっとも尊ばれる師に限って用いられる尊称「古仏」を、比丘尼を含め、得法した者だれにでも当てはまるとする、目をひく主張である、とする。古仏は訳さずに残した。
- むかしのたれにて相見すべからず:むかしの(その人が以前そうであった)だれそれとして相見してはならない。宗務庁版英訳は "should not be encountered as whoever he or she was in the past" と訳す。相見は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- かれ、われをみるに、新條の特地に相接す:彼(得法の人)がわたしを見るときは、新條の特地に相接する(向き合う)。宗務庁版英訳の注は、『正法眼蔵』に何度か出る「新條特地」(新たな一条、ことさらに)の句をここで用いたもので、「特地」の「地」は副詞をつくる語と取るべき、とする。新條・特地・相接は訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 今日須入今日の相待:本山版に拠る活字本に付けられた読み下しは「今日は須らく今日に入るべし」。「相待」は、あい対すること、互いのかかわり。宗務庁版英訳の注は、ふつうには「現在に基づくかかわり」の意に取られるとし、道元禅師は「観音」の巻で「無端須入今日」という珍しい言い方を用いているとし、「須入」はふつう「入るべし」と当為に読まれるが、英訳は「用いる」の意に取った、とする。訳文は活字本の読み下しに従った(→読みの分かれるところ)。
- 正法眼蔵を伝持せらん比丘尼:正法眼蔵(仏祖正伝の法)を伝えたもっている比丘尼。正法眼蔵・伝持は訳さずに残した。
- 四果支仏および三賢十聖:宗務庁版英訳の注は、声聞・縁覚(支仏)・菩薩の三乗の者をいうとし、「四果」は阿羅漢に至る四つの段階(預流・一来・不還・阿羅漢)の最後をいい(四つの果全体を指すとも読めるが、この回の【6】の用い方を参照)、「支仏」は辟支仏(独覚・縁覚)の略、とする。三賢十聖は第一回の【7】の語注を参照。いずれも訳さずに残した。
- きたりて礼拝問法せんに:来て礼拝し法を問うときには。
- この礼拝をうくべし:この礼拝を受けるべきである。
- 男児なにをもてか貴ならん:男児(男子)が、何をもって貴いというのか(男であることが貴さのよりどころにはならない)。
- 虚空・四大・五蘊:宗務庁版英訳の注は、「四大」は地・水・火・風、「五蘊」は色・受・想・行・識(身心を成り立たせる要素)とする。いずれも訳さずに残した。
- 女流もまたかくのごとし:女流もまた、このよう(女流は女流)である。前の虚空・四大・五蘊を受けて文を閉じる、と取った。句の切り方によっては、「女流もまた」が後の「得道は……」にかかるようにも読める(→読みの分かれるところ)。女流は訳さずに残した。
- 得道はいづれも得道す:得道は、(男女の)いずれも得道する。宗務庁版英訳は "In gaining the way, all gain the way" と訳す。
- ただし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ:「ただし」は、ここでは「ただ、ひたすら」の意に取った(→読みの分かれるところ)。
- 極妙の法則:この上なくすぐれた法則。
居士と七歳の女流#
【5】また、宋朝で居士というのは、まだ出家していない士夫である。庵に住んで夫婦そろっている者もあり、また孤独潔白な(独り身で清らかな)者もある。(どちらも)なお塵労稠林(の中にいる)といってよい。けれども、あきらめたところ(明らかにさとったところ)がある者には、雲衲霞袂が集まって礼拝し請益すること、出家の宗匠に対するのと同じである。たとえ女人であっても、畜生であっても、またそうであるべきである。仏法の道理をまだ夢にも見ていない者は、たとえ百歳の老比丘であっても、得法の男女に及ぶはずがない。(その者を)うやまうべきではなく、ただ賓主の礼だけである。仏法を修行し、仏法を道取する者は、たとえ七歳の女流であっても、すなわち四衆の導師であり、衆生の慈父である。たとえば竜女成仏のようなものである。(その人を)供養し恭敬することは、諸仏如来に対するのと等しくあるべきである。これがすなわち仏道の古儀である。(これを)知らず、単伝していない者は、あわれむべきである。
語注
- 居士:宗務庁版英訳の注は、字義は「(家に)住む士」のような意で、ふつうは仏教の教団に積極的にかかわる在家者をいい、多くは五戒を保つことが求められ、女性は「女居士」という、とする。訳さずに残した。
- 未出家の士夫:まだ出家していない士夫(男子、ひとかどの人)。士夫は訳さずに残した。
- 庵居して夫婦そなはれる:庵に住み、夫婦そろっている。
- 孤独潔白:宗務庁版英訳の注は、独り身で、身の清いこととする。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 塵労稠林:煩悩(塵労)が茂った林のようにこみあっていること。宗務庁版英訳の注は、字義どおりには「塵と労の茂った林」という混じった喩えで、煩悩にとらわれた生死の世界にある衆生のふつうのありさまをいう語、とする。訳さずに残した。
- あきらむるところある:(仏法を)明らかにしたところがある。
- 雲衲霞袂:雲の衲衣、霞の袂(をまとう者)。宗務庁版英訳の注は、行脚の僧をいう文語的な言い方で、より一般的な「雲水」に近い、とする。訳さずに残した。
- 礼拝請益:礼拝して教えを請うこと。訳さずに残した。
- 出家の宗匠におなじ:出家の宗匠(師家)に対するのと同じである。
- 仏法の道理いまだゆめにもみざらん:仏法の道理をまだ夢にも見ていない者。第二回の【19】の廨院主のことば「仏法也未夢見在」と照応する。宗務庁版英訳の注も、第二回の十七僧へのことばの和文での言いかえとし、「百歳なる老比丘」は第二回の【1】の趙州の誓いを思い起こさせる、とする。
- 賓主の礼:客と主人としての礼。宗務庁版英訳は "the etiquette of guest and host" と訳す。
- 仏法を道取せん:仏法を道取する(言いあらわす)者。道取は訳さずに残した。
- 七歳の女流:宗務庁版英訳の注は、ここでも第二回の【1】の趙州の誓いを思い起こさせる、とする。
- 四衆:宗務庁版英訳の注は、(a) 比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、または (b) 比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼、を指しうる、とする。訳さずに残した。
- 衆生の慈父:衆生のいつくしみ深い父。本文の語のまま「慈父」とした(七歳の女流についても「慈父」と言う)(→読みの分かれるところ)。
- 竜女成仏:宗務庁版英訳の注は、『法華経』の、竜王の八歳の娘が、男子の身に変じて、ただちに成仏する、よく知られた話をいう、とする。訳さずに残した。
- 供養恭敬:供養し、うやまうこと。訳さずに残した。
- 古儀:古来のならわし、しきたり。訳さずに残した。
- しらず、単伝せざらんは、あはれむべし:(これを)知らず、単伝していない者は、あわれむべきである。「しらず」を「単伝せざらん」と並べて「者」にかけた(宗務庁版英訳も同じ)。単伝(ひとすじに正しく伝えること)は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 七十五巻本との境目:宗務庁版英訳が拠る七十五巻本の本文は、この段落(「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし」)で終わり、そのあとに巻末題と奥書が置かれる。次の【6】からが七十五巻本にない部分(宗務庁版英訳の「Appendix」)にあたる。
帝位の女人と、阿羅漢となれる比丘尼#
【6】また、和漢(日本と中国)の古今に、帝位にあって女人である者がいた。その国土はみなこの帝王の所領であり、人はみなその臣となる。これは、(その)人をうやまうのではなく、位をうやまうのである。比丘尼もまた、その人をうやまうということは、昔からない。ひとえに得法をうやまうのである。また、阿羅漢となった比丘尼がいるならば、四果にともなう功徳がみなやって来る。功徳は(たしかに)なおともなう。人天のうち、だれが四果の功徳よりもすぐれていようか。三界の諸天も、みな及ぶところではない。ことごとく捨てる者となる(のであって)、諸天がみなうやまうところである。まして、如来の正法を伝来し、菩薩の大心をおこした者を、だれがうやまわないことがあろうか。これをうやまわない者は、自分のあやまちである。自分が無上菩提をうやまわないのであれば、謗法の愚痴である。
語注
- 和漢の古今:日本と中国の、昔と今。宗務庁版英訳の注は、道元禅師の時代には中国にも日本にも女性の帝王はいなかったので、「古今」は「歴史を通じて」の意に取るべきであるとし、日本では592年から770年までのあいだに七人もの女性が天皇として在位し、中国ではよく知られた武則天(在位690–705)が短いあいだ治めた、とする。
- 帝位にして女人あり:帝位にあって、女人である者がある。
- 所領:治める領地。
- 人、みなその臣となる:人はみなその臣下となる。
- 人をうやまふにあらず、位をうやまふなり:(その)人そのものをうやまうのではなく、位をうやまうのである。
- 比丘尼もまたその人をうやまふことは、むかしよりなし、ひとへに得法をうやまふなり:比丘尼についても、その人(個人)をうやまうということは昔からなく、ひとえに(その比丘尼の)得法をうやまうのである。宗務庁版英訳は「比丘尼も昔から個人としてうやまわれたのではなく、ひとえにその得法がうやまわれてきた」と訳す。
- 阿羅漢となれる比丘尼のあるには:阿羅漢となった比丘尼がいるならば。阿羅漢は訳さずに残した。
- 四果にしたがふ功徳:四果(阿羅漢果)にともなう功徳。四果・功徳は訳さずに残した。
- 功徳なほしたがふ:功徳はなお(たしかに)ともなう。宗務庁版英訳の注は、「なほ」を「たしか」の意に取る、とする(→読みの分かれるところ)。
- 三界の諸天:三界(欲界・色界・無色界の迷いの世界)の天の神々。宗務庁版英訳の注は、「三界」を生死の三重の世界とする。三界・諸天は訳さずに残した。
- しかしながらすつるものとなる:ことごとく(三界を)捨てる者となる。宗務庁版英訳の注は、生死の世界を捨てて涅槃に入る阿羅漢をいうのであろうとし、「すっかり捨てられた者となる」と読む人もある、とする。「しかしながら」を「すべて、ことごとく」の意に取った。宗務庁版英訳はこの句と次の句をつなげて「すべてを捨てる者は、諸天がみなうやまう」と訳す(→読みの分かれるところ)。
- 如来の正法を伝来し、菩薩の大心をおこさん:如来の正法を伝え来たり、菩薩の大心(大いなる菩提心)をおこした者。菩薩の大心は訳さずに残した。
- おのれがをかしなり:自分のあやまち(罪)である。
- おのれが無上菩提をうやまはざれば:自分が無上菩提をうやまわないのであれば。「おのれが」を主格に取った。「自分の(身にそなわる)無上菩提をうやまわない」と、「が」を連体に取る読みもありうる(→読みの分かれるところ)。
- 謗法の愚痴:法をそしる愚か者。謗法は訳さずに残した。
わが国の后宮・院号と僧侶#
【7】また、わが国には、帝者のむすめ、あるいは大臣のむすめで、后宮に準ずる者があり、また皇后で院号をうけた者がある。これらの人には、髪をそっている者もあり、髪をそっていない者もある。それなのに、貪名愛利の、比丘僧に似た僧侶が、この家門に走りよって、頭をはきものに打ちつけない(はきものに額をつけて拝まない)ということがない。(そのありさまは)主従よりもなお劣っている。まして、また奴僕となって年を経る者も多い。あわれなことよ、小国辺地に生まれたために、このようなことが邪風であるとも知らないことは。天竺・唐土には、いまだ(このようなことは)ない。わが国だけのことである。かなしむべきである。しいて鬢髪をそっておきながら、如来の正法をやぶる。深重の罪業というべきである。これはひとえに、夢幻空華の世途を忘れるために、女人の奴僕として繋縛されているのであって、かなしむべきである。
語注
- 帝者のむすめ、あるひは大臣のむすめの、后宮に準ずる:天皇のむすめ、あるいは大臣のむすめで、后宮(きさき)に準ずる(扱いを受ける)者。宗務庁版英訳は "who have served as imperial consorts" と訳す。
- 皇后の院号せる:皇后で院号をうけた者。宗務庁版英訳の注は、「院」の号は、朝廷を退いて仏門に入った皇族に与えられた、とする。院号は訳さずに残した。
- かみをそれるあり、かみをそらざるあり:髪をそっている(出家している)者もあり、そっていない者もある。
- 貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶:名をむさぼり利を愛する、比丘僧に似た僧侶。宗務庁版英訳の注は、「比丘僧に似たる僧侶」は、比丘僧の名にふさわしくない僧を皮肉って言うのであろう、とする。「貪名愛利の」が「比丘僧」にかかるか「僧侶」にかかるかは原文の形からは決まらない。訳文は「僧侶」にかけた(→読みの分かれるところ)。
- この家門にはしる:これらの家に走りよる、出入りする。
- かうべをはきものにうたずといふことなし:頭をはきものに打ちつけないということがない(必ずはきものに額をつけて拝む)。宗務庁版英訳の注は、女人の足もとにぬかずくこと、とする。
- なほ主従よりも劣なり:主人と従者の間柄よりも、なお卑しい。
- 奴僕:召し使い、しもべ。本文の語のまま残した。
- 小国辺地:宗務庁版英訳の注は、仏教世界の辺境にある取るに足りない国の意で、道元禅師の時代の日本の仏教者が日本をいうのによく用いた言い方、とする。訳さずに残した。
- うまれぬるに:生まれたので(生まれたために)。
- かくのごときの邪風ともしらざる:このようなことが邪風(よこしまな風習)であるとも知らない。邪風は訳さずに残した。
- 天竺・唐土:インド・中国。宗務庁版英訳の注は、「唐土」は、中国をもっとも強大であった王朝の名でいう語、とする。訳さずに残した。
- 我国のみなり、かなしむべし:わが国だけのことである。かなしむべきである。「かなしむべし」を前に付けて訳した。句の切り方によっては、「かなしむべし」が後の「あながちに……やぶる」を受けるようにも読める(→読みの分かれるところ)。
- あながちに鬢髪をそりて:しいて(ことさらに)鬢髪(びんの髪、頭髪)をそって(出家しておきながら)。宗務庁版英訳は "Willfully" と訳す。「あながちに」を、わざわざ、むりに、ひたすら、のどの意に取るかで含みが変わる(→読みの分かれるところ)。
- 深重の罪業:深く重い罪業。訳さずに残した。
- 夢幻空華の世途をわするるによりて:夢幻空華(夢・まぼろし・空中の花のようにはかない)の世途(世わたり)を忘れるために。宗務庁版英訳の注は、「空華」は病んだ目に見える斑点で、実体のない見かけだけのものをいう仏典の通例の喩え、「世途」は世わたり、世の中での暮らしの道、とする。宗務庁版英訳は「世途が夢幻空華であることを忘れているために」と訳す。訳文は原文の語順のまま「夢幻空華の世途を忘れる」とした(→読みの分かれるところ)。
- 女人の奴僕と繋縛せられたる:女人の奴僕として繋縛されている(しばりつけられている)。繋縛は訳さずに残した。
- この段落の話は、第四回の【1】のはじめ(「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。……」)に続く(宗務庁版英訳も、この段落から第四回の【1】の「……あまねからざるゆえなり。」までを一節とする)。
解説#
はじめに――第二回から今回へ#
これまでの流れ#
「礼拝得髄」の巻は、第三回に入ります。
この巻は、
「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。」(第一回の【1】)
という言葉で始まりました。修行の時節には、導師に会うことがもっともむずかしい。その導師は、男女などの相によるのではない、と。巻の第一声から、すでに「男女」という言葉が出ていたことを、まず思い起こしておきたいと思います。
第一回では、法をおもくする志について、
「いはく、法をおもくするは、たとひ露柱なりとも、たとひ燈籠なりとも、たとひ諸仏なりとも、たとひ野干なりとも、鬼神なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髄を汝得せるあらば、身心を牀座にして、無量劫にも奉事するなり。」(第一回の【5】)
と示されました。そして、「不聞仏法の愚痴のたぐひ」が、「われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず」「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」(第一回の【7】)などと言うありさまが、一つ一つ挙げられていました。
第二回では、趙州の「たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われかれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれををしふべし。」(第二回の【1】)という発足行脚のときの言葉、臨済と末山了然の二人を「爺」「嬢」として法を得た志閑禅師の話、そして、仰山の会下で廨院主となった妙信尼が、蜀から来た十七人の僧を導いた話が読まれました。第二回の範囲の結びには、
「しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。」(第二回の【24】)
という言葉が置かれていました。住持や半座の職が空いたときには、得法した比丘尼を請じなさい。比丘で高年の宿老であっても、得法していないのならば、何の用があろう。大衆の主人となる者は、かならず明眼によらなければならない、と。
今回の範囲は、この言葉を「しかあるに」(ところが)と受けて始まります。
今回読むところ#
今回は、「しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは」(【1】)から、「女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。」(【7】)までを読みます。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。
- 【1】 村人の身心に沈溺せらんは
- 【2】 誠感の至神
- 【3】 大宋国の比丘尼の上堂
- 【4】 得法せらんは古仏なり――得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ
- 【5】 居士と七歳の女流
- 【6】 帝位の女人と、阿羅漢となれる比丘尼
- 【7】 わが国の后宮・院号と僧侶
この回の中心は、【4】の結びに置かれた、
「ただし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」(【4】)
という言葉です。今回の範囲のほかの段落は、この一句を、さまざまな方向から照らしている、と受けとめることができるでしょう。
七十五巻本の本文と、本山版の本文#
今回の範囲には、本文の伝わり方にかかわる一つの境目があります。
宗務庁版英訳の解題によれば、この巻は七十五巻本では第二十八の巻にあたり、六十巻本には収められておらず、『秘密正法眼蔵』に、およそ二倍の長さの形で収められているとされます。本山版(九十五巻本)は、その増えた部分を含む形で、この巻を第八としています。宗務庁版英訳は、河村本にならって、七十五巻本の本文を【5】の終わり「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし。」までとし、そのあとに七十五巻本の巻末題と奥書を置いて、【6】の「また、和漢の古今に」以下を付録(Appendix)として訳しています。
同じ解題は、増えた部分をもとの本文に後から書き加えたものとみるよりも、七十五巻本を編む際にその部分を削った草稿とみるほうがよいだろう、としています。
本書の底本である本山版では、本文はここで切れることなく、そのまま続いていきます。本書では、本山版の本文として、【6】以下も前の段落と一つながりに読んでいきます。ただ、【6】【7】、そして次回の第四回・第五回の全体が、七十五巻本には見えない部分にあたる、ということは、心にとめておいてよいでしょう。
読みの分かれる箇所では、訳文の読みに沿って説きながら、一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示します。そのうえで、曹洞宗の宗門で大切にされてきた坐禅と日々の修行のなかで、これらの言葉をどう受けとめることができるかを考えていきたいと思います。
村人の身心に沈溺せらんは(【1】)#
かたくなにして、世俗にもわらひぬべき#
「しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや仏法には、いふにたらず。」(【1】)
ところが、村人の身心に沈みおぼれている者は、かたくなで、世俗においても笑われるにちがいないことが多い。まして仏法においては、言うに足りない、と。
前の段落で、得法した比丘尼を請ぜよ、為衆の主人はかならず明眼によれ、と言われたことを受けて、「しかあるに」――ところが、そうはならない、という向きで話が始まります。
「村人の身心に沈溺せらん」をどう受けとめるかには幅があります。宗務庁版英訳の注は、おそらく「素朴な村人の身心をもつ」という意味であろうとし、「村人の(ような)身心の見方をもつ」と取る説もある、としています。また同じ注は、ここで言いあらわされていない主語を、前の文の「為衆の主人」と見ています。訳文は主語を補いませんでした。前の文の為衆の主人、つまり寺院で大衆の上に立つ者のことと受けとめることもできますし、もう少し広く、そのような考えにとらわれている人々一般のことと受けとめることもできるでしょう。
どちらの読みを取るにしても、本文が問題にしているのは、狭い見方にしずみこんで、かたくなになっている身心のありようです。そのかたくなさは、仏法の道理に照らすまでもなく、世俗の目から見ても笑われるようなものだ、と言われます。
女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬する#
「また女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、学せざるゆえに、畜生にはちかく、仏祖にはとほきなり。」(【1】)
この一文は、今回の範囲のなかでも、とくに読みの分かれるところです。
まず、「姉姑」という語があります。宗務庁版英訳の注は、比丘尼をいう敬称に、同じ音の「師姑」という語があることを記しています。「姉姑」を字のとおりに、姉やおばなど身内の女性と受けとめることもできますし、比丘尼を指すと受けとめることもできます。訳文は字のまま「姉姑」と残しました。
次に、文の組み立てがあります。宗務庁版英訳の注は、この文は読みの分かれるところであるとして、二つの読みを挙げています。一つは、はじめの「の」を主語を示すものと取り、「女人や師姑が伝法の師僧を拝することを、肯わない者もあろう」と読むもの。もう一つは、「の」を「〜である」とつなぐものと取り、「女人や師姑である伝法の師僧を拝することを肯わない者もあろう」と読むものです。同じ注は、後の読みのほうが文脈には合うようだが、文としては取りにくい、としています。訳文は、宗務庁版英訳の読みに従い、女人や姉姑などが伝法の師僧を拝することを、肯わない(認めまい)とする者もあろう、と訳しました。ほかに、「女人および姉姑等の」を「擬する」の主語と取って、女人や姉姑などが自ら伝法の師僧を拝そうとしない、と読むこともできます。
この三つの読みでは、文の向きがかなり違ってきます。訳文の読み、女人や姉姑が師を拝することを(だれかが)認めまいとする、という読みでは、女性が法を求め、師を拝することをさまたげる人のことが言われていることになります。女人や姉姑である伝法の師を拝もうとしない、という読みでは、前の段落の「比丘尼の得法せらんを請ずべし」をそのまま受けて、女性の師を拝しようとしない者のことが言われていることになります。女人や姉姑が自ら師を拝もうとしない、という読みでは、女人や姉姑自身のことが言われていることになります。
本書の訳は宗務庁版英訳の読みによりましたが、ほかの読みも成り立つので、読みの幅として残しておきます。ただ、どの読みを取っても、すぐあとに置かれた判断は変わりません。
「これはしることなく、学せざるゆえに、畜生にはちかく、仏祖にはとほきなり。」
これは、知ることがなく、学ばないためであって、畜生には近く、仏祖には遠いのである、と。「畜生」は、鳥獣など人以外の生き物をいう語で、訳文でも言いかえずに残しました。強い言葉です。ここで本文がその理由として挙げているのは、「しることなく、学せざる」こと――仏法を知らず、学ばないままでいることである、という点に、目をとめておきたいと思います。法を知らず学ばないことが、人を仏祖から遠ざける。この判断は、第一回で「不聞仏法の愚痴のたぐひ」(第一回の【7】)と言われたことと、同じ向きのものと受けとめることができるでしょう。
誠感の至神(【2】)#
「一向に仏法に身心を投ぜんことを、ふかくたくはふるこころとせるは、仏法かならず人をあはれむことあるなり。おろかなる人天、なほまことを感ずるおもひあり。諸仏の正位、いかでかまことに感応するあはれみなからん。土石沙礫にも、誠感の至神はあるなり。」(【2】)
ひたすら仏法に身心を投じようということを、深くたくわえる心としている者には、仏法はかならずその人をあわれむことがある。愚かな人天でさえ、なお誠に感じる思いがある。諸仏の正位が、どうして誠に感応するあわれみをもたないことがあろうか。土・石・砂・小石にも、誠感の至神はあるのである、と。
前の【1】で、知らず学ばない者のことが言われたあと、ここでは向きが変わり、仏法に身心を投じようとする者の心が取り上げられます。
この段落は、第一回で読んだ言葉を思い起こさせます。
「髄をうること、法をつたふること、必定して至誠により、信心によるなり。」(第一回の【4】)
髄を得ること、法を伝えることは、かならず至誠により、信心による、と。そこでは、法を得るかどうかは、求める者の至誠と信心にかかっている、と示されていました。この【2】は、その至誠に、仏法の側からかならず応えるものがある、ということを言っている、と受けとめることができるでしょう。
「諸仏の正位」の「正位」を、諸仏の正しい位、仏の位そのもの、と受けとめることもできますし、正しい位にある諸仏、と受けとめることもできます。
「土石沙礫にも、誠感の至神はあるなり」の「誠感の至神」も、読みの幅のある言葉です。訳文は、誠に感応するこの上なく霊妙なはたらき、という向きで残しました。宗務庁版英訳は「誠に動かされる霊(a spirit moved by sincerity)」と訳しています。
土や石や砂や小石にも、誠に感じるものがある。この言葉は、第一回の、
「しかあれば、若樹・若石も、とかましとねがひ、若田・若里も、とかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。」(第一回の【7】)
という言葉と、響きあっているように思われます。木にも石にも、法を説いてほしいと願い求め、露柱にも問い、牆壁にも参究せよ、と。法を求める誠があるところでは、木も石も、法を説くものとなる。そうであるならば、法を求める者が、相手が女人であるか男子であるかによって、拝したり拝さなかったりすることには、どれほどの意味があるでしょうか。【2】は、表だってそう言っているわけではありませんが、【1】と【3】のあいだに置かれていることで、そのような問いを読む者に向けている、と受けとめることもできるでしょう。
大宋国の比丘尼の上堂(【3】)#
「見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺にて上堂す。住持以下衆僧みな上参して、立地聴法するに、問話も比丘僧なり。これ古来の規矩なり。」(【3】)
現在、大宋国の寺院に掛搭している比丘尼が、もし得法の評判があって、官家から尼寺の住持に任ずるという詔をたまわったときには、その寺で上堂する。住持以下の衆僧はみな法堂に上がって、立ったまま法を聴き、問いを発するのも比丘僧である。これが古来の規矩である、と。
ここで道元禅師は、宋の国の寺院で実際に行われているならわしを示されます。
「上堂」は、住持が法堂に上がって大衆に法を説くことです。宗務庁版英訳の注は、「立地聴法」は師の正式の説法のあいだ立って聴く作法をいう定まった句であり、「問話」は正式の上堂のときに住持に向けて発せられる問いである、としています。
つまり、ここに描かれているのは、比丘尼が法堂の上で法を説き、住持をはじめとする比丘僧たちが、立ったままその法を聴き、比丘僧が比丘尼に向かって問いを発する、という光景です。そしてそれが、宋の寺院では「古来の規矩」――昔からのきまり――である、と言われます。
「即寺にて上堂す」の「即寺」は、読みの分かれるところです。宗務庁版英訳の注は、その比丘尼が籍をおいている寺の法堂で説法すること、としています。また、住持に任じられた、その尼寺で上堂する、と受けとめることもできますし、「即ち寺にて」と、ただちに、という副詞のように受けとめることもできるでしょう。どの寺で上堂するのかという点は決めずにおきますが、比丘尼が上堂し、比丘僧がそれを聴く、という点は、どの読みでも変わりません。
前の第二回では、仰山の会下で妙信尼が廨院主に選ばれ、十七人の僧が礼拝して法を請うた話が読まれました。それは一つの出来事として語られていました。この【3】では、それが宋の寺院の「古来の規矩」として示されています。得法の比丘尼の上堂に比丘僧が上参し、立ってその法を聴くことは、特別なできごとではなく、寺院のならわしとして行われていることだ、と。
得法せらんは古仏なり(【4】)#
一箇の真箇なる古仏#
「得法せらんは、すなはち一箇の真箇なる古仏にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず。」(【4】)
得法している者は、すなわち一箇の、まことの古仏であるから、むかしの誰それとして相見してはならない、と。
「古仏」という言葉について、宗務庁版英訳の注は、ふつうは過去七仏や、禅の系譜のなかでもっとも尊ばれる師に限って用いられる尊称であり、それを、比丘尼を含め、得法した者だれにでも当てはまるとしているのは、目をひく主張である、としています。
本文は、ここで比丘尼に限って言っているのではありません。「得法せらんは」――得法している者は、だれであれ、と言います。そして、前の【3】で比丘尼の上堂が語られたすぐあとに、この言葉が置かれています。得法した比丘尼もまた、一箇の真箇の古仏である。本文の流れからは、そのように受けとめることができるでしょう。
むかしのたれにて相見すべからず#
「むかしのたれにて相見すべからず」も、受けとめ方に幅があります。訳文は、得法する以前のその人の姿――むかしの誰それ――として相見してはならない、と取りました。宗務庁版英訳も同じ向きに訳しています。かつてはどこそこの誰それであった、女人であった、年少であった、そういう昔の姿で見てはならない、ということになります。ほかに、昔の誰(ある古仏)と比べて相見してはならない、と受けとめる読みも考えられます。
続く二句は、
「かれ、われをみるに、新條の特地に相接す。われ、かれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。」(【4】)
です。彼がわたしを見るときは、まったく新たな場で、ことさらに相接する。わたしが彼を見るときは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しでは「今日は須らく今日に入るべし」という相待であるべきだ、と。
宗務庁版英訳の注は、「新條特地」は『正法眼蔵』に何度か出る句であるとし、「今日須入今日」は、ふつうには「現在に基づくかかわり」の意に取られるとしたうえで、「須入」は「入るべし」と読まれるのがふつうだが、英訳では「用いる」の意に取った、と記しています。訳文は活字本の読み下しに従いました。
読みの細かなところは開いておきますが、二句の向きは、前の「むかしのたれにて相見すべからず」とひと続きのものと受けとめることができるでしょう。得法の人と向きあうとき、その出会いは、昔の姿をもちこんだ出会いではなく、いまここで新たに相接する出会いである。今日は、今日として向きあう。本文が直接に言っているのは「むかしのたれ」として見ないことですが、前後の流れからは、過去の身の上や、男女の相や、年の多少をもちこんで人を見ることを退けている、と受けとめることができるでしょう。
比丘尼、この礼拝をうくべし#
「たとへば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果支仏および三賢十聖もきたりて礼拝問法せんに、比丘尼、この礼拝をうくべし。男児なにをもてか貴ならん。」(【4】)
たとえば、正法眼蔵を伝持している比丘尼には、四果・支仏や三賢十聖も来て礼拝し法を問うであろうが、比丘尼はこの礼拝を受けるべきである。男児が、何をもって貴いというのか、と。
宗務庁版英訳の注は、「四果支仏および三賢十聖」を、声聞・縁覚・菩薩の三乗の者をいうとしています。仏道を歩む、それぞれの道の高い位にある者たちです。
ここで思い起こしたいのは、第一回で挙げられていた「不聞仏法の愚痴のたぐひ」の言葉の一つです。
「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」(第一回の【7】)
自分は三賢十聖である、たとえ得法していても比丘尼などを礼拝すべきではない、と。この【4】の言葉は、それにまっすぐに答えているように読めます。三賢十聖であっても、正法眼蔵を伝持する比丘尼のもとに来て礼拝し法を問うのであり、比丘尼はその礼拝を受けるべきである、と。また第二回の結びでは、妙信尼が十七僧を導いたことが「まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず、仏祖嫡嫡の道業なり。」(第二回の【23】)と言われていました。
「比丘尼、この礼拝をうくべし」――受けるべきである、と言われていることにも、目をとめておきたいと思います。礼拝する側だけでなく、礼拝される側の比丘尼にも、その礼拝を受けよ、と言われています。得法の者が礼拝を受けることもまた、法を重んじるありかたの一つである、と受けとめることができるでしょう。
そして、「男児なにをもてか貴ならん」。男児であることの、何が貴いというのか。男であるということは、貴さのよりどころにはならない、という問いかけです。
虚空は虚空なり、女流もまたかくのごとし#
「虚空は虚空なり、四大は四大なり、五蘊は五蘊なり、女流もまたかくのごとし。得道はいづれも得道す。」(【4】)
虚空は虚空であり、四大は四大であり、五蘊は五蘊である。女流もまた、このようである。得道は、いずれも得道する、と。
宗務庁版英訳の注は、「四大」を地・水・火・風、「五蘊」を色・受・想・行・識、身心を成り立たせる要素としています。
この句は、句の切り方によって、読みの流れが少し変わります。本書は、「五蘊は五蘊なり、女流もまたかくのごとし。」と、ここで文を閉じて読みました。この読みでは、虚空が虚空であり、四大が四大であり、五蘊が五蘊であるように、女流もまた女流としてそのとおりにある、ということになります。一方、句の切り方によっては、「女流もまた同じように、得道はいずれも得道する」と、後ろへ続けて読む流れも考えられます。読みは分かれうることを申し添えておきます。
どちらの読みを取っても、ここで並べられているものに、目をとめておきたいと思います。虚空、四大、五蘊。どれも、男とも女とも分けられないものです。五蘊は、男の身心も女の身心も同じく成り立たせている要素です。その並びに「女流」が置かれ、そして「得道はいづれも得道す」と続きます。得道は、だれであれ、得道する。男子だから得道し、女人だから得道しない、ということはない。そう言われていると受けとめることができるでしょう。
得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ#
そして、今回の範囲の中心となる一句が置かれます。
「ただし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」(【4】)
ただ、いずれも得法を敬重すべきであって、男女を論じてはならない。これが仏道の極妙の法則である、と。
「ただし」は、訳文では「ただ、ひたすら」の意に取りましたが、「しかしながら」と、前を受けて向きを転じる言葉と取ることもできます。「ただ、ひたすら」と取れば、得道はいずれも得道する、だから、ただひたすら得法を敬重せよ、という流れになります。「しかしながら」と取れば、得道はいずれも得道する、けれども(そこで男女を言い立てるのではなく)、得法を敬重せよ、という流れになるでしょう。どちらにしても、行き着くところは「得法を敬重すべし」です。
この一句を、本文に即して丁寧に見てみましょう。
まず、敬重されるのは「得法」です。人が敬重されるのは、男であるからでも、女であるからでもなく、年が多いからでも少ないからでもなく、得法しているからである。「いづれも」――男であっても女であっても――得法を敬重せよ、と言われます。
次に、「男女を論ずることなかれ」です。得法を敬重するときに、その人が男か女かを論じてはならない。敬重するかどうかを決めるのに、男女を持ち出してはならない、ということです。
そして、それが「仏道極妙の法則」――仏道の、この上なくすぐれた法則である、と言われます。たんなる心がけや、場合によって変わる慣習としてではなく、仏道の法則として示されていることに、重みがあります。【3】で、宋の寺院で比丘尼の上堂を比丘僧が立って聴くことが「古来の規矩」と言われていたことと、あわせて受けとめることができるでしょう。
ここで、気をつけておきたいことがあります。この一句を読むと、私たちはつい、いまの時代の言葉に置きかえて、「道元禅師は男女平等を説いた」とまとめたくなるかもしれません。けれども、本文が言っていることは、本文の言葉のとおりに受けとめておきたいと思います。本文が示しているのは、だれを敬重し、だれに礼拝し、だれに法を問うか、そのよりどころは得法にあって、男女にあるのではない、ということです。【6】で、人をうやまうのではなく得法をうやまうのだ、と言われるように、ここでの言葉は、あくまで仏道における敬重と礼拝のよりどころを示す言葉です。
そのうえで、この言葉を、いまを生きる私たちが、人を見るときに、その人の男女の別によって軽んじたり重んじたりしないことへの戒めとして受けとめることもできるでしょう。ただし、それは本文の言葉を私たちの暮らしに引きよせた受けとめ方の一つであって、本文がそのまま言っていることとは区別しておきたいと思います。
居士と七歳の女流(【5】)#
居士の得法と、出家の宗匠#
「また、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、また孤独潔白なるもあり。なほ塵労稠林といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて礼拝請益すること、出家の宗匠におなじ。」(【5】)
また、宋の国で居士というのは、まだ出家していない士夫である。庵に住んで夫婦そろっている者もあり、独り身で清らかな者もある。(どちらも)なお塵労稠林の中にあるといってよい。けれども、明らかにさとったところがある者には、雲衲霞袂――行脚の僧たち――が集まって礼拝し教えを請うこと、出家の宗匠に対するのと同じである、と。
宗務庁版英訳の注は、「居士」はふつう仏教の教団に積極的にかかわる在家者をいい、女性は「女居士」という、としています。また、「塵労稠林」は、煩悩にとらわれた生死の世界にある衆生のふつうのありさまをいう語、としています。
在家であること、夫婦のあること、それは、ここでは「塵労稠林」と、はっきり言われています。けれども、「しかあれども」――それでも、明らかにしたところのある者には、出家の僧たちが集まって礼拝し、教えを請う。それは出家の宗匠に対するのと同じである、と言われます。ここでも、礼拝のよりどころは、出家か在家かではなく、「あきらむるところある」こと、つまり得法にある、ということが示されています。
この言葉は、弁道話の問答を思い起こさせます。在俗の男女も坐禅の行をつとめるべきか、という問いに、道元禅師は、
「しめしていはく、祖師のいはく、仏法を会すること、男女・貴賎をえらぶべからず、ときこゆ。」(『弁道話』第七回の【6】)
と答えられ、さらに続く問答の中で、
「ただこれ、こころざしのあり・なしによるべし、身の在家・出家にはかかはらじ。」(『弁道話』第七回の【8】)
と示されていました。仏法を会することは、男女・貴賎をえらばない。ただ志のあるなしによるのであって、身が在家であるか出家であるかにはかかわらない、と。弁道話のこの言葉と、礼拝得髄の【5】とは、同じ向きを指していると受けとめることができるでしょう。
たとひ女人なりとも、畜生なりとも#
「たとひ女人なりとも、畜生なりとも、またしかあるべし。」(【5】)
たとえ女人であっても、畜生であっても、またそうであるべきである、と。
明らかにしたところがあるならば、女人であっても、畜生であっても、同じように礼拝し教えを請うべきである。第一回でも、「たとひ野干なりとも、鬼神なりとも、男女なりとも、大法を保任し、吾髄を汝得せるあらば」(第一回の【5】)と言われ、天帝釈が野干を師として礼拝問法した話が挙げられていました(第一回の【7】)。
【1】では、知らず学ばない者が「畜生にはちかく」と言われていました。ここでは、畜生であっても、明らかにしたところがあれば礼拝すべきだ、と言われます。同じ「畜生」という言葉が、まったく違う向きで用いられていることになります。この巻では、身の上が何であるかよりも、法を知り、学び、明らかにしているかどうかが問われている、ということが、この二つの用い方からもうかがえるように思われます。
百歳なる老比丘と、七歳の女流#
「仏法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず、うやまふべからず、ただ賓主の礼のみなり。」(【5】)
仏法の道理をまだ夢にも見ていない者は、たとえ百歳の老比丘であっても、得法の男女に及ぶはずがない。うやまうべきではなく、ただ賓主の礼だけである、と。
「仏法の道理いまだゆめにもみざらん」は、第二回で、妙信尼が十七人の僧に向けて言った「仏法也未夢見在」(第二回の【19】)と照応しています。宗務庁版英訳の注も、この句をその言葉の和文での言いかえとし、「百歳なる老比丘」は、第二回の趙州の誓いを思い起こさせる、としています。
ここで「うやまふべからず」と言われていることは、強い言葉に聞こえるかもしれません。けれども、本文はそのあとに「ただ賓主の礼のみなり」と続けています。客と主人としての礼は、つくすのです。礼をないがしろにせよ、と言っているのではありません。ただ、法を求める者として礼拝し教えを請う「うやまい」は、仏法の道理を夢にも見ていない者に向けるものではない、ということです。ここでもまた、うやまいのよりどころは、年の多さや比丘という身分ではなく、得法にある、と示されています。
「仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば竜女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。」(【5】)
仏法を修行し、仏法を道取する者は、たとえ七歳の女流であっても、すなわち四衆の導師であり、衆生の慈父である。たとえば竜女成仏のようなものである。(その人を)供養し恭敬することは、諸仏如来に対するのと等しくあるべきである。これがすなわち仏道の古儀である、と。
百歳の老比丘と、七歳の女流。第二回で読んだ趙州の言葉――「たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われかれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれををしふべし。」(第二回の【1】)――が、ここでもう一度、男女の別をふくめた形で響いています。宗務庁版英訳の注も、「七歳の女流」は趙州の誓いを思い起こさせる、としています。
「四衆」について、宗務庁版英訳の注は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、あるいは比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼を指しうる、としています。いずれにしても、出家の男女、在家の男女をふくめた仏弟子のすべてです。七歳の女流であっても、仏法を修行し道取するならば、その四衆の導師である、と言われます。
七歳の女流が「衆生の慈父」と言われていることについては、訳文でも本文の語のまま「慈父」と残しました。本文は、ここで「慈母」とは言いかえていません。そのことをどう受けとめるかは、本書では決めずにおきます。ただ、ここで「慈父」の語が、男女の別を論ずるなと言われたすぐあとの文脈のなかで、七歳の女流について用いられている、ということは、本文のとおりに見ておきたいと思います。
たとへば竜女成仏のごとし#
「竜女成仏」について、宗務庁版英訳の注は、『法華経』の、竜王の八歳の娘が、男子の身に変じて、ただちに成仏する、よく知られた話をいう、としています。
本文は、この話を「たとへば竜女成仏のごとし」と、一句で挙げるだけです。話の中身、たとえば男子の身に変じるという点について、本文は何も述べていません。本文の流れからは、年少の女流が仏法を修行し道取して、そのまま四衆の導師となることの、よく知られたたとえとして挙げられている、と受けとめるのが、すなおな読み方であるように思われます。その話のほかの点に、道元禅師がここでどのような思いを寄せておられたかは、本文からはわかりません。本書では、本文が述べている範囲で受けとめておきたいと思います。
そして、そのような人を供養し恭敬することは、「諸仏如来にひとしかるべし」――諸仏如来に対するのと等しくあるべきだ、と言われます。【4】で、得法の者は「一箇の真箇なる古仏」と言われていたことと、まっすぐにつながる言葉です。そしてそれは「仏道の古儀」――仏道の古くからのならわし――である、と。【3】の「古来の規矩」、【4】の「仏道極妙の法則」、そしてこの【5】の「仏道の古儀」。本文は、得法を敬い礼拝することを、くり返し、仏道に古くから定まったならわしとして示しています。
しらず、単伝せざらんは、あはれむべし#
「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし。」(【5】)
(これを)知らず、単伝していない者は、あわれむべきである、と。
訳文は、「しらず」と「単伝せざらん」を並べて、知らず、単伝していない者は、と取りました。宗務庁版英訳も同じ向きです。一方、「しらず」を独立させて、(このことを)知らないのだ、単伝していない者はあわれむべきである、と読むこともできるでしょう。
「単伝」は、ひとすじに正しく伝えることです。得法を敬い、男女を論じないことは、仏祖から仏祖へと正しく伝えられてきた古儀である。それを知らず、正しく伝えられていない者は、あわれむべきだ、と結ばれます。
さきに見たように、宗務庁版英訳が拠る七十五巻本の本文は、この一句で終わります。七十五巻本の形で読めば、この巻は、得法を敬い礼拝することは仏道の古儀であり、それを知らないことはあわれむべきである、という言葉で結ばれていることになります。
帝位の女人と、阿羅漢となれる比丘尼(【6】)#
ここから、七十五巻本にはない部分に入ります。本山版では、本文はそのまま続きます。
人をうやまふにあらず、位をうやまふなり#
「また、和漢の古今に、帝位にして女人あり。その国土、みなこの帝王の所領なり、人、みなその臣となる。これは、人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたその人をうやまふことは、むかしよりなし、ひとへに得法をうやまふなり。」(【6】)
また、日本と中国の昔と今に、帝位にあって女人である者がいた。その国土はみなこの帝王の所領であり、人はみなその臣となる。これは、人をうやまうのではなく、位をうやまうのである。比丘尼もまた、その人をうやまうということは昔からない。ひとえに得法をうやまうのである、と。
宗務庁版英訳の注は、道元禅師の時代には中国にも日本にも女性の帝王はいなかったので、「古今」は「歴史を通じて」の意に取るべきであるとし、日本では592年から770年までのあいだに七人もの女性が天皇として在位し、中国では武則天(在位690–705)が短いあいだ治めた、としています。
この段落では、たとえの向きに目をとめておきたいと思います。女人の帝王がいれば、人はみなその臣となる。それは、その人がだれであるかをうやまうのではなく、帝位という位をうやまうのである。同じように、比丘尼がうやまわれるのは、その人がだれであるかによるのではなく、ひとえに得法による、と言われます。
【4】で「得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ」と言われたことが、ここでは「人をうやまふにあらず」「ひとへに得法をうやまふなり」という形で、あらためて示されている、と受けとめることができるでしょう。比丘尼を敬うといっても、それは女人であるから敬うのでも、その人の身の上を敬うのでもない。男子の僧を敬う場合と同じく、うやまわれるのは得法である、ということです。
阿羅漢となれる比丘尼#
「また、阿羅漢となれる比丘尼のあるには、四果にしたがふ功徳みなきたる。功徳なほしたがふ、人天たれか四果の功徳よりもすぐれん。三界の諸天、みなおよぶところにあらず、しかしながらすつるものとなる、諸天みなうやまふところなり。」(【6】)
また、阿羅漢となった比丘尼がいるならば、四果にともなう功徳がみなやって来る。功徳はなおともなう。人天のうち、だれが四果の功徳よりもすぐれていようか。三界の諸天も、みな及ぶところではない。ことごとく捨てる者となる(のであって)、諸天がみなうやまうところである、と。
阿羅漢となった比丘尼には、四果にともなう功徳が、みな来る。比丘尼であるから功徳が欠ける、ということはない、という向きで受けとめることができます。
この段落には、読みの分かれるところがいくつかあります。「功徳なほしたがふ」の「なほ」を、宗務庁版英訳の注は「たしか」の意に取り、功徳はたしかにともなう、と読んでいます。また、女人であっても功徳はやはりともなう、という含みを読むこともできるでしょう。「しかしながらすつるものとなる」については、宗務庁版英訳の注は、生死の世界を捨てて涅槃に入る阿羅漢をいうのであろうとし、「すっかり捨てられた者となる」と読む人もある、としています。訳文は、ことごとく(三界を)捨てる者となる、と取りましたが、三界の諸天も(阿羅漢には)すべて捨てられるものとなる、と受けとめる読みも考えられます。ここでは決めずにおきます。
おのれが無上菩提をうやまはざれば#
「いはんや如来の正法を伝来し、菩薩の大心をおこさん、たれのうやまはざるかあらん。これをうやまはざらんは、おのれがをかしなり。おのれが無上菩提をうやまはざれば、謗法の愚痴なり。」(【6】)
まして、如来の正法を伝え来たり、菩薩の大心をおこした者を、だれがうやまわないことがあろうか。これをうやまわない者は、自分のあやまちである。自分が無上菩提をうやまわないのであれば、謗法の愚痴である、と。
阿羅漢の比丘尼でさえ諸天がうやまうのであれば、まして如来の正法を伝え、菩薩の大きな心をおこした者を、うやまわない者がいるだろうか、と言われます。
そして、うやまわないことは「おのれがをかし」――自分のあやまちである、と言われます。得法の人をうやまわないことは、相手の問題ではなく、うやまわない自分の側のあやまちである、ということです。
「おのれが無上菩提をうやまはざれば」は、読みの分かれるところです。訳文は「おのれが」を主語と取り、自分が無上菩提をうやまわないのであれば、としました。一方、「が」を「の」と同じに取り、自分の(身にそなわる)無上菩提をうやまわないのであれば、と受けとめることもできます。前の読みでは、得法の人をうやまわないことは、その人の伝える無上菩提をうやまわないことであり、それは法をそしることになる、という流れになるでしょう。後の読みでは、得法の人をうやまわないことは、ひるがえって自分自身の無上菩提をうやまわないことになる、という、自分の側に向かう含みを読むことになるでしょう。本書では、どちらにも決めずにおきます。
わが国の后宮・院号と僧侶(【7】)#
后宮・院号の家門にはしる僧侶#
「また、わが国には、帝者のむすめ、あるひは大臣のむすめの、后宮に準ずるあり、また皇后の院号せるあり。これら、かみをそれるあり、かみをそらざるあり。しかあるに、貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶、この家門にはしるに、かうべをはきものにうたずといふことなし。」(【7】)
また、わが国には、天皇のむすめ、あるいは大臣のむすめで、后宮に準ずる者があり、また皇后で院号をうけた者がある。これらの人には、髪をそっている者もあり、そっていない者もある。それなのに、名をむさぼり利を愛する、比丘僧に似た僧侶が、この家門に走りよって、頭をはきものに打ちつけないということがない、と。
宗務庁版英訳の注は、「院」の号は、朝廷を退いて仏門に入った皇族に与えられた、としています。
この段落を読むときに、取り違えのないようにしておきたいことがあります。ここで批判されているのは、后宮や院号の女人たちではありません。批判の向けられている先は、「貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶」――名をむさぼり利を愛する、比丘僧に似た僧侶です。宗務庁版英訳の注は、「比丘僧ににたる僧侶」は、比丘僧の名にふさわしくない僧を皮肉って言うのであろう、としています。
「貪名愛利の」が、「比丘僧」にかかるのか、「僧侶」にかかるのかは、原文の形からは決まりません。訳文は「僧侶」にかけましたが、「貪名愛利の比丘僧」に似た僧侶、と受けとめることもできます。いずれにしても、名利を求めて権勢ある家に出入りする僧のありさまが言われていることに変わりはありません。
なほ主従よりも劣なり#
「なほ主従よりも劣なり、いはんやまた奴僕となりて、としをふるもおほし。あはれなるかな、小国辺地にうまれぬるに、かくのごときの邪風ともしらざることは。天竺・唐土にはいまだなし、我国のみなり、かなしむべし。」(【7】)
そのありさまは、主人と従者の間柄よりもなお卑しい。まして、また奴僕となって年を経る者も多い。あわれなことよ、小国辺地に生まれたために、このようなことが邪風であるとも知らないことは。天竺・唐土にはいまだない、わが国だけのことである、かなしむべきである、と。
宗務庁版英訳の注は、「小国辺地」は、仏教世界の辺境にある取るに足りない国の意で、道元禅師の時代の日本の仏教者が日本をいうのによく用いた言い方である、としています。
ここでも、【6】のたとえを思い起こしておきたいと思います。【6】では、女人の帝王を人々がうやまうのは「位をうやまふ」のであり、比丘尼をうやまうのは「ひとへに得法をうやまふ」のだ、と言われていました。この【7】の僧侶たちが頭を下げているのは、得法に対してではありません。家門の権勢に対して、名と利のために、頭を下げているのです。しかもそれは、主従の間柄よりも劣る、奴僕のようなありさまだ、と言われます。
「我国のみなり、かなしむべし。」は、「かなしむべし」を前に付けて読みました。句の切り方によっては、「かなしむべし、あながちに鬢髪をそりて……」と、後ろへ続けて読むこともできます。
あながちに鬢髪をそりて#
「あながちに鬢髪をそりて、如来の正法をやぶる、深重の罪業といふべし。これひとへに夢幻空華の世途をわするるによりて、女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。」(【7】)
しいて鬢髪をそっておきながら、如来の正法をやぶる。深重の罪業というべきである。これはひとえに、夢幻空華の世途を忘れるために、女人の奴僕として繋縛されているのであって、かなしむべきである、と。
「あながちに」は、わざわざ、むりに、ひたすら、などの意に取ることができ、どれを取るかで含みが少しずつ変わります。宗務庁版英訳は "Willfully"(ことさらに)と訳しています。いずれにしても、髪をそって出家の姿をとりながら、その身で如来の正法をやぶっている、ということが言われています。
「夢幻空華の世途をわするる」は、宗務庁版英訳では「世途が夢幻空華であることを忘れているために」と訳されています。世わたりの道は、夢・まぼろし・空中の花のようにはかないものである。そのことを忘れているために、と。訳文は原文の語順のまま「夢幻空華の世途を忘れる」としました。夢幻空華である世途にとらわれて、本分を忘れている、という含みを読むこともできるでしょう。
「女人の奴僕と繋縛せられたること」という言葉も、さきの批判の向きのなかで読む必要があります。本文の流れ(【7】の「貪名愛利」、第四回のはじめの「いたづらなる世途のため」)からは、ここで嘆かれているのは、女人に仕えることそのものではなく、出家の身でありながら、名利のために権勢ある家門の奴僕となり、そこにしばりつけられていることである、と受けとめることができるでしょう。【6】までで、得法の比丘尼を、七歳の女流であっても、諸仏如来と等しく供養恭敬すべきだと説いてきた本文が、ここでは、名利のために女人の家門に仕える僧を嘆いています。この二つは食いちがうものではありません。うやまうべきは得法であり、名利や権勢ではない、という一つの物差しが、どちらの場合にもあてられている、と受けとめることができるでしょう。
第四回へのつながり#
この【7】の話は、今回の範囲で終わるのではなく、次の第四回のはじめに続いています。底本ではここで段落が改まるので、本書ではここで回を分けましたが、第四回の冒頭は、
「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。無上菩提のため、なんぞ得法のうやまふべきをうやまはざらん。」(第四回の【1】)
という言葉です。むなしい世途のためにさえ、なおこのように(頭を下げ、奴僕となることまでも)する。それなのに、無上菩提のためには、どうして得法の、うやまうべき人をうやまわないのか、と。宗務庁版英訳も、この【7】から第四回の【1】の「……あまねからざるゆえなり。」までを、一つの節として訳しています。
つまり、この【7】の嘆きは、次の一句へ向かうためのものでした。名利のためならば、権勢ある家の女人の足もとに頭を打ちつけることさえいとわない。それなのに、無上菩提のためには、得法の比丘尼をうやまおうとしない。この落差を突きつけることで、本文は、もう一度「得法を敬重すべし」という一点へ、読む者を連れもどしているように見えます。その続きは、次回、第四回のはじめで読むことにします。
坐禅と日々の暮らしのなかで#
今回の範囲を、坐禅と日々の修行のなかで受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文が直接に坐禅について語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。
礼拝ということ#
この巻の名は「礼拝得髄」です。礼拝して、髄を得る。宗門の修行道場でも、寺院の法要でも、坐禅会でも、私たちは折々に合掌し、問訊し、礼拝します。
今回の範囲では、礼拝は、だれに向けるかが問われていました。得法の人に向けるのであって、男女や、年の多少や、出家・在家や、身分の高さに向けるのではない。そして、礼拝を受ける側の比丘尼にも、その礼拝を受けよ、と言われていました。
礼拝は、相手をうやまう形です。けれども、この巻の言葉に照らすならば、礼拝は、相手の身の上や立場に頭を下げることではなく、相手のうちにある法に頭を下げることだ、と受けとめることができるでしょう。そうであるならば、礼拝するたびに、自分はいま何に頭を下げているのか、とふり返ってみることも、修行の一つになるのではないでしょうか。
むかしのたれにて相見すべからず#
「得法せらんは、すなはち一箇の真箇なる古仏にてあれば、むかしのたれにて相見すべからず。」という言葉は、日々の暮らしのなかでも、心に置いておきたい言葉です。
私たちは、人を見るとき、その人の昔の姿や、肩書きや、男女の別や、年齢を、知らず知らずのうちにもちこんでいます。あの人は昔こうだった、あの人はまだ若い、あの人は女だから、男だから。そうした見方で、目の前の人の言葉を聞く前に、その人を決めてしまうことがあります。
本文は、得法の人について、昔の誰それとして見てはならない、今日は今日として向きあえ、と言いました。この言葉を、目の前の人を、そのつど新しく、いまのその人として見ることへの戒めとして受けとめることもできるでしょう。坐禅もまた、昨日の坐禅のつづきとしてではなく、今日の坐禅として坐る、と受けとめることができるならば、人と向きあうことも、それと同じように受けとめることができるかもしれません。
われは〜なり、という心#
第一回で挙げられた「不聞仏法の愚痴のたぐひ」は、みな「われは大比丘なり」「われは久修練行なり」(第一回の【7】)と、「われは〜なり」という形で語っていました。今回の【5】の「たとひ百歳なる老比丘なりとも」という言葉も、年の多さや比丘という身分にたのむ心を退けるものでした。
坐禅をつづけていると、年数を重ねたこと、作法に慣れたこと、役目をもったことが、いつのまにか「われは〜なり」という心になって、人を見る目をくもらせることがあるかもしれません。今回の範囲の言葉は、そのような心に向けられた言葉として、坐禅をする一人ひとりが、自分の身に引きよせて受けとめることができるでしょう。
坐禅会で#
坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけでなく、近くの寺院の坐禅会などで指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。坐禅会では、年齢も、男女も、仕事も、それまでの歩みも異なる人々が、同じ堂のなかで、同じように坐ります。坐禅の前後の合掌や礼拝も、指導する方の示すとおりに、一つ一つ丁寧に行ってみてください。隣に坐る人がだれであるかを問わず、同じく坐る人として向きあうこと。それもまた、「男女を論ずることなかれ」という言葉を、身をもって受けとめる一つのかたちと受けとめることができるかもしれません。
むすびに――得法を敬重すること#
今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。
前回の結び「比丘尼の得法せらんを請ずべし」を受けて、本文はまず、かたくなな身心にしずんで、女人や姉姑が伝法の師僧を拝することを認めまいとする者があることを挙げ、それは知らず学ばないためであって、仏祖から遠いと言いました(【1】)。そして、仏法に身心を投じようとする誠には、仏法がかならず応え、土石沙礫にさえ誠に感じる至神がある、と示しました(【2】)。
続いて、宋の寺院で、得法の比丘尼が上堂し、住持以下の比丘僧が立って法を聴き、問いを発することが「古来の規矩」であることが示され(【3】)、得法の者は一箇の真箇の古仏であって、昔の誰それとして見てはならない、正法眼蔵を伝持する比丘尼には三賢十聖も礼拝し、比丘尼はその礼拝を受けるべきである、と説かれました。そして、「得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。」と言われました(【4】)。
さらに、宋の居士の例、百歳の老比丘と七歳の女流の対比、竜女成仏のたとえによって、仏法を修行し道取する者は、七歳の女流であっても四衆の導師であり、諸仏如来と等しく供養恭敬すべきであり、それが仏道の古儀である、と示されました(【5】)。七十五巻本の本文は、ここで結ばれます。
本山版では本文が続き、女人の帝王をうやまうのが位をうやまうのであるように、比丘尼をうやまうのはひとえに得法をうやまうのであること、阿羅漢の比丘尼には四果の功徳がみなともなうこと(【6】)、そして、わが国で名利のために后宮・院号の家門に走り、奴僕のようになっている僧侶のありさまが嘆かれました(【7】)。
今回の範囲の要は、うやまいと礼拝のよりどころは得法にあり、男女にあるのではない、という一点にある、と受けとめることができるでしょう。本文は、そのことを、宋の寺院のならわし、古仏という言葉、居士や七歳の女流の例、帝位のたとえ、そして名利に走る僧への嘆きと、さまざまな方向から照らしていました。
次の第四回では、【7】から続く「いたづらなる世途のため、なほかくのごとくす。」(第四回の【1】)という言葉に始まり、法をおもくする志のあり方、そして、女流を貪婬の対象とのみ見る考えや、「ながく女人をみることなからん」と願を立てる僧のことが取り上げられていきます。
読みの分かれるところ#
この回の範囲でも、道元禅師の和文の一句一句に、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「また女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし」【1】
文の組み立てについて、三つの読みが考えられます。一つは、宗務庁版英訳の読みで、女人や姉姑が伝法の師僧を拝することを、(だれかが)認めまいとする、と読むもので、本書の訳はこれによっています。二つめは、「の」を「〜である」とつなぐものと取り、女人や姉姑である伝法の師僧を拝そうとしない、と読むもので、宗務庁版英訳の注は、文としては取りにくいが、文脈にはこの読みが合うようだ、としています。三つめは、「女人および姉姑等の」を「擬する」の主語と取り、女人や姉姑などが、自ら伝法の師僧を拝そうとしない、と読むものです。一つめでは女性が法を求め師を拝することをさまたげる人のことが、二つめでは女性の師を拝しようとしない者のことが、三つめでは女人や姉姑自身のことが言われていることになります。また「姉姑」も、字のとおり姉やおばなど身内の女性と取ることも、比丘尼を指すと取ることもできます。 -
「村人の身心に沈溺せらんは」【1】
宗務庁版英訳の注は、おそらく素朴な村人の身心をもつ、という意味であろうとし、村人の(ような)身心の見方をもつ、と取る説もある、としています。言いあらわされていない主語を、同じ注のように前回の結びの「為衆の主人」と取ることも、そのような考えにとらわれている人々一般と取ることもできます。 -
「諸仏の正位」「誠感の至神」【2】
「諸仏の正位」は、諸仏の正しい位(仏の位そのもの)とも、正しい位にある諸仏とも取れます。「誠感の至神」は、誠に感応するこの上なく霊妙なはたらき、と取るのが本書の訳ですが、宗務庁版英訳は「誠に動かされる霊」と、誠に感じる心の向きで訳しています。 -
「即寺にて上堂す」【3】
「即寺」を、比丘尼が籍をおいている寺と取るのが宗務庁版英訳の注です。住持に任じられたその尼寺と取ることも、「即ち寺にて」と副詞のように取ることもできます。どの読みでも、比丘尼が上堂し、比丘僧がそれを聴くという点は変わりません。 -
「むかしのたれにて相見すべからず」「今日須入今日の相待」「女流もまたかくのごとし」「ただし」【4】
「むかしのたれにて」は、得法する以前のその人の姿として、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きです。昔の誰(ある古仏)と比べて、と取ることも考えられます。「今日須入今日」は、本山版に拠る活字本に付けられた読み下し「今日は須らく今日に入るべし」に従いましたが、宗務庁版英訳は「須入」を「用いる」の意に取っています。「女流もまたかくのごとし」は、前の虚空・四大・五蘊を受けて文を閉じると取るのが本書の読みで、句の切り方によっては、後ろの「得道はいづれも得道す」へ続けて、女流もまた同じように得道する、と読む流れも考えられます。「ただし」は、ただ、ひたすら、と取るのが本書の訳ですが、しかしながら、と前を受けて向きを転じる言葉と取ることもできます。 -
「衆生の慈父」「しらず、単伝せざらんは、あはれむべし」【5】
七歳の女流について本文が「慈父」と言うことは、本書では本文の語のまま残し、どう受けとめるかは決めていません。「しらず」は、「単伝せざらん」と並べて、知らず、単伝していない者は、と取るのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きです。「しらず」を独立させて、(このことを)知らないのだ、単伝していない者はあわれむべきである、と読むこともできます。 -
「功徳なほしたがふ」「しかしながらすつるものとなる」「おのれが無上菩提をうやまはざれば」【6】
「なほ」は、宗務庁版英訳の注のように「たしか」の意に取ることも、女人であっても功徳はやはりともなう、という含みを読むこともできます。「しかしながらすつるものとなる」は、ことごとく(三界を)捨てる者となる、と取るのが本書の訳ですが、宗務庁版英訳の注は、すっかり捨てられた者となる、と読む人もあるとし、三界の諸天も(阿羅漢には)すべて捨てられるものとなる、と取る読みも考えられます。「おのれが」は、自分が無上菩提をうやまわないならば、と主語に取るのが本書の訳で、自分の(身にそなわる)無上菩提をうやまわないならば、と取ることもできます。 -
「貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶」「我国のみなり、かなしむべし」「あながちに」「夢幻空華の世途をわするる」【7】
「貪名愛利の」は、「僧侶」にかけるのが本書の訳ですが、「比丘僧」にかけて、貪名愛利の比丘僧に似た僧侶、と取ることもできます。「かなしむべし」は前に付けて読みましたが、句の切り方によっては、後ろの「あながちに鬢髪をそりて……」を受けるようにも読めます。「あながちに」は、わざわざ、むりに、ひたすら、などの意に取れます。「夢幻空華の世途をわするる」は、宗務庁版英訳のように、世途が夢幻空華であることを忘れる、と取ることも、夢幻空華である世途にとらわれて本分を忘れる、という含みを読むこともできます。どの読みでも、本文が批判しているのは、名利のために権勢ある家門に仕える僧侶であって、后宮・院号の女人たちではありません。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第八「礼拝得髄」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. II(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 本巻の諸本での位置と七十五巻本にない部分についての説明、「村人の身心」「姉姑」と【1】の文の読み、上堂・立地聴法・問話、古仏・新條特地・今日須入今日、四果支仏・三賢十聖・四大・五蘊、居士・塵労稠林・雲衲霞袂・四衆、竜女成仏、女人の帝王、三界・阿羅漢、院号・小国辺地・唐土・空華・世途についての説明と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。