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即心是仏(二)仏祖の即心是仏#

「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は」から巻の終わりまで、道元禅師がご自身の言葉で仏祖の即心是仏を説き示す七つの段落と、巻末題・奥書を読む、この巻の最終回です。

原文#

仏祖の保任する即心是仏#

【1】いはゆる仏祖の保任(ほにん)する即心是仏(そくしんぜぶつ)は、外道(げどう)・二乗のゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖(ゆいぶっそよぶっそ)のみ即心是仏しきたり、究尽(ぐうじん)しきたる。聞著(もんじゃく)あり、行取(ぎょうしゅ)あり、証著(しょうじゃく)あり。

【2】仏(ぶつ)、百草(ひゃくそう)を拈却(ねんきゃく)しきたり、打失(たしつ)しきたる。しかあれども、丈六の金身(こんじん)に説似(せつじ)せず。即(そく)、公案あり、見成(げんじょう)を相待(そうたい)せず、敗壊(はいえ)を廻避(かいひ)せず。是(ぜ)、三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。心(しん)、牆壁(しょうへき)あり、いまだ泥水せず、いまだ造作(ぞうさ)せず。あるひは即心是仏を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙(こ)して即心是仏に正伝(しょうでん)するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。

正伝しきたれる心#

【3】いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。このゆえに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土」。しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落(がいてんぼくらく)し、匝地裂破(そうちれっぱ)す。あるひは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。

【4】古徳云、「作麼生是妙浄明心、山河大地・日月星辰」。

【5】あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心(せんがだいちしん)は、山河大地のみなり、さらに、波浪なし、風煙なし。日月星辰心(じつげつせいしんしん)は、日月星辰のみなり、さらに、きりなし、かすみなし。生死去来心(しょうじきょらいしん)は、生死去来のみなり、さらに、迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心(しょうへきがりゃくしん)は、牆壁瓦礫のみなり、さらに、泥(でい)なし、水(すい)なし。四大五蘊心(しだいごうんしん)は、四大五蘊のみなり、さらに、馬(ば)なし、猿(えん)なし。椅子払子心(いすほっすしん)は、椅子・払子のみなり、さらに、竹(ちく)なし、木(ぼく)なし。かくのごとくなるがゆえに、即心是仏、不染汚(ふぜんな)即心是仏なり、諸仏、不染汚諸仏なり。

発心・修行・菩提・涅槃の諸仏#

【6】しかあればすなはち、即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那(せつな)に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ一極微(ごくみ)中に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも、即心是仏なり。しかあるを、長劫(ちょうごう)に修行作仏するは即心是仏にあらず、といふは、即心是仏をいまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師(しょうし)をみざるなり。

【7】いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。

巻末題#

正法眼藏即心是仏

奥書#

爾時延応元年五月二十五日、在雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆。

現代語訳#

段落番号【1】〜【7】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。仏教語・禅語・漢語(即心是仏(そくしんぜぶつ)・保任(ほにん)・外道(げどう)・二乗・究尽(ぐうじん)・聞著(もんじゃく)・行取(ぎょうしゅ)・証著(しょうじゃく)・百草(ひゃくそう)・拈却(ねんきゃく)・打失(たしつ)・丈六の金身(こんじん)・公案・見成(げんじょう)・三界・唯心・牆壁(しょうへき)・泥水・造作(ぞうさ)・参究・正伝(しょうでん)・一心・一切法・識得・蓋天・匝地・妙浄明心(みょうじょうみょうしん)・道取・四大五蘊・払子・不染汚(ふぜんな)・発心(ほっしん)・修行(しゅぎょう)・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)・修証・刹那(せつな)・極微(ごくみ)・劫・一念・作仏・開演・正師(しょうし)など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。「即心是仏」は巻名であり、この回では語そのものが参究の対象になる(【2】)ので、訳文でも訳さずに残しました。漢文の句は、語注に書き下しを示しました。【3】の「若人識得心、大地無寸土」と【4】の古徳の語の書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・句読点もそのままとしました。そのほかの句(唯仏祖与仏祖(ゆいぶっそよぶっそ)・一心一切法・奥書)の書き下しは本書の読みで、底本に付された訓ではありません。経典や語録をふまえる句は、宗務庁版英訳の注が述べる範囲で趣旨を示すにとどめ、経文・語録の本文は引いていません。読みの分かれる句には、訳文には一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。

【1】いわゆる仏祖が保任してきた(たもち、まもってきた)即心是仏は、外道・二乗が夢にも見ることのないものである。唯仏祖与仏祖(ただ仏祖と仏祖とだけ)が即心是仏してきたのであり、究尽してきた(究めつくしてきた)のである。(そこには)聞著があり、行取があり、証著がある。

語注

  • 保任:たもち、まもり、身にになうこと(第一回【1】の語注と同じ)。第一回【1】「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」を受ける。訳さずに残し、( )に意を添えた。
  • 外道:仏教以外の教え(とその人々)。宗務庁版英訳は "other paths" と訳し、仏教でない宗教(の見解)の意とする。ここでは第一回の先尼(せんに)外道(第一回【3】)を受ける。
  • 二乗:声聞(教えを聞いてさとる者)と縁覚(ひとりでさとる者)の二つの乗(あり方)。宗務庁版英訳は "the two vehicles" と訳し、注はない。
  • 唯仏祖与仏祖:書き下し(本書の読み)「唯だ仏祖と仏祖とのみ」。ただ仏祖と仏祖とだけ。宗務庁版英訳の注は、この言い方が、『正法眼蔵』にしばしば引かれる鳩摩羅什訳『法華経』の一節(ただ仏と仏とのみが諸法の実相を究め尽くすことができる、という趣旨)を思い起こさせる、とする。経文は補注に譲られており、ここでは引かない。続く「究尽」も、その一節と響き合う語と取った。
  • 即心是仏しきたり:即心是仏してきた。宗務庁版英訳の注は、道元禅師がここで「即心是仏す」という新しい動詞の形を作っている、とする。「即心是仏であってきた」「即心是仏を行じてきた」などとも訳せる。訳文は原文の形のまま「即心是仏してきた」とした(→読みの分かれるところ)。
  • 究尽:究め尽くすこと。宗務庁版英訳は「徹底して参究してきた(have been exhaustively investigating it)」と訳す。
  • 聞著・行取・証著:聞くこと、行ずること、証する(さとりをあかす)こと。「著」「取」は動詞につく助字と取った。宗務庁版英訳は「彼らには、それを聞くことがあり、それを行ずることがあり、それを証することがある」と、主語を仏祖として訳す。主語(仏祖か、即心是仏そのものか)は原文に示されていない(→読みの分かれるところ)。

【2】仏――百草を拈却してきており、打失してきている。しかしながら、丈六の金身として説似(せつじ)する(言いあらわす)ことはしない。即――公案があり、見成を相待(そうたい)せず(見成をまたず)、敗壊(はいえ)を廻避(かいひ)しない(やぶれこわれることを避けない)。是――三界があり、退出ではなく、唯心ではない。心――牆壁(かきね・かべ)があり、いまだ泥水せず、いまだ造作しない。あるいは「即心是仏」を参究し、「心即仏是」を参究し、「仏即是心」を参究し、「即心仏是」を参究し、「是仏心即」を参究する。このような参究が、まさしく即心是仏であり、これを挙(こ)して(とりあげて)即心是仏に正伝するのである。このように正伝して今日に至っている。

語注

  • 仏、…即、…是、…心、…:宗務庁版英訳の注は、道元禅師がここで「即心是仏」の四字の一字ずつに短い評を加えはじめる、とし、各字を後に続く評の文法上の主語ではなく、話題(〜について言えば)として訳したこと、またここでの字の順が「仏即是心」と並べかえられていることを述べる。訳文は各字のあとに「――」を置き、その字についての評として訳した(→読みの分かれるところ)。
  • 百草:多くの草。宗務庁版英訳の注は、世界の種々の現象をいう通常の語とする。
  • 拈却・打失:「拈却」は、つまみ取る(拈じる)こと。「却」は動詞につく助字と取った。「打失」は、うちすて失うこと。宗務庁版英訳は「取り去ってきた、失ってきた(has been taking away, has been losing)」と訳し、注は、「仏」という語が現象の世界を脇へ置いてしまうように見える、ということが要点か、とする。「拈却」を「取り上げる(手にとる)」と取るか「取り去る」と取るかで、文意が変わる。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 丈六の金身:一丈六尺の金色の身。宗務庁版英訳の注は、仏の身(あるいは立像)をいう定まった言い方とする。
  • 説似せず:言い示さない。「説似」は、言いあらわして示すこと。宗務庁版英訳の注は、何を丈六の金身として言い示さないのかについて、「それ(仏)を」とも、「それら(百草)を」とも取れるとし、百草と結びつくのは、『正法眼蔵』に何度か引かれる禅の言い回し(一本の草を丈六の金身として用いる、という趣旨)によるか、とする。その言い回しの本文は補注に譲られており、ここでは引かない。訳文は目的語を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
  • 即:宗務庁版英訳の注は、同一であること、あるいは直ちにであることを表す語(まさにこれ、この〜、そのとき)とする。
  • 公案あり、見成を相待せず:公案があり、見成をまたない。宗務庁版英訳の注は、この句がよく知られた「見成公案」(ふつうは「現成公案」と書く)からきている、とする。「見成」は現れ成っていること。「相待」は、相対して待つこと、たのむこと。宗務庁版英訳は「見成(realization)に依存しない」と訳す。訳さずに残し、( )に意を添えた(→読みの分かれるところ)。
  • 敗壊を廻避せず:やぶれこわれることを避けない。宗務庁版英訳は「破壊を免れない(does not escape destruction)」と訳す。「避けない(みずから引き受ける)」と取るか、「免れない」と取るか(→読みの分かれるところ)。
  • 三界:生死をくりかえす三つの領域(欲界・色界・無色界)。宗務庁版英訳の注は、三界・六道を輪廻における三つの存在の領域と六つの生まれ変わりの場とする。
  • 退出にあらず、唯心にあらず:宗務庁版英訳の注は、二句の示されていない主語を「三界」と取って「(三界は)退き去るものではなく、ただ心だけのものでもない」と訳しつつ、前の句の意味は確かでなく、「(人が)三界から退き出る(涅槃に入る)のではない」と取るほうがよいかもしれない、とし、後の句は「三界唯心」という通常の主張を思い起こさせる、とする。訳文は主語を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
  • 牆壁:かきねと壁。宗務庁版英訳の注は、仏心とは「牆壁瓦礫」(かきね・壁・瓦・小石)であるという禅のよく知られたことば――ふつう南陽慧忠(えちゅう)(第一回の大証国師(だいしょうこくし)慧忠)に結びつけられる――を呼び起こすもので、下の【5】でもこれにふれる、とする。
  • いまだ泥水せず、いまだ造作せず:まだ泥や水で(つくられて)いない、まだ造り作られていない。宗務庁版英訳の注は、「泥水」は一見かきね・壁の材料のことであるが、世の中で仏法を説く「泥にまみれる」はたらきを「泥水」で言う禅の通常の用法をも呼び起こしているかもしれない、とし、「泥水」を動詞として使う珍しい用法は「安居」の巻にも見える、とする。「造作」は、つくること、ことさらに作為すること。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 即心是仏・心即仏是・仏即是心・即心仏是・是仏心即:四字の並べかえ。宗務庁版英訳の注は、多くの解釈者は、この試みの要点を、句の四字のどれもが他と等しいことを示すものと取っている、とする。並べかえた形は、訳すと語の順が失われるので、訳文では原文の形のまま「 」に入れて示した。
  • 参究:参じ究めること、師について問い究めること。
  • かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり:宗務庁版英訳は「このような参究がまさしく即心是仏であり、それはこれをとりあげて即心是仏に正伝する」と訳し、注で、読みのさまざまに分かれる文の仮の訳である、とし、即心是仏という語が「このような参究」にかけられるときに正伝される、という意味と見える、とする。「挙」はとりあげること。「正伝」は正しく伝えること。「これ」が何を指すか、「即心是仏に」の「に」をどう取るかで読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。

【3】いわゆる正伝してきた心というのは、一心一切法、一切法一心(一心は一切法であり、一切法は一心である)ということである。それゆえ古人が言った、「若(も)し人、心を識得すれば、大地に寸土無し」(もし人が心を識得したならば、大地にはわずか一寸の土もない)。知るべきである、心を識得するとき、蓋天(天をおおうすべて)が撲落し(くずれ落ち)、匝地(地のめぐりすべて)が裂破する(裂け破れる)のである。あるいは、心を識得すれば、大地はさらに厚さ三寸を増す。

語注

  • 一心一切法、一切法一心:書き下し(本書の読み)「一心は一切法、一切法は一心」。一心がすなわち一切法(あらゆるもの・あらゆることがら)であり、一切法がすなわち一心である。宗務庁版英訳の注は、道元禅師が「都機」の巻でこの文を「古仏」のことばとして繰り返していること、似た文は先行する文献に見えるが、道元禅師のこの形のもとの出典は確かめられていないことを述べる。
  • 古人いはく:昔の人が言った。本文は人名を示さないので、「古人」のまま訳した。
  • 若人識得心、大地無寸土:書き下し「若し人、心を識得すれば、大地に寸土無し」。もし人が心を識得したならば、大地にはわずか一寸の土もない。「識得」は、識り得ること、はっきりと知ること。「寸土」は一寸四方ほどのわずかな土地。宗務庁版英訳の注は、「大地無寸土」は禅の文献にかなりよく見える言い方で、『正法眼蔵』のほかの巻にも出る、とする。
  • 蓋天撲落(がいてんぼくらく)し、匝地裂破(そうちれっぱ)す:「蓋天」は天をおおうもの、天のすべて。「撲落」は打たれて落ちること、くずれ落ちること。「匝地」は地をめぐるもの、地のすべて。「裂破」は裂け破れること。宗務庁版英訳は「天全体がくずれ落ち、地全体が裂ける」と訳し、注は、道元禅師が「安居」の巻でこの像を上の「寸土」とあわせて用いていることを述べる。
  • 大地さらにあつさ三寸をます:大地はさらに厚さが三寸増す。宗務庁版英訳は「大地全体が三寸厚くなる」と訳し、注はない。前の「大地に寸土無し」「匝地裂破す」と逆の言い方を並べたものと取ったが、両者の関係(言い換えか、反対の面か)は原文に示されていない(→読みの分かれるところ)。

【4】古徳が言った、「どのようなものが妙浄明心(妙にして浄らかで明らかな心)であるか。山河大地(せんがだいち)・日月星辰(じつげつせいしん)(山や河や大地、日や月や星々)である」。

語注

  • 書き下し:古徳云く、「作麼生(そもさん)か是れ妙浄明心(みょうじょうみょうしん)、山河大地(せんがだいち)・日月星辰(じつげつせいしん)」。
  • 古徳:昔の徳の高い人。宗務庁版英訳の注は、この「古徳」を潙山霊祐(771–853)とし、この引用は、霊祐とその弟子仰山慧寂(803–887)との問答(道元禅師の真字『正法眼蔵』第168則所収)を作りかえたものである、とする。問答の本文は補注に譲られており、ここでは引かない。訳文は「古徳」のまま訳し、人名を補わなかった。
  • 作麼生(そもさん):どのような、いかなる。問いのことば。
  • 妙浄明心:妙なる、浄らかで明らかな心。宗務庁版英訳は "the wondrous, pure, clear mind" と訳す。訳さずに残し、( )に意を添えた。
  • 山河大地・日月星辰:山・河・大地、日・月・星々。書き下しは問いと答えを一つのかぎ括弧に収め、宗務庁版英訳も一続きの引用として訳す。古徳がみずから問いみずから答えたものと取るか、問答を一句にまとめたものと取るかは、訳文では決めなかった。

【5】はっきりと知った、心とは山河大地であり、日月星辰である。しかしながら、ここで道取している(言い取っている)ところは、すすめば不足があり、しりぞけば余る。山河大地心(せんがだいちしん)は、山河大地だけであって、さらに(そのうえに)波浪はなく、風煙はない。日月星辰心(じつげつせいしんしん)は、日月星辰だけであって、さらに霧はなく、霞はない。生死去来心(しょうじきょらいしん)は、生死去来だけであって、さらに迷いはなく、悟りはない。牆壁瓦礫心(しょうへきがりゃくしん)は、牆壁瓦礫だけであって、さらに泥はなく、水はない。四大五蘊心(しだいごうんしん)は、四大五蘊だけであって、さらに馬はなく、猿はない。椅子払子心(いすほっすしん)は、椅子・払子だけであって、さらに竹はなく、木はない。このようであるから、即心是仏は不染汚の即心是仏であり、諸仏は不染汚の諸仏である。

語注

  • あきらかにしりぬ:はっきりと知った、明らかに知られた。【4】の古徳の語によって、と取った。宗務庁版英訳は「明らかに理解される(It is clearly understood)」と訳す。
  • 道取:言うこと、言い取ること。訳さずに残し、( )に意を添えた。
  • すすめば不足あり、しりぞくればあまれり:すすめば足りないところがあり、しりぞけば余る。宗務庁版英訳の注は、この(古徳の)ことばが、言いうることには届かず、同時に言うべきことより多くを言っている、という意味か、とする。「すすむ」「しりぞく」が何についての進退か(言葉で言い進めることか、修行者の一歩進み一歩退くことか)は原文に示されていない(→読みの分かれるところ)。
  • 山河大地心・日月星辰心・生死去来心・牆壁瓦礫心・四大五蘊心・椅子払子心:宗務庁版英訳はいずれも「〜の心(the mind of 〜)」と訳す。訳文は語のまま残し、「山河大地である心」「山河大地の心」のどちらとも決めなかった(→読みの分かれるところ)。
  • さらに:そのうえに。宗務庁版英訳は "additional"(それに加わる〜)と訳す。
  • 波浪なし、風煙なし:宗務庁版英訳の注は、ここから道元禅師が、心を性格づけたり心に影響したりするのに使われる一連の語を退けてゆく、とし、心はしばしば水にたとえられ、坐禅する者は心の「波」を静め、「風煙」から身を守るよう説かれる、とする。
  • きりなし、かすみなし:宗務庁版英訳の注は、無明の「霧」「霞」のかげにある日(または月)に心をたとえる通常のたとえによる、とする。
  • 生死去来:生まれ死に、去り来ること。宗務庁版英訳の注は、生死去来心を、生まれ変わりの移り変わりにさらされる心とする。
  • 迷なし、悟なし:迷いはなく、悟りはない。
  • 牆壁瓦礫:かきね・壁・瓦・小石。宗務庁版英訳の注は、【2】の「牆壁」についての注を指し、「泥(でい)なし、水(すい)なし」については【2】の「泥水」についての注を指す。
  • 四大五蘊:宗務庁版英訳の注は、「四大」を物質の世界をなす四つの基本の要素(地・水・火・風)、「五蘊」を心身のあり方を分析する五つの集まり(色・受・想・行・識)とする。
  • 馬(ば)なし、猿(えん)なし:宗務庁版英訳の注は、落ち着かない心のたとえとして野の馬・林の猿を使う通常の用法、「意馬心猿」による、とする。
  • 椅子払子:椅子と払子。「払子」は、禅師が手にする、獣の毛などを束ねて柄をつけた道具。宗務庁版英訳の注は、珍しい組み合わせで、禅師の払子はふつう拄杖と対にされ、椅子はむしろ次の「竹」「木」と結びつく、とする。
  • 竹(ちく)なし、木(ぼく)なし:宗務庁版英訳の注は、羅漢桂琛(867–928)とその師玄沙師備(835–908)との、「三界唯一心」を「椅子」と見るか「竹木」と見るかについての問答(真字『正法眼蔵』第112則所収)を映したものであろう、とする。問答の本文は補注に譲られており、ここでは引かない。この並び(【5】の六句)で、「波浪」「きりかすみ」「迷悟」「泥水」「馬猿」「竹木」が、それぞれ何を退けるのかの読みは一つに決めなかった(→読みの分かれるところ)。
  • 不染汚:染まり汚れないこと。宗務庁版英訳の注は、六祖と弟子の南嶽懐譲(677–744)との問答――仏祖は修行と証によって「染汚」されない、という趣旨――を思い起こさせるもので、この問答は『正法眼蔵』の各所でふれられる(真字『正法眼蔵』第101則所収)、とする。問答の本文は補注に譲られており、ここでは引かない。修証との関わりの受けとめは解説に譲る。

【6】そうであるから、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏である。まだ発心・修行・菩提・涅槃していないものは、即心是仏ではない。たとえ一刹那に発心修証するのも即心是仏であり、たとえ一極微の中に発心修証するのも即心是仏であり、たとえ無量劫に発心修証するのも即心是仏であり、たとえ一念の中に発心修証するのも即心是仏であり、たとえ半拳の裏(なか)に発心修証するのも即心是仏である。それなのに、長劫(ちょうごう)に修行して作仏する(仏となる)のは即心是仏ではない、と言うのは、即心是仏をまだ見ていないのであり、まだ知らないのであり、まだ学んでいないのである。即心是仏を開演する(説きひらく)正師を見ていないのである。

語注

  • しかあればすなはち:そうであるから、それゆえ。【5】の「不染汚即心是仏」「不染汚諸仏」を受けて結論を導く語と取った。
  • 発心・修行・菩提・涅槃:「発心」は菩提心(さとりを求める心)をおこすこと、「修行」は行を修めること、「菩提」はさとり、「涅槃」は(煩悩の火の)消えた安らぎ。宗務庁版英訳は「(菩提の)心をおこし、修行し、菩提を得、涅槃に入る諸仏」と、四語を諸仏の行いとして訳す。訳文は原文の形のまま「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」とし、「の」の取り方(四つを行う諸仏か、四つそのものである諸仏か)は決めなかった(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の解題は、この巻が、仏たちの心は染汚されない発心・修行・菩提の証の心でもある、と注意をうながしている、とまとめる。
  • いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは:まだ発心・修行・菩提・涅槃していないもの(人)は。宗務庁版英訳は「〜していない者たち(Those who …)」と訳す。
  • 発心修証:発心し、修行し、証する(さとりをあかす)こと。前の「発心・修行・菩提・涅槃」をつづめた言い方と取った。宗務庁版英訳も「心をおこし、修し、証する」と訳す。
  • 一刹那:きわめて短い時間。宗務庁版英訳 "a single kṣana"。
  • 一極微中:ひとつの極微(物の最も小さな単位)の中。宗務庁版英訳 "within one atom"。
  • 無量劫:はかりしれないほど長い時間。「劫」はきわめて長い時間の単位。宗務庁版英訳 "innumerable kalpas"。
  • 一念中:ひとたびの思いの間。宗務庁版英訳 "within a single thought"。
  • 半拳裏:半分のこぶしの内。宗務庁版英訳 "in half a fist"。宗務庁版英訳の注はこの五句に説明を加えていない。時間の長短(一刹那・無量劫・一念)と空間の大小(一極微・半拳)を並べたものと取ったが、並びの意図は原文に示されていない(→読みの分かれるところ)。
  • 長劫に修行作仏する:長い劫にわたって修行して仏となる。宗務庁版英訳は「長い劫にわたって修行して仏となることは即心是仏ではない、と言う者たち」と訳す。「作仏」は仏となること。そう言うのがどのような立場の人かは原文に示されていない。訳では人を補わなかった(→読みの分かれるところ)。
  • いまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり:まだ見ていない、まだ知らない、まだ学んでいない。
  • 開演:説きひらくこと、教えを説き示すこと。宗務庁版英訳 "expounds"。
  • 正師:正しい師。第一回【2】「これはかつて正師にあはざるによりてなり」を受ける。

【7】いわゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏、これが即心是仏である。過去・現在・未来の諸仏が、ともに仏となるときには、かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である。

語注

  • いはゆる諸仏:【5】の「諸仏、不染汚諸仏なり」、【6】の「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」を受けると取った。宗務庁版英訳は "“The buddhas” here"(ここでいう「諸仏」)と訳す。
  • 釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり:釈迦牟尼仏、これが即心是仏である。宗務庁版英訳の解題は、この巻が最後に、やや意外な転じ方で、すべての仏を「即心是仏」である釈迦牟尼仏に収めて終わる、とする。
  • ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり:(過去・現在・未来の諸仏の)だれもが、仏となるときには、かならず釈迦牟尼仏となる。宗務庁版英訳は "When any of the buddhas …"(諸仏のいずれも)と訳す。「釈迦牟尼仏となる」の意味(歴史上の釈尊と同じになることか、仏となることそのものを釈迦牟尼仏と呼ぶのか)は、訳文では決めなかった(→読みの分かれるところ)。
  • これ即心是仏なり:この段の二度目の「これ即心是仏なり」の「これ」は、直前の「諸仏が仏となるときかならず釈迦牟尼仏となる」ことを指すと取った(→読みの分かれるところ)。

巻末題#

訳文

『正法眼蔵』即心是仏(の巻)

語注

  • 巻末題:巻の終わりを示す題。本書の底本の巻末題には巻番号がない。巻頭題にも番号はない(本巻第一回参照)。
  • 巻の番号:宗務庁版英訳の巻末題は「正法眼藏即心是佛第五」で、これは七十五巻本の番号である。宗務庁版英訳の解題は、この巻が六十巻本・七十五巻本のどちらでも第五、本山版では第六の巻であるとする。

奥書#

訳文

書き下し 爾の時、延応元年五月二十五日、雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺に在りて衆に示す。

そのとき、延応元年(1239年)五月二十五日、雍州宇治郡の観音導利興聖宝林寺において、大衆に示した。

語注

  • 書き下しは本書の読みで、底本に付された訓ではない。
  • 爾時:そのとき。この巻を示した時を言う。
  • 延応元年五月二十五日:延応元年は1239年。宗務庁版英訳はこの日付を西暦1239年6月28日にあてる。宗務庁版英訳の解題は、この巻が1239年の夏に興聖寺で書かれたもので、寺の開創からおよそ三年後、仮名『正法眼蔵』への本格的な取り組みの始まりに近い時期のものである、とし、同じ1239年の日付をもつ「重雲堂式」「洗浄」「洗面」が僧院の行持に重きを置くのに対して、この巻の教理の主題が際立っている、とする。
  • 雍州宇治郡:地名。宗務庁版英訳は "Uji District, Yōshū" と訳し、注に説明はない。ここでは説明を加えない。なお、『一顆明珠』の奥書は「雍州宇治県」で、この巻は「宇治郡」である(郡/県の違いは底本の字のまま)。
  • 観音導利興聖宝林寺:寺名。宗務庁版英訳は "Kannon Dōri Kōshō Hōrin Monastery" と訳す。宗務庁版英訳の解題がこの巻の撰述の地を興聖寺とするので、興聖寺の正式の名と取った。観音導利院と興聖寺の関係については、『摩訶般若波羅蜜』第三回の語注「観音導利院」参照。
  • 示衆:大衆(修行者たち)に示すこと、説き示すこと。
  • この奥書の伝本:宗務庁版英訳はこの奥書を龍門寺本(Ryūmonji MS)のものとして掲げ、注で洞雲寺本も同じ奥書をもつとする。宗務庁版英訳はさらに洞雲寺本の書写の識語を載せるが、本山版にはないので訳していない。
  • 本山版の奥書のあとにある募刻識語は、本文ではないので訳していない。

解説#

はじめに――「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は」#

この巻は、二回に分けて読んでいます。第一回では、巻のはじめに「即心是仏」という言葉が多くの学者に誤って受けとられていることが示され、その誤りの例として、先尼外道の見と、大証国師慧忠と一人の僧との問答が引かれました(第一回の【1】〜【12】)。

今回は、その最終回です。読むのは、次のところです。

段 内容
【1】 仏祖の保任する即心是仏
【2】 仏・即・是・心の四字と、五つの参究
【3】 正伝しきたれる心――一心一切法、大地無寸土
【4】 古徳の語「妙浄明心」
【5】 「〜心は〜のみなり」と不染汚
【6】 発心・修行・菩提・涅槃の諸仏
【7】 諸仏とは釈迦牟尼仏なり
巻末題 正法眼藏即心是仏
奥書 延応元年の示衆

第一回は、「あはれむべし、明眼の師なきことを」(第一回の【12】)という言葉で閉じられていました。今回の段は、そこから一転して、「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は」(【1】)と始まります。第一回では、即心是仏をどう受けとってはならないかが、外道の見と国師の問答を通して示されました。今回は、では仏祖が保任してきた即心是仏とはどのようなものか、を、道元禅師がご自身の言葉で説き示してゆかれるところです。

読み方の手順は、これまでの巻と同じです。まず、何が言われているかを字面のうえで確かめ、そのうえで、それが何を指して言われているのかを考えます。今回の範囲は、四字の一字ずつに短い評を加える【2】の段をはじめとして、一句ごとに読みの分かれるところが少なくありません。解説では、読みの決めにくい箇所では読みの幅を残したまま、訳文の読みに沿って要点を述べるにとどめ、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。そのうえで、坐禅や日々の修行、暮らしとのつながりを、一つの受けとめ方として申し添えてまいります。

仏祖の保任する即心是仏〔【1】〕#

「外道・二乗のゆめにもみるところにあらず」#

「いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道・二乗のゆめにもみるところにあらず」(【1】)。

仏祖が保任してきた(たもち、まもってきた)即心是仏は、外道や二乗が、夢にも見ることのないものである、と。

「保任」という言葉は、巻の冒頭の「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」(第一回の【1】)を受けています。巻のはじめに置かれたこの一句が、第一回の外道の見と国師の問答をはさんで、ここでもう一度とりあげられるかたちになっています。

「外道」は、第一回で読んだ先尼外道の見を受けた言葉と取れます。宗務庁版英訳の注は、「外道」を、仏教でない教え(の見解)の意としています。そこに「二乗」、声聞と縁覚が並べられます。仏教の外の見と、仏教の内にあっても仏祖の道とは異なる見と、そのどちらもが、夢にも見ることのないもの、と言われているのです。言いかえれば、仏祖の保任する即心是仏は、ただ「心がそのまま仏である」という説として知るだけでは届かないもの、ということになるでしょう。そのことが、この回の全体を通して、少しずつ明らかにされてゆきます。

「唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり」#

「唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる。聞著あり、行取あり、証著あり」(【1】)。

ただ仏祖と仏祖とだけが即心是仏してきたのであり、究め尽くしてきたのである。そこには、聞くことがあり、行ずることがあり、証することがある、と。

ここには、読みの決めにくい言葉が重なっています。

まず「唯仏祖与仏祖」について、宗務庁版英訳の注は、この言い方が、『正法眼蔵』にしばしば引かれる『法華経』の一節、ただ仏と仏とのみが諸法の実相を究め尽くすことができる、という趣旨の一節を思い起こさせる、としています。訳文はこれに沿って「ただ仏祖と仏祖とだけ」と取りましたが、「仏祖が仏祖とともに」、仏祖どうしのあいだでのみ、と取ることもできるでしょう。

次に「即心是仏しきたり」。同じ注は、道元禅師がここで「即心是仏す」という、新しい動詞の形をつくっている、と指摘しています。「即心是仏」は、ふつうは「心がそのまま仏である」という一つの命題として受けとられます。ところがここでは、それが「〜する」という、はたらきの言葉として用いられている。これを、即心是仏であってきた、とあり方として取るのか、即心是仏を行じてきた、とはたらきとして取るのか、あるいは即心是仏を伝えてきた、と取るのか。訳文では、原文の形のまま「即心是仏してきた」としておきました。

どの読みに立つにしても、ここで即心是仏が、知られるべき一つの説としてではなく、仏祖が「しきたる」もの、してきたもの、として言われていることは、字面から確かめられます。第一回で読んだ先尼外道の見も、南方の知識の説も、いわば「心はこういうものである」という説明でした。それに対して、仏祖の即心是仏は、説明ではなく、仏祖と仏祖のあいだで、してきたこと、究め尽くしてきたこととして語られる。そう受けとめることもできるように思われます。

聞著・行取・証著#

続く「聞著あり、行取あり、証著あり」は、聞くこと、行ずること、証することがある、という意味です。宗務庁版英訳は、主語を仏祖として、彼らにはそれを聞くことがあり、行ずることがあり、証することがある、と訳しています。一方で、主語は原文に示されていませんから、即心是仏そのものに、聞かれ、行ぜられ、証されるということがある、と取ることもできます。また、三つを聞から行へ、行から証へという順序と見るのか、並べて挙げたものと見るのかにも、幅があります。

宗門の立場からこれを受けとめるならば、この三つの並びは、たいへん大切なところを示しているように思われます。即心是仏は、聞いて知るだけのものではない。聞くことがあり、それを行ずることがあり、証することがある。聞くことだけで終わるのでもなく、また、行ずることを抜きにして証だけがあるのでもない。私たちが寺で、師の言葉を聞き、坐禅をし、日々の作務をつとめる。その聞くことと行ずることのところに、証もまたある、と受けとめることもできるでしょう。もとより、この段は修行の次第を直接に説いているわけではなく、これは坐禅を行ずる者としての一つの受けとめ方です。

仏・即・是・心〔【2】〕#

四字に加えられた短い評#

【2】の段は、この巻のなかでもとりわけ読みの難しいところです。

宗務庁版英訳の注は、ここで道元禅師が、「即心是仏」という句の四字に、一字ずつ短い評を加えはじめる、としています。そして、英訳では、それぞれの字を、後に続く評の文法上の主語ではなく、話題、すなわち「〜について言えば」として訳したこと、また、ここでの字の順が「仏即是心」と並べかえられていることを述べています。訳文もこれにならって、各字のあとに「――」を置き、その字についての評として訳しました。ただ、「仏が、百草を拈却し……」のように、各字を主語として読むこともできます。

ここでは、訳文の読みに沿って、四つの評を一つずつ見てゆきます。どの評にも読みの幅が残っていることを、あらかじめお断りしておきます。

仏――百草を拈却し、打失す#

「仏(ぶつ)、百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず」(【2】)。

「百草」は、多くの草です。宗務庁版英訳の注は、これを世界のさまざまな現象をいう通常の語とし、「仏」という語が現象の世界を脇へ置いてしまうように見える、ということが要点か、としています。英訳はこの向きで、百草を取り去ってきた、失ってきた、と訳しています。

けれども、「拈却」の「拈」は、ふつうには、つまみ取る、手にとる、という字です。百草を手にとってきて、しかもそれを打ち捨ててきた、と、取ることと捨てることの両面を読む取り方もありえますし、百草をまるごと取り上げて、仏という名さえ失ってしまう、と読む取り方もあるでしょう。

続く「丈六の金身に説似せず」の「丈六の金身」は、一丈六尺の金色の身、仏の身をいう定まった言い方です。何を丈六の金身として言い示さないのかについて、宗務庁版英訳の注は、「仏を」とも「百草を」とも取れるとし、百草と結びつくのは、一本の草を丈六の金身として用いる、という趣旨の、『正法眼蔵』に何度か引かれる禅の言い回しによるか、としています。

読みの幅を残したうえで、一つの受けとめ方を申し上げてみます。仏といえば、私たちは、金色に輝く丈六の身を思いうかべます。けれども、仏祖の言う「仏」は、そのような特別な姿として言い示されるものではない。百草、身のまわりの草の一本一本、もののひとつひとつとかかわりながら、しかもそのどれにもとどまらない。そう受けとめることもできるかもしれません。

即――公案あり#

「即(そく)、公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず」(【2】)。

「即」について、宗務庁版英訳の注は、同一であること、あるいは直ちにであることを表す語、「まさにこれ」「この」「そのとき」などの意としています。そして「公案あり、見成を相待せず」の句は、よく知られた「見成公案」、ふつうは「現成公案」と書く語からきている、としています。

この注に沿って読めば、本書で第三巻として読んだ「現成公案」の巻名が、ここでは「即」の字の評として、ほどかれたかたちで現れていることになります。「見成を相待せず」は、見成、現れ成ることを、待たない、たのまない、と取れます。英訳は、見成に依存しない、と訳しています。「敗壊を廻避せず」は、やぶれこわれることを避けない、と取ることも、英訳のように、破壊を免れない、と取ることもできるでしょう。

「即」は、間をおかない、ということです。何かが現れ成るのを待ってから、そこではじめて「即」なのではない。また、こわれることを避けて、こわれないところに「即」があるのでもない。そのように受けとめるならば、これは、第一回で読んだ南方の知識の説、「此身即有生滅、心性無始以来(このかた)未曾生滅」(第一回の【9】)、身は生滅するが心性は無始以来生滅したことがない、という説と、ちょうど向きの違う言い方になっているようにも思われます。身のこわれることを避けて、こわれない心性のほうに仏を立てるのではない、と。もとより、二つの箇所を結びつけるのは、巻を通して読む者の一つの受けとめ方です。

是――三界あり#

「是(ぜ)、三界あり、退出にあらず、唯心にあらず」(【2】)。

「三界」は、生死をくりかえす三つの領域、欲界・色界・無色界です。続く二句について、宗務庁版英訳の注は、示されていない主語を「三界」と取って、三界は退き去るものではなく、ただ心だけのものでもない、と訳しつつ、前の句の意味は確かでなく、人が三界から退き出る、涅槃に入るのではない、と取るほうがよいかもしれない、とし、後の句は「三界唯心」という通常の主張を思い起こさせる、としています。「唯心にあらず」が、三界唯心を否定するものなのか、別の角度から言いなおすものなのかも、決めがたいところです。

第一回の先尼外道の見では、「この性あらはさざるほど、三界・六道は競起(きょうき)するといふなり」(第一回の【3】)と言われていました。本性をあらわさないあいだは三界・六道がきそい起こる、本性をさとれば、そこから離れて常住にかえる、という見方です。それに対して、ここでは「是」、これである、ということの評として、「三界あり」と言われ、「退出にあらず」と言われる。三界を離れたところに「是」があるのではない、と受けとめることもできるでしょう。

心――牆壁あり#

「心(しん)、牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず」(【2】)。

「牆壁」は、かきねと壁です。宗務庁版英訳の注は、これが、仏心とは「牆壁瓦礫」、かきね・壁・瓦・小石である、という禅のよく知られた言葉を呼び起こすもので、その言葉はふつう南陽慧忠、すなわち第一回の大証国師と結びつけられる、としています。そうであれば、第一回で即心是仏の誤りを正した国師の名が、ここで「心」の字の評として、もう一度ひそかに呼び起こされていることになります。

「いまだ泥水せず、いまだ造作せず」について、同じ英訳の注は、「泥水」は一見かきね・壁の材料のことであるが、世に出て仏法を説く「泥にまみれる」はたらきを言う禅の通常の用法をも呼び起こしているかもしれない、としています。泥と水でこねてつくられたものではない、つくられたものではない、と取るか、泥水のはたらきをも重ねて読むか。

心と言えば、私たちは、内側にある見えない何かを思います。ところがここでは、心について、かきね・壁がある、と言われる。しかも、その牆壁は、泥と水でつくられたものではない、と。弁道話にも、坐禅の功徳を述べるところで、「十方法界の土地・草木・牆壁・瓦礫、みな仏事をなす」(『弁道話』第二回)という言葉がありました。心を内側にのみ求めないこの評と、坐禅の上で牆壁瓦礫が仏事をなすという弁道話の言葉とは、坐禅を行ずる者にとっては、互いに照らしあうものとして受けとめられるように思われます。もとより、これは二つの巻を並べて読む者の一つの受けとめ方です。

五たびの参究と正伝#

「あるひは即心是仏を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す」(【2】)。

四字の評を終えると、禅師は、「即心是仏」の四字を並べかえて、五たび「参究す」と言われます。宗務庁版英訳の注は、多くの解釈者は、この試みの要点を、句の四字のどれもが他と等しいことを示すものと取っている、としています。それとともに、語順を動かしても即心是仏であることを示す、と取ることも、参究というはたらきそのものを示す、と取ることもできるでしょう。

そして、「かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり」(【2】)と続きます。

この一文について、宗務庁版英訳の注は、読みのさまざまに分かれる文の仮の訳である、とことわったうえで、即心是仏という語が「このような参究」にかけられるときに正伝される、という意味と見える、としています。訳文もこれに近く、このような参究がまさしく即心是仏であり、(参究が)これをとりあげて即心是仏に正伝する、と取りました。ただ、このような参究において、即心是仏が即心是仏をとりあげて即心是仏に正伝する、と主語を即心是仏と取ることも、「即心是仏に」を「即心是仏として」と取ることもできます。

読みの幅を残したうえで、ここで心にとめておきたいのは、「参究」が、そのまま「まさしく即心是仏」と言われていることです。即心是仏という答えがどこかにあって、参究はそこに至るための手立てである、というのではない。即心是仏を参究する、そのことが即心是仏であり、そのようにして即心是仏が伝えられ、「今日にいたれり」、今日まで届いている。【1】で「即心是仏しきたり」と、即心是仏がはたらきの言葉として言われていたことと、ひとつながりに読めるところです。

正伝しきたれる心〔【3】【4】〕#

「一心一切法、一切法一心」#

「いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり」(【3】)。

正伝してきた心というのは、一心が一切法であり、一切法が一心である、ということである、と。

【2】の段の終わりの「正伝」を受けて、ここでは、その正伝されてきた「心」とは何かが言われます。宗務庁版英訳の注は、道元禅師が「都機」の巻でこの文を「古仏」の言葉として繰り返していること、似た文は先行する文献に見えるが、この形のもとの出典は確かめられていないことを述べています。

一心は、一切法である。一切法、あらゆるもの、あらゆることがらは、一心である。心を、からだの内側に閉じこもった、ものを知るはたらきとしてだけ見るならば、こういう言い方は出てきません。第一回の先尼外道の見では、「物は去来し、境は生滅すれども、霊知(れいち)はつねにありて不変なり」(第一回の【3】)と、ものや境と、それを知る霊知とが、はっきり分けられていました。ここで言われる正伝の心は、そのように万物と向かい合う知のはたらきではなく、一切法と一つである心である。そう受けとめることもできるでしょう。

「大地無寸土」と「あつさ三寸をます」#

「このゆえに古人いはく」として、「若人識得心、大地無寸土」(【3】)という言葉が引かれます。書き下しでは、「若し人、心を識得すれば、大地に寸土無し」。もし人が心を識得したならば、大地にはわずか一寸の土もない、と。この古人の名は、本文には示されていません。宗務庁版英訳の注は、「大地無寸土」は禅の文献にかなりよく見える言い方で、『正法眼蔵』のほかの巻にも出る、としています。

禅師はこれを受けて、「しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、匝地裂破す。あるひは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます」(【3】)と言われます。心を識得するとき、天をおおうすべてがくずれ落ち、地のめぐりすべてが裂け破れる。あるいは、心を識得すれば、大地はさらに厚さ三寸を増す、と。

ここで、大地に寸土もない、という言い方と、大地が三寸厚くなる、という言い方とが、並べて置かれています。この二つの関係をどう見るかは、原文に示されていません。心の識得のありようを、寸土もなくなる面と、かえって厚さを増す面と、両方から言ったものと取ることもできますし、後の言い方を、前の言い方を言いかえて反転させたものと取ることも、前の古人の語への言いなおしと取ることもできるでしょう。また、「識得」を、心を対象としてはっきり知る、と取るか、心として現れる、と取るかにも幅があります。

訳文の読みに沿って、一つの受けとめ方を申し上げます。心を識得すれば、天も地もくずれ裂ける、と言っただけで終われば、心の識得は、世界が消えてしまうような、どこか特別な体験として受けとられかねません。そこへ、「あるひは」として、大地はさらに三寸厚くなる、と添えられる。世界は消えるのではなく、かえって、いよいよ確かに、ありありとそこにある。坐禅の上で申しますと、坐禅は、世界を消し去ってどこか別のところへ行くことではなく、坐る足の下の大地が、いよいよ確かな大地として現れることなのかもしれません。もとより、これは訳文の読みに立った一つの受けとめ方です。

「作麼生是妙浄明心、山河大地・日月星辰」#

「古徳云、「作麼生是妙浄明心、山河大地・日月星辰」」(【4】)。書き下しでは、「作麼生か是れ妙浄明心、山河大地・日月星辰」。どのようなものが妙浄明心、妙にして浄らかで明らかな心であるか。山河大地・日月星辰である、と。

宗務庁版英訳の注は、この古徳を潙山霊祐(771–853)とし、この引用は、霊祐とその弟子仰山慧寂(803–887)との問答を作りかえたものである、としています。書き下しは問いと答えを一つのかぎ括弧に収めていますが、古徳がみずから問いみずから答えた一句と取るか、もとは別の人の問いと答えを一句にまとめたものと取るかは、決めずにおきます。

宗務庁版英訳の解題は、この巻について、道元禅師は、心とは「山河大地・日月星辰」であるという禅の言葉のほうを好む、とまとめています。第一回で退けられた見が、心を身のうちにある知のはたらきとしたのに対して、ここでは、妙浄明心が山河大地・日月星辰と言われるのです。

「〜心は〜のみなり」〔【5】〕#

「すすめば不足あり、しりぞくればあまれり」#

「あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり」(【5】)。

はっきりと知った、心とは山河大地であり、日月星辰である、と【4】の古徳の語を受けとめたうえで、禅師はすぐに「しかあれども」と続けられます。しかしながら、ここで言い取っているところは、すすめば足りず、しりぞけば余る、と。

宗務庁版英訳の注は、この言葉が、言いうることには届かず、同時に言うべきことより多くを言っている、という意味か、としています。心は山河大地である、と言い進めれば足りず、言い控えれば余る、と取ることもできますし、「すすむ」「しりぞく」を、修行者の一歩進み一歩退く歩みと取ることもできるでしょう。同じ注は、補注の「進歩退歩」の項を指しています。本書で読んできた第四巻「一顆明珠」が、「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」(『一顆明珠』第三回)という言葉で閉じられていたことも、思い合わされます。もとより、二つの巻の言葉を結びつけるのは、両方を読んできた者の一つの受けとめ方です。

どの読みに立つにしても、ここで禅師が、古徳の語を受けとめたそのすぐあとで、その語にも「不足」と「あまり」があると言われていることには、心をとめておきたいと思います。心は山河大地である、という言葉を、一つの正解として握りしめてしまえば、それはまた一つの説になってしまう。その言葉さえも、そのままでは置かずに、さらに参究してゆく。【2】の段で四字を並べかえて参究したのと同じ姿勢が、ここにもあるように思われます。

六つの「のみなり」#

続いて、六つの組が、同じ形で重ねられます。

「山河大地心は、山河大地のみなり、さらに、波浪なし、風煙なし」(【5】)。 「日月星辰心は、日月星辰のみなり、さらに、きりなし、かすみなし」(【5】)。 「生死去来心は、生死去来のみなり、さらに、迷なし、悟なし」(【5】)。 「牆壁瓦礫心は、牆壁瓦礫のみなり、さらに、泥なし、水なし」(【5】)。 「四大五蘊心は、四大五蘊のみなり、さらに、馬なし、猿なし」(【5】)。 「椅子払子心は、椅子・払子のみなり、さらに、竹なし、木なし」(【5】)。

「山河大地心」などの語を、山河大地である心と取るのか、山河大地の心と取るのか、あるいは山河大地を心と言い取ったその言い取りと取るのか、訳文では決めませんでした。

宗務庁版英訳の注は、「波浪なし、風煙なし」から、道元禅師が、心を性格づけたり心に影響したりするのに使われる一連の語を退けてゆく、とし、心はしばしば水にたとえられ、坐禅する者は心の「波」を静め、「風煙」から身を守るよう説かれる、としています。「きりなし、かすみなし」は、無明の霧や霞のかげにある日や月に心をたとえる、通常のたとえによるとされ、「馬なし、猿なし」は、落ち着かない心を野の馬・林の猿にたとえる「意馬心猿」によるとされます。また、「竹なし、木なし」は、羅漢桂琛とその師玄沙師備との、「三界唯一心」を「椅子」と見るか「竹木」と見るかをめぐる問答を映したものであろう、とされています。

こうした注に沿って読むならば、ここで退けられているのは、心を水にたとえて波を静めよ、心を日月にたとえて霧や霞を払え、心を馬や猿にたとえて手綱をとれ、という見方である、と受けとめることができます。心のほんとうの姿がどこか奥にあり、それを波や霧がおおっているから、それを払いのければ本来の心が現れる。そういう見方を、「さらに〜なし」と退けている、と。一方で、「さらに」を、そのうえに付け加わるものがない、ということを言うだけと取ることもできます。

ここで目をひくのは、「迷なし、悟なし」が、ほかの五組と同じ並びに置かれていることです。波浪や霧と同じように、迷いも、そして悟りも、「さらに」付け加わるものとしては、ない、と。

この受けとめ方を、坐禅の上に置いてみます。坐禅をしていると、思いが次々にわいてきます。私たちは、つい、それを波と見て、静めなければならない、と思います。霧と見て、晴らさなければならない、と思います。そして、波が静まり霧が晴れたところに、何か澄んだ心が現れるのを待とうとします。けれども、この段の言葉に沿うならば、そのように、波を払った向こうに本来の心を探す見方そのものが、「さらに」付け加えたものなのかもしれません。山河大地心は山河大地のみ。坐る身は、坐る身のみ。宗門で、坐禅を、何かを得るための手立てとせず、ただ坐ることとして大切にしてきたこととも、響きあうところがあるように思われます。もとより、この段は坐禅の作法を直接に語っているわけではなく、これは坐禅を行ずる者としての一つの受けとめ方です。

「不染汚即心是仏」#

「かくのごとくなるがゆえに、即心是仏、不染汚即心是仏なり、諸仏、不染汚諸仏なり」(【5】)。

このようであるから、即心是仏は不染汚の即心是仏であり、諸仏は不染汚の諸仏である、と。

「不染汚」は、染まり汚れないことです。宗務庁版英訳の注は、この語が、六祖と弟子の南嶽懐譲(677–744)との問答、すなわち、仏祖は修行と証によって「染汚」されない、という趣旨の問答を思い起こさせる、としています。

この「不染汚」を、六祖と南嶽の問答をふまえて、修証にけがされることのない即心是仏、と取るのか、直前の六組の「さらに〜なし」を受けて、何も付け加わらず、何にも染まらない即心是仏、と取るのか。二つの読みは、まったく別のものというより、重ねて読むこともできるように思われます。波も霧も、迷いも悟りも、「さらに」付け加わることがない。だから染汚されない。

本書で第一巻として読んだ弁道話にも、「きかずや、祖師のいはく」として、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ」(『弁道話』第五回)という言葉がありました。修証はないのではない、ただ、染汚することはできない、と。この弁道話の言葉と、この巻の「不染汚」とを並べて読むならば、不染汚というのは、修証がない、ということではなく、修証がありながら、それが何かを付け加えて心をよごすものではない、ということだ、と受けとめることもできるでしょう。もとより、これは二つの巻を並べて読む者の一つの受けとめ方です。

そして、この不染汚の一句から、次の【6】の段へと続いてゆきます。

発心・修行・菩提・涅槃の諸仏〔【6】〕#

「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」#

「しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(【6】)。

そうであるから、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏である。まだ発心・修行・菩提・涅槃していないものは、即心是仏ではない、と。

この回のなかでも、とりわけ大切な一句と受けとめられるところです。宗務庁版英訳の解題は、この巻について、道元禅師が、宇宙的な仏の意識のことをただ語っているのだと私たちが思わないように、仏たちの心は、染汚されない発心・修行・菩提の証の心でもある、と注意をうながしている、とまとめています。【4】【5】で心は山河大地であると言われたあとで、ここで、即心是仏が、発心し修行し菩提を得て涅槃に入る諸仏として言いなおされるのです。

「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」の「の」をどう取るかで、読みが分かれます。英訳のように、発心し、修行し、菩提を得、涅槃に入る諸仏、と、四つを諸仏の行いとして取ることも、発心・修行・菩提・涅槃そのものである諸仏、と取ることもできます。訳文は、原文の形のまま残しました。

続く「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」は、第一回の【2】の段と、はっきり呼びかわしているように見えます。そこでは、即心の話を聞いて、愚かな人が、「衆生の慮知念覚の未発菩提心(みほつぼだいしん)なるを、すなはち仏とすとおもへり」(第一回の【2】)と言われていました。まだ菩提心をおこしていない、ふだんの思いはかりや知覚のはたらきを、そのまま仏とする、という誤りです。この巻の結びに近いところで、禅師は、いまだ発心・修行・菩提・涅槃しないものは、即心是仏ではない、と言われる。巻のはじめに示された誤りが、ここで、はっきりと退けられている、と受けとめることもできるでしょう。もっとも、この句を、修行していない者は即心是仏ではない、と退ける言葉と取るのか、修行と即心是仏とが切り離せないことを言う言葉と取るのかには、幅があります。

「一刹那に」も「無量劫に」も#

続いて、五つの「たとひ」が重ねられます。

「たとひ一刹那に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも、即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも、即心是仏なり」(【6】)。

一刹那、きわめて短い時間に発心修証するのも、即心是仏である。一極微、物の最も小さな単位の中に発心修証するのも、即心是仏である。無量劫、はかりしれないほど長い時間に発心修証するのも、即心是仏である。一念の中に、半拳、半分のこぶしの内に、発心修証するのも、即心是仏である、と。

宗務庁版英訳の注は、この五句に説明を加えていません。語注では、一刹那・無量劫・一念という時間の長短と、一極微・半拳という場の大小とを並べたものと取りましたが、並びの意図は原文に示されていません。時の長短・場の大小にかかわらず、発心修証がそのまま即心是仏である、と取ることも、時と場の区別そのものを越えている、と取ることもできるでしょう。

どの読みに立つにしても、ここで、一刹那と無量劫とが、同じ「即心是仏なり」で受けとめられていることは、字面から確かめられます。短い修行は即心是仏で、長い修行はそうでない、というのでもなく、長い修行の果てにだけ即心是仏がある、というのでもない。

「長劫に修行作仏するは即心是仏にあらず、といふは」#

「しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらず、といふは、即心是仏をいまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり」(【6】)。

それなのに、長い劫にわたって修行して仏となるのは即心是仏ではない、と言うのは、即心是仏をまだ見ていないのであり、まだ知らないのであり、まだ学んでいないのである、と。

そう言うのがどのような人なのかは、原文に示されていません。この批判の向きについても、即心是仏を「修行のいらない、いまこのままの仏」と取って、長い修行を退ける見を批判するもの、と取ることも、「修行して後に仏となる」ことと「即心是仏」とを別とする見を批判するもの、と取ることもできます。

「正師をみざるなり」#

段の最後は、「即心是仏を開演する正師をみざるなり」(【6】)です。即心是仏を説きひらく正師を、見ていないのである、と。

第一回の【2】の段では、即心是仏を誤って受けとる愚かな人について、「これはかつて正師にあはざるによりてなり」(第一回の【2】)と言われていました。そして第一回は、「あはれむべし、明眼の師なきことを」(第一回の【12】)と閉じられていました。巻のはじめで、誤りのもとは正師に会わないことにある、と言われ、巻の終わり近くで、長劫の修行を即心是仏でないとする誤りも、正師を見ないことによる、と言われる。そうであれば、即心是仏は、ひとりで心のうちを見つめて知るものではなく、それを開演する正師にまみえ、聞き、行ずることのなかで明らかになる、と受けとめることもできるでしょう。【1】の「聞著あり、行取あり、証著あり」とも、ひとつながりに読めるところです。

諸仏とは釈迦牟尼仏なり〔【7】〕#

「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」(【7】)。

いわゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏、これが即心是仏である。過去・現在・未来の諸仏が、ともに仏となるときには、かならず釈迦牟尼仏となるのである。これが即心是仏である、と。

これが、巻の本文の最後の段です。宗務庁版英訳の解題は、この巻が最後に、やや意外な転じ方で、すべての仏を「即心是仏」である釈迦牟尼仏に収めて終わる、としています。

「釈迦牟尼仏となる」をどう受けとめるかには、幅があります。仏となることが、そのまま釈迦牟尼仏となることである、と取ることもできますし、釈迦牟尼仏の法を嗣いで仏となる、仏祖の正伝のこととして取ることも、釈尊と同じ道、発心・修行・菩提・涅槃を経ることとして取ることもできるでしょう。また、二度くりかえされる「これ即心是仏なり」の「これ」を、一つめは釈迦牟尼仏、二つめは諸仏が仏となるときかならず釈迦牟尼仏となること、と取るのか(訳文)、どちらも釈迦牟尼仏と取るのかも、決めがたいところです。

読みの幅を残したうえで、この段が【6】の段を受けていることに、目をとめておきたいと思います。【6】で、即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃の諸仏である、と言われました。その「諸仏」とは、釈迦牟尼仏である、と【7】は言います。釈迦牟尼仏は、まさに発心し、修行し、菩提を得て、涅槃に入られた仏です。そうであれば、即心是仏の「仏」は、どこか抽象的な仏性や、宇宙の大きな心として言われているのではなく、発心し修行した釈迦牟尼仏という、具体的な一人の仏として言われている、と受けとめることもできるでしょう。

弁道話にも、即心是仏の旨をさとったならば修行はいらないのではないか、という問いに答えて、「もし、自己即仏、としるをもて得道とせば、釈尊、むかし化道にわづらはじ」(『弁道話』第八回)という言葉がありました。もし、自己がそのまま仏であると知ることを得道とするならば、釈尊が昔、人々を教え導くことに骨を折られることはなかったであろう、と。また、修証一等を説くところでは、「釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ」(『弁道話』第五回)とも言われていました。この巻の結びの「諸仏とは、釈迦牟尼仏なり」と、弁道話のこれらの言葉とは、ともに、即心是仏を釈尊の修行と離して受けとってはならない、という方向を向いているように思われます。もとより、二つの巻の言葉を結びつけるのは、両方を読んできた者の一つの受けとめ方です。

日々のお勤めのなかで、私たちは仏前に向かい、手を合わせます。そのとき向かう釈迦牟尼仏は、遠い昔の、私たちとは別の人というだけではない。過去・現在・未来の諸仏が仏となるとき、かならず釈迦牟尼仏となる、というこの段の言葉を、そのように受けとめることもできるかもしれません。

坐禅と暮らしのなかの即心是仏#

ここまで読んできたことを、坐禅と日々の暮らしのなかで受けとめてみたいと思います。

修証一等の受けとめ#

【6】の段の「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」という言葉を、宗門では、修証一等の教えと結びつけて受けとめることができるように思われます。もとより、この巻の本文に「修証一等」という語が出てくるわけではなく、これは一つの受けとめ方としてお示しするものです。

弁道話で禅師は、修証一等の教えを、次のように示しておられました。

「それ、修・証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり」(『弁道話』第五回)。

修行と証とが一つではないと思うのは、外道の見である。仏法では、修と証とは一等である。いまも証の上の修であるから、初心の弁道が、そのまま本証の全体である、と。そして、「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」(『弁道話』第五回)と続きます。

この巻では、まだ菩提心をおこさないままの慮知念覚を、そのまま仏とする誤りが、外道に零落(れいらく)するものとして退けられました。弁道話では、修と証とを二つに分ける見が「外道の見」と言われました。二つの巻で外道と言われているものは、同じ言い方ではありません。けれども、修行を抜きにして仏を立てることも、修行と仏とを二つに分けて、修行の果てに仏を待つことも、どちらも即心是仏をいまだ見ないものである。そう並べて受けとめるならば、この巻の【6】の、一刹那の発心修証も、無量劫の発心修証も、ともに即心是仏である、という言葉は、「初心の辦道すなはち本証の全体なり」という言葉と、同じところを照らしているように思われます。

また弁道話には、「修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ」(『弁道話』第五回)ともありました。即心是仏であるのだから修行はいらない、というのでもなく、修行の果てにいつか即心是仏になる、というのでもない。今日の一坐が、そのまま即心是仏の行である。そう受けとめておきたいと思います。

「即心是仏のむねを了達しぬるがごときは」#

弁道話には、この巻の主題にそのまま触れる問答もありました。問う人が、ある人の言葉として、こう述べます。

「即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし」(『弁道話』第八回)。

即心是仏の旨をさとった者は、口に経を読まず、身に仏道を行じなくても、仏法に欠けたところはない、という見方です。これに対して禅師は、先に引いた釈尊の化道の言葉を示し、法眼禅師と則公監院の古則を引いたうえで、こう結ばれます。

「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて、仏法をしれりといふにはあらず、といふことを」(『弁道話』第八回)。

そして、「ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辦道して、一知半解を心にとどむることなかれ」(『弁道話』第八回)と、坐禅をすすめられるのです。

自己がそのまま仏である、と知ることを、仏法を知ったこととはしない。善知識にまみえ、修行の儀則を問い、ひたすらに坐禅弁道する。弁道話のこの答えと、この巻の、即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃の諸仏である、即心是仏を開演する正師を見よ、という言葉とは、同じ方向を向いているように思われます。もとより、二つの巻の言葉を結びつけるのは、両方を読んできた者の一つの受けとめ方です。

「即心是仏しきたる」日々#

【1】の段で、仏祖は即心是仏「しきたり」と、即心是仏がはたらきの言葉で言われていました。これを日々の暮らしに引きよせて受けとめるならば、即心是仏は、頭で納得してしまえば終わる一つの説ではなく、毎日、新たに「する」ものだ、ということになるかもしれません。

寺の暮らしでは、毎日、同じことがくり返されます。朝起きて坐り、お経を読み、掃除をし、食事をいただき、また坐る。宗門で行持として大切にしてきた、こうした日々のつとめは、即心是仏を知ったあとの付け足しではなく、また、いつか即心是仏になるための準備でもない。今日のその一つ一つの行いのところで、即心是仏が「しきたる」。【5】の段の言葉を重ねるならば、坐禅は坐禅のみ、掃除は掃除のみ、食事は食事のみであって、「さらに」何かを付け加える必要はない、と受けとめることもできるでしょう。

ただ、これは、何もしないでよい、ということではないと思われます。弁道話には、「修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖、しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」(『弁道話』第五回)とありました。この巻の「不染汚」を、修行をゆるくしてよいという意味に受けとってしまえば、それこそ第一回で退けられた見に近づいてしまうでしょう。一刹那の発心修証も、無量劫の発心修証も、即心是仏である。そうであれば、今日の一坐も、明日の一坐も、ていねいに坐る。そのように受けとめておきたいと思います。

坐禅をはじめたばかりの方は、坐禅会などで、指導を受けながら坐ってみていただければと思います。【6】の段で、即心是仏を開演する正師を見よ、と言われていたことも、思い合わされます。

巻末題と奥書#

「正法眼藏即心是仏」#

本文のあとに、「正法眼藏即心是仏」と巻末題が記されます。

本書の底本とする本山版では、この巻末題には巻番号がありません。宗務庁版英訳の巻末題は「正法眼藏即心是佛第五」で、これは七十五巻本の番号です。宗務庁版英訳の解題は、この巻が六十巻本・七十五巻本のどちらでも第五の巻であり、本山版では第六の巻である、としています。

延応元年五月二十五日、興聖寺にて示衆#

「爾時延応元年五月二十五日、在雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆」(奥書)。

そのとき、延応元年五月二十五日、雍州宇治郡の観音導利興聖宝林寺において、大衆に示した、という記録です。

延応元年は1239年で、宗務庁版英訳は、この日付を西暦1239年6月28日にあてています。宗務庁版英訳の解題は、この巻が1239年の夏に興聖寺で書かれたもので、寺の開創からおよそ三年後、仮名の『正法眼蔵』への本格的な取り組みの始まりに近い時期のものである、としています。また、同じ1239年の日付をもつ「重雲堂式」「洗浄」「洗面」が、いずれも僧院での修行に重きを置くのに対して、この巻の教理の主題が際立っている、とも述べています。この巻は、そのように興聖寺で撰述されたとされます。

奥書の地名は、本山版では「雍州宇治郡」です。本書で読んできた第四巻「一顆明珠」の奥書は、「爾時嘉禎四年四月十八日、在雍州宇治県観音導利興聖宝林寺示衆」(『一顆明珠』第三回)で、「宇治県」となっていました。この字の違いについては、宗務庁版英訳の注にも説明がありませんので、ここでは、底本の字がそうなっていることを記すにとどめます。また、「観音導利興聖宝林寺」を興聖寺の正式の名と取ったのは、宗務庁版英訳の解題がこの巻の撰述の地を興聖寺とすることによります。

宗務庁版英訳は、この奥書を龍門寺本のものとして掲げ、注で洞雲寺本も同じ奥書をもつとしています。宗務庁版英訳には、そのほかに洞雲寺本の書写の識語も載せられていますが、本山版にはないので、本書では扱いません。

本山版の募刻識語について#

なお、本書の底本である本山版には、奥書のあとに、この巻の刊刻を助けた人々と、その願いを記した、寛政九年の募刻識語があります。これは道元禅師の本文ではありませんので、ここでは立ち入りません。

巻をふりかえって――第一回から第二回へ#

二回にわたって、「即心是仏」の巻を読んできました。ここで、巻全体をふりかえってみたいと思います。もとより、これは二つの回を並べて読む者の一つの受けとめ方であり、本文がそう要約しているわけではありません。

第一回――即心是仏の誤りと、先尼外道、国師の問答#

宗務庁版英訳の解題によれば、巻名の「即心是仏」という句は、禅の文献によく知られた言葉で、ふつう八世紀の馬祖道一と結びつけられる、とされます。

巻は、「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」(第一回の【1】)と始まりました。そして、「しかあるを、西天(さいてん)には即心是仏なし、震旦(しんたん)にはじめてきけり」(第一回の【1】)と続き、学者の多くがこれを誤って外道に落ちる、と言われました。その誤りとは、「衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり」(第一回の【2】)というものでした。

その誤りの例として、まず先尼外道の見が詳しく示されました。身のうちに霊知があり、「たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり」(第一回の【3】)、身がやぶれても霊知はやぶれずに出てゆく、という見です。続いて、大証国師慧忠と僧との問答が引かれ、南方の知識たちが説く「此身即有生滅、心性無始以来未曾生滅」(第一回の【9】)という説が、国師によって、先尼外道と変わらない、と退けられました。国師は、浄名(じょうみょう)の「法離見聞覚知(けんもんかくち)」(第一回の【10】)という言葉を引いています。そして禅師は、「国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑(きかん)とすべし」(第一回の【11】)と言われ、「あはれむべし、明眼の師なきことを」(第一回の【12】)と第一回の範囲を閉じられました。

第二回――仏祖の即心是仏#

今回の範囲をふりかえってみると、第一回で退けられたものと、今回説かれたものとが、いくつもの点で向かい合っているように見えます。

第一回の霊知は、身のうちにあり、ものや境とは別に、変わらずにあるものとされました。今回の正伝の心は、「一心一切法、一切法一心」(【3】)であり、山河大地・日月星辰でした。第一回の霊知は、身がやぶれても出てゆく、こわれないものでした。今回、「即」の字の評は、「敗壊を廻避せず」(【2】)でした。第一回の見は、本性をあらわせば三界・六道から離れる、というものでした。今回、「是」の字の評は、「三界あり、退出にあらず」(【2】)でした。第一回の誤りは、未発菩提心のままの慮知念覚を仏とするものでした。今回、「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(【6】)と言われました。そして、第一回で誤りのもととされた、正師にあわないこと、明眼の師のないことは、今回、「即心是仏を開演する正師をみざるなり」(【6】)と、もう一度言われました。

また、「心」の字の評に置かれた「牆壁」が、宗務庁版英訳の注によれば、第一回の大証国師と結びつけられる「牆壁瓦礫」の言葉を呼び起こすものである、ということも、二つの回をつなぐ糸の一つと受けとめることができるかもしれません。第一回で誤りを正した国師が、今回は、「心」の字の評のなかで、ひそかに呼び起こされている、と。もとより、これらの対応は、本文がそう明示しているわけではなく、二つの回を並べて読む者の一つの受けとめ方です。

巻名「即心是仏」を、あらためて#

二回を読み終えたいま、巻名を、たとえば次のように受けとめることもできるかもしれません。

即心是仏は、心がそのまま仏である、という一つの説として知れば済むものではない。身のうちにある知のはたらきを、そのまま仏とすることでもない。仏祖が仏祖とともに「しきたり」、究め尽くしてきたものであり、聞くこと、行ずること、証することがある。四字を並べかえて参究するその参究がまさしく即心是仏であり、そのようにして今日まで正伝されてきた。その心は、一切法と一つであり、山河大地・日月星辰であって、波や霧を払った向こうに隠れている何かではない。そして即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏であり、その諸仏とは、釈迦牟尼仏である。もとより、巻名の受けとめ方には幅があり、ここに申し上げたことも、その一つにすぎません。

むすびに#

今回読んだところを、あらためてふりかえってみましょう。

仏祖の保任する即心是仏は、外道・二乗が夢にも見ないものであり、ただ仏祖と仏祖とだけが即心是仏してきた。そこには聞くことがあり、行ずることがあり、証することがある(【1】)。仏・即・是・心の一字ずつに評が加えられ、四字を並べかえて参究する、その参究がまさしく即心是仏として正伝されてきた(【2】)。正伝の心は一心一切法、一切法一心であり、心を識得すれば大地に寸土もなく、しかも大地は三寸厚さを増す(【3】)。妙浄明心は山河大地・日月星辰である(【4】)。けれどもその言葉にも不足とあまりがあり、山河大地心は山河大地のみであって、さらに波浪も、霧も、迷いも悟りも、付け加わらない。ゆえに即心是仏は不染汚の即心是仏である(【5】)。そして、即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃の諸仏であり、いまだ発心修行しないものは即心是仏ではない。一刹那の発心修証も、無量劫の発心修証も、即心是仏である(【6】)。その諸仏とは釈迦牟尼仏であり、諸仏は仏となるとき、かならず釈迦牟尼仏となる(【7】)。禅師は、このように巻を結ばれました。

この巻は、「即心是仏」という、よく知られた言葉を、修行と切り離された、いまこのままの心の肯定として受けとることを退けている、と読めます。けれども、それは、心が仏であることを否定するのではなく、即心是仏を、仏祖が「しきたる」はたらきとして、発心し修行する諸仏として、受けとりなおすことであった、と本稿では受けとめてきました。宗門で、修証一等として、初心の弁道がそのまま本証の全体であると受けとめてきたことが、この巻では、「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」として示されている、と受けとめることもできるでしょう。もとより、末尾の「読みの分かれるところ」に挙げたように、一つ一つの句には、読みの幅が少なからず残っています。本書では、それらのどれか一つを唯一の正解とはせず、読みの幅を残しておきました。

「即心是仏」の巻は、こうして、「これ即心是仏なり」の一句で閉じられます。

心がそのまま仏である、と聞けば、私たちは安心もし、また、とてもそうは思えない、とも感じます。けれども、この巻の言葉に沿うならば、即心是仏は、思えるかどうか、知っているかどうかで決まるものではなく、発心し、修行するところに、仏祖が「しきたる」ものとしてある。今日の一坐、今日の一つ一つのつとめを、また、ていねいにつとめてゆきたいと思います。

読みの分かれるところ#

この回の範囲は、道元禅師ご自身の言葉で書かれていますが、四字の一字ずつに短い評を加えるところをはじめ、一句ごとに読みの分かれるところが少なくありません。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり」【1】
    宗務庁版英訳の注では、道元禅師がここで「即心是仏す」という新しい動詞の形をつくっている、とされます。これを、即心是仏であってきた、とあり方として取るか、即心是仏を行じてきた、とはたらきとして取るか、即心是仏を伝えてきた、と取るかで、受けとめ方が変わります。「唯仏祖与仏祖」も、ただ仏祖と仏祖とだけが、と取るほか、仏祖が仏祖とともに(仏祖どうしのあいだでのみ)、と取ることができます。続く「聞著あり、行取あり、証著あり」の主語を、仏祖と取るか、即心是仏そのものと取るか、また三つを順序と見るか並べたものと見るかにも幅があります。

  2. 仏・即・是・心の四つの評【2】
    本書の訳は、宗務庁版英訳と同じく、四つの字をそれぞれ話題として、その字について評を加えたものと取りましたが、各字を主語として読むこともできます。「百草を拈却しきたり、打失しきたる」は、百草(世界のさまざまな現象)を取り去り失ってきた、とも、手にとり、しかも打ち捨ててきた、とも、百草をまるごと取り上げて仏という名さえ失う、とも取れます。「丈六の金身に説似せず」の目的語は仏とも百草とも取れ、「見成を相待せず、敗壊を廻避せず」も、見成を待たず、やぶれこわれることを避けない、と取るほか、宗務庁版英訳のように、見成に依存せず、破壊を免れない、と取ることもできます。「退出にあらず、唯心にあらず」を三界について言うと取るか、人が三界から退き出るのではない、と取るか、「いまだ泥水せず」を材料の泥と水と取るか、世に出て人を教えるはたらきも重ねて読むかにも幅があります。

  3. 「かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり」【2】
    宗務庁版英訳の注では、読みのさまざまに分かれる文の仮の訳である、と断られています。本書の訳は、このような参究がまさしく即心是仏であり、(参究が)これをとりあげて即心是仏に正伝する、と取りました。このような参究において、即心是仏が即心是仏をとりあげて即心是仏に正伝する、と主語を即心是仏と取ることも、「即心是仏に」を「即心是仏として」と取ることもできます。四字を並べかえる五つの参究の意図も、四字のどれもが等しいことを示す、語順を動かしても即心是仏であることを示す、参究のはたらきそのものを示す、などと受けとめられます。

  4. 「大地無寸土」と「大地さらにあつさ三寸をます」【3】
    心を識得すれば大地に寸土もない、天も地もくずれ裂ける、と言ったあとに、「あるひは」として、大地はさらに三寸厚くなる、と添えられます。二つを、心の識得のありようの二つの面として並べたものと取ることも、後の言い方を前の言い方の言いかえ・反転と取ることも、前の古人の語への言いなおしと取ることもできます。「識得」を、心をはっきり知る、と取るか、心として現れる、と取るかにも幅があります。

  5. 「すすめば不足あり、しりぞくればあまれり」【5】
    宗務庁版英訳の注では、心とは山河大地である、という古徳の言葉が、言いうることには届かず、同時に言うべきことより多くを言っている、という意味か、とされています。心は山河大地である、と言い進めれば足りず、言い控えれば余る、と取ることも、修行者の一歩進み一歩退く歩みと取ることもできます。続く「山河大地心」などの語を、山河大地である心と取るか、山河大地の心と取るか、「さらに、波浪なし」などを、心を水や日月にたとえて波や霧を払う見方を退けるものと取るか、付け加わるものがないことを言うだけと取るかにも、幅があります。

  6. 「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」と「長劫に修行作仏する」【6】
    「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏」は、宗務庁版英訳のように四つを行う諸仏と取ることも、四つそのものである諸仏と取ることもできます。「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」は、第一回の【2】の、未発菩提心の慮知念覚を仏とする誤りを退ける言葉と取ることも、修行と即心是仏が切り離せないことを言う言葉と取ることもできます。「長劫に修行作仏するは即心是仏にあらず、といふは」がだれの言葉かは本文に示されず、即心是仏を修行のいらない仏と取って長い修行を退ける見への批判とも、修行して後に仏となることと即心是仏とを別とする見への批判とも読めます。この段を修証一等の教えと結びつけて受けとめるのは宗門の一つの受けとめ方で、本文に「修証一等」の語があるわけではありません。

  7. 「かならず釈迦牟尼仏となるなり」【7】
    仏となることがそのまま釈迦牟尼仏となることである、と取ることも、釈迦牟尼仏の法を嗣いで仏となる、仏祖の正伝のことと取ることも、釈尊と同じ発心・修行・菩提・涅槃の道を経ることと取ることもできます。宗務庁版英訳の解題では、すべての仏を釈迦牟尼仏に収めて終わる「やや意外な転じ方」とされています。二度くりかえされる「これ即心是仏なり」の「これ」を、一つめは釈迦牟尼仏、二つめは諸仏が仏となるとき釈迦牟尼仏となること、と取るか、どちらも釈迦牟尼仏と取るかにも幅があります。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第六「即心是仏」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. I(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 本巻の撰述の時と場所、諸本での位置、巻の主題と巻名についての説明、奥書の年代と写本、「即心是仏す」という語形、『法華経』の一節、四字の評(百草・丈六の金身・見成公案・三界・牆壁瓦礫・泥水)と五つの参究、一心一切法、大地無寸土と安居の巻の用例、古徳の語の出典、すすめば不足あり、波浪・風煙・霧・霞・意馬心猿・椅子払子・竹木、不染汚と六祖・南嶽の問答についての説明、人名の生没年と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。