礼拝得髄(二)趙州と志閑・妙信#
趙州の発足行脚の誓いから、志閑禅師と末山了然尼、妙信尼と蜀の十七人の僧の話を経て、「為衆の主人、かならず明眼によるべし」という一句までの、二十四の段落を読む回です。
原文#
趙州の発足行脚#
【1】むかし唐朝の趙州真際大師、こころをおこして発足行脚せしちなみにいふ、たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われかれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれををしふべし。七歳に問法せんとき、老漢、礼拝すべきなり。奇夷の志気なり、古仏の心術なり。得道得法の比丘尼、出世せるとき、求法参学の比丘僧、その会に投じて礼拝問法するは、参学勝躅なり。たとへば、渇に飲にあふがごとくなるべし。
志閑禅師と臨済#
【2】震旦国の志閑禅師は、臨済下の尊宿なり。臨済ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、「領也」。
【3】臨済はなちていはく、「且放儞一頓」。
【4】これより臨済の子となれり。
志閑禅師と末山了然#
【5】臨済をはなれて末山にいたるに、末山とふ、「近離甚処」。
【6】師いはく、「路口」。
【7】末山いはく、「なんぢなんぞ蓋却しきたらざる」。
【8】師、無語。すなはち礼拝して師資の礼をまうく。
【9】師かへりて末山にとふ、「いかならんかこれ末山」。
【10】末山いはく、「不露頂」。
【11】師いはく、「いかならんかこれ山中人」。
【12】末山いはく、「非男女等相」。
【13】師いはく、「なんぢなんぞ変ぜざる」。
【14】末山いはく、「これ野狐精にあらず、なにをか変ぜん」。
【15】師、礼拝す。
【16】つひに発心して園頭をつとむること、始終三年なり。のちに出世せりしとき、衆にしめしていはく、「われ臨済爺爺のところにして半杓を得しき、末山嬢嬢のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて、喫しおはりて、直至如今飽餉餉なり」。
臨済爺爺・末山嬢嬢#
【17】いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の嬢となる。臨済は黄檗運禅師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とは、ちち、といふなり。嬢とは、はは、といふなり。志閑禅師の、末山尼了然を礼拝求法する、志気の勝躅なり、晩学の慣節なり、撃関破節といふべし。
妙信尼、廨院主となる#
【18】妙信尼は仰山の弟子なり。仰山ときに廨院主を選するに、仰山あまねく勤旧・前資等にとふ、「たれ人かその仁なる」。問答往来するに、仰山つひにいはく、「信淮子、これ女流なりといへども、大丈夫の志気あり。まさに廨院主とするにたへたり」。衆みな応諾す。妙信つひに廨院主に充す。ときに仰山の会下にある竜象うらみず。まことに非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては、自愛しつべし。
蜀僧十七人と風幡の話#
【19】充職して廨院にあるとき、蜀僧十七人ありて、黨をむすびて尋師訪道するに、仰山にのぼらんとして、薄暮に廨院に宿す。歇息する夜話に、曹渓高祖の風幡の話を挙す。十七人おのおのいふこと、みな道不是なり。ときに廨院主、かべのほかにありてききていはく、「十七頭の瞎驢、おしむべし、いくばくの草鞋をかつひやす、仏法也未夢見在」。
【20】ときに行者ありて、廨院主の、僧を不肯するをききて、十七僧にかたるに、十七僧ともに廨院主の不肯するをうらみず、おのれが道不得をはぢて、すなはち威儀を具し、焼香礼拝して請問す。
【21】廨院主いはく、「近前来」。
【22】十七僧近前するあゆみいまだやまざるに、廨院主いはく、「不是風動、不是幡動、不是心動」。
【23】かくのごとく為道するに、十七僧ともに有省なり。礼謝して師資の儀をなす。すみやかに西蜀にかへる。つひに仰山にのぼらず。まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず、仏祖嫡嫡の道業なり。
比丘尼の得法せらんを請ずべし#
【24】しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。
現代語訳#
段落番号【1】〜【24】は原文の段落番号と対応します。志閑禅師と臨済・末山の問答(【2】〜【15】)と、十七僧の段(【21】【22】)は、発言ごとに段落を分けています。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。漢文の句を含む段落(【3】【5】【10】【12】【16】【19】【22】)は、まず漢文の部分の「書き下し」を示し、続けて段落全体の訳をつけました。書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・読点・かぎ括弧の有無もそのままとしました。底本の本文そのものではなく、一つの読み方です。読み下しの付いていない漢語の句(【2】の「領也」、【6】の「路口」、【21】の「近前来」)は、書き下しを立てず、語注で語の意味を示しました。【1】の趙州のことばには原文に括弧がありませんが、訳文では範囲を示すために「 」を加えました。仏教語・禅語(発足行脚・問法・老漢・礼拝・奇夷・志気・古仏・心術・得道・得法・比丘尼・出世・求法・参学・比丘僧・会・勝躅・震旦・臨済下・尊宿・近離・蓋却・無語・師資・山中人・男女等相・野狐精・発心・園頭・半杓・一杓・爺爺・嬢嬢・飽餉餉・慕古・神足・命脈・嫡嗣・功夫・晩学・慣節・撃関破節・廨院主・勤旧・前資・女流・大丈夫・応諾・会下・竜象・非細の職・蜀僧・尋師訪道・歇息・風幡・道不是・瞎驢・草鞋・行者・不肯・道不得・威儀・焼香・請問・近前・為道・有省・礼謝・西蜀・三賢十聖・仏祖嫡嫡・道業・住持・半座・高年宿老・為衆・明眼など)と人名・地名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名の生没年や典拠は、宗務庁版英訳の注が挙げる範囲で示し、人物の人柄や心情は、本文に書かれていることのほかは補っていません。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。
趙州の発足行脚#
【1】むかし、唐朝の趙州真際大師が、こころをおこして発足行脚した(行脚の旅に出た)ときに言った。「たとえ七歳であっても、わたしよりもまさっているならば、わたしは彼に問おう。たとえ百歳であっても、わたしよりも劣っているならば、わたしは彼に教えよう」。七歳(の者)に法を問うときには、老漢(年老いた者)が礼拝すべきなのである。(これは)奇夷の志気であり、古仏の心術である。得道得法の比丘尼が出世したとき、求法参学の比丘僧が、その会に身を投じて礼拝し法を問うのは、参学の勝躅(すぐれた先例)である。たとえば、渇いたときに飲み物に出会うようなものであるはずだ。
語注
- 趙州真際大師:趙州従諗(778–897)。宗務庁版英訳の注は、「真際大師」は諡号で、「趙州」は、従諗が観音院に長く住した州(いまの河北省)の名であるとし、伝記は『景徳伝灯録』『宋高僧伝』『趙州真際禅師語録并行状』(『古尊宿語録』所収)などに見え、行脚に出るときの、七歳の子にも学ぼうという誓いはいくつかの文献に見え、道元禅師はこの誓いを「柏樹子」「行持」の巻でもたたえている、とする。人名として訳さずに残した。
- こころをおこして:発心して、こころざしを立てて。
- 発足行脚:足を発して行脚に出ること。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- たとひ七歳なりとも……われかれををしふべし:ことばの範囲は、原文に括弧がないが、二つの「たとひ……」の文を趙州のことばとした(宗務庁版英訳も同じ)。
- 老漢、礼拝すべきなり:老漢が礼拝すべきである。宗務庁版英訳の注は、「老漢」は(だれであれ)老人を指すとも、行脚に出たとき、ある伝えではすでに六十歳であった趙州を指すとも取れる、とする(→読みの分かれるところ)。
- 奇夷の志気:まれで、はかりがたいこころざし。宗務庁版英訳の注は、『老子』(『道徳経』)第十四章で道について言われる「希夷」の言いかえとする。奇夷・志気は訳さずに残した。
- 古仏の心術:古仏の心のはたらき。宗務庁版英訳の注は、「古仏」は (a) 過去の諸仏、(b) 禅の伝統のさとった師たち、(c) 「趙州古仏」と呼ばれた趙州、のいずれをも指しうる、とする。古仏は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- 得道得法の比丘尼:道を得、法を得た比丘尼。得道・得法は訳さずに残した。
- 出世せるとき:出世した(師として世に出た)とき。宗務庁版英訳の注は、師として立つようになったこと、とする。出世は訳さずに残した。
- 求法参学の比丘僧:法を求め参学する比丘僧。
- その会に投じて:その会(会下、門下)に身を投じて。
- 参学勝躅なり:参学の勝躅(すぐれた足跡、先例)である。勝躅は訳さずに残した。
- 渇に飲にあふがごとく:渇いたときに飲み物に出会うように。
志閑禅師と臨済#
【2】震旦国の志閑禅師は、臨済門下の尊宿である。臨済が、あるとき師(志閑)がやって来るのを見て、つかまえて引きとめると、師は言った。「領也」。
語注
- 震旦国:中国。宗務庁版英訳の注は、中国をいう梵語の名を音写した語とする。
- 志閑禅師:灌渓志閑(895年没)(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 臨済:臨済義玄(866年没)(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 臨済下の尊宿:臨済の門下の尊宿(すぐれた長老)。
- とりとどむる:つかまえて引きとめる。宗務庁版英訳は "he grabbed hold of him" と訳す。
- 領也:書き下しは立てない。宗務庁版英訳の注は、「領」は「わかった、領解した」の意だが、もとは首・えりの意で、「えりをつかまれた」「引きまわされる」「おさえられる」の意にもなり、その掛けことばであるとし、英訳は "Collared" とする。訳文は原文の語のまま「領也」と残した(→読みの分かれるところ)。
書き下し(漢文の部分) 「且く儞に一頓を放さん」
訳 臨済は(つかんでいた手を)放して言った。「まあ、おまえに一頓(ひとしきりの棒打ち)は放して(ゆるして)やろう」。
語注
- はなちていはく:(つかんでいたのを)放して言った。
- 且く儞に一頓を放さん:宗務庁版英訳の注は、「おまえは一打ちに値するが、許してやろう」の意で、「頓」は打つ回数にも食事の回数にも用いる語なので、「一頓」を一食と取り、「一食は勘弁してやろう」すなわち一晩泊めてやろう、と読む人もある、とする(→読みの分かれるところ)。
【4】これ以来、(志閑は)臨済の子となった。
語注
- 臨済の子:臨済の弟子(法の子)。宗務庁版英訳は "Linji's 'child'" と括弧付きで訳す。【16】【17】の「爺爺」(父)とつながる。
志閑禅師と末山了然#
書き下し(漢文の部分) 「近離、甚の処ぞ」
訳 (志閑が)臨済のもとを離れて末山に至ると、末山が問うた。「近離、甚の処ぞ(近ごろ、どこを離れて来たのか)」。
語注
- 末山:末山了然。宗務庁版英訳の注は、末山了然(生没年未詳)は高安大愚(生没年未詳)の法を嗣いだ比丘尼で、「末山」はいまの江西省にある山の名であり、志閑と末山の出会いの話は『景徳伝灯録』などいくつかの文献に見え、道元禅師も『永平寺知事清規』で語っている、とする。人名・山名として訳さずに残した。
- 近離、甚の処ぞ:最近、どこを離れて(来た)のか。行脚の僧にどこから来たかを問う言い方。
【6】師は言った。「路口(道の口)です」。
語注
- 路口:書き下しは立てない。宗務庁版英訳の注は、道の始まり(または分かれ道)の意だが、末山は「口」の字義の「くち」に掛けて応じている、とする(→読みの分かれるところ)。
【7】末山は言った。「おまえは、どうして(その口に)蓋をしてこなかったのか」。
語注
- 蓋却しきたらざる:蓋をして来なかったのか。【6】の「路口」の「口」を受けて、(口なら)ふたをして来ればよかったのに、と返したものと取った(宗務庁版英訳の注の説明による)。訳文は(その口に)を補った(→読みの分かれるところ)。
【8】師は言葉がなかった。そこで礼拝して、師資の礼をとった。
語注
- 無語:ことばがない、答えられない。訳文では語の意味を訳した。
- 師資の礼をまうく:師と弟子(としての)礼をもうける。師資は訳さずに残した。
【9】師は、かえって末山に問うた。「どのようなのが末山(という山)ですか」。
語注
- かへりて:逆に、今度は(師の側から)。宗務庁版英訳は "in return" と訳す。
- いかならんかこれ末山:どのようなのが末山か。「末山」は山の名でもあり、了然の呼び名でもある。山を問うのか、人を問うのか、の両方に掛かると取れる(→読みの分かれるところ)。
書き下し(漢文の部分) 「頂を露さず」
訳 末山は言った。「頂を露さず(頂をあらわさない)」。
語注
- 頂を露さず:宗務庁版英訳の注は、ふつうには、末山は高くて頂が見えない、の意に取られるとし、仏の頭頂の「無見頂相」(見ることのできない頂の相)に掛けているとする説もある、とする(→読みの分かれるところ)。
【11】師は言った。「どのようなのが山中人(この山の中の人)ですか」。
語注
- 山中人:山の中の人、この山に住む人。訳さずに残し、( )で意を添えた。
書き下し(漢文の部分) 「男女等の相に非ず」
訳 末山は言った。「男女などの相ではない」。
語注
- 男女等の相に非ず:男・女などの相(すがたかたち)ではない。第一回の【1】の導師について言われる「男女等の相にあらず」と同じ語。宗務庁版英訳は "One without marks such as male or female" と訳す(→読みの分かれるところ)。
【13】師は言った。「あなたは、どうして(姿を)変えないのですか」。
語注
- なんぢなんぞ変ぜざる:あなたは、どうして変じないのか。宗務庁版英訳の注は、このやりとりは『維摩経』で、仏弟子の舎利弗が天女に「汝、何を以てか女身を転ぜざる」と問い、天女が「我、十二年よりこのかた、女人の相を求むるに了に得べからず。当に何をか転ずべき」と答える、性の相についての名高い問答をなぞっている、とする(引用の書き下しは本書の読み)。何を変じないのか(女身を、か、山中人の相を、か)は原文に示されない。訳文は(姿を)と補った(→読みの分かれるところ)。
【14】末山は言った。「(わたしは)野狐精ではない。何を変じようか」。
語注
- 野狐精:狐の精、狐の化けたもの(化けて姿を変えるもの)。宗務庁版英訳の注は、第一回の【1】の「野狐精にして善知識ならん」が、この末山のことばを先取りしているとする。訳さずに残した。
【15】師は礼拝した。
書き下し(漢文の部分) 直に如今に至って飽くこと餉餉
訳 (志閑は)ついに発心して、園頭をつとめること、まる三年であった。のちに出世したとき、大衆に示して言った。「わたしは、臨済爺爺(臨済おやじ)のところで半杓を得、末山嬢嬢(末山おかあさん)のところで半杓を得た。二つを合わせて一杓にして、飲みおわって、直に如今に至って飽くこと餉餉(いまに至るまで、満ち足りて腹いっぱい)である」。
語注
- つひに発心して:ついに発心して。宗務庁版英訳は "Eventually, of his own accord" と、自ら進んで、の意に訳す。訳文は原文の語のまま「発心して」とした(→読みの分かれるところ)。発心は訳さずに残した。
- 園頭:寺の菜園をあずかる役。宗務庁版英訳は "a monastery gardener" と訳す。訳さずに残した。
- 始終三年:はじめから終わりまで三年、まる三年。
- 衆にしめしていはく:大衆に示して言った。宗務庁版英訳の注は、このことばは(多少の違いをもって)いくつかの文献に見えるとし、『仏国禅師語録』を挙げる。
- 臨済爺爺・末山嬢嬢:「爺爺」は父、「嬢嬢」は母をいう、くだけた中国語(【17】に道元禅師自身の説明がある)。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 半杓を得しき:半分のひしゃく(の分)を得た。
- ともに一杓につくりて:(二つの半杓を)合わせて一杓にして。宗務庁版英訳は "After putting them together into one ladle" と訳す(→読みの分かれるところ)。
- 喫しおはりて:飲みおわって。
- 直に如今に至って飽くこと餉餉:宗務庁版英訳の注は、道元禅師はここで漢文に切りかえているとし、「直至如今」はよく用いられる定まった句、「飽餉餉」は満ち足りて腹いっぱいのさまで、志閑のことばを伝える文献には「直至如今飽不飢」(いまに至るまで満ち足りて飢えない)とするものもある、とする(→読みの分かれるところ)。
臨済爺爺・末山嬢嬢#
【17】いま、この道(ことば)を聞いて、昔日のあとを慕古すると、末山は高安大愚の神足(すぐれた弟子)であり、命脈に力があって志閑の嬢となった。臨済は黄檗運禅師の嫡嗣(正統の後継ぎ)であり、功夫に力があって志閑の爺となった。爺とは「ちち」ということである。嬢とは「はは」ということである。志閑禅師が末山尼了然を礼拝して法を求めたことは、志気の勝躅であり、晩学の慣節であり、撃関破節というべきである。
語注
- この道:このことば(【16】の志閑の示衆)。
- 慕古するに:古(の人)をしたうと。宗務庁版英訳の注は、伝統を愛し敬うことをいう、道元禅師の好んだ語の一つとする。訳さずに残した。
- 高安大愚:末山了然の師(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 神足:すぐれた弟子。宗務庁版英訳の注は、すぐれた弟子をいう語で、字義は神通力をいう「神足」(梵語 ṛddhi-pāda)である、とする。訳さずに残した。
- 命脈ちからありて:命脈(法のいのちのつながり)に力があって。宗務庁版英訳の注は、その法系の「血すじ」の意とする。命脈は訳さずに残した。
- 嬢・爺:はは・ちち。
- 黄檗運禅師:臨済の師、黄檗希運(生没年未詳)(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 嫡嗣:正統の後継ぎ。訳さずに残した。
- 功夫ちからありて:功夫(修行のはたらき)に力があって。功夫は訳さずに残した。
- 爺とは、ちち、といふなり。嬢とは、はは、といふなり:宗務庁版英訳の注は、志閑の「爺」「嬢」というくだけた中国語を、道元禅師が日本の聞き手のために説明している、とする。
- 末山尼了然:末山の尼、了然。
- 志気の勝躅:こころざしのすぐれた先例。宗務庁版英訳の注は、「勝躅」をすぐれた歴史上の先例とする。
- 晩学の慣節:晩学(後から学ぶ者)の慣節(ならい手本とすべき節操)。宗務庁版英訳は "integrity to be emulated by later students" と訳す。慣節は訳さずに残し、語注で意を示した(→読みの分かれるところ)。
- 撃関破節:関を撃ち、節を破る。宗務庁版英訳の注は、ふつうには、修行の道をさまたげるあらゆる障りを除くことと取られ、『正法眼蔵』のほかの所で用いられる「透関破節」と同じ意であろう、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
妙信尼、廨院主となる#
【18】妙信尼は仰山の弟子である。仰山が、あるとき廨院主を選ぶのに、仰山はひろく勤旧・前資など(役をつとめ終えた僧たち)に問うた。「だれがその任にふさわしい人か」。問答をかわしたのち、仰山はついに言った。「信淮子(淮の出の信)は、女流ではあるが、大丈夫の志気がある。まさに廨院主とするにふさわしい」。大衆はみな応諾した。妙信はついに廨院主に充てられた。そのとき、仰山の会下にいた竜象(すぐれた修行者たち)はうらまなかった。まことに(廨院主は)非細の職ではないけれども、選ばれた自己としては、自愛してよいであろう。
語注
- 妙信尼:宗務庁版英訳の注は、道元禅師がこの尼について何に拠ったかは明らかでなく、ほかには知られない人物、とする。人名として訳さずに残した。
- 仰山:仰山慧寂(803–887)。潙山霊祐(771–853)の弟子(宗務庁版英訳の注による)。人名として訳さずに残した。
- 廨院主:廨院をあずかる役。宗務庁版英訳の注は、「廨院」はもと役所の意で、寺院では、寺領の地代の取り立て、僧の食料の調達、来訪者の宿の手配、寺への布施の管理、俗の役所とのやりとりなどを受けもつ所をいう、とする。訳さずに残した。
- 選する:選ぶ。
- 勤旧・前資:宗務庁版英訳は「退任した上位・下位の役僧たち」と訳す。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- たれ人かその仁なる:だれがその人(ふさわしい人)か。
- 問答往来する:問答をやりとりする。
- 信淮子:宗務庁版英訳の注は、淮河の地方(いまの河南から安徽を経て江蘇に至る)を指すのであろう、とする。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 女流:女性。訳さずに残した。
- 大丈夫の志気あり:宗務庁版英訳の注は、第一回の【1】の「大丈夫」の仏教での意をここでも保つが、ここでは「真の男子」と読むほうがよいかもしれない、とする。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
- たへたり:その任にたえる、ふさわしい。
- 応諾:同意すること。
- 廨院主に充す:廨院主に充てられた(任じられた)。
- 会下:門下。
- 竜象:すぐれた修行者。宗務庁版英訳の注は、すぐれた修行者をいう語で、もとは大きな象をいうが、しばしば「竜と象」と解される、とする。訳さずに残した。
- うらみず:うらまなかった(不服に思わなかった)。
- 非細の職にあらざれども:非細の職(細かでない職、重い職)ではないけれども。宗務庁版英訳の注は、「非細の職」は六知事・六頭首のような主要な役職をいうとし、英訳は「本当に重い職ではなかったが」とする。廨院主がそれらの主要な役職ではない、という意に取った(→読みの分かれるところ)。
- 選にあたらん自己としては、自愛しつべし:選ばれた自己としては、自愛してよい(みずからを大切にし、喜びとしてよい)であろう。宗務庁版英訳は「任じられた者はおのずからそれを大切にしたであろう」と訳す。「つべし」を、当然・推量のいずれに取るか、「自己」が妙信のことか、一般に選ばれた者のことか、は決めかねる(→読みの分かれるところ)。
蜀僧十七人と風幡の話#
書き下し(漢文の部分) 仏法も也た未だ夢にも見ざること在り
訳 (妙信が)職に就いて廨院にいたとき、蜀の僧が十七人いて、党(なかま)を結んで師を尋ね道を訪ねていたが、仰山にのぼろうとして、夕暮れに廨院に宿をとった。休息しての夜話に、曹渓高祖の風幡の話を取り上げた。十七人のおのおのの言うことは、みな道不是(言い当てていない)であった。そのとき廨院主は、壁の外にいてそれを聞いて言った。「十七頭の瞎驢め。惜しいことだ、どれほどの草鞋をむだに費やしたことか。仏法も也た未だ夢にも見ざること在り(仏法は、まだ夢にも見ていない)」。
語注
- 充職して:職に充てられて(就いて)。
- 蜀僧:蜀の僧。宗務庁版英訳の注は、「蜀」はほぼいまの四川にあたる中国西南の地方とする。
- 黨をむすびて:なかまを組んで。
- 尋師訪道:師を尋ね、道を訪ねる(行脚する)。訳さずに残した。
- 薄暮:夕暮れ。
- 歇息する夜話:休息しての夜の話。
- 曹渓高祖の風幡の話:宗務庁版英訳の注は、六祖慧能が、寺の幡が動くのを見て、幡が動くのか風が動くのかと言い争う二人の僧に「あなたがたの心が動くのだ」と言った名高い話で、『景徳伝灯録』などに見え、道元禅師は真字『正法眼蔵』第146則に収め、「恁麼」の巻で論じている、とする。曹渓高祖は訳さずに残した。
- 挙す:(話を)取り上げる。
- 道不是:言うことが当たっていない。訳さずに残し、( )で意を添えた。
- 十七頭の瞎驢:十七頭の目の見えないロバ。宗務庁版英訳の注は、「瞎驢」は片目のロバの意にもなる、とする。
- おしむべし:惜しむべきことだ、残念なことだ。宗務庁版英訳は "How sad!" と訳す(→読みの分かれるところ)。
- いくばくの草鞋をかつひやす:どれほどの草鞋を(むだに)費やしたのか。宗務庁版英訳の注は、教えを求めて行脚する僧の草鞋が、歩きまわってすり切れることをいう、とする。
- 仏法も也た未だ夢にも見ざること在り:仏法は、まだ夢にも見たことがない。
【20】そのとき、ある行者が、廨院主が僧たちを不肯した(認めなかった)のを聞いて、十七僧に話したところ、十七僧はみな、廨院主が不肯したことをうらまず、自分たちの道不得(言い得なかったこと)を恥じて、ただちに威儀を具え、焼香礼拝して請問した(教えを請うた)。
語注
- 行者:宗務庁版英訳の注は、寺院に住んで役僧の下働きや手伝いをする、得度を待つ在家の者、とする。訳さずに残した。
- 不肯:うけがわない、認めない。訳さずに残した。
- 道不得:言い得ないこと。宗務庁版英訳の注は、風と幡について言うべきことを言えなかったことで、言いたりないことをいう定まった語、「道得」の否定とする。訳さずに残した。
- 威儀を具し:威儀(正式の身なりと作法)をととのえて。宗務庁版英訳の注は、僧の正式の衣と儀礼の作法をととのえることとする。
- 焼香礼拝:香をたき礼拝すること。
- 請問:教えを請い問うこと。
【21】廨院主は言った。「近前来(近くへ来なさい)」。
語注
- 近前来:前へ近づいて来い。書き下しは立てない。宗務庁版英訳は "Come forward!" と訳す。訳文は原文の語を残し、( )で意を添えた。
書き下し(漢文の部分) 「是れ風の動ずるにあらず、是れ幡の動ずるにあらず、是れ心の動ずるにあらず」
訳 十七僧が近くへ進み出る歩みがまだ止まらないうちに、廨院主は言った。「是れ風の動ずるにあらず、是れ幡の動ずるにあらず、是れ心の動ずるにあらず(風が動くのではない。幡が動くのではない。心が動くのでもない)」。
語注
- 近前するあゆみいまだやまざるに:近くへ進む歩みがまだ止まらないうちに。
- 是れ風の動ずるにあらず……是れ心の動ずるにあらず:【19】の語注の六祖の話(宗務庁版英訳の注によれば、六祖は「心が動く」と言った)を受けて、風・幡に加えて心をも否定している(→読みの分かれるところ)。
【23】このように為道する(言い示す)と、十七僧はみな有省であった(さとるところがあった)。礼謝して、師資の儀をなした。すみやかに西蜀へ帰り、ついに仰山にはのぼらなかった。まことにこれは三賢十聖の及ぶところではなく、仏祖嫡嫡の道業である。
語注
- 為道:(人のために)言い示すこと。訳さずに残した。
- 有省:さとるところがあること。訳さずに残した。
- 礼謝:礼拝して謝すること。
- 西蜀:宗務庁版英訳の注は、蜀の古い国をいうのに用いられることのある名とする。
- 三賢十聖:菩薩の道の段階(第一回の【7】の語注)。訳さずに残した。
- 仏祖嫡嫡の道業:仏祖から嫡々と(正統に)伝わる道業。宗務庁版英訳の注は「道業」を仏道の修行とする。訳さずに残した。
- まことにこれ……:「これ」が指すもの(妙信のことば、十七僧が有省したこと、全体のできごと)は原文に示されない(→読みの分かれるところ)。
比丘尼の得法せらんを請ずべし#
【24】そうであるから、いまも住持や半座の職が空いているときには、比丘尼で得法している者を請ずる(招く)べきである。比丘で高年宿老であっても、得法していないならば、何の役に立とうか。為衆の主人は、かならず明眼によるべきである。
語注
- 住持:寺の主。訳さずに残した。
- 半座の職:宗務庁版英訳の注は、住持が講じるときに代わって座を分けもつ首座の職、とする。半座は訳さずに残した。
- 比丘尼の得法せらんを請ずべし:比丘尼の、得法している者を請ずべきである。
- 高年宿老:年の高い、長老。訳さずに残した。
- なにの要かあらん:何の必要(用)があろうか。
- 為衆の主人:大衆のための主人(大衆をみちびく者)。宗務庁版英訳は "The leaders of the community" と訳す。
- 明眼によるべし:明眼(明らかな眼、仏法を見る眼)をもつかどうかによるべきである。明眼は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
解説#
今回読むところ#
前回は、巻の冒頭から、「仏道を見聞せざるなり。」(第一回の【8】)までを読みました。導師に出会うことはもっともむずかしい。その導師は、男女等の相によるのではない。髄を得ること、法を伝えることは至誠と信心により、ただ法を重くし、身を軽くするのである。たとえ露柱・燈籠・野干・男女であっても、法を得ているものであれば、身心を牀座にして仕えるべきである――そのように説かれたあとで、「われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず」「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」と、自分の立場にとらわれて得法の人を拝さない人々が、きびしく戒められていました。
今回は、「むかし唐朝の趙州真際大師」(【1】)から、「為衆の主人、かならず明眼によるべし。」(【24】)までを読みます。前回の教えが、中国の祖師たちの話によって、具体的に示されていく範囲です。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。
- 【1】 趙州の発足行脚
- 【2】〜【4】 志閑禅師と臨済
- 【5】〜【16】 志閑禅師と末山了然
- 【17】 臨済爺爺・末山嬢嬢
- 【18】 妙信尼、廨院主となる
- 【19】〜【23】 蜀僧十七人と風幡の話
- 【24】 比丘尼の得法せらんを請ずべし
前回の終わりに描かれていたのは、「われは……なり」と、年齢や地位や性によって得法の人を拝さない人々の姿でした。今回の範囲に描かれるのは、ちょうどその逆の姿です。七歳の子にも学ぼうと誓って行脚に出た趙州。比丘尼である末山了然を礼拝して師とした志閑禅師。女性である妙信を廨院主に選んだ仰山と、それをうらまなかった修行者たち。そして、妙信のひとことに礼拝して教えを請うた十七人の僧。前回の戒めの言葉と、今回の話とを、表と裏として読み合わせていくと、この巻の言わんとするところが、いっそうはっきりと見えてくるように思われます。
今回の範囲に登場する人々について、本解説では、生没年や師弟の関係などは、宗務庁版英訳の注が挙げる範囲にとどめ、その人がらや心のうちを、本文に書かれていることを越えて推しはかることはしません。本文が、その人の言葉と行いとして記していることを、そのまま受けとめていきたいと思います。
読みの分かれる箇所では、訳文の読みに沿って説きながら、一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示します。とくに、志閑禅師と末山了然尼の問答(【9】〜【14】)は、短い言葉のやりとりに、いくつもの読みの重なりがありますので、本解説でも一つに決めないでおきます。
趙州の発足行脚〔【1】〕#
七歳なりとも、百歳なりとも#
今回の範囲は、趙州の話から始まります。
「むかし唐朝の趙州真際大師、こころをおこして発足行脚せしちなみにいふ、たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われかれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われかれををしふべし。」(【1】)
むかし、唐の趙州真際大師が、こころをおこして行脚の旅に出たときに言った。「たとえ七歳であっても、わたしよりもまさっているならば、わたしは彼に問おう。たとえ百歳であっても、わたしよりも劣っているならば、わたしは彼に教えよう」と。
宗務庁版英訳の注によれば、趙州真際大師は趙州従諗(778–897)のことで、「真際大師」は諡号、「趙州」は、従諗が観音院に長く住した州の名です。同じ注は、行脚に出るときの、七歳の子にも学ぼうというこの誓いはいくつかの文献に見え、道元禅師はこの誓いを「柏樹子」「行持」の巻でもたたえておられる、としています。
この誓いの言葉は、まことに簡潔です。年齢は問わない。問うのは、法においてまさっているか、劣っているか、それだけである。七歳の子であっても、自分よりまさっていれば、自分がその子に問う。百歳の老人であっても、自分より劣っていれば、自分がその人に教える。
前回の【7】で、「われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず」「われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず」という言葉が戒められていました。趙州の誓いは、まさにその逆です。年少であること、あとから来たことは、問うことをためらう理由にはならない。前回読んだ【5】の「たとひ露柱なりとも、……男女なりとも、大法を保任し、吾髄を汝得せるあらば」という言葉を、趙州は、年齢について、そのまま身をもって示した、と受けとめることができるでしょう。
老漢、礼拝すべきなり#
「七歳に問法せんとき、老漢、礼拝すべきなり。奇夷の志気なり、古仏の心術なり。」(【1】)
七歳(の者)に法を問うときには、老漢(年老いた者)が礼拝すべきなのである。これは、奇夷の志気であり、古仏の心術である、と。
訳文は、趙州のことばを二つの「たとひ……」の文までとし、「七歳に問法せんとき」以下を、道元禅師の評として読みました。七歳の子に法を問うときには、年老いた者のほうが礼拝すべきである、と。ここに、巻名の「礼拝」が、ふたたびはっきりとあらわれます。問う、ということは、ただ言葉で尋ねることではない。礼拝して問う、ということです。
「老漢」について、宗務庁版英訳の注は、だれであれ老人を指すとも取れるし、ある伝えでは行脚に出たときすでに六十歳であったという趙州自身を指すとも取れる、としています。年老いた者一般への言葉として読めば、だれであれ、年少の得法の人に法を問うときには、年長の者が礼拝すべきだ、ということになります。趙州自身と読めば、年老いた趙州が、七歳の子に礼拝して問う、その姿が思い浮かびます。
「奇夷の志気」について、宗務庁版英訳の注は、『老子』で道について言われる「希夷」の言いかえだとしています。まれで、はかりがたい志、ということです。「古仏の心術」の「古仏」は、同じ注によれば、過去の諸仏とも、禅の伝統のさとった師たちとも、「趙州古仏」と呼ばれた趙州自身とも取れる語です。どの読みを取るにしても、年老いた者が年少の者に礼拝して法を問うことを、道元禅師が、まれな志であり、古仏の心のはたらきであると、高くたたえておられることは変わりません。
得道得法の比丘尼、出世せるとき#
そして、この段は、次の言葉で結ばれます。
「得道得法の比丘尼、出世せるとき、求法参学の比丘僧、その会に投じて礼拝問法するは、参学勝躅なり。たとへば、渇に飲にあふがごとくなるべし。」(【1】)
得道得法の比丘尼が出世したとき、求法参学の比丘僧が、その会に身を投じて礼拝し法を問うのは、参学の勝躅(すぐれた先例)である。たとえば、渇いたときに飲み物に出会うようなものであるはずだ、と。
趙州の誓いは、年齢についての言葉でした。けれども、道元禅師は、ここで話を一歩進めて、比丘尼と比丘僧のことを言われます。道を得、法を得た比丘尼が、師として世に出たならば、法を求める比丘僧は、その門下に身を投じて、礼拝して法を問う。それが、参学のすぐれた先例である、と。
ここで、年齢についての趙州の誓いが、そのまま、性についての言葉へと広げられていることに、目をとめておきたいと思います。七歳の子であっても、まさっていれば問う。それならば、比丘尼であっても、得法していれば、礼拝して問う。前回の【7】で「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」と言っていた人々とは、正反対の姿です。
「渇に飲にあふがごとく」。のどが渇いているときに、水に出会う。そのとき、だれが、その水を差し出す人の年齢や性を問うでしょうか。法を求める心が本当であれば、法を得た人に出会ったとき、その人が比丘尼であるかどうかは、問題にならないはずだ、と受けとめることができるでしょう。前回の【4】で「その法をおもくする志気」と言われていたものが、ここでは、渇いた者が水を求めるような、切実な心として示されている、と見ることもできます。
志閑禅師と臨済〔【2】〜【4】〕#
続いて、志閑禅師の話が始まります。今回の範囲の中心となる話です。
「震旦国の志閑禅師は、臨済下の尊宿なり。臨済ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、「領也」。」(【2】)
中国の志閑禅師は、臨済門下の尊宿である。臨済が、あるとき師(志閑)がやって来るのを見て、つかまえて引きとめると、師は言った。「領也」と。
宗務庁版英訳の注によれば、志閑禅師は灌渓志閑(895年没)、臨済は臨済義玄(866年没)です。
臨済が、やって来た志閑をつかまえて引きとめる。志閑は「領也」と言う。宗務庁版英訳の注は、「領」は、わかった、領解した、という意味だが、もとは首やえりの意味で、えりをつかまれた、おさえられた、という意味にもなり、その掛けことばになっている、としています。わかりました、とも、つかまりました、とも聞こえる。訳文は、原文の語のまま「領也」と残しました。
「臨済はなちていはく、「且放儞一頓」。」(【3】)
書き下しでは、「且く儞に一頓を放さん」。臨済は手を放して言った。「まあ、おまえに一頓(ひとしきりの棒打ち)は放して(ゆるして)やろう」と。
宗務庁版英訳の注は、おまえは一打ちに値するが、ゆるしてやろう、という意味で、「頓」は打つ回数にも食事の回数にも用いる語なので、「一頓」を一食と取り、一晩泊めてやろう、と読む人もある、としています。
「これより臨済の子となれり。」(【4】)
これ以来、志閑は臨済の子となった、と。「子」は、法の子、弟子です。この「子」という言葉は、【16】【17】の「爺爺」(父)という言葉へとつながっていきます。
ここまでは、志閑禅師が、臨済の弟子となった話です。尊宿と呼ばれる志閑禅師が、まず臨済という師に出会い、その子となった。そして、その志閑禅師が、臨済のもとを離れたのちに出会うのが、末山了然尼です。
志閑禅師と末山了然〔【5】〜【16】〕#
末山了然尼#
「臨済をはなれて末山にいたるに、末山とふ、「近離甚処」。」(【5】)
志閑が臨済のもとを離れて末山に至ると、末山が問うた。「近離、甚の処ぞ」(近ごろ、どこを離れて来たのか)と。
宗務庁版英訳の注によれば、末山了然(生没年未詳)は、高安大愚(生没年未詳)の法を嗣いだ比丘尼で、「末山」は、いまの江西省にある山の名です。同じ注は、志閑と末山の出会いの話は『景徳伝灯録』などいくつかの文献に見え、道元禅師も『永平寺知事清規』でこの話を語っておられる、としています。道元禅師が、この巻のほかにも、この話を取り上げておられることは、心にとめておいてよいでしょう。
「近離甚処」は、行脚してきた僧に、どこから来たかを問う言い方です。これに、志閑は答えます。
路口と蓋却#
「師いはく、「路口」。」(【6】)
「末山いはく、「なんぢなんぞ蓋却しきたらざる」。」(【7】)
師は言った。「路口(道の口)です」。末山は言った。「おまえは、どうして(その口に)蓋をしてこなかったのか」と。
宗務庁版英訳の注は、「路口」は道の始まり、あるいは分かれ道の意味だが、末山は「口」の字の「くち」の意味に掛けて応じている、としています。道の口から来ました、と言う志閑に、それなら、どうしてその口に蓋をしてこなかったのか、と末山は返します。
この「蓋却」の受けとめ方には幅があります。口に蓋をしてこなかった、ものを言いすぎる、という含みを読むこともできますし、道の口をふさいでこなかった、来たあとを断たずに来た、という含みを読むこともできるでしょう。
「師、無語。すなはち礼拝して師資の礼をまうく。」(【8】)
師は言葉がなかった。そこで礼拝して、師資の礼をとった、と。
ここで、志閑は答えることができませんでした。そして、礼拝して、師と弟子としての礼をとります。臨済門下の尊宿と呼ばれた志閑禅師が、比丘尼である末山に、言葉を失い、礼拝した。前回の【7】で戒められていた「得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」という言葉に対して、本文は、ここで、比丘尼を礼拝した尊宿の姿を示しています。
いかならんかこれ末山#
ところが、話はここで終わりません。
「師かへりて末山にとふ、「いかならんかこれ末山」。」(【9】)
「末山いはく、「不露頂」。」(【10】)
師は、かえって末山に問うた。「どのようなのが末山ですか」。末山は言った。「頂を露さず(頂をあらわさない)」と。
礼拝して師資の礼をとった志閑が、今度は逆に、末山に問います。「いかならんかこれ末山」。「末山」は山の名であり、同時に、目の前にいる了然の呼び名でもあります。山としての末山を問うのか、人としての末山を問うのか、その両方に掛かっていると受けとめることができます。
末山の答えは「不露頂」、頂をあらわさない。宗務庁版英訳の注は、ふつうには、末山は高くて頂が見えない、という意味に取られるとし、仏の頭頂の「無見頂相」(見ることのできない頂の相)に掛けているとする説もある、としています。山としては、高くて頂が見えない。人としては、了然が自らをあらわさない、という含みを読むこともできるでしょう。
非男女等相#
「師いはく、「いかならんかこれ山中人」。」(【11】)
「末山いはく、「非男女等相」。」(【12】)
師は言った。「どのようなのが山中人(この山の中の人)ですか」。末山は言った。「男女等の相に非ず」と。
山を問うたあとで、志閑は、その山の中にいる人を問います。それに末山は、「男女等の相に非ず」――男や女などの相ではない――と答えます。
この言葉は、前回の【1】、巻の第二の文で、導師について言われていた「その導師は、男女等の相にあらず」(第一回の【1】)と、同じ言葉です。道元禅師は、巻のはじめに、導師を「男女等の相にあらず」と示されました。そして、ここで、その言葉が、比丘尼である末山了然自身の口から語られます。巻頭の言葉は、この末山のことばを先取りしていた、と見ることもできるでしょう。
なんぢなんぞ変ぜざる#
「師いはく、「なんぢなんぞ変ぜざる」。」(【13】)
「末山いはく、「これ野狐精にあらず、なにをか変ぜん」。」(【14】)
師は言った。「あなたは、どうして(姿を)変えないのですか」。末山は言った。「わたしは野狐精ではない。何を変じようか」と。
男女等の相ではない、と言う末山に、志閑は、それなら、どうして変じないのか、と問います。
宗務庁版英訳の注は、このやりとりが、『維摩経』の、性の相についての名高い問答をなぞっている、としています。仏弟子の舎利弗が天女に「汝、何を以てか女身を転ぜざる」(あなたはどうして女の身を転じないのか)と問い、天女が「我、十二年よりこのかた、女人の相を求むるに了に得べからず。当に何をか転ずべき」(わたしは十二年このかた、女人の相を求めてきたが、ついに得ることができない。いったい何を転ずればよいのか)と答える、という問答です。
この注に沿って読むならば、志閑の問いは、男女等の相ではないと言うのなら、どうして(女の身を)変じないのか、という問いとして受けとめることができます。そして末山の答えは、わたしは化けて姿を変える狐の精ではない、もともと(変ずべき男女の相がないのだから)何を変じようか、と受けとめることができるでしょう。ただし、何を「変ずる」のか――女の身なのか、山中人としての相なのか――は、本文には示されていません。訳文は(姿を)と補うにとどめました。
「野狐精」という言葉にも、目をとめておきたいと思います。前回の【1】で、導師について「野狐精にして善知識ならん」と言われていました。宗務庁版英訳の注は、その巻頭の句が、この末山のことばを先取りしている、としています。巻頭では、導師は野狐精であっても善知識でありうる、と言われました。ここでは、末山が、自分は野狐精ではない、と言います。導師を、すがたかたちによって限らない、という巻頭の言葉と、男女の相によって変ずることのない末山のありようとが、「野狐精」という言葉を介して、響きあっていると見ることができます。
「師、礼拝す。」(【15】)
師は礼拝した、と。
志閑は、ふたたび礼拝しました。一度目は、言葉を失って礼拝し、師資の礼をとりました。二度目は、自分から問いかけ、その答えを聞いて、礼拝します。問答の最後に置かれた「師、礼拝す」という短い言葉に、この巻の名「礼拝得髄」が、そのまま重なっているように思われます。
園頭をつとむること、始終三年#
「つひに発心して園頭をつとむること、始終三年なり。」(【16】)
志閑は、ついに発心して、園頭をつとめること、まる三年であった、と。
「園頭」は、寺の菜園をあずかる役です。尊宿と呼ばれた志閑が、三年のあいだ、菜園をつとめた。どこで園頭をつとめたのかを、本文は記していません。問答に続けて書かれていることから、末山のもとでのことと受けとめることもできますが、本文からはそこまでは決められません。
「発心して」は、菩提心をおこして、と取ることもできますし、宗務庁版英訳のように、自ら進んで、という意味に取ることもできます。訳文は、原文の語のまま「発心して」としました。
臨済爺爺・末山嬢嬢#
そして、志閑はのちに、自ら師として世に出たとき、大衆にこう示します。
「のちに出世せりしとき、衆にしめしていはく、「われ臨済爺爺のところにして半杓を得しき、末山嬢嬢のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて、喫しおはりて、直至如今飽餉餉なり」。」(【16】)
のちに出世したとき、大衆に示して言った。「わたしは、臨済爺爺(臨済おやじ)のところで半杓を得、末山嬢嬢(末山おかあさん)のところで半杓を得た。二つを合わせて一杓にして、飲みおわって、いまに至るまで、満ち足りて腹いっぱいである」と。
宗務庁版英訳の注は、このことばは、多少の違いをもって、いくつかの文献に見えるとしています。
「爺爺」は父、「嬢嬢」は母をいう、くだけた言葉です。志閑は、臨済を父と呼び、末山を母と呼びます。そして、父のところで半分のひしゃくを、母のところで半分のひしゃくを得て、二つを合わせて一つのひしゃくにして飲んだ、それで今に至るまで、満ち足りている、と。
「ともに一杓につくりて」は、二つの半杓を合わせて一杓にする、と読みました。臨済から得たものと、末山から得たものとが、どちらか一方だけでは半分であり、二つが合わさって一つになった、と志閑は言っています。その「半杓」「一杓」が何を喩えているのかは、本文に説明がありません。ここでは、臨済のもとで得たものと、末山のもとで得たものとが、志閑のなかで一つになった、という言葉として、そのまま受けとめておきたいと思います。
「直至如今飽餉餉」について、宗務庁版英訳の注は、道元禅師はここで漢文に切りかえているとし、「直至如今」は、よく用いられる定まった句、「飽餉餉」は、満ち足りて腹いっぱいのさまだ、としています。
臨済爺爺・末山嬢嬢〔【17】〕#
命脈ちからありて、功夫ちからありて#
志閑の示衆を受けて、道元禅師ご自身の言葉が続きます。
「いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の嬢となる。臨済は黄檗運禅師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。」(【17】)
いま、このことばを聞いて、昔日のあとを慕古すると、末山は高安大愚の神足(すぐれた弟子)であり、命脈に力があって志閑の嬢(母)となった。臨済は黄檗運禅師の嫡嗣(正統の後継ぎ)であり、功夫に力があって志閑の爺(父)となった、と。
「慕古」について、宗務庁版英訳の注は、伝統を愛し敬うことをいう、道元禅師の好んだ語の一つだとしています。
ここで道元禅師は、末山と臨済とを、きちんと並べて述べておられます。末山は高安大愚の神足、臨済は黄檗希運の嫡嗣。どちらも、正しい法の系譜に連なる人です。そして、末山は「命脈ちからありて」志閑の母となり、臨済は「功夫ちからありて」志閑の父となった。宗務庁版英訳の注は、「命脈」を、その法系の血すじ、という意味だとしています。
末山には「命脈」、臨済には「功夫」と、言葉を言い分けていることに、何か意味を読むべきか、あるいは、どちらも同じことを言う、たがいに言いかえた言葉と見るべきかは、本文からは決まりません。いずれにしても、ここで大切なのは、比丘尼である末山と、臨済とが、まったく同じ重さで、同じ形の文で並べられている、ということでしょう。一方が男であり、他方が女であることによる区別は、ここでの文の形には見られません。どちらも、法の系譜に連なり、力をもって、志閑の親となった。
爺とは、ちち、といふなり#
「爺とは、ちち、といふなり。嬢とは、はは、といふなり。」(【17】)
宗務庁版英訳の注は、志閑の「爺」「嬢」というくだけた中国語を、道元禅師が日本の聞き手のために説明しているのだ、としています。父である、母である、と。道元禅師は、その言葉の意味を、わざわざ説き明かしておられます。
志気の勝躅、晩学の慣節#
「志閑禅師の、末山尼了然を礼拝求法する、志気の勝躅なり、晩学の慣節なり、撃関破節といふべし。」(【17】)
志閑禅師が末山尼了然を礼拝して法を求めたことは、志気の勝躅(すぐれた先例)であり、晩学の慣節であり、撃関破節というべきである、と。
道元禅師は、志閑禅師が末山を礼拝して法を求めたことを、三つの言葉でたたえておられます。
「志気の勝躅」。前回の【4】で、「その法をおもくする志気、ひとつにあらず」と言われていました。志閑の礼拝求法は、まさにその「法をおもくする志気」の、すぐれた先例である、と。【1】でも、比丘尼の会に身を投じて礼拝問法することを「参学勝躅」と言っていました。
「晩学の慣節」。後から学ぶ者が、ならい手本とすべき節操、と語注では取りました。宗務庁版英訳も、のちの学ぶ者が見ならうべき志操、という向きに訳しています。ならわし、規範、と受けとめることもできます。
「撃関破節」。関を撃ち、節を破る。宗務庁版英訳の注は、ふつうには、修行の道をさまたげるあらゆる障りを除くことと取られ、『正法眼蔵』のほかの所で用いられる「透関破節」と同じ意味であろう、としています。
尊宿である志閑禅師が、比丘尼である末山を礼拝して、法を求めた。そのことが、修行の障りを撃ち破ることだ、と言われます。前回の【7】に並べられていた「われは……なり、……拝すべからず」は、いわば、修行の道に自ら立てた関所のようなものでした。志閑禅師は、その関所を撃ち破った、と受けとめることもできるでしょう。
妙信尼、廨院主となる〔【18】〕#
信淮子、これ女流なりといへども#
続いて、もう一人の比丘尼、妙信尼の話が引かれます。
「妙信尼は仰山の弟子なり。仰山ときに廨院主を選するに、仰山あまねく勤旧・前資等にとふ、「たれ人かその仁なる」。」(【18】)
妙信尼は仰山の弟子である。仰山が、あるとき廨院主を選ぶのに、仰山はひろく勤旧・前資など(役をつとめ終えた僧たち)に問うた。「だれがその任にふさわしい人か」と。
宗務庁版英訳の注によれば、仰山は仰山慧寂(803–887)、潙山霊祐(771–853)の弟子です。妙信尼については、同じ注は、道元禅師がこの尼について何に拠ったかは明らかでなく、ほかには知られない人物だ、としています。
「廨院」について、宗務庁版英訳の注は、もとは役所の意味で、寺院では、寺領の地代の取り立て、僧の食料の調達、来訪者の宿の手配、寺への布施の管理、俗の役所とのやりとりなどを受けもつ所をいう、としています。寺の外とのやりとりを含む、実務を受けもつ所です。この廨院がどこにあったのか(仰山の寺の中か、そこから離れた所か)は、本文には書かれていません。
その廨院主を選ぶにあたって、仰山は、ひろく役をつとめ終えた僧たちに意見を問います。
「問答往来するに、仰山つひにいはく、「信淮子、これ女流なりといへども、大丈夫の志気あり。まさに廨院主とするにたへたり」。衆みな応諾す。妙信つひに廨院主に充す。」(【18】)
問答をかわしたのち、仰山はついに言った。「信淮子(淮の出の信)は、女流ではあるが、大丈夫の志気がある。まさに廨院主とするにふさわしい」。大衆はみな応諾した。妙信はついに廨院主に充てられた、と。
宗務庁版英訳の注は、「信淮子」の「淮」は淮河の地方を指すのであろう、としています。
大丈夫の志気あり#
仰山は、妙信について、「女流なりといへども、大丈夫の志気あり」と言います。
この「大丈夫」は、前回の【1】で、導師について「大丈夫なるべし」と言われていた言葉です。宗務庁版英訳の注は、ここでも【1】の仏教での意味を保っているが、ここでは「真の男子」と読むほうがよいかもしれない、としています。
この語をどう受けとめるかは、この巻の主題にかかわる、大切なところです。仰山の言葉は、「女流なりといへども」――女性ではあるが――と続いていますから、ここには、男子という含みが響いていると読むこともできるでしょう。一方で、前回の【1】で、「男女等の相にあらず」に続けて「大丈夫なるべし」と言われていたことを思えば、ここでの「大丈夫」も、男女の相によらない、仏の称号としての大丈夫――偉大な人――として受けとめることもできます。本解説では、どちらにも決めないでおきます。
ただ、どちらに読むにしても、仰山が、廨院主を選ぶにあたって見たのは、その人が女性であるかどうかではなく、その人に「志気」があるかどうかであった、ということは、本文のとおりです。「女流なりといへども」という言葉は、女性であることを、選ぶ妨げとしなかった、ということを示しています。そして、大衆はみな応諾しました。
竜象うらみず#
「ときに仰山の会下にある竜象うらみず。」(【18】)
そのとき、仰山の会下にいた竜象(すぐれた修行者たち)は、うらまなかった、と。
宗務庁版英訳の注は、「竜象」は、すぐれた修行者をいう語だとしています。仰山の門下には、すぐれた修行者たちがいました。その人々は、女性である妙信が廨院主に選ばれたことを、うらまなかった。
前回の【7】の「われは……なり、……拝すべからず」と並べて読むと、この「うらみず」という短い言葉の重みが感じられます。自分のほうが年上だ、自分のほうが長く修行している、自分は男だ、と思えば、うらむ理由はいくらでもあったかもしれません。けれども、仰山の門下の竜象たちは、うらまなかった。本文は、そのことを、さりげなく、しかしはっきりと記しています。
非細の職、自愛しつべし#
「まことに非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては、自愛しつべし。」(【18】)
まことに(廨院主は)非細の職ではないけれども、選ばれた自己としては、自愛してよいであろう、と。
この一文は、読みの分かれるところです。
「非細の職」について、宗務庁版英訳の注は、六知事・六頭首のような主要な役職をいうとし、英訳は「本当に重い職ではなかったが」という向きに訳しています。訳文もそれに従って、廨院主は主要な役職ではないけれども、と取りました。一方で、「非細」を「細かでない、軽くない」と取り、それを打ち消して「軽い職であるが」と読む読みや、「まことに非細の職(重い職)にほかならないが」と、逆に読む余地もあります。
「選にあたらん自己としては、自愛しつべし」も、選ばれた者としては、みずからを大切にし、喜びとしてよいであろう、と受けとめることもできますし、宗務庁版英訳のように、選ばれた者は、その職を大切にしたであろう、と受けとめることもできます。また、修行者一般に向けて、選ばれたならば自愛せよ、とすすめる言葉と受けとめることもできるでしょう。「自己」が妙信のことなのか、選ばれた者一般のことなのかも、本文からは決めかねます。
どの読みを取るにしても、廨院主という職に選ばれたことを、軽んじることなく大切にする、という向きは、それぞれの読みに通じているように思われます。
蜀僧十七人と風幡の話〔【19】〜【23】〕#
十七人おのおのいふこと、みな道不是なり#
妙信が廨院主になってからの話が続きます。
「充職して廨院にあるとき、蜀僧十七人ありて、黨をむすびて尋師訪道するに、仰山にのぼらんとして、薄暮に廨院に宿す。歇息する夜話に、曹渓高祖の風幡の話を挙す。十七人おのおのいふこと、みな道不是なり。」(【19】)
妙信が職に就いて廨院にいたとき、蜀の僧が十七人いて、なかまを組んで師を尋ね道を訪ねていたが、仰山にのぼろうとして、夕暮れに廨院に宿をとった。休息しての夜話に、曹渓高祖の風幡の話を取り上げた。十七人のおのおのの言うことは、みな言い当てていなかった、と。
宗務庁版英訳の注によれば、「蜀」は、ほぼいまの四川にあたる中国西南の地方です。「曹渓高祖の風幡の話」について、同じ注は、六祖慧能が、寺の幡が動くのを見て、幡が動くのか風が動くのかと言い争う二人の僧に、「あなたがたの心が動くのだ」と言った名高い話で、道元禅師は真字『正法眼蔵』に収め、「恁麼」の巻で論じておられる、としています。
師を尋ねて仰山にのぼろうとする十七人の僧が、廨院に宿をとり、夜、六祖の風幡の話を論じあった。けれども、だれの言うことも、言い当てていなかった。
十七頭の瞎驢#
「ときに廨院主、かべのほかにありてききていはく、「十七頭の瞎驢、おしむべし、いくばくの草鞋をかつひやす、仏法也未夢見在」。」(【19】)
そのとき廨院主は、壁の外にいてそれを聞いて言った。「十七頭の瞎驢め。惜しいことだ、どれほどの草鞋をむだに費やしたことか。仏法は、まだ夢にも見ていない」と。
「瞎驢」は、目の見えないロバです。宗務庁版英訳の注は、片目のロバの意味にもなる、としています。「草鞋」について、同じ注は、教えを求めて行脚する僧の草鞋が、歩きまわってすり切れることをいう、としています。
壁の外で聞いていた妙信は、まことにきびしい言葉を投げかけます。十七頭の目の見えないロバ。どれほど草鞋をすり減らして行脚してきたことか。それなのに、仏法は、まだ夢にも見ていない、と。「おしむべし」は、惜しいことだ、と訳しましたが、宗務庁版英訳のように、気の毒だ、と受けとめることもできます。
十七僧ともに廨院主の不肯するをうらみず#
「ときに行者ありて、廨院主の、僧を不肯するをききて、十七僧にかたるに、十七僧ともに廨院主の不肯するをうらみず、おのれが道不得をはぢて、すなはち威儀を具し、焼香礼拝して請問す。」(【20】)
そのとき、ある行者が、廨院主が僧たちを認めなかったのを聞いて、十七僧に話したところ、十七僧はみな、廨院主が認めなかったことをうらまず、自分たちの言い得なかったことを恥じて、ただちに威儀を具え、焼香礼拝して教えを請うた、と。
宗務庁版英訳の注によれば、「行者」は、寺院に住んで役僧の手伝いをする、得度を待つ在家の者です。「威儀を具し」は、僧の正式の衣と儀礼の作法をととのえることだ、と同じ注はしています。
ここでもまた、「うらみず」という言葉が出てきます。【18】で、仰山の門下の竜象たちは、妙信が廨院主に選ばれたことをうらみませんでした。ここで、十七人の僧たちは、妙信に「瞎驢」と言われたことをうらみませんでした。そして、自分たちが言い得なかったことを恥じて、ただちに正式の衣と作法をととのえ、香をたき、礼拝して、教えを請うた。
前回の【7】の人々であれば、「われは……なり」と言って、拝さなかったかもしれません。相手は廨院の役をつとめる尼である、自分たちは師を尋ねて仰山にのぼろうとしている僧である、と。けれども、十七人の僧たちは、そうしませんでした。自分たちの道不得を恥じた。この「はぢて」という言葉に、前回の【4】の「法をおもくし、身をかろくする」ということの、具体的な姿を見ることができるのではないでしょうか。
不是風動、不是幡動、不是心動#
「廨院主いはく、「近前来」。」(【21】)
廨院主は言った。「近前来(近くへ来なさい)」と。
「十七僧近前するあゆみいまだやまざるに、廨院主いはく、「不是風動、不是幡動、不是心動」。」(【22】)
十七僧が近くへ進み出る歩みがまだ止まらないうちに、廨院主は言った。「是れ風の動ずるにあらず、是れ幡の動ずるにあらず、是れ心の動ずるにあらず(風が動くのではない。幡が動くのではない。心が動くのでもない)」と。
十七人の僧が、近くへ進み出る。その歩みがまだ止まらないうちに、妙信は言います。風が動くのではない。幡が動くのではない。心が動くのでもない。
宗務庁版英訳の注によれば、六祖は、風でも幡でもなく「心が動く」と言いました。妙信は、それに加えて、心が動くのでもない、と言います。六祖のことばをも、さらに否定しているように見えます。このことを、どのように受けとめるかには幅があります。本文は、その意味を説明していません。本解説でも、妙信のことばの意味を一つに定めることはせず、本文がこのことばを、十七人の僧が歩みを止めないうちに、ただちに示されたものとして記していることに、目をとめておきたいと思います。
十七僧ともに有省なり#
「かくのごとく為道するに、十七僧ともに有省なり。礼謝して師資の儀をなす。すみやかに西蜀にかへる。つひに仰山にのぼらず。」(【23】)
このように言い示すと、十七僧はみな、さとるところがあった。礼拝して謝し、師資の儀をなした。すみやかに西蜀へ帰り、ついに仰山にはのぼらなかった、と。
十七人の僧は、みな有省――さとるところがありました。そして、礼拝して謝し、妙信とのあいだに師と弟子としての儀をなしました。彼らは、もともと仰山を訪ねるために旅をしてきたのでした。けれども、仰山にのぼろうとして宿をとった廨院で、妙信のひとことに出会い、師資の儀をなして、すみやかに西蜀へ帰っていった。ついに仰山にはのぼらなかった。
ここには、【1】の趙州の誓いと、同じ形が見えるように思われます。仰山を訪ねるつもりであった。けれども、仰山にのぼる前に、廨院の役をつとめる比丘尼のことばに出会った。そうであれば、そこで礼拝して問う。そして、その人を師とする。この十七人の僧は、志閑禅師と同じように、比丘尼を礼拝して、師資の儀をなしたのです。
三賢十聖のおよぶところにあらず#
「まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず、仏祖嫡嫡の道業なり。」(【23】)
まことにこれは、三賢十聖の及ぶところではなく、仏祖嫡嫡の道業である、と。
宗務庁版英訳の注は、「道業」を仏道の修行としています。
ここで、「三賢十聖」という言葉が出てくることに、目をとめておきたいと思います。前回の【7】で、「われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を礼拝すべからず」と言う人々が戒められていました。自分は菩薩の位にある、だから比丘尼を礼拝しない、と言う人々です。ここで道元禅師は、比丘尼に礼拝して師資の儀をなした十七人の僧のできごとを、「三賢十聖のおよぶところにあらず」と言われます。三賢十聖――菩薩の道の段階にある者――の及ぶところではない、と。前回の「われは三賢十聖なり」と、自らの位をたのんで比丘尼を拝さない人々の言葉を思い合わせると、前回の戒めの言葉と、ここでの言葉とが、本文のなかで呼応していると見ることもできるでしょう。
「これ」が何を指すのか――妙信の為道なのか、十七僧が有省し礼謝したことなのか、このできごと全体なのか――は、本文に示されていません。どれと取るにしても、それが「仏祖嫡嫡の道業」――仏祖から正しく伝わってきた仏道の修行――だ、と言われていることは変わりません。
比丘尼の得法せらんを請ずべし〔【24】〕#
今回の範囲は、次の言葉で結ばれます。
「しかあれば、いまも住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請ずべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。為衆の主人、かならず明眼によるべし。」(【24】)
そうであるから、いまも住持や半座の職が空いているときには、比丘尼で得法している者を請ずる(招く)べきである。比丘で高年宿老であっても、得法していないならば、何の役に立とうか。為衆の主人は、かならず明眼によるべきである、と。
「半座の職」について、宗務庁版英訳の注は、住持が講じるときに代わって座を分けもつ首座の職だ、としています。
ここで、道元禅師は、中国の昔の話から、「いまも」と、ご自身の時代へと話を向けられます。住持や首座の職が空いたならば、得法している比丘尼を招くべきである、と。寺の主であり、大衆をみちびく住持の職に、比丘尼を招け、と言われるのです。
そして、比丘であって、年が高く、長老であっても、得法していなければ、何の役に立とうか、と続きます。前回の【7】で、「われは大比丘なり」「われは久修練行なり」と言っていた人々の言葉が、ここで、正面から退けられています。年齢も、修行の年数も、比丘であることも、得法していなければ、大衆をみちびく者としての要にはならない。
「為衆の主人、かならず明眼によるべし」。大衆のための主人は、かならず明眼――明らかな眼、仏法を見る眼――によるべきである。この句の受けとめ方には幅があります。大衆の主人は、かならず明眼の人によって選び立てるべきである、と受けとめることもできますし、大衆の主人のよりどころは明眼である、男女や年齢ではない、と受けとめることもできるでしょう。
どちらに読むにしても、ここで言われていることは、前回の巻頭の言葉と、まっすぐにつながっています。導師は、男女等の相によるのではない。師であるかどうかを決めるのは、ただ法を得ているかどうか、明らかな眼をもっているかどうかである。趙州の誓い、志閑禅師と末山了然、妙信と十七人の僧の話を経て、その教えが、いまの寺の住持や首座を選ぶという、具体的なことがらとして示された、と受けとめることができるでしょう。
坐禅と日々の暮らしのなかで#
今回の範囲を、坐禅と日々の修行のなかで受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文が直接に坐禅について語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。
七歳の子にも問う#
趙州の誓いは、「たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われかれにとふべし」というものでした。
年を重ねるにつれて、人に問うことは、だんだんむずかしくなるものかもしれません。自分より若い人に、わからないことを尋ねる。自分より後から来た人に、教えを請う。それは、ときに、自分の積み重ねてきたものを否定されるように感じられることもあるでしょう。
けれども、趙州は、行脚に出るにあたって、そのことを、まず自らに誓いました。そして道元禅師は、七歳の子に法を問うときには、老漢が礼拝すべきである、と言われました。問う相手の年齢ではなく、その人のもつものを見る。そして、まさっていれば、礼拝して問う。
これは、修行の場に限ったことではないでしょう。家庭のなかで、子どもや孫の言葉に、はっとさせられることがあります。職場で、若い人の考えに、学ぶことがあります。そうしたときに、「われは……なり」という思いをおろして、素直に耳を傾けることができるかどうか。趙州の誓いは、日々の暮らしのなかの、そのような小さな場面にも、静かに問いかけているように思われます。
言葉を失ったとき、礼拝する#
志閑禅師は、末山に「なんぢなんぞ蓋却しきたらざる」と言われて、言葉を失いました。そして、そこで礼拝しました。
私たちは、答えられないとき、言い返す言葉が見つからないとき、ともすると、その場をつくろったり、相手を軽んじたりしてしまいがちです。けれども、志閑禅師は、言葉を失ったそのところで、身を低くして礼拝しました。そしてそのうえで、あらためて自分から問いかけ、その答えを聞いて、ふたたび礼拝しました。
十七人の僧たちも、きびしい言葉を投げかけられたとき、それをうらまずに、自分の道不得を恥じ、威儀をととのえ、焼香礼拝して教えを請いました。
坐禅会で、指導する方から、坐り方や作法について注意を受けることがあるかもしれません。そうしたとき、それを、自分を否定されたこととしてではなく、教えを受けることとして受けとめる。十七人の僧のように、「うらみず」「はぢて」、そして身をととのえて教えを請う。そこに、この巻の言う「礼拝」の心が、身近なかたちであらわれるのではないでしょうか。
役をつとめること#
志閑禅師は、末山との問答ののち、三年のあいだ園頭――菜園をあずかる役――をつとめました。妙信は、仰山のもとで、廨院主に選ばれ、その職をつとめました。
修行道場では、坐禅をすることだけが修行なのではありません。食事をととのえること、畑の手入れをすること、来訪者を迎えること、寺の事務をすること。そうした役をつとめることもまた、修行です。本文は、尊宿である志閑禅師が三年のあいだ園頭をつとめたこと、そして妙信が廨院主として役をつとめていたそのところで十七人の僧に出会ったことを、記しています。役をつとめるその場が、そのまま法に出会う場でもあった、と受けとめることもできるでしょう。
私たちの日々の暮らしにも、さまざまな役目があります。家のなかでの役目、地域での役目、職場での役目。それを、修行とは別の、ただの用事としてではなく、その一つ一つを大切に、丁寧につとめていく。そこにもまた、この巻の言葉が響いてくるように思われます。
坐禅会で#
坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけでなく、近くの寺院の坐禅会などで指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。
坐禅会には、さまざまな方が集まります。年配の方も若い方も、男性も女性も、長く続けている方もはじめての方もおられます。けれども、坐禅の座に就けば、だれもが同じように坐り、同じように合掌し、同じように頭を下げます。そこでは、年齢や肩書きや性は、坐ることの値うちを決めるものではありません。
この巻の言葉に照らせば、坐禅会でともに坐る人々の姿にも、学ぶべきものがあるかもしれません。自分より若い人の、まっすぐな坐り姿に、はっとさせられることもあるでしょう。指導する方の言葉だけでなく、ともに坐る一人ひとりの姿から、何かを教えられる。そのように、心をひらいて坐ってみてください。
むすびに――趙州と志閑・妙信から、男女を論ずることなかれへ#
今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。
本文は、まず、趙州が行脚に出るにあたって、たとえ七歳であってもまさっていれば問い、たとえ百歳であっても劣っていれば教えよう、と誓ったことを引き、七歳に法を問うときには老漢が礼拝すべきである、と示しました。そして、得道得法の比丘尼が出世したならば、比丘僧がその会に身を投じて礼拝問法するのは参学のすぐれた先例であり、渇いた者が水に出会うようなものだ、と説かれました(【1】)。
続いて、臨済の子となった志閑禅師が、臨済のもとを離れて末山了然尼に出会い、言葉を失って礼拝し、師資の礼をとったこと、そして「男女等の相に非ず」「これ野狐精にあらず、なにをか変ぜん」という末山のことばを聞いて礼拝し、三年のあいだ園頭をつとめたこと、のちに「臨済爺爺のところで半杓を得、末山嬢嬢のところで半杓を得た」と大衆に示したことが引かれました(【2】〜【16】)。道元禅師は、末山を臨済と並べて志閑の母とし父とし、志閑禅師が末山を礼拝して法を求めたことを、志気の勝躅、晩学の慣節、撃関破節とたたえられました(【17】)。
さらに、仰山が「女流なりといへども、大丈夫の志気あり」として妙信を廨院主に選び、門下の竜象たちがそれをうらまなかったこと(【18】)、蜀の十七人の僧が妙信のきびしい言葉をうらまず、自らの道不得を恥じて礼拝請問し、「不是風動、不是幡動、不是心動」のひとことに有省して、師資の儀をなし、ついに仰山にのぼらず故郷に帰ったことが引かれ、それが三賢十聖の及ぶところではない、仏祖嫡嫡の道業であると言われました(【19】〜【23】)。
そして最後に、いまも住持や首座の職が空いたならば、得法の比丘尼を招くべきである、比丘が高年宿老であっても、得法していなければ何の役に立とうか、大衆の主人は、かならず明眼によるべきである、と結ばれました(【24】)。
前回の巻頭で、導師は「男女等の相にあらず」と示され、「法をおもくし、身をかろくする」ことが説かれました。今回は、その教えが、祖師たちの具体的な言葉と行いによって示されました。年老いた者が七歳の子に礼拝して問うこと。尊宿が比丘尼に礼拝して師とすること。女性を、その志気によって重い役に選ぶこと。きびしい言葉をうらまず、恥じて礼拝し教えを請うこと。前回の終わりに描かれた「われは……なり、……拝すべからず」という姿の、まさに裏側にあたる姿が、ここに並べられていた、と受けとめることができるでしょう。
次の回では、本文は、ふたたび道元禅師ご自身の言葉にもどり、得法の人を拝さない者たちのかたくなさを戒めたうえで、宋の国の寺院で比丘尼が住持に任じられるときのありさまを記し、「いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。」(第三回の【4】)と説いていきます。今回の祖師たちの話が、どのような教えとして示されていくのかを、見ていくことにします。
読みの分かれるところ#
この回の範囲では、祖師たちの短いことばのやりとりを中心に、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。
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「七歳に問法せんとき、老漢、礼拝すべきなり。奇夷の志気なり、古仏の心術なり」【1】
本書は、趙州のことばを二つの「たとひ……」の文までとし、ここからを道元禅師の評として読みました(宗務庁版英訳も同じ区切りです)。「老漢」は、だれであれ年老いた者とも、ある伝えでは行脚に出たとき六十歳であったという趙州自身とも取れる、と宗務庁版英訳の注は述べています。「古仏」も、過去の諸仏とも、禅の伝統のさとった師たちとも、「趙州古仏」と呼ばれた趙州とも取れます。どの読みでも、年老いた者が年少の者に礼拝して法を問うことがたたえられていることは変わりません。 -
「領也」「且放儞一頓」【2】【3】、「路口」「なんぢなんぞ蓋却しきたらざる」【6】【7】
「領也」は、わかりました(領解)とも、えりをつかまれた(つかまった)とも取れ、宗務庁版英訳の注はその掛けことばとしています。「一頓」は、一打ち(の棒)をゆるしてやる、と取るのが本書の訳ですが、「一頓」を一食と取り、一晩泊めてやろう、と読む人もある、と同じ注は述べています。末山の「蓋却」は、志閑の「路口」の「口」に掛けた応じ方と見られ、口に蓋をしてこなかった(ものを言いすぎる)という含みにも、道の口をふさいでこなかった(来たあとを断たずに来た)という含みにも読めます。 -
末山了然尼との問答【9】〜【14】
「いかならんかこれ末山」は、山としての末山を問うとも、人としての末山(了然)を問うとも、その両方に掛かるとも取れます。「不露頂」は、ふつうには山が高くて頂が見えない、の意に取られ、仏の「無見頂相」に掛けているとする説もある、と宗務庁版英訳の注は述べています。了然が自らをあらわさない、という含みを読むこともできます。「非男女等相」は、第一回の【1】で導師について言われた「男女等の相にあらず」と同じ言葉です。「なんぢなんぞ変ぜざる」については、宗務庁版英訳の注が、『維摩経』で舎利弗が天女に女身を転じないわけを問う問答をなぞっている、としていますが、何を「変ずる」のか(女の身か、山中人としての相か)は、本文に示されていません。 -
「つひに発心して園頭をつとむること、始終三年なり」「ともに一杓につくりて」【16】
「発心して」は、菩提心をおこして、とも、自ら進んで(宗務庁版英訳)とも取れます。志閑がどこで園頭をつとめたのかは、本文に記されていません。問答に続けて書かれていることから、末山のもとでのことと受けとめることもできますが、本文からはそこまでは決められません。臨済と末山のところで得た二つの「半杓」を合わせた「一杓」が何を喩えるのかも、本文に説明はありません。 -
「命脈ちからありて」「功夫ちからありて」「晩学の慣節」「撃関破節」【17】
末山に「命脈」、臨済に「功夫」と言い分けていることに意味を読むか、たがいに言いかえた言葉と見るかは、本文からは決まりません。「慣節」は、後から学ぶ者が手本とすべき節操(本書の訳、宗務庁版英訳も同じ向き)とも、ならわし・規範とも取れます。「撃関破節」は、宗務庁版英訳の注によれば、ふつうには修行の道をさまたげるあらゆる障りを除くことと取られ、「透関破節」と同じ意味であろう、とされています。 -
「大丈夫の志気あり」「まことに非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては、自愛しつべし」【18】
「大丈夫」は、第一回の【1】と同じく、男女の相によらない、仏の称号としての「偉大な人」とも取れ、「女流なりといへども」と続くことから男子という含みが響いていると読むこともできます。宗務庁版英訳の注は、ここでは「真の男子」と読むほうがよいかもしれない、としています。本書ではどちらにも決めていません。「非細の職にあらざれども」は、廨院主は主要な役職ではないが(本書の訳、宗務庁版英訳も同じ向き)と取るほか、「軽い職であるが」と読む読みや、「まことに重い職にほかならないが」と逆に読む余地もあります。「自愛しつべし」も、選ばれた者としては自らを大切にし喜んでよい(本書の訳)とも、選ばれた者はその職を大切にしたであろう(宗務庁版英訳)とも、修行者一般へのすすめとも取れ、「自己」が妙信のことか、選ばれた者一般のことかも決めかねます。なお、廨院がどこにあったのかは、本文に書かれていません。 -
十七人の僧と妙信のことば【19】〜【23】
「おしむべし」は、惜しいことだ(本書の訳)とも、気の毒だ(宗務庁版英訳)とも取れます。妙信の「不是風動、不是幡動、不是心動」は、六祖が「心が動く」と言った風幡の話(宗務庁版英訳の注)を受けて、心が動くのでもない、とさらに言うものですが、本文はその意味を説明していません。本書でも一つに定めていません。「まことにこれ三賢十聖のおよぶところにあらず」の「これ」が、妙信のことばを指すのか、十七僧が有省して礼謝したことを指すのか、このできごと全体を指すのかも、本文に示されていません。 -
「為衆の主人、かならず明眼によるべし」【24】
大衆の主人は、かならず明眼の人によって選び立てるべきである、と受けとめることも、大衆の主人のよりどころは明眼(仏法を見る眼)であって、男女や年齢ではない、と受けとめることもできます。
参考#
- 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第八「礼拝得髄」
- 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. II(Sōtō Zen Text Project、2023)
- 趙州従諗・灌渓志閑・臨済義玄・末山了然・高安大愚・黄檗希運・仰山慧寂・潙山霊祐の生没年と師弟の関係、妙信尼についての説明、趙州の誓いと志閑・末山の話・志閑の示衆・風幡の話の典拠、老漢・奇夷・古仏・出世・震旦・領也・一頓・路口・不露頂(無見頂相)・『維摩経』の舎利弗と天女の問答・直至如今飽餉餉・慕古・神足・命脈・爺と嬢・勝躅・撃関破節・廨院・信淮子・大丈夫・竜象・非細の職・蜀・瞎驢・草鞋・行者・道不得・威儀・西蜀・道業・半座についての説明と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。