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洗浄(三)二七丸と東司にいたる法#

原文#

樹下・露地の洗浄――二七丸の土#

【1】樹下(じゅげ)・露地(ろじ)に修習(しゅじゅう)するときは、起屋(きおく)なし。便宜(べんぎ)の渓谷(けいこく)・河水等(かすいとう)によりて、分土(ぶんど)洗浄(せんじょう)するなり。これは灰(はい)なし、ただ二七丸(にしちがん)の土をもちいる。二七丸をもちいる法は、まづ、法衣をぬぎてたたみおきてのち、くろからず黄色なる土をとりて、一丸のおほきさ大なる大(だい)豆許(ばかり)に分して、いしのうへ、あるひは便宜のところに、七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく。そののち、磨石(ませき)にもちいるべき石をまうく。そののち屙(あ)す。屙後、使籌、あるひは使紙。そののち、水辺にいたりて洗浄する。まづ三丸の土をたづさへて洗浄す。一丸土を掌(たなごころ)にとりて、水すこしばかりをいれて、水に合してときて、泥よりもうすく、漿(しょう)ばかりになして、まづ小便を洗浄す。つぎに一丸の土をもて、さきのごとくして大便処(だいべんしょ)を洗浄す。つぎに一丸の土をさきのごとくして、略して触手(そくしゅ)をあらふ。

東司#

【2】寺舎に居(こ)してよりこのかたは、その屋を起立(きりゅう)せり、これを東司(とうす)と称す。あるときは圊(せい)といひ、厠(し)といふときもありき。僧家(そうけ)の所住に、かならずあるべき屋舎なり。

東司にいたる法――手巾・記号・揖#

【3】東司にいたる法は、かならず手巾(しゅきん)をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖(さんしゅう)のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、浄(じょう)竿(かん)に手巾をかくべし。かくる法は、臂(ひじ)にかけたりつるがごとし。もし九条(くじょう)・七条(しちじょう)等の袈裟(けさ)を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併(たびょう)すべし、倉卒(そうそつ)になげかくることなかれ。よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて、月輪(がつりん)のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直裰(じきとつ)はおけりとわすれず、みだらざるを、記号といふなり。衆家(しゅけ)おほくきたらんに、自他の竿位(かんい)を乱すべからず。このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手(しゃしゅ)して揖(いっ)すべし。揖するに、かならずしもあひむかひて曲躬(きょっきゅう)せず、ただ叉手をむねのまへにあてて気色(けしき)ある揖なり。東司にては、直裰を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。もし両手(りょうしゅ)ともにいまだ触(そく)せず、両手ともにものをひさげざるには、両手を叉(しゃ)して揖すべし。もしすでに一手(いっしゅ)を触せしめ、一手にものを提(てい)せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬(きく)せんとするがごとくしてもちて、頭(こうべ)をいささか低頭(ていず)せんとするがごとく揖するなり。他(かれ)、かくのごとくせば、おのれ、かくのごとくすべし、おのれ、かくのごとくせば、他、またしかあるべし。

褊衫・直裰をかける法#

【4】褊衫(へんさん)および直裰を脱して、手巾のかたはらにかく。かくる法は、直裰をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろえあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手(さしゅ)にては直裰のうなぢのうらのもとをとり、右手(うしゅ)にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の両襟(りょうきん)とかさなるなり。両袖(りょうしゅう)と両襟とをかさねて、またたてざまになかよりをりて、直裰のうなぢを浄竿の那辺(なへん)えなげこす。直裰の裙(くん)ならびに袖口(しゅうこう)等は、竿の遮辺(しゃへん)にかかれり。たとへば、直裰の合腰(ごうよう)、浄竿にかくるなり。つぎに、竿にかけたりつる手巾の遮・那両端をひきちがへて、直裰よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて、またちがへてむすびとどむ。両三匝(りょうさんそう)もちがへちがへしてむすびて、直裰を浄竿より落地せしめざらんとなり。直裰にむかひて合掌す。

絆子・浄桶・換鞋#

【5】つぎに、絆子(ばんす)をとりて両臂にかく。つぎに、浄架にいたりて、浄桶(じょうつう)に水をもりて、右手に提して浄厠(じょうし)にのぼる。浄桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。厠門のまへにして、換鞋(かんあい)すべし。蒲鞋(ほあい)をはきて、自鞋(じあい)を厠門の前に脱するなり、これを換鞋といふ。

現代語訳#

段落番号【1】〜【5】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。この回には漢文の引用がありません。和文の中の漢語(「屙後、使籌、あるひは使紙」など)は、訳文で意味を訳し、語注で語を説明しました。厠の作法や衣のたたみ方など、具体的な手順を述べる段なので、本文に即して、手順の順序と動作がわかるように平明に訳しました。手順の細部で原文からはっきりしないところは、補いすぎず、語注に記しました。仏教語・禅語や僧院の道具・衣の名(樹下(じゅげ)・露地(ろじ)・修習(しゅじゅう)・起屋(きおく)・分土(ぶんど)洗浄(せんじょう)・二七丸(にしちがん)・法衣・磨石(ませき)・屙・籌・漿(しょう)・触手(そくしゅ)・寺舎・東司(とうす)・圊(せい)・厠・僧家(そうけ)・手巾(しゅきん)・衫袖(さんしゅう)・浄(じょう)竿(かん)・九条(くじょう)・七条(しちじょう)・袈裟(けさ)・打併(たびょう)・倉卒(そうそつ)・記号・月輪(がつりん)・直裰(じきとつ)・衆家(しゅけ)・竿位(かんい)・叉手(しゃしゅ)・揖・曲躬(きょっきゅう)・気色(けしき)・触・掬・低頭(ていず)・褊衫(へんさん)・那辺(なへん)・遮辺(しゃへん)・裙(くん)・合腰(ごうよう)・両三匝(りょうさんそう)・合掌・絆子(ばんす)・浄架・浄桶(じょうつう)・浄厠(じょうし)・換鞋(かんあい)・蒲鞋(ほあい)・自鞋(じあい)など)は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。道具・衣の形や用い方の説明は、宗務庁版英訳の注が述べる範囲で示し、ほかから補っていません。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。

樹下・露地の洗浄――二七丸の土#

【1】樹下・露地で修習するときには、起屋(建てた建物)はない。都合のよい渓谷(けいこく)や河の水などによって、分土洗浄(土を分けて用いる洗浄)をするのである。この場合は灰はなく、ただ二七丸の土を用いる。二七丸を用いる法は、(次のとおりである。)まず、法衣を脱いでたたんで置いたのち、黒くなく黄色い土を取って、一丸の大きさが大きな大豆ほどになるように分け、石の上か、あるいは都合のよいところに、七丸を一列に並べて置き、二七丸を二重に並べて置く。そののち、磨石に用いるのによい石を用意する。そののち屙(あ)す(用を足す)。屙したあとは、籌を使い、あるいは紙を使う。そののち、水辺に行って洗浄する。まず三丸の土を携えて洗浄する。一丸の土を掌(たなごころ)に取って、水を少しばかり入れて、水と合わせて溶き、泥よりも薄く、漿(どろりとした汁)ほどにして、まず小便(のところ)を洗浄する。次に、一丸の土で、先のようにして大便処(だいべんしょ)を洗浄する。次に、一丸の土を先のようにして、略して触手を洗う。

語注

  • 樹下・露地:木の下と、屋根のない地面。建物のない所での修行をいう。訳さずに残した。
  • 修習:修行し、身につけること。訳さずに残した。
  • 起屋なし:建てた建物(ここでは便所の建物)がない。宗務庁版英訳の注は、固定した便所の施設のこととする。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • 便宜(べんぎ)の:都合のよい。
  • 分土洗浄:土を(いくつかに)分けて用いてする洗浄。宗務庁版英訳は "purification with handfuls of earth" と訳す。訳さずに残した。
  • これは灰(はい)なし:この場合は灰がない。宗務庁版英訳の注は、洗剤としての灰の用い方は後の節(第四回の【7】の洗手)で述べられるとする。
  • 二七丸:二組の七つの丸(土の団子)、すなわち十四丸。訳さずに残した。
  • 法衣:僧の衣。
  • くろからず黄色なる土:黒くない、黄色い土。宗務庁版英訳の注は、有機質の土があまりまじらない、砂や粘土の多い明るい茶色の土のこととする。
  • 大なる大(だい)豆許(ばかり):大きな大豆ほど。
  • 七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく:七丸を一列に並べ、(もう一列を並べて)二七丸を二重に並べ置く。宗務庁版英訳は、一列目に平行して二列目を置き、七丸の組が二つになるように、と訳す。「ふたへ」を二列と取るか、上下に重ねると取るかは原文からは決まらない。訳文は原文のまま「二重に」とした(→読みの分かれるところ)。
  • 磨石:みがくための石。何に用いるのか、本文はこのあと述べない(→読みの分かれるところ)。訳さずに残した。
  • 屙す:大小便をする。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • 屙後、使籌、あるひは使紙:屙したのち、籌を使い、あるいは紙を使う。漢語のまま並べた句で、訳文は意味を訳した。
  • 籌:用便のあとにぬぐう、木や竹でつくったへら状の道具(宗務庁版英訳の注による)。形・寸法は第四回の【4】に述べられる。訳さずに残した。
  • まづ三丸の土をたづさへて洗浄す:まず三丸の土を携えて洗浄する。宗務庁版英訳の注は、「二七丸」を用意させながら、ここでは小便・大便・触手の三つに一丸ずつ、合わせて三丸だけを使う手順を述べて終わり、また四つ前の文で挙げた「磨石」にもふれないのは不思議である、とする。残りの丸をどう用いるかは本文に述べられない(→読みの分かれるところ)。
  • 掌:てのひら。
  • 漿:どろりとした汁。宗務庁版英訳は "a thick fluid that is thinner than mud" と訳す。
  • まづ小便を洗浄す:まず小便(のところ)を洗浄する。宗務庁版英訳の注は、「小便」を「洗浄する」の目的語としているので、どういう動作か明らかでないが、清規類のより詳しい記述から、土と水をまぜたもので尿道口のまわりを洗うことと知られ、そのあと浄い水ですすいだはずだが、道元禅師の記述はそれを明記しない、とする。後の「大便処」の洗浄にも同じあいまいさがあるとする。訳文は(のところ)を補った(→読みの分かれるところ)。
  • 大便処:大便のところ。
  • 略して触手をあらふ:略式に(簡単に)触手を洗う。「触手」は、けがれ(不浄なもの)にふれた手。訳さずに残した。「略して」は、寺院の東司での洗手(第四回の【7】の灰・土・皁莢(そうきょう)による一七度(いちしちど)の洗い)に比べて簡略に、の意に取れる(→読みの分かれるところ)。

東司#

【2】寺舎に住むようになってからは、その(ための)建物を建てた。これを東司と称する。あるときは圊といい、厠ということもあった。僧家の住まうところに、かならずあるべき建物である。

語注

  • 寺舎に居(こ)してよりこのかたは:寺の建物に住むようになってからは。【1】の樹下・露地での修行と対比している。だれが(僧団が、仏道の修行者が)住むようになってからか、主語は示されない(→読みの分かれるところ)。
  • その屋を起立(きりゅう)せり:その(用を足すための)建物を建てた。
  • 東司:僧院の便所。宗務庁版英訳の注は、この名が婉曲な言い方であることは明らかだが由来はわからないとし、道元禅師が訪れた宋の寺院では、僧堂の大衆が用いる東司は寺の西側にあり、大きな寺には事務の区域や住持の居所などにも小さな便所がいくつもあった、とする。訳さずに残した。
  • 圊/厠:いずれも便所。訳さずに残した。
  • 僧家の所住:僧の住まうところ。

東司にいたる法――手巾・記号・揖#

【3】東司に行く法は、(次のとおりである。)かならず手巾を持つ。その法は、手巾を二つに折って、左のひじの上にあたるところで、衫袖の上にかけるのである。東司に着いたならば、浄竿に手巾をかけるべきである。かける法は、臂(ひじ)にかけていたのと同じようにする。もし九条・七条などの袈裟を著けて来たのであれば、手巾に並べてかけるべきである。落ちないように打併すべきであり(両端をそろえて掛けるべきであり)、あわてて投げかけてはならない。よくよく記号すべきである。記号というのは、(こういうことである。)浄竿には字が書いてある。白い紙に書いて、月輪のように円くして、浄竿につけて並べてある。それを、どの字のところに自分の直裰を置いたかを忘れず、(自分と他人のものを)乱さないことを、記号というのである。衆家が多く来るときに、自分と他人の竿位を乱してはならない。このあいだに、衆家が来て立ち並んだならば、叉手して揖(いっ)すべきである。揖するのに、かならずしも向かいあって曲躬するのではない。ただ叉手(した両手)を胸の前に当てて、気色のある揖である。東司では、直裰を著ていないときでも、衆家と揖し、気色するのである。もし両手ともまだ触(そく)しておらず、両手とも物をさげていないときには、両手(りょうしゅ)を叉(しゃ)して揖すべきである。もしすでに一方の手を触させており、一方の手に物を提げているときには、一方の手で揖すべきである。一方の手で揖するには、手をあおむけて、指先を少しかがめて、水を掬おうとするようにして持ち、頭(こうべ)をいささか低頭しようとするようにして揖するのである。相手がこのようにするならば、自分もこのようにすべきである。自分がこのようにするならば、相手もまたそうするはずである。

語注

  • 手巾:手ぬぐい。訳さずに残した。
  • ひだりのひぢのうへにあたりて:左のひじの上にあたるところで。宗務庁版英訳は「ひじの曲がり目の下の腕に(over the left arm below the crook of the elbow)」と訳す。「ひぢのうへ」が、ひじより上(二の腕)か、ひじのところ(の上側)かは原文からは決めにくい(→読みの分かれるところ)。
  • 衫袖:衣の袖。訳さずに残した。
  • 浄竿:衣や手巾をかけるための、横にわたした竿(宗務庁版英訳の注による)。訳さずに残した。
  • 臂:ひじ、うで。
  • 九条・七条等の袈裟:九条・七条などの袈裟。条は袈裟を縫い合わせる布の列の数。訳さずに残した。
  • 著してきたれらば:着けて来ているならば。
  • 打併すべし:(竿の両側に垂れた)両端を同じ高さにそろえて、釣り合いがとれて滑り落ちないようにすること(宗務庁版英訳の注による)。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • 倉卒に:あわただしく、あわてて。
  • 記号:しるしをつけておくこと、目じるしで覚えておくこと。訳さずに残した。原文は「記号といふは」と述べはじめて、竿の字のことを言い、最後に「…みだらざるを、記号といふなり」と結ぶ。竿に付けた字(しるし)そのものと、それによって自分の場所を覚えておくこと、のどちらを「記号」と言うのか、二つが重なっている(→読みの分かれるところ)。
  • 月輪:月の輪、満月。
  • 直裰:上衣と裳(下衣)とを縫い合わせた一続きの衣(宗務庁版英訳の注による)。訳さずに残した。
  • 衆家:大衆、修行僧たち。訳さずに残した。
  • 竿位:竿の(自分の)場所。
  • このあひだ:この間に。東司に着いて手巾・衣をかけているあいだ、の意に取った。
  • 叉手:両手を胸の前で組むこと。訳さずに残した。
  • 揖:会釈の礼。宗務庁版英訳は "bow with hands clasped" と訳す。訳さずに残した。
  • 曲躬:身をかがめること。訳さずに残した。
  • 気色ある揖:それと分かる(礼の)そぶりのある揖、かたちばかりの軽い揖。宗務庁版英訳は "give an indication of bowing" と訳す。訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 触す:触(けがれたもの)にふれる。訳さずに残した。
  • ひさげざる/提(てい)せらん:(物を)さげていない/さげている。
  • もしすでに一手(いっしゅ)を触せしめ、一手にものを提せらんときは:原文は二つの条件を並べる。訳文は原文のまま「一方の手を触させており、一方の手に物を提げているときには」とした。宗務庁版英訳は "or" でつないで、どちらか一方の場合と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 一手:片手。
  • 手をあふげて:手のひらを上に向けて。
  • 掬(きく)せん:(水を)すくおう。
  • 頭をいささか低頭せんとするがごとく:頭を少し下げようとするように。
  • 他(かれ)、かくのごとくせば…:相手(他)がこのようにするならば、自分もこのようにすべきである、自分がこのようにするならば、相手もまたそうするはずである。相手と同じ揖で応じ合う、の意に取った(→読みの分かれるところ)。

褊衫・直裰をかける法#

【4】褊衫および直裰を脱いで、手巾のかたわらにかける。かける法は、(次のとおりである。)直裰を脱ぎ取って、二つの袖を後ろへ合わせ、二つの脇の下を取り合わせて引き上げると、二つの袖が重なる。このときは、左手では直裰のうなじ(襟首)の裏の付け根を取り、右手では脇を引き上げると、二つの袂と左右の両襟(りょうきん)とが重なるのである。両袖(りょうしゅう)と両襟とを重ねて、さらに縦に真ん中から折って、直裰のうなじを浄竿の那辺(向こう側)へ投げ越す。直裰の裙ならびに袖口(しゅうこう)などは、竿の遮辺(手前側)にかかる。いってみれば、直裰の合腰が浄竿にかかるのである。次に、竿にかけていた手巾の遮・那(手前・向こう)の両端を引き違えて(交差させて)、直裰の上から引き越して、手巾のかかっていなかった側で、また交差させて結びとめる。二、三回も交差させては結んで、直裰を浄竿から地に落とさないようにするのである。直裰に向かって合掌する。

語注

  • 褊衫:上下二部に分かれた衣の上衣。裳(裙子)とあわせて着る。宗務庁版英訳の注は「偏衫」とも書き、「へんざん」とも読むとする。訳さずに残した。
  • 直裰をぬぎとりて…ふたつのそでかさなれる:直裰を脱いで、二つの袖を後ろへ合わせ、二つの脇の下を取り合わせて引き上げると、二つの袖が重なる。宗務庁版英訳の訳による手順の理解も同じ。
  • うなぢ:うなじ、衣の襟首の部分。
  • 両襟:左右の襟。
  • 両袖:両方の袖。
  • たてざまに:縦に。
  • 那辺/遮辺:向こう側/こちら側(手前)。このあとの「遮・那両端」は、手前と向こうの両端。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • 裙:衣の裾。
  • 袖口:宗務庁版英訳は「袖のつけ口(armholes of the sleeves)」と訳す。
  • たとへば、直裰の合腰、浄竿にかくるなり:言ってみれば、直裰の合腰(腰の合わせ目、上衣と裳を縫い合わせた腰のところ)が浄竿にかかるのである。宗務庁版英訳は "the joined waist of the long robe" と訳す。「たとへば」は、たとえを言うのではなく、前の手順をまとめて言い直す語と取った(→読みの分かれるところ)。
  • ひきちがへて:引き違えて、交差させて。
  • 両三匝:二、三回めぐらすこと。
  • 落地せしめざらんとなり:地に落とさないようにするのである。
  • 直裰にむかひて合掌す:直裰に向かって合掌する。前の手順に続く一つの動作として書かれているので、訳文もそのように訳した。合掌は訳さずに残した。

絆子・浄桶・換鞋#

【5】次に、絆子を取って両臂にかける。次に、浄架に行って、浄桶に水を盛り、右手に提げて浄厠に上る。浄桶に水を入れる法は、十分に満たしてはならない。九分を度とする(めやすとする)。厠門の前で換鞋すべきである。蒲鞋をはいて、自鞋を厠門の前に脱ぐのである。これを換鞋という。

語注

  • 絆子:袖をたくし上げてしばるための紐。宗務庁版英訳の注は、背中で交差させて両肩にかけ、横向きの八の字の形にして袖をとめ、用便や手仕事のときに袖がじゃまにならず汚れないようにするもので、褊衫・直裰はすでに脱いでいるから、ここでしばるのは肌着の袖であろう、とする。本文は、何の袖をしばるのかを述べない。訳さずに残した。
  • 両臂にかく:両腕にかける。宗務庁版英訳は「両腕の(袖を)しばる」と訳す。
  • 浄架:浄桶を置いておく台・棚。宗務庁版英訳は "washstand" と訳す。訳さずに残した。
  • 浄桶:用便のあとの洗浄に用いる水を入れる桶。訳さずに残した。
  • 右手(うしゅ)に提して:右手に提げて。
  • 浄厠にのぼる:浄厠(厠の個室)に上る。「のぼる」は、厠が一段高いところにあることによる言い方と取れる(宗務庁版英訳も "climb up" と訳す)。浄厠は訳さずに残した。
  • 九分を度とす:九分(九割)を限度とする。
  • 厠門:厠の(個室の)戸口。
  • 換鞋:はきものをはきかえること。訳さずに残した。
  • 蒲鞋:蒲で編んだはきもの(厠用の)。宗務庁版英訳は "reed slippers" と訳す。訳さずに残した。
  • 自鞋:自分のはきもの。

解説#

この回で読むところ#

第二回から第三回へ#

前回(第二回)の終わりで、道元禅師は、

「洗大小便、おこたらしむることなかれ。」(第二回の【9】)

と示し、舎利弗(しゃりほつ)の話を引いて、

「仏祖の威儀(いいぎ)現成(げんじょう)するところに、邪法おのづから伏するなり。」(第二回の【9】)

と結ばれました。大小便のあとを洗うことをおこたってはならない、仏祖の威儀があらわれるところでは、邪法はおのずから伏する、と。

今回から、その「洗大小便」の具体的な作法が、順を追って示されていきます。今回は、建物のない樹下・露地で修行するときの洗浄から始まり、東司という建物のこと、東司へ行くときの手巾と揖の作法、衣を脱いで竿にかける法、そして袖をしばり、浄桶に水を汲み、はきものを換えるところまでを読みます。厠の中での作法と、そのあとの洗手は、次の第四回で読みます。

  • 【1】 樹下・露地の洗浄――二七丸の土
  • 【2】 東司
  • 【3】 東司にいたる法――手巾・記号・揖
  • 【4】 褊衫・直裰をかける法
  • 【5】 絆子・浄桶・換鞋

なぜ、これほど具体的なのか#

今回の範囲には、漢文の引用が一つもなく、教えを論じる言葉もほとんどありません。土の丸をいくつ並べるか、手巾をどちらのひじにかけるか、衣の袖をどう重ねて竿にかけるか、浄桶に水をどれだけ入れるか。書かれているのは、ほとんどがこうした手順です。

『正法眼蔵』を読もうとして、ここで戸惑われる方もあるかもしれません。

宗務庁版英訳の解題は、「洗浄」という語が、宋代の禅院で、便所を用いるときの手順をいう婉曲な言い方であったこと、ここに述べられる手順は道元禅師がはじめて定めたものではなく、引用からうかがえるように『禅苑清規』(1103年編)などの清規類に拠るものであることを述べています。そのうえで解題は、道元禅師は、そうした清規類とちがって、これらの手順が仏祖の身に行じられる修行であるという、その意味を説き加えている、としています。

その「意味」は、巻のはじめ(第一回)で、すでに示されていました。

「作法、これ宗旨(しゅうし)なり、得道、これ作法なり。」(第一回の【6】)

作法、これが宗旨であり、得道、これが作法である、と。また、

「しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任(ほにん)するに、この儀あり、これを洗浄と称す。」(第一回の【8】)

とも言われていました。水によって身をきよめるのではない、仏法によって仏法を保任するところにこの儀があり、これを洗浄と称する、と。

これらの句の受けとめ方には幅があることは、第一回で見たとおりです。けれども、どの読みを取るにしても、道元禅師がここで作法を、教えの外側にある決まりごととしてではなく、仏法そのものにかかわるものとして示しておられることは、動かないように思われます。宗務庁版英訳の注は、「作法、これ宗旨なり」の一句が、のちに曹洞宗でいわれる「威儀即仏法、作法是宗旨」の「作法是宗旨」の出どころであろう、としています。宗門で大切にされてきたこの言葉の源の一つが、この巻の一句にあると見られているのです。

そう受けとめると、今回の範囲の手順の一つ一つは、「宗旨」の具体的なすがたとして読まれるべきものになります。本解説では、作法の細部を本文に即してたどりながら、それが「仏法の身心(しんじん)」とどのようにつながっているのかを考えていきます。

なお、作法の細部で本文からはっきりしないところ、本文の中で説明のつかないところは、そのまま「わからない」としておきます。本文にない作法を、ほかから補うことはしません。また、ここで述べられるのは用便にかかわる作法ですが、本文は終始、飾らず、淡々と手順を記しています。本解説も、その書きぶりにならって、平明に読んでいきたいと思います。

樹下・露地の洗浄〔【1】〕#

起屋なし――建物のないところで#

「樹下・露地に修習するときは、起屋なし。便宜の渓谷・河水等(かすいとう)によりて、分土洗浄するなり。これは灰なし、ただ二七丸の土をもちいる。」(【1】)

木の下や、屋根のない地面で修行するときには、建てた建物はない。都合のよい谷川や河の水などによって、土を分けて用いる洗浄をするのである。この場合は灰はなく、ただ二七丸の土を用いる、と。

作法の説明は、寺の東司からではなく、建物のないところから始まっています。木の下、露天の地面。仏道の修行が、そうした場所でも行われてきたことを思わせる書き出しです。そして、建物も、桶も、灰もないところにも、洗浄の作法はある、と言われます。

寺院の東司での洗手には灰を用いることが、第四回の【7】で述べられます。宗務庁版英訳の注も、洗剤としての灰の用い方は後の節で述べられる、としています。ここではその灰がなく、土だけを用いるのです。

「樹下」の語は、第一回にも出てきました。

「ただ身心をきよむるのみにあらず、国土・樹下をもきよむるなり。」(第一回の【6】)

ただ身心をきよめるだけではない、国土・樹下をもきよめるのである、と。第一回のこの「樹下」が何を指すかには幅があり、今回の【1】の「樹下」とそのまま重ねて解釈を決めることはできません。ただ、同じ一つの巻のなかで、「樹下」という語が、きよめられるものとしても、修行の場としても出てくることには、目をとめておいてよいでしょう。

法衣をぬぎてたたみおきて#

二七丸を用いる法の、最初の一歩は、次のとおりです。

「二七丸をもちいる法は、まづ、法衣をぬぎてたたみおきてのち、」(【1】)

まず、法衣を脱いで、たたんで置く。土の丸をつくるよりも前に、です。

用を足すための手順でありながら、その最初に、衣を脱いでたたむことが置かれている。これは、今回の範囲を読むうえで、心にとめておきたい点です。あとの【3】【4】でも、東司に着くと、まず手巾・袈裟・直裰を浄竿にかける手順が、ことこまかに述べられます。衣を汚さないためという、実際の理由もあるでしょう。けれども、本文が衣の扱いをこれほど丁寧に書いていることからすると、衣を大切に扱うことそのものが、この作法の欠かせない一部とされている、と受けとめることもできそうです。【4】の終わりには、竿にかけた直裰に向かって合掌することも記されています。

くろからず黄色なる土――二七丸を並べる#

「くろからず黄色なる土をとりて、一丸のおほきさ大なる大豆許に分して、いしのうへ、あるひは便宜のところに、七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく。」(【1】)

黒くない、黄色い土を取り、一丸の大きさを大きな大豆ほどに分けて、石の上か、都合のよいところに、七丸を一列に並べて置き、二七丸を「ふたへ」に並べて置く、と。

宗務庁版英訳の注は、「くろからず黄色なる土」を、有機質の土があまりまじらない、砂や粘土の多い明るい茶色の土のこととしています。洗うための土ですから、それ自体が汚れを持ちこむようなものであってはならない、ということなのでしょう。

「ふたへに」が、七丸の列をもう一列並べて二列にすることなのか、上下に二段に重ねることなのかは、原文からは決まりません。宗務庁版英訳は、一列目に平行して二列目を置く、と訳しています。訳文は、原文のまま「二重に」としてあります。どちらであっても、七つずつ二組、合わせて十四の丸を、きちんと並べて用意しておく、という点は変わりません。

二七丸と三丸――本文で説明のつかないこと#

手順は、次のように進みます。

「そののち、磨石にもちいるべき石をまうく。そののち屙す。屙後、使籌、あるひは使紙。そののち、水辺にいたりて洗浄する。まづ三丸の土をたづさへて洗浄す。」(【1】)

そのあと、磨石に用いるのによい石を用意する。そのあと、用を足す。用を足したあとは、籌を使い、あるいは紙を使う。そのあと、水辺に行って洗浄する。まず三丸の土を携えて洗浄する、と。

ここで、読む者は一つの戸惑いを覚えます。二七丸、つまり十四の丸を用意させておきながら、本文がこのあと述べるのは、小便のところ、大便のところ、触手を洗うのに一丸ずつ、合わせて三丸を用いる手順だけなのです。残りの十一丸をどう用いるのか、本文は何も述べていません。また、わざわざ用意させた「磨石」についても、このあと一言もふれられません。

宗務庁版英訳の注も、二七丸の作り方を説きながら三丸だけを用いる手順を述べてこの節を終えること、四つ前の文で挙げた磨石について何も言わないことを、不思議なこととしています。

いくつかの考え方は、ありうるでしょう。三丸を一回分として、何度かに分けて用いるのかもしれません。三丸は最初の分で、残りは手を洗うことなど、そのあとの洗いに用いるのかもしれません。あるいは、本文がここで手順の一部を略しているのかもしれません。磨石についても、第四回の【7】で寺院での洗手に「瓦石(がせき)」にあててとぎ洗う、と述べられることを思えば、手を洗うためのものかと考えたくなります。けれども、それらはいずれも推測であって、本文には書かれていません。

本解説では、この食い違いを、本文からは説明のつかないこととして、そのままにしておきます。わからないところを、わからないところとして残しておくことも、本文を大切に読むことの一つだと思うからです。

ただ、一つ言えることがあります。本文は、十四の丸を「ひとならべ」に、「ふたへ」に、きちんと並べて用意することを求めています。磨石にする石も、用を足す前に用意させています。必要になってから、その場で急いでこしらえるのではない。まず整えて用意してから、事にかかる。その順序は、本文のとおりです。

屙後、使籌、あるひは使紙#

「屙」は、大小便をすることです。「籌」は、宗務庁版英訳の注によれば、用便のあとにぬぐう、木や竹でつくったへら状の道具で、その形や寸法は第四回の【4】で述べられます。

「屙後、使籌、あるひは使紙」という一句は、漢語を並べただけの、まことに短い書き方です。用を足すことそのものについて、本文は何も飾らず、ただ手順の一つとして記しています。具体的な作法を述べながら、本文が品位を失っていないのは、こうした書きぶりによるところも大きいのでしょう。

小便・大便・触手――略して触手をあらふ#

「一丸土を掌にとりて、水すこしばかりをいれて、水に合してときて、泥よりもうすく、漿ばかりになして、まづ小便を洗浄す。つぎに一丸の土をもて、さきのごとくして大便処を洗浄す。つぎに一丸の土をさきのごとくして、略して触手をあらふ。」(【1】)

一丸の土を掌に取り、水を少しばかり入れて溶き、泥よりも薄い、どろりとした汁ほどにして、まず小便のところを洗浄する。次に、一丸の土で、同じようにして大便のところを洗浄する。次に、一丸の土を同じようにして、略して触手を洗う、と。

宗務庁版英訳の注は、「小便を洗浄す」という言い方では、どのような動作なのかが明らかでないこと、清規類のより詳しい記述からは、土の汁で小便のところを洗い、そのあと浄い水ですすいだことが知られるが、道元禅師の記述はそれを明記していないこと、を述べています。本解説も、本文が述べている以上のことには立ち入らないでおきます。

ここで目をとめたいのは、順序です。小便のところ、大便のところ、そして最後に、それらにふれた手。「触手」は、けがれにふれた手のことです。何をどの順に洗うのかが、きちんと定められています。

「略して」を、訳文では、寺の東司での洗手(第四回の【7】の、灰・土・皁莢による一七度の洗い)に比べて簡略に、の意に取りました。単に、手短に、ざっと、と受けとめることもできます。いずれにしても、建物も灰もない野外では、寺院でのような洗い方はできません。それでも、ふれた手を洗うことは省かれていません。整わない条件のもとでも、できるかぎりのかたちで作法は行われる、と受けとめることができるでしょう。

東司〔【2】〕#

寺舎に居してよりこのかた#

「寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり、これを東司と称す。あるときは圊といひ、厠(し)といふときもありき。僧家の所住に、かならずあるべき屋舎なり。」(【2】)

寺の建物に住むようになってからは、その(ための)建物を建てた。これを東司と称する。あるときは圊といい、厠ということもあった。僧の住まうところに、かならずあるべき建物である、と。

【1】の「起屋なし」と、【2】の「その屋を起立せり」とが、対になっています。樹下・露地では建物がなかったが、寺舎に住むようになってからは、そのための建物を建てた、と。

だれが寺舎に住むようになってから、というのか、主語は示されていません。仏の教団が精舎に住むようになってから、と受けとめることもできますし、一般に、修行者が寺に住むようになってから、と受けとめることもできます。第五回では、『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』を引いて厠屋(しおく)の方位が示され、それが「如来現在の建立(こんりゅう)なり」(第五回の【5】)と言われます。そこまで読み進めると、前の読みにも心がひかれますが、【2】の本文そのものは、そこまでは言っていません。ここでは、どちらとも決めないでおきます。

東司という名#

「東司」という名について、宗務庁版英訳の注は、これが婉曲な言い方であることは明らかだが、その由来はわからない、としています。また、道元禅師が訪れた宋の寺院では、僧堂の大衆が用いる東司は寺の西側にあり、大きな寺には、ほかにも小さな便所がいくつもあった、と述べています。

第五回で引かれる『摩訶僧祇律』の文は、書き下しで「厠屋、東に在(お)き、北に在くことを得ざれ、応に南に在き、西に在くべし。」というものです(第五回の【4】)。この律の文と、宋の寺の東司が西側にあったこととが、どのようにかかわるのかは、本文に説明がありません。ここでは、二つを並べて記すにとどめます。

「圊」「厠」は、いずれも便所をいう語です。

かならずあるべき屋舎なり#

【2】の結びの一文、「僧家の所住に、かならずあるべき屋舎なり。」は、短い言葉ですが、この巻全体にかかわる大切な一文だと思われます。

東司は、修行の場の片隅に、やむをえず置かれる建物ではない。僧の住まうところに、かならずあるべき建物である、と言われているのです。

巻の終わり近く、第五回で、道元禅師は、

「諸仏に厠屋あり、しるべし。」(第五回の【1】)

「しかあればすなはち、仏道場に厠屋あり。仏厠屋裏(ぶっしおくり)の威儀は洗浄なり、祖祖相伝しきたれり。」(第五回の【3】)

と、くり返し述べておられます。諸仏に厠屋がある。仏の道場には厠屋があり、その中での威儀が洗浄であって、それは祖師から祖師へと伝えられてきた、と。【2】の「かならずあるべき屋舎なり」は、そうした言葉へとつながっていく一文として受けとめることができるでしょう。

東司にいたる法〔【3】〕#

かならず手巾をもつ#

「東司にいたる法は、かならず手巾をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖のうへにかくるなり。」(【3】)

東司に行く法は、かならず手巾を持つ。その法は、手巾を二つに折って、左のひじの上にあたるところで、衣の袖の上にかけるのである、と。

作法は、東司に着いてからではなく、東司へ向かうところから始まっています。手ぬぐいを持って行く。それも、ただ手に持つのではなく、二つに折って、左のひじのところにかける、と定められています。

「ひぢのうへにあたりて」が、ひじより上の二の腕のあたりなのか、ひじのところの上側なのかは、原文からは決めにくいところです。宗務庁版英訳は、ひじの曲がり目の下の腕に、と訳しています。いずれにしても、左の腕に、と決まっています。

そして第四回の【9】で、用を終えて衣を着たあと、本文は「つぎに、手巾を左臂にかけて塗香(ずこう)す。」(第四回の【9】)と述べます。手巾は、左の腕にかけて行き、左の腕にかけて帰る。行きと帰りとが、きちんと対応しているのです。

浄竿にかける――倉卒になげかくることなかれ#

「すでに東司にいたりては、浄竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂にかけたりつるがごとし。もし九条・七条等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併すべし、倉卒になげかくることなかれ。」(【3】)

東司に着いたならば、浄竿に手巾をかけるべきである。かけ方は、腕にかけていたのと同じようにする。もし九条・七条などの袈裟を著けて来たのであれば、手巾に並べてかけるべきである。落ちないように打併すべきであり、あわてて投げかけてはならない、と。

「浄竿」は、衣や手巾をかけるために横にわたした竿です。「打併」は、宗務庁版英訳の注によれば、竿の両側に垂れた両端を同じ高さにそろえて、釣り合いがとれて滑り落ちないようにすることです。

ここで、「倉卒になげかくることなかれ」という言葉が出てきます。「倉卒」は、あわただしいこと、あわてることです。

この語は、東司の作法のなかで、何度もくり返されます。次の第四回では、まず『禅苑清規』の引用に「時に臨みて内に逼(せ)まりて倉卒を致すこと勿れ。」(第四回の【1】の書き下し)とあり、洗手のあとには「おほよそ倉卒なることなかれ、狼藉なることなかれ。」(第四回の【9】)、さらに「審細にすべし、倉卒にすべからず。」(第四回の【9】)と言われます。急がないこと、あわてないこと。それが、東司の作法をつらぬく一本の糸になっている、と受けとめることができるでしょう。

用を足しに行くときほど、人は急ぎがちなものです。だからこそ、そこで「なげかくることなかれ」と言われるのでしょう。手巾一枚、袈裟一枚を、竿にかける。そのかけ方に、そのときの心のありようが、そのまま表れる。そう受けとめることもできるのではないでしょうか。

記号――自他の竿位を乱すべからず#

「よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて、月輪のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直裰はおけりとわすれず、みだらざるを、記号といふなり。衆家おほくきたらんに、自他の竿位を乱すべからず。」(【3】)

よくよく記号すべきである。記号というのは、(こういうことである。)浄竿には字が書いてある。白い紙に書いて、月輪のように円くして、浄竿につけて並べてある。それを、どの字のところに自分の直裰を置いたかを忘れず、乱さないことを、記号というのである。大衆が多く来るときに、自分と他人の竿の場所を乱してはならない、と。

東司の浄竿には、白い紙に字を書いて満月のように円くしたものが、目じるしとして並べてつけてあった。そのありさまが目に浮かぶような描写です。

「記号」が、竿に付けた字そのものをいうのか、その字によって自分の衣の場所を覚えておくことをいうのかは、本文のなかで二つが重なっていて、どちらとも決めかねます。宗務庁版英訳は、竿の字と、それを覚えておくこととを、別の語で訳し分けています。本文は、「記号といふは」と竿の字のことから語りはじめ、「…みだらざるを、記号といふなり」と、乱さないことそのものを「記号」と呼んで結んでいます。

ここで大切にされているのは、自分のものと他人のものとを取りちがえないこと、他人の場所を乱さないことです。東司には、大勢の修行僧がやって来ます。一人ひとりが自分の衣の場所をきちんと覚えておかなければ、竿の上はたちまち乱れ、人の衣を取りちがえることにもなるでしょう。自分の場所をよく覚えておくことが、そのまま、他の人の場所を乱さないことにつながっている。本文が「自他の竿位を乱すべからず」と、「自他」と言っていることは、心にとめておいてよいと思います。

叉手して揖す#

「このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手して揖すべし。揖するに、かならずしもあひむかひて曲躬せず、ただ叉手をむねのまへにあてて気色ある揖なり。東司にては、直裰を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。」(【3】)

このあいだに、大衆が来て立ち並んだならば、叉手して揖すべきである。揖するのに、かならずしも向かいあって身をかがめるのではない。ただ叉手を胸の前に当てて、気色のある揖をするのである。東司では、直裰を著ていないときでも、大衆と揖し、気色するのである、と。

「叉手」は両手を胸の前で組むこと、「揖」は会釈の礼です。

東司は、ふつうに考えれば、人と礼を交わす場所ではないでしょう。衣を脱いでいるときでもあり、互いに急いでいるときでもあります。けれども、本文は、そこでも揖をする、と言います。しかも、「直裰を著せざるにも」、衣を著ていないときでも、と念を押しています。衣を著ているから礼をするのではない。どのようなすがたであっても、同じ道場で修行する者どうし、礼を交わす。そう受けとめることができるでしょう。

ただ、その揖は、向かいあって深く身をかがめるような、改まった礼ではありません。「気色ある揖」です。この「気色」を、それとわかる軽いそぶりの揖と受けとめるか、心のこもった、表情のある揖と受けとめるかには、幅があります。宗務庁版英訳は、礼をするそぶりを示す、という向きで訳しています。どちらに取るにしても、場所にふさわしく、大げさでなく、しかしおろそかでもない礼のかたちが、ここに示されていると言えるでしょう。

一手にて揖する#

「もし両手ともにいまだ触せず、両手ともにものをひさげざるには、両手を叉して揖すべし。もしすでに一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬せんとするがごとくしてもちて、頭をいささか低頭せんとするがごとく揖するなり。」(【3】)

もし両手ともまだ触しておらず、両手とも物をさげていないときには、両手を叉して揖すべきである。もしすでに一方の手を触させており、一方の手に物を提げているときには、一方の手で揖すべきである。一方の手で揖するには、手のひらを上に向けて、指先を少しかがめて、水をすくおうとするようにして持ち、頭を少し下げようとするようにして揖するのである、と。

ここには、細やかな心配りが見られます。けがれにふれた手を、もう一方の手と組み合わせることはしない。物を提げている手で、無理に叉手をつくることもしない。そのようなときには、片手で揖をする、と。礼を欠くのでもなく、礼のために作法をくずすのでもない。その両方が、きちんと考えられています。

「一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは」を、片方の手が触し、もう片方の手に物を提げている、その両方がそろったときと受けとめるか、どちらか一方のときと受けとめるかは、読みの分かれるところです。原文は二つの条件を並べる形ですが、宗務庁版英訳は「または」でつないで、どちらか一方の場合と訳しています。前の「両手ともにいまだ触せず、両手ともにものをひさげざる」との対応をどう見るかによっても、受けとめ方は変わってきます。

片手の揖のかたちは、手のひらを上に向け、指先を少しかがめて、「水を掬せんとするがごとく」と言われます。水をすくおうとするような手。この「掬」の字は、第四回の【5】の洗浄の法で、「左手を掬につくりて水をうけて」(第四回の【5】)と、もう一度出てきます。

他、かくのごとくせば#

「他、かくのごとくせば、おのれ、かくのごとくすべし、おのれ、かくのごとくせば、他、またしかあるべし。」(【3】)

相手がこのようにするならば、自分もこのようにすべきである。自分がこのようにするならば、相手もまたそうするはずである、と。

この一文を、相手がしたのと同じかたち(両手か片手か)の揖で応じる、という意味に受けとめるか、相手が揖をすれば自分も揖をする、揖を交わし合うこと一般をいう、と受けとめるかには、幅があります。宗務庁版英訳は、前の向き、相手と同じ種類の揖で応じる、という意味に訳しています。

どちらの読みであっても、ここに示されているのは、礼が一方からだけのものではない、ということでしょう。相手が揖をすれば、自分も揖をする。自分が揖をすれば、相手もまた揖をする。東司という場所を、修行者たちが互いに礼を交わしながら行き来する。その情景が、この短い言葉に描かれています。

褊衫・直裰をかける法〔【4】〕#

衣をたたんで竿にかける#

「褊衫および直裰を脱して、手巾のかたはらにかく。」(【4】)

褊衫や直裰を脱いで、手巾のそばにかける、と。宗務庁版英訳の注によれば、「褊衫」は上下二部に分かれた衣の上衣、「直裰」は上衣と裳(下衣)とを縫い合わせた一続きの衣です。

続いて、その「かくる法」が、こまかく述べられます。

直裰を脱いで、二つの袖を後ろへ合わせ、二つの脇の下を取り合わせて引き上げると、二つの袖が重なる。このとき、左手では直裰の襟首の裏の付け根を取り、右手では脇を引き上げると、二つの袂と左右の両襟とが重なる。両袖と両襟とを重ねて、さらに縦に真ん中から折って、直裰の襟首を浄竿の向こう側へ投げ越す。直裰の裾や袖口などは、竿の手前側にかかる(【4】)。

読んでいると、手もとで実際に衣をたたんでいるような心もちになる描写です。左の手と右の手がそれぞれ何をするのかまで、書き分けられています。

「たとへば、直裰の合腰、浄竿にかくるなり。」(【4】)の「たとへば」を、訳文は、前の手順をまとめて言い直す語(「つまり」「いってみれば」)と取りました。たとえとして、合腰のところを竿にかけるようなものだ、と受けとめることもできます。いずれにしても、衣の腰のあたりが竿にかかって、前と後ろとに釣り合いよく垂れる、そういうかけ方が示されているのでしょう。

落地せしめざらんとなり#

「つぎに、竿にかけたりつる手巾の遮・那両端をひきちがへて、直裰よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて、またちがへてむすびとどむ。両三匝もちがへちがへしてむすびて、直裰を浄竿より落地せしめざらんとなり。」(【4】)

次に、竿にかけていた手巾の手前と向こうの両端を交差させて、直裰の上から引き越し、手巾のかかっていなかった側で、また交差させて結びとめる。二、三回も交差させては結んで、直裰を浄竿から地に落とさないようにするのである、と。

さきに竿にかけた手巾が、ここで、衣を竿に結びとめる紐の役をします。【3】で、手巾を落ちないように両端をそろえてかけよ、と言われたことも、ここで生きてくるのでしょう。そして、二度、三度と交差させて結び、衣が地に落ちないようにする。

衣を地に落とさない。【1】で、土の丸をつくる前に法衣をたたんで置いたこととあわせて、衣を大切に扱う心が、ここでもはっきりと表れています。

直裰にむかひて合掌す#

「直裰にむかひて合掌す。」(【4】)

直裰に向かって合掌する、と。【4】は、この一句で結ばれます。

衣をたたみ、竿にかけ、手巾で結びとめて、そして、その衣に向かって合掌する。衣は、ただの着るものとしてではなく、合掌を向けられるものとして扱われています。

第四回の【9】で、用を終えて竿のところにもどったとき、本文は、

「つぎに、合掌してのち、手巾をとき、直裰をとりて著す。」(第四回の【9】)

と述べます。衣を脱いで竿にかけたときに合掌し、ふたたびその衣を著る前にも合掌する。東司での一連の作法は、衣への合掌をはさんで、行きと帰りとが向かいあっている、と言ってよいのかもしれません。

絆子・浄桶・換鞋〔【5】〕#

絆子をとりて両臂にかく#

「つぎに、絆子をとりて両臂にかく。」(【5】)

「絆子」は、袖をたくし上げてしばるための紐です。宗務庁版英訳の注は、これを背中で交差させて両肩にかけ、横向きの八の字の形にして袖をとめるもので、用便や手仕事のときに袖がじゃまにならず、汚れないようにするためのものであるとし、褊衫・直裰はすでに脱いでいるから、ここでしばるのは肌着の袖であろう、としています。本文は、何の袖をしばるのかまでは述べていません。

浄桶に水をもりて、右手に提して#

「つぎに、浄架にいたりて、浄桶に水をもりて、右手に提して浄厠にのぼる。浄桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。」(【5】)

次に、浄架に行って、浄桶に水を盛り、右手に提げて浄厠に上る。浄桶に水を入れる法は、十分に満たしてはならない。九分をめやすとする、と。

「浄桶」は、用便のあとの洗浄に用いる水を入れる桶です。それを、右手に提げて行く、と本文は言います。

第四回では、厠の中で「右手に浄桶をもちて、左手をよくよくぬらしてのち、左手を掬につくりて水をうけて」(第四回の【5】)洗浄することが述べられます。右手で桶を持ち、左手で洗う。手の役目が、はっきりと分けられているのです。【3】で、手が触しているとき、物を提げているときに片手で揖をすることが述べられていたことも、こうした手の使い分けと無関係ではないのでしょう。ただし、【3】のその一文が左右どちらの手をいうのかまでは、本文は述べていません(二つの条件をどう読むかにも幅があります)。

水は、十分に満たさず、九分にとどめる。なぜ九分なのか、本文は理由を述べていません。持ち運ぶあいだにあふれさせないため、と考えるのが自然かもしれません。第四回の【5】では、洗浄のときに桶を荒く傾けて、水をあふれ散らし、「水をはやくうしなふことなかれ」(第四回の【5】)と戒められます。水をあふれさせず、むだにせず、ちょうどよく用いる。そうした心づかいが、桶に水を汲むところから、すでに始まっていると受けとめることもできるでしょう。

換鞋――はきものを換える#

「厠門のまへにして、換鞋すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を厠門の前に脱するなり、これを換鞋といふ。」(【5】)

厠の戸口の前で、換鞋すべきである。蒲鞋(厠用の、蒲で編んだはきもの)をはいて、自分のはきものを厠の戸口の前に脱ぐのである。これを換鞋という、と。

厠の中では、厠のためのはきものをはく。自分のはきものは、戸口の前に脱いでおく。第四回の【6】では、用を終えて厠門を出るときに、「蒲鞋をぬぎて自鞋をはく」(第四回の【6】)と、その逆の手順が記されます。

はきものを換えることは、場所の区切りをはっきりさせることでもあるのでしょう。ここから先は厠の中である、と。今回の範囲は、この換鞋で終わり、次の第四回で、厠の中での作法が述べられます。

作法の一つ一つと「仏法の身心」#

今回の範囲を読みとおして、あらためて気づかされるのは、まだ「用を足す」ことそのものには、ほとんど入っていない、ということです。【1】の野外での手順をのぞけば、今回の範囲で述べられたのは、東司へ行き、手巾をかけ、袈裟をかけ、衣を脱いでたたんで竿にかけ、結びとめ、合掌し、袖をしばり、桶に水を汲み、はきものを換える、というところまででした。用を足す前の手順に、これだけの言葉が費やされているのです。

このことを、どう受けとめたらよいでしょうか。

仏法の身心にあらず――第二回の言葉から#

第二回で、道元禅師は、宋の僧たちのなかに爪を長くのばす者がいることを挙げて、

「これ、非法なり、仏法の身心にあらず。」(第二回の【4】)

と言われました。これは非法であり、仏法の身心ではない、と。そして第五回、巻の終わり近くでは、

「仏祖正伝の嫡嗣(てきし)にあらざれば、仏法の身心、いまだしらず、仏法の身心しらざれば、仏家(ぶっけ)の仏業(ぶつごう)あきらめざるなり。」(第五回の【5】)

と言われます。仏祖正伝の嫡嗣でなければ、仏法の身心をいまだ知らない。仏法の身心を知らなければ、仏家の仏業を明らかにしないのである、と。

「仏法の身心」という言葉が、爪を切ること、厠の作法を守ることとのかかわりのなかで語られています。爪を長くのばすことが「仏法の身心にあらず」とされるのであれば、反対に、爪を切り、大小便のあとを洗い、手巾をかけ、衣をたたんで竿にかけることは、仏法の身心のすがたである、と受けとめることができるでしょう。仏法の身心は、どこか別のところにある特別な身心ではなく、こうした一つ一つの行いのうえにあらわれるもの、と言えるのかもしれません。

本書で先に読んだ重雲堂式も、堂中の衆が和合して互いに道業を興すことを示したところで、「これを佛祖の身心といふ」(『重雲堂式』の【2】)と言い、条々の結びに、

「以前の數條は、古佛の身心なり、うやまひ、したがふべし。」(『重雲堂式』の【21】)

と示していました。修行の場の定めを、「古仏の身心」と呼ぶ。洗浄の巻の「仏法の身心」と、同じ方向を向いた言葉だと受けとめることができるでしょう。

身心に修行を威儀せしむる#

第一回では、また、次のように言われていました。

「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼(しょうとういんも)時(じ)、すなはち久遠(くおん)の本行(ほんぎょう)を具足円成(ぐそくえんじょう)せり。このゆえに、修行の身心、本現するなり。」(第一回の【8】)

身心において修行を威儀させる、まさにそのときに、久遠の本行を具足し、円成している。それゆえに、修行の身心が、本来のままに現れるのである、と。

この句の読みにも幅があることは、第一回で見たとおりです。けれども、ここで「威儀」という語が、身心と修行とを結ぶところに置かれていることは見のがせません。手巾をかけ、衣をたたみ、揖をする。今回読んだ作法の一つ一つは、まさに「身心に修行を威儀せしむる」ことの具体的なすがたであると受けとめることができるのではないでしょうか。

浄仏国土なり、荘厳仏国なり――次回の言葉を先に#

次の第四回で、道元禅師は、東司での作法を述べてきたところで、

「かくのごとくする、みなこれ浄仏国土(じょうぶっこくど)なり、荘厳(しょうごん)仏国なり。」(第四回の【9】)

と言われます。このようにすることは、みなこれ浄仏国土(仏国土を浄めること)であり、荘厳仏国(仏国を荘厳すること)である、と。

この言葉の受けとめ方にも幅があり、それは第四回で丁寧に読むことにします。ただ、今回読んだ手巾のかけ方、記号、揖、衣のたたみ方、浄桶の水の量、換鞋といった作法も、この「かくのごとくする」の流れのなかにあることは、心にとめておきたいと思います。作法の一つ一つが、仏国土を浄め、荘厳することとかかわっている。洗浄の巻における道元禅師の見方の中心の一つは、そこにあると受けとめることができるでしょう。

風性常住なれども――現成公案の扇#

ここで、本書で以前に読んだ現成公案の、麻谷山宝徹禅師の話を思い起こしてみたいと思います。風の性は常住で、行きわたらないところはないのに、なぜ和尚は扇を使うのか、と問う僧に対して、宝徹禅師は、風性の常住は知っていても、行きわたらないところはないという道理を知らない、と答え、その道理を重ねて問われると、ただ扇を使うだけでした。道元禅師は、

「常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。」(『現成公案』第四回)

と言われていました。常住だから扇を使うべきではない、使わないときも風を感じられるはずだ、と言うのは、常住も知らず、風性も知らないのである、と。

洗浄の巻の第一回で、道元禅師は「しかあれば、身心これ不染汚(ふぜんな)なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。」(第一回の【6】)と言われていました。身心はもとより不染汚であるけれども、浄身の法がある、と。不染汚であるから洗う必要はない、とは言われないのです。

この言葉と、現成公案の扇の話とは、別々の巻の、別々の文脈の言葉ですから、二つを重ねて解釈を決めることはできません。けれども、もとよりそなわっているから何もしなくてよい、というのではなく、扇を使う、手巾をかける、衣をたたむ、という一つ一つの行いのなかで、それがあらわれていく。そういう点で、二つの言葉は響き合っているように思われます。

坐禅と日々の暮らしのなかで#

以下は、本文が直接に語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。

坐禅の場へと、身をととのえて向かう#

坐禅をするとき、私たちは、坐る前に衣をととのえ、坐る場所をととのえ、姿勢をととのえます。今回読んだ東司の作法も、衣を脱ぎ、たたみ、竿にかけ、袖をしばり、桶に水を汲み、はきものを換えるという、身のまわりをととのえる手順の連なりでした。

第四回の終わりでは、『清規』を引いて、洗浄しなければ僧牀に坐ることも、三宝を礼することもしてはならない、と言われます(第四回の【13】)。僧牀は、僧堂で坐禅し寝起きする牀です。東司での洗浄は、坐禅の場に坐ることと、まっすぐにつながっているのです。そう受けとめると、東司の作法は、坐禅と別のことではなく、坐禅の場へと身をととのえて向かう道のりの一部だと言えるのではないでしょうか。

急がないこと#

今回の範囲で、「倉卒になげかくることなかれ」と言われていました。用を足しに行くときは、だれでも急ぎたくなるものです。その急ぐ心のままに、手巾を投げかけ、衣を脱ぎ捨てる。それをしない、というのが、この作法の要の一つだと受けとめることができます。

坐禅のなかでも、私たちは、早く足の痛みから逃れたい、早く終わってほしい、早く何かをつかみたい、と急ぐ心をおこすことがあります。弁道話には、

「かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ。」(『弁道話』第五回)

とありました。それゆえ、修行の心がまえを授けるにも、修行のほかに証を待つ思いを持ってはならない、と教える、と。東司の作法で手巾一枚をていねいにかけることも、坐禅で一息一息をていねいに坐ることも、何かのために急いで済ませる手段ではない。その一つ一つが、そのまま修行である。修証(しゅしょう)一等の教えを、そのように受けとめることができるでしょう。

他の人とともに#

今回の範囲には、他の人への心配りが、いくつも出てきました。自他の竿位を乱さないこと、大衆と揖を交わすこと、相手が揖をすれば自分も揖をすること。東司は、ひとりで用を足す場所でありながら、同時に、多くの修行者がともに用いる場所でもあるのです。

重雲堂式で、道元禅師は、

「堂中の衆は、乳水のごとくに和合して、たがひに道業を一興すべし。」(『重雲堂式』の【2】)

と示しておられました。堂中の衆は、乳と水がとけあうように和合して、互いに道業を興すべきである、と。これは堂(僧堂)についての言葉ですが、東司の浄竿の前で互いに揖を交わす修行者たちのすがたにも、同じ心を見ることができるのではないでしょうか。

いまの暮らしのなかで#

いまの私たちの暮らしでは、籌や土の丸を用いることも、浄竿に衣をかけることも、まずありません。水洗のトイレがあり、蛇口をひねれば水が出ます。今回読んだ作法を、そのままいまの暮らしに持ちこむことはできませんし、本文もそれを求めているわけではないでしょう。

けれども、作法にこめられた心は、いまの暮らしのなかにも生かすことができるように思われます。外出先で手洗いを借りるとき、荷物や上着をどこに置くか。急いでいても、投げ出すように置かず、落ちないように、他の人のじゃまにならないように置く。順番を待つ人と、軽く会釈を交わす。自分のものと人のものとを取りちがえない。いずれも、ささやかなことです。けれども、道元禅師が手巾一枚のかけ方にまで言葉を尽くしておられることを思うと、そのささやかなことのなかにこそ、仏法の身心があらわれる、と受けとめることができるのではないでしょうか。

修行道場の東司#

曹洞宗の修行道場でも、東司は、修行の場の一つとして受けつがれてきました。今回読んだ作法の細部が、いまの道場でどのように行われているかは、道場によっても異なるでしょうし、本解説では、本文に書かれていないことを補うことはしません。

東司の作法や衣の扱い方は、書物で読むだけではわかりにくいところも多いものです。関心をもたれた方は、近くの寺院の坐禅会などで、指導を受けながら、身をもって学んでみられるのがよいでしょう。

むすびに#

今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。

建物のない樹下・露地で修行するときは、谷川や河の水のほとりで、土を丸めて洗浄する。その手順は、まず法衣を脱いでたたむことから始まり、黄色い土で二七丸をつくって並べ、磨石の石を用意し、用を足し、三丸の土で小便のところ、大便のところ、触手を順に洗う、というものでした(【1】)。二七丸を用意させながら三丸の手順だけを述べること、磨石にそのあとふれないことは、本文からは説明がつかないこととして残しました。

寺舎に住むようになってからは、そのための建物を建て、それを東司という。東司は、僧の住まうところに、かならずあるべき建物である、と言われました(【2】)。

東司に行くときは、手巾を左の腕にかけて持ち、着いたら浄竿にかけ、袈裟も並べてかける。あわてて投げかけてはならない。竿の字で自分の場所を覚え、自他の場所を乱さない。大衆と揖を交わし、片手がふさがっているときは片手で揖をする(【3】)。衣は脱いでたたみ、竿にかけて手巾で結びとめ、衣に向かって合掌する(【4】)。そして、絆子で袖をしばり、浄桶に九分の水を汲んで右手に提げ、厠の戸口ではきものを換える(【5】)。

これらの作法の一つ一つが、第一回で言われた「作法、これ宗旨なり」の具体的なすがたであり、第二回・第五回の「仏法の身心」の言葉とひびき合い、第四回で言われる「浄仏国土なり、荘厳仏国なり」へとつながっていくものである、と受けとめることができるでしょう。

次の第四回では、『禅苑清規』の「東司に上らんと欲せば、応に須らく預(ま)づ往くべし」(第四回の【1】の書き下し)という引用に続いて、

「厠内にいたりて、左手(さしゅ)にて門扇(もんせん)を掩(えん)す。」(第四回の【2】)

という言葉から、厠の中での作法が述べられていきます。籌と紙、洗浄の法、灰・土・皁莢による洗手、華厳経の偈、そして「浄仏国土なり、荘厳仏国なり」「ひそかに東司上不説仏法(とうすじょうふせつぶっぽう)の道理を思量すべし」という言葉へと、本文は進んでいきます。

読みの分かれるところ#

この回の範囲は、ほとんどが具体的な作法の手順ですが、手順の細部や言葉の指すところに、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「二七丸をふたへにならべおく」と「まづ三丸の土をたづさへて」【1】
    「ふたへに」は、七丸の列をもう一列並べて二列にすることとも、上下二段に重ねることとも取れます。宗務庁版英訳は、二列に並べる向きで訳しています。また、十四の丸を用意させながら、本文が述べるのは三丸を使う手順だけで、残りの丸の使い道も、用意させた磨石の用途も書かれていません。宗務庁版英訳の注でも、このことは不思議なこととされています。三丸ずつ何度かに分けて使う、残りはのちの洗いに使う、本文が手順の一部を略している、などと考えることはできますが、いずれも推測で、本文からは説明がつきません。

  2. 「まづ小便を洗浄す」「略して触手をあらふ」【1】
    「小便を洗浄す」は、本書の訳では、小便のところを洗う、と補いました。宗務庁版英訳の注では、どういう動作かは明らかでなく、清規類のより詳しい記述からは、土の汁で洗ったあと浄い水ですすいだことが知られるが、本文はそれを明記していない、とされています。「略して」は、寺の東司での洗手(第四回の【7】)に比べて簡略に、と取ることも、単に手短に、ざっと、と取ることもできます。

  3. 「寺舎に居してよりこのかたは」【2】
    だれが寺舎に住むようになってからなのか、主語は示されていません。仏の教団が精舎に住むようになってから、と取ることも、一般に、修行者が寺に住むようになってから、と取ることもできます。第五回の「如来現在の建立なり」と合わせると前の読みにも心がひかれますが、【2】の本文そのものは、そこまでは言っていません。

  4. 「ひだりのひぢのうへにあたりて」【3】
    ひじより上の二の腕のあたりとも、ひじのところの上側とも取れます。宗務庁版英訳は、ひじの曲がり目の下の腕に、と訳しています。いずれにしても、左の腕にかけることは変わりません。

  5. 「記号」【3】
    竿に付けた字(しるし)そのものを言うのか、その字によって自分の衣の場所を覚えておくことを言うのか、本文の中で二つが重なっています。両方を重ねて言うと取ることもできます。宗務庁版英訳は、竿の字と、それを覚えておくこととを、別の語で訳し分けています。

  6. 揖の作法【3】
    「気色ある揖」は、それとわかる軽いそぶりの揖とも、心のこもった、表情のある揖とも取れます。「一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは」は、片方の手が触し、もう片方の手に物を提げている、その両方がそろうときとも、どちらか一方のときとも読めます。原文は二つの条件を並べる形で、宗務庁版英訳は「または」でつないでいます。「他、かくのごとくせば、おのれ、かくのごとくすべし」も、相手と同じかたち(両手か片手か)の揖で応じることとも、揖を交わし合うこと一般とも取れます。宗務庁版英訳は前の向きで訳しています。

  7. 「たとへば、直裰の合腰、浄竿にかくるなり」【4】
    本書の訳は、「たとへば」を、前の手順をまとめて言い直す語(つまり、いってみれば)と取りました。宗務庁版英訳も同じ向きで訳しています。一方で、たとえとして、合腰のところを竿にかけるようなものだ、と受けとめることもできます。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第七「洗浄」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. IV(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 「洗浄」の語と、作法が『禅苑清規』などの清規類に拠ること、「作法是宗旨」の出どころ、起屋・灰・黄色の土・籌・東司の名と宋の寺の東司・浄竿・打併・褊衫・直裰・絆子についての説明、二七丸と三丸・磨石、「小便を洗浄す」についての注と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注・解題によります。