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洗浄(二)爪と髪、大小便の洗浄#

十指の爪を切ることから、長爪・長髪をいましめる如浄禅師の言葉を経て、大小便の洗浄と舎利弗の話までの、九つの段落を読む回です。

原文#

十指の爪をきるべし#

【1】十指の爪をきるべし。十指といふは、左右の両手の指のつめなり。足指の爪、おなじくきるべし。

【2】経にいはく、「つめのながさ、もし一麦(いちばく)ばかりになれば、罪をうるなり」。

【3】しかあれば、爪をながくすべからず、爪のながきは、おのづから外道の先蹤(せんしょう)なり、ことさらつめをきるべし。

大宋国の長爪・長髪#

【4】しかあるに、いま大宋国の僧家(そうけ)のなかに、参学眼(さんがくげん)そなはらざるともがら、おほく爪をながからしむ。あるひは一寸・両寸、および三・四寸にながきもあり。これ、非法なり、仏法の身心(しんじん)にあらず。仏家(ぶっけ)の稽古(けいこ)あらざるによりて、かくのごとし。有道(うどう)の尊宿は、しかあらざるなり。あるひは長髪(ちょうはつ)ならしむるともがらあり、これも非法なり。大国の僧家の所作(しょさ)なりとして、正法(しょうぼう)ならん、とあやまることなかれ。

先師古仏のいましめ#

【5】先師古仏(せんしこぶつ)、ふかくいましめのことばを、天下の僧家の長髪・長爪(ちょうそう)のともがらにたまふにいはく、「不会浄髪、不是俗人、不是僧家、便是畜生。古来佛祖、誰是不浄髪者。如今不会浄髪、真箇是畜生」。

【6】かくのごとく示衆(じしゅ)するに、年来不剃頭(ふていず)のともがら、剃頭せるおほし。

【7】あるひは上堂、あるひは普説のとき、弾指(だんじ)かまびすしくして責呵(せっか)す。いかなる道理としらず、胡乱(うろん)に長髪・長爪なる。あはれむべし、南閻浮(なんえんぶ)の身心をして非道におけること。近来二三百年、祖師道、廃せるゆえに、しかのごとくのともがらおほし。かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師号に署(しょ)して、為衆(いしゅ)の相をなす、人天の無福なり。いま天下の諸山(しょざん)に、道心箇渾無(どうしんここんむ)なり、得道箇久絶(とくどうこくぜつ)なり、祗管破落黨のみなり。

【8】かくのごとく普説するに、諸方に長老の名をみだりにせるともがら、うらみず、陳説なし。しるべし、長髪は仏祖のいましむるところ、長爪は外道の所行(しょぎょう)なり。仏祖の児孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよからしむべし、剪爪(せんそう)・剃髪(ていはつ)すべきなり。

洗大小便と舎利弗#

【9】洗大小便、おこたらしむることなかれ。舎利弗(しゃりほつ)、この法をもて、外道を降伏(ごうぶく)せしむることありき。外道の本期(ほんご)にあらず、身子(しんし)が素懐(そかい)にあらざれども、仏祖の威儀(いいぎ)現成(げんじょう)するところに、邪法おのづから伏するなり。

現代語訳#

段落番号【1】〜【9】は原文の段落番号と対応します。原文と現代語訳の小見出しは、読みやすさのために付けたもので、原文にはありません。( )内は、原文にない語を訳者が補ったもの、または直前の語の言い換え・読みです。【5】の先師古仏(せんしこぶつ)(如浄禅師)の示衆(じしゅ)は、まず和文の部分を訳し、続けて漢文の「書き下し」と訳を示しました。書き下しは、本山版に拠る活字本に付けられた読み下しに従い、仮名づかい・読点・かぎ括弧もそのままとしました。底本の本文そのものではなく、一つの読み方です。和文の中の漢語の句(【7】の「道心箇渾無(どうしんここんむ)」など、【9】の「洗大小便」)は、語注で語の意味を示しました。【7】の「責呵(せっか)す。いかなる道理としらず、胡乱(うろん)に長髪(ちょうはつ)・長爪(ちょうそう)なる。」の箇所は、本書の原文の句切りに従い、「いかなる道理としらず」を後の「胡乱に長髪・長爪なる」にかけて訳しました。【7】のどこからどこまでが如浄禅師の言葉かは、原文に引用の括弧がなく、決まりません。訳文ではかぎ括弧を加えず、地の文のまま訳し、考えられる範囲は語注と末尾の「読みの分かれるところ」に記しました。仏教語・禅語(外道・先蹤(せんしょう)・僧家(そうけ)・参学眼(さんがくげん)・非法・仏法・身心(しんじん)・仏家(ぶっけ)・稽古(けいこ)・有道(うどう)・尊宿・長髪・長爪・大国・正法(しょうぼう)・先師古仏・浄髪(じょうはつ)・俗人・畜生・示衆・剃頭・上堂・普説・弾指(だんじ)・責呵・南閻浮(なんえんぶ)・非道・祖師道・寺院の主人・師号・為衆(いしゅ)・人天・諸山(しょざん)・道心・得道・破落党・長老・陳説・児孫・剪爪(せんそう)・剃髪(ていはつ)・洗大小便・降伏(ごうぶく)・本期(ほんご)・素懐(そかい)・威儀(いいぎ)・現成(げんじょう)・邪法など)と人名は、訳さずに残すか、( )で意を添えるにとどめ、段落の後に「語注」として短く説明しました。人名の生没年や典拠は、宗務庁版英訳の注が挙げる範囲で示しています。読みの分かれる句には、訳文に一つの訳を置き、主なものを末尾の「読みの分かれるところ」に挙げました。

十指の爪をきるべし#

【1】十指の爪を切るべきである。十指というのは、左右の両手の指の爪である。足の指の爪も、同じように切るべきである。

語注

  • 十指の爪をきるべし:第一回【5】の『大比丘三千威儀経(だいびくさんぜんいいぎきょう)』の「浄身とは…十指の爪(つめ)を剪(き)るなり」を受けて、まず爪を切ることから説く。

【2】経にいう、「爪の長さが、もし一麦(いちばく)ほどになれば、罪を得るのである」。

語注

  • 経にいはく:宗務庁版英訳の注は、和文で示されたこの引用の出典はわからない、とする。どの経かは補わなかった。
  • 一麦:麦一粒(の長さ)。訳さずに残した。宗務庁版英訳は "one grain of barley" と訳す。
  • 一麦ばかりになれば:麦一粒ほど(の長さ)になれば。宗務庁版英訳は "exceeds"(超えれば)と訳す。「ばかり」を「ほど」と取って、字面どおりに訳した。
  • 罪をうるなり:罪を得る、罪になる。

【3】そうであるから、爪を長くしてはならない。爪の長いのは、おのずから外道の先蹤(先例)である。ことさら(とりわけ心して)爪を切るべきである。

語注

  • 外道:仏道の外の道。仏教以外の教え(を奉じる者)。訳さずに残した。宗務庁版英訳は "other paths" と訳す。
  • 先蹤:先人の足跡、先例。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • おのづから外道の先蹤なり:(爪を長くすることは)それ自体が外道のならわしに倣うことになる、の意に取った(→読みの分かれるところ)。
  • ことさら:とりわけ、わざわざ。

大宋国の長爪・長髪#

【4】ところが、いま大宋国の僧家のなかに、参学眼のそなわっていない者たちがいて、多くは爪を長くのばしている。一寸・二寸、さらには三寸・四寸にも長いものもある。これは非法であり、仏法の身心ではない。仏家の稽古がないために、このようなのである。有道の尊宿は、そうではないのである。また、長髪にしている者たちもいる。これも非法である。大国の僧家のしていることだからといって、正法であろう、と誤ってはならない。

語注

  • 大宋国:宋の国、中国。道元禅師が入宋した当時の国名。
  • 僧家:僧たち、出家の社会。訳さずに残した。
  • 参学眼:参学(仏道を学ぶこと)の眼、仏道を見きわめる眼。訳さずに残した。
  • ともがら:者たち、連中。
  • 一寸・両寸、および三・四寸:一寸・二寸、さらに三寸・四寸。長さの単位は原文のまま残した。
  • 非法:法にかなわないこと。訳さずに残した。
  • 仏法の身心にあらず:仏法(にかなった者)の身心ではない。
  • 仏家の稽古:仏家(仏の家、仏道の世界)の稽古。「稽古」は、古(いにしえ)を稽(かんが)えること、古の仏祖の道を学ぶこと。宗務庁版英訳は "investigation of the ancients in the house of the buddhas" と訳す。訳さずに残した。
  • 有道の尊宿:道をそなえた、尊い長老。訳さずに残した。
  • 長髪:髪を長くのばすこと。
  • 大国の僧家の所作(しょさ)なりとして:大国(宋)の僧たちのしていることだからといって。
  • 正法:正しい法。訳さずに残した。

先師古仏のいましめ#

【5】先師古仏は、深いいましめのことばを、天下の僧家の、長髪・長爪の者たちに与えて、こう言われた。

書き下し 「浄髪(じょうはつ)を会(え)せざる、是れ俗人ならず、是れ僧家(そうけ)ならず、便ち是れ畜生なり。古来の仏祖、誰か是れ浄髪せざる者あらん。如今(いま)、浄髪を会せざるは、真箇是れ畜生なり」。

訳 「浄髪をわきまえない(髪を剃り清めない)者は、俗人でもなく、僧家でもない。すなわち畜生である。古来の仏祖のうち、だれか浄髪しなかった者があろうか。いま、浄髪をわきまえない者は、まことに畜生である」。

語注

  • 先師古仏:亡き師である古仏。天童如浄(1162–1227)、道元禅師の本師を指す(宗務庁版英訳の注による)。訳さずに残した。
  • ふかくいましめのことばを…たまふ:「ふかく」を「いましめのことば」にかけて「深いいましめのことば」と訳した。「ふかく…たまふ」(強く与えた)とも取れる。意味に大きな違いはない。
  • 長爪:爪を長くのばすこと。
  • 典拠:宗務庁版英訳の注は、漢文で示されたこの如浄の言葉の出典はわからないが、「真箇是畜生」の句を含む同じような一節が、道元禅師が如浄との問答を記した『宝慶記』に見える、とする。
  • 浄髪:髪を剃って清浄にすること。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • 会せざる:わきまえない、心得ない。「会」を「理解する」と取るか、「よくする(行う)」と取るかで、「浄髪ということを心得ない」「浄髪をしない」のどちらにもなる。訳文は「わきまえない」とし、( )で「剃り清めない」を添えた(→読みの分かれるところ)。
  • 俗人/僧家:在家の人/出家の僧。
  • 畜生:けもの、鳥獣。六道の一つ。訳さずに残した。宗務庁版英訳は "beasts" と訳す。如浄禅師の強いいましめの言葉として、字のまま訳した。
  • 如今(いま):いま。
  • 真箇:まことに、ほんとうに。

【6】このように示衆されると、長年、剃頭していなかった者たちで、剃頭した者が多かった。

語注

  • 示衆:大衆に法を示すこと。訳さずに残した。
  • 不剃頭(ふていず):頭を剃らないこと。
  • 剃頭:頭を剃ること。訳さずに残した。

【7】あるいは上堂のとき、あるいは普説のときに、(先師は)弾指をやかましく鳴らして責呵された。どのような道理(があるの)かも知らず、むやみに長髪・長爪にしている。あわれむべきことである、南閻浮の身心を非道に置いていることは。近来の二、三百年、祖師の道が廃れたために、このような者たちが多い。このような者たちが寺院の主人となり、師号に署(しょ)して、為衆の相をなしている。(これは)人天の無福(不幸)である。いま天下の諸山には、道心ある者はまったくなく、得道の者は久しく絶えて、ただ破落党ばかりである。

語注

  • 話し手の範囲:「責呵す。」までは如浄禅師のふるまいを道元禅師が述べる地の文。「いかなる道理としらず」以下が、如浄禅師が責呵した言葉を和文で伝えたものか、道元禅師自身の言葉かは、原文に引用の括弧がなく決まらない。宗務庁版英訳の注は、続く節を如浄の言葉を和文で伝えたものとしつつ、ほかの文献の裏づけがないので、道元禅師が師の教えをどこまで言い換えているかは明らかでない、とする。【8】の「かくのごとく普説するに」は、直前までを普説の内容として受けるようにも読める。訳文はかぎ括弧を加えず、地の文のまま訳した(→読みの分かれるところ)。
  • 上堂:住持が法堂に上って大衆に法を説くこと。訳さずに残した。
  • 普説:住持が大衆に広く説法すること。訳さずに残した。
  • 弾指:指をはじいて鳴らすこと。宗務庁版英訳の注は、弾指はほかの用い方とともに、警告を示すこともあるとし、この巻の第四回【2】の、厠に上る前の弾指を参照させる。訳さずに残した。
  • 責呵す:責め叱る。訳さずに残した。
  • いかなる道理としらず、胡乱に長髪・長爪なる:本書の原文の句切りに従い、「いかなる道理としらず」を後ろの「胡乱に長髪・長爪なる」にかけて、「どのような道理(があるの)かも知らず、むやみに長髪・長爪にしている」と訳した。「どういうわけか知らないが」の意にも取れる。宗務庁版英訳も同じ句切りで "For whatever reason, they wantonly grow out their hair and grow out their nails." と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 胡乱に:むやみに、いいかげんに。
  • 南閻浮:南閻浮提。須弥山の南にある大陸で、仏が世に出る所とされる(宗務庁版英訳の注による)。人の住む世界。訳さずに残した。
  • 南閻浮の身心をして非道におけること:南閻浮(に生まれた人)の身心を、非道に置いていること。宗務庁版英訳の注は、「非道」には、仏道でないこと、仏教の道理にかなわないこと、人の道にかなわないこと、畜生・餓鬼・地獄の悪道に通じること、など幅のある含みがあるとする。非道は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 近来二三百年:近ごろの二、三百年。
  • 祖師道、廃せる:祖師の道が廃れた。「祖師道」は「祖師の道」とも「祖師の言葉(道=いう)」とも取れる。訳文は「祖師の道」とした(→読みの分かれるところ)。
  • 寺院の主人:寺の住持。
  • 師号に署して:師号(朝廷などから賜る禅師号などの称号)を署名に用いて、師号を名のって。宗務庁版英訳は「師号を授けられ(has been granted "master" titles)」と訳す(→読みの分かれるところ)。
  • 為衆の相をなす:衆のための(師としての)すがたをとる。宗務庁版英訳の注は、朝廷が僧尼の衆を監督するために任じた役職をつとめる意とする。訳文は字面に近く「為衆の相をなしている」とし、訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • 人天の無福:人間界・天上界の(者にとって)福のないこと、不幸。宗務庁版英訳は "misfortune for humans and devas" と訳す。人天は訳さずに残した。
  • 諸山:主な大寺院。宗務庁版英訳の注は「しょさん」とも読み、主要な仏教寺院をいう語とする。訳さずに残した。
  • 道心箇渾無なり:道心の者は、まったくいない。「箇」を「者」(その人)の意に取り、「渾無」を「まったく無い」と訳した。宗務庁版英訳は "those with the mind of the way are entirely absent" と訳す(→読みの分かれるところ)。道心は訳さずに残した。
  • 得道箇久絶(とくどうこくぜつ)なり:得道の者は、久しく絶えている。
  • 祗管破落黨のみなり:ただひたすら破落党ばかりである。「祗管」は「ただひたすら」。「破落党」(原文の字は「黨」)は、落ちぶれた連中、ならず者の仲間。宗務庁版英訳は "just a gang of degenerates" と訳す。破落党は訳さずに残した。

【8】このように普説されると、諸方でみだりに長老の名を名のっている者たちも、(先師を)うらまず、陳説することもなかった。知るべきである、長髪は仏祖のいましめるところであり、長爪は外道の所行(しょぎょう)である。仏祖の児孫は、これらの非法を好んではならない。身心を清らかにすべきであり、剪爪・剃髪すべきである。

語注

  • かくのごとく普説するに:このように普説すると。主語は先師(如浄禅師)と取った。
  • 長老の名をみだりにせる:長老(住持)の名を、分にすぎて(みだりに)名のっている。宗務庁版英訳は "improperly named 'elders'" と訳す。
  • うらみず、陳説なし:うらむこともなく、陳説(申し開き、弁明)もなかった。何を「うらまない」のか(先師の責呵を、か)は原文に示されないので、訳文に(先師を)と補った。陳説は訳さずに残した(→読みの分かれるところ)。
  • しるべし:知るべきである。ここから道元禅師が結論を述べる、と取るのが自然だが、範囲は【7】の語注のとおり決まらない。
  • 所行:おこない。
  • 仏祖の児孫:仏祖の子孫、仏祖の法を嗣ぐ者たち。訳さずに残した。
  • 剪爪・剃髪:爪を切ること・髪を剃ること。訳さずに残した。

洗大小便と舎利弗#

【9】洗大小便(大小便のあとを洗うこと)を、おこたってはならない。舎利弗(しゃりほつ)は、この法によって、外道を降伏させたことがあった。(それは)外道のもとからの期するところではなく、身子(しんし)(舎利弗)のもとからの意図でもなかったけれども、仏祖の威儀が現成するところでは、邪法はおのずから伏するのである。

語注

  • 洗大小便:大小便(のあと)を洗うこと。和文の中の漢語の句(本書の読みでは「大小便を洗う」)。第一回【5】の『大比丘三千威儀経』の「洗大小便」を受ける。訳さずに残し、( )で意を添えた。
  • おこたらしむることなかれ:おこたらせることがあってはならない。訳文は「おこたってはならない」とした。
  • 舎利弗:仏の弟子。人名として訳さずに残した。
  • 外道を降伏せしむる:外道(の者)を降伏させる(屈服させて仏道に帰依させる)。宗務庁版英訳の注は、この話はいくつかの文献に見え、舎利弗の便所での作法にあるバラモンが感じ入って仏教の教団に入ったという話で、たとえば義浄訳の根本説一切有部の律(『毘奈耶雑事』)に見える、とする。宗務庁版英訳は "converted the follower of an other path" と訳す。
  • 外道の本期にあらず:外道(の者)が、もとから期していた(望んでいた)ことではない。宗務庁版英訳の注は、少なくとも義浄訳の話では、そのバラモンはもともと清浄にこだわりがあり、まさに便所の作法を見るためにいろいろな教団を訪ねていたらしい、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 身子が素懐にあらざれども:身子(舎利弗の別名)のもとからの意図でもなかったけれども。宗務庁版英訳の注は、同じ義浄訳の話では、舎利弗は自分のふるまいが見られていることをよく知っていたとも記す、とする(→読みの分かれるところ)。
  • 仏祖の威儀現成するところに:仏祖の威儀が現成する(そのままあらわれる)ところでは。威儀・現成は訳さずに残した。
  • 邪法おのづから伏する:邪法(よこしまな教え)が、おのずから伏する(降る)。邪法は訳さずに残した。

解説#

今回読むところ#

前回は、巻の冒頭から、「修行の身心、本現するなり。」(第一回の【8】)までを読みました。仏祖の護持(ごじ)してきた修証(しゅしょう)は不染汚(ふぜんな)である。身心は不染汚であるけれども、浄身の法がある。そして、水によって身を浄めるのではなく、仏法によって仏法を保任(ほにん)するところに洗浄(せんじょう)という儀がある――そのように、浄めることの意味が説かれていました。

その前回の範囲で、『大比丘三千威儀経』の、

「浄身者、洗大小便、剪十指爪」(第一回の【5】)

という言葉が引かれていました。書き下しでは「浄身とは、大小便を洗い、十指の爪を剪るなり」。浄身とは、大小便のあとを洗い、十本の指の爪を切ることである、と。

今回から、この経の文に示された二つのこと――爪を切ることと、大小便のあとを洗うこと――が、具体的に説かれていきます。今回は、「十指の爪をきるべし。」から、「邪法おのづから伏するなり。」までを読みます。内容のまとまりによって、次のように見ていきます。

  • 【1】〜【3】 十指の爪をきるべし
  • 【4】 大宋国の長爪・長髪
  • 【5】【6】 先師古仏のいましめ
  • 【7】【8】 上堂・普説の責呵と、その結び
  • 【9】 洗大小便と舎利弗

爪を切ることについては、経の文にあったとおりですが、今回の範囲では、それに加えて、髪を剃ることも取り上げられます。そして、その戒めを示すために、道元禅師の本師である天童如浄禅師の言葉が引かれます。前回が巻全体の土台を示す回であったとすれば、今回は、その土台の上で、身を浄めることが、ごく具体的な行いとして示されはじめる回と受けとめることができるでしょう。

今回の範囲には、宋の国の僧たちのありさまを、強い言葉で責める箇所があります。本解説では、それを、当時の叢林(修行道場)のありようへの戒めとして、本文に書かれている範囲で読みます。本文が述べていることを越えて、特定の人や国を評することはしません。

読みの分かれる箇所では、訳文の読みに沿って説きながら、一つの読みに決めず、受けとめ方の幅を示します。とくに、【7】のどこまでが如浄禅師の言葉で、どこからが道元禅師の言葉なのかは、本文から決めることができませんので、本解説でも決めないでおきます。

十指の爪をきるべし〔【1】〜【3】〕#

手の爪も、足の爪も#

「十指の爪をきるべし。十指といふは、左右の両手の指のつめなり。足指の爪、おなじくきるべし。」

十指の爪を切るべきである。十指というのは、左右の両手の指の爪である。足の指の爪も、同じように切るべきである、と。

前回の範囲の終わりは、「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼(しょうとういんも)時(じ)、すなはち久遠(くおん)の本行(ほんぎょう)を具足円成(ぐそくえんじょう)せり」という、まことに大きな言葉でした。それを受けて、今回の範囲の最初に置かれているのは、爪を切れ、という、これ以上ないほど具体的な言葉です。しかも、「十指」とは両手の指のことだ、と言葉の意味を確かめたうえで、足の指の爪も同じように切れ、と言い添えられています。

経の文が「十指の爪」と言っているからといって、足の爪は含まれない、というのではない。そういう細かいところまで、道元禅師は言葉を尽くしておられます。前回、「作法、これ宗旨(しゅうし)なり」(第一回の【6】)という言葉を読みました。作法がそのまま宗旨であるならば、作法の細部をおろそかにすることはできません。この巻が、このあと、驚くほど細かな作法を一つ一つ説いていくのは、そのことの表れと受けとめることができるでしょう。

経にいはく――一麦ばかり#

「経にいはく、「つめのながさ、もし一麦ばかりになれば、罪をうるなり」。」

経にいう、「爪の長さが、もし一麦ほどになれば、罪を得るのである」と。

「一麦」は、麦一粒の長さです。爪の長さが麦一粒ほどになれば、それは罪になる、という言葉です。宗務庁版英訳の注は、和文で示されたこの引用の出典はわからない、としています。本書でも、どの経・律によるものかは補いません。

「一麦ばかりになれば」を、訳文は字のとおり「一麦ほどになれば」と訳しました。宗務庁版英訳は「超えれば(exceeds)」と訳しています。どちらに取るにしても、麦一粒ほどのわずかな長さが問題にされている、ということは変わりません。ほんの少し伸びただけでも、それをそのままにしておかない。そういう細やかさが求められている、と受けとめることができるでしょう。

外道の先蹤#

「しかあれば、爪をながくすべからず、爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり、ことさらつめをきるべし。」

そうであるから、爪を長くしてはならない。爪の長いのは、おのずから外道の先蹤(先例)である。ことさら(とりわけ心して)爪を切るべきである、と。

「外道」は、仏道の外の道、仏教以外の教えを奉じる者のことです。「先蹤」は、先人の足跡、先例です。爪を長くすることは、おのずから外道の先例である、と言われます。

この句の受けとめ方には幅があります。訳文は、長い爪は、それ自体が外道のならわしに倣うことになる、という意に取りました。このほかに、長い爪をのばしていると、おのずから(後の人にとって)外道の先例となってしまう、と受けとめることもできますし、外道に長い爪をのばす先例がある、という事実を述べている、と受けとめることもできるでしょう。本文は、外道がどのようなわけで爪を長くするのかについては、何も述べていません。本解説でも、それ以上のことは補わないでおきます。

いずれにしても、ここで言われているのは、爪を長くすることは仏道の者のふるまいではない、ということです。そして、「ことさらつめをきるべし」と、とりわけ心して爪を切れ、と結ばれます。

大宋国の長爪・長髪〔【4】〕#

参学眼そなはらざるともがら#

「しかあるに、いま大宋国の僧家のなかに、参学眼そなはらざるともがら、おほく爪をながからしむ。あるひは一寸・両寸、および三・四寸にながきもあり。これ、非法なり、仏法の身心にあらず。」

ところが、いま大宋国の僧家のなかに、参学眼のそなわっていない者たちがいて、多くは爪を長くのばしている。一寸・二寸、さらには三寸・四寸にも長いものもある。これは非法であり、仏法の身心ではない、と。

ここで、話は経典の言葉から、いまの大宋国の僧家のありさまに移ります。宋の僧たちのなかに、爪を長くのばしている者が多い。一寸、二寸、なかには三寸、四寸にもなる者がいる、と。

ここで、本文の言葉づかいに注意しておきたいと思います。本文は、宋の僧たちがみな爪を長くしている、と言っているのではありません。「参学眼そなはらざるともがら」――参学の眼、仏道を見きわめる眼のそなわっていない者たちが、と限っています。そして、すぐあとに、

「仏家の稽古あらざるによりて、かくのごとし。有道の尊宿は、しかあらざるなり。」

と続きます。仏家の稽古がないために、このようなのである。道をそなえた尊い長老は、そうではないのである、と。

宋の国にも、道をそなえた尊宿はいる。そういう人は爪を長くしていない。長い爪は、宋の国の僧のならいなのではなく、仏家の稽古がないことの表れだ、というのです。本文の戒めは、国や人々をひとまとめにして責めるものではなく、仏道を学ぶ者のありかたに向けられたものだ、と受けとめることができるでしょう。

「仏家の稽古」の「稽古」は、古(いにしえ)を稽(かんが)える、古の仏祖の道を学ぶ、という意味の言葉です。宗務庁版英訳も「仏の家における古人の参究」という向きに訳しています。今日の「けいこ(修練)」に近い意味で受けとめる読みもありえますが、ここでは、古の仏祖の道に照らして学ぶことがないから、という意に取っておきます。爪を長くするかどうかの基準は、いまの人々のならいではなく、古の仏祖の道にある、ということが、この「稽古」という言葉に込められている、と見ることができるでしょう。

大国の僧家の所作なりとして#

「あるひは長髪ならしむるともがらあり、これも非法なり。大国の僧家の所作なりとして、正法ならん、とあやまることなかれ。」

また、長髪にしている者たちもいる。これも非法である。大国の僧家のしていることだからといって、正法であろう、と誤ってはならない、と。

ここで、爪に加えて、髪のことが取り上げられます。経の文には爪のことだけがありましたが、道元禅師は、長い髪もまた非法である、と言われます。

そして、「大国の僧家の所作なりとして、正法ならん、とあやまることなかれ」。この言葉は、とくに当時の日本の読み手に向けられた言葉として受けとめることができるでしょう。本文の言う「大国」の僧たちがしていることなのだから、それが正しい仏法なのだろう――そう考えてしまうことは、十分にありうることです。本文は、それをはっきりと退けています。

大国のならいであるかどうかは、正法であるかどうかの基準にはならない。基準は、さきの言葉で言えば「仏家の稽古」、古の仏祖の道です。この言葉は、宋の国の僧たちを責める言葉であるよりも、それを手本として仰ぐ側の、見る眼の確かさを求める言葉である、と受けとめることもできるでしょう。

先師古仏のいましめ〔【5】【6】〕#

先師古仏#

「先師古仏、ふかくいましめのことばを、天下の僧家の長髪・長爪のともがらにたまふにいはく、」

先師古仏は、深いいましめのことばを、天下の僧家の、長髪・長爪の者たちに与えて、こう言われた、と。

「先師古仏」は、亡き師である古仏、すなわち天童如浄禅師です。宗務庁版英訳の注によれば、如浄禅師の生没年は1162–1227年です。如浄禅師は、道元禅師が宋の国で師事された、道元禅師の本師です。道元禅師は、その師を「古仏」と呼んでおられます。

ここで目をとめておきたいのは、長髪・長爪を戒める言葉が、宋の国の外からではなく、宋の国の叢林の中から、宋の国の禅師によって発せられている、ということです。【4】で道元禅師は、宋の僧たちのなかの長爪・長髪を非法と言われましたが、本文の流れからは、それを、本師が宋の叢林で示された戒めに連なるものとして受けとめることもできるでしょう。

不会浄髪、便是畜生#

如浄禅師の言葉は、漢文で引かれます。

「「不会浄髪、不是俗人、不是僧家、便是畜生。古来佛祖、誰是不浄髪者。如今不会浄髪、真箇是畜生」。」

書き下しでは、

「浄髪を会(え)せざる、是れ俗人ならず、是れ僧家ならず、便ち是れ畜生なり。古来の仏祖、誰か是れ浄髪せざる者あらん。如今、浄髪を会せざるは、真箇是れ畜生なり」。

となります。浄髪をわきまえない者は、俗人でもなく、僧家でもない。すなわち畜生である。古来の仏祖のうち、だれか浄髪しなかった者があろうか。いま、浄髪をわきまえない者は、まことに畜生である、と。

宗務庁版英訳の注は、漢文で示されたこの如浄禅師の言葉の出典はわからないが、「真箇是畜生」の句を含む同じような一節が、道元禅師が如浄禅師との問答を記した『宝慶記』に見える、としています。

「浄髪」は、髪を剃って清浄にすることです。「会せざる」を、訳文は「わきまえない」としました。「会」を「理解する」の意に取れば、浄髪ということを心得ない、という意味になり、「よくする、行う」の意に取れば、浄髪をしない、という意味になります。宗務庁版英訳は後の向きに訳しています。どちらにしても、髪を剃り清めることをしない者、その意味をわきまえない者が、ここで戒められています。

「畜生」という言葉は、強い言葉です。訳文では、如浄禅師の強いいましめの言葉として、字のまま訳しました。

この言葉を受けとめるときに、言葉の組み立てに目をとめておきたいと思います。「不是俗人、不是僧家」――俗人でもなく、僧家でもない。在家の人として暮らしているのでもなく、出家の僧としての姿をととのえているのでもない。家を出て僧の名を名のりながら、僧のありかたをととのえていない者は、俗人でも僧でもない、どちらにも属さない者になってしまう。そのことを、如浄禅師は、もっとも強い言葉で言いあらわされた、と受けとめることができるでしょう。

この言葉は、髪を伸ばしている世の人々一般に向けられたものではありません。本文が言うように、「天下の僧家の長髪・長爪のともがら」――僧家にありながら長髪・長爪にしている者たちに向けられた言葉です。在家の人が髪を伸ばしていることを責める言葉ではないことは、「不是俗人」という句からも読みとることができます。

そして、「古来佛祖、誰是不浄髪者」。古来の仏祖のうち、浄髪しなかった者がいるだろうか、と。ここで、髪を剃ることの基準が、ふたたび古の仏祖に置かれています。【4】の「仏家の稽古」と、同じ向きの言葉と受けとめることができます。

年来不剃頭のともがら、剃頭せるおほし#

「かくのごとく示衆するに、年来不剃頭のともがら、剃頭せるおほし。」

このように示衆されると、長年、剃頭していなかった者たちで、剃頭した者が多かった、と。

「示衆」は、大衆に法を示すことです。如浄禅師がこのように示されると、長年頭を剃っていなかった者たちのなかに、頭を剃った者が多かった、と本文は記します。

強いいましめの言葉が、ただ人を責めるだけで終わらず、聞いた者たちが実際に頭を剃る、という行いにつながった。本文は、そのことを短く記しています。

上堂・普説の責呵と、その結び〔【7】【8】〕#

弾指かまびすしくして責呵す#

「あるひは上堂、あるひは普説のとき、弾指かまびすしくして責呵す。」

あるいは上堂のとき、あるいは普説のときに、(先師は)弾指をやかましく鳴らして責呵された、と。

「上堂」は、住持が法堂に上って大衆に法を説くこと、「普説」は、住持が大衆に広く説法することです。「弾指」は、指をはじいて鳴らすことで、宗務庁版英訳の注は、弾指はほかの用い方とともに、警告を示すこともある、としています。「責呵」は、責め叱ることです。

如浄禅師は、一度の示衆だけでなく、上堂のとき、普説のときにも、くり返し、弾指を鳴らして責めておられた、と本文は伝えます。

どこまでが如浄禅師の言葉か#

続く言葉を読む前に、一つ大切なことをお断りしておきます。

「いかなる道理としらず、胡乱に長髪・長爪なる。」以下、「祗管破落黨のみなり。」までの言葉は、如浄禅師が上堂・普説で責呵された言葉を、道元禅師が和文で伝えたものとも読めますし、如浄禅師の責呵を受けて、道元禅師ご自身が述べられた言葉とも読めます。本文には、引用を示す括弧がありません。

宗務庁版英訳の注は、続く節を如浄禅師の言葉を和文で伝えたものとしながらも、ほかに文献の裏づけがないので、道元禅師が師の教えをどこまで言い換えておられるのかは明らかでない、としています。また、続く【8】の「かくのごとく普説するに」は、直前までを普説の内容として受けているようにも読めます。一方で、「あはれむべし…非道におけること」までが如浄禅師の言葉で、「近来二三百年」以下は道元禅師の言葉だ、と受けとめることもできますし、「いかなる道理としらず」から「祗管破落黨のみなり」までの全体を、師の責呵を受けた道元禅師ご自身の言葉と受けとめることもできます。

本解説では、この範囲を決めないでおきます。以下では、「本文は言う」という形で読んでいきますが、それは、話し手を如浄禅師とも道元禅師とも決めない、という意味です。

いかなる道理としらず#

「いかなる道理としらず、胡乱に長髪・長爪なる。あはれむべし、南閻浮の身心をして非道におけること。」

どのような道理(があるの)かも知らず、むやみに長髪・長爪にしている。あわれむべきことである、南閻浮の身心を非道に置いていることは、と。

ここは、句の切り方によって読みが変わるところです。本書は原文の句切りに従い、「いかなる道理としらず」を、後ろの「胡乱に長髪・長爪なる」にかけて読みました。宗務庁版英訳も同じ切り方で訳しています。この読みでは、長髪・長爪の者たちが、どういう道理があるのかも知らずに、むやみに髪や爪を伸ばしている、という意味になります。また、「どういうわけか知らないが、むやみに長髪・長爪にしている」と、話し手の側の言葉として受けとめることもできるでしょう。

一方で、「責呵す、いかなる道理としらず。」と、「いかなる道理としらず」を前の「責呵す」に続けて読む切り方もありえます。この読みでは、(長髪・長爪を)どういう道理かわからない、と責呵した、という意味になり、「胡乱に長髪・長爪なる」は、続く「あはれむべし」の対象になります。

どちらの切り方を取るにしても、長髪・長爪が、仏道の道理によらない、むやみなふるまいとして戒められていることは変わりません。

「南閻浮」は、南閻浮提のことで、宗務庁版英訳の注によれば、須弥山の南にある大陸で、仏が世に出る所とされます。私たちの住むこの世界のことです。「南閻浮の身心をして非道におけること」――この世界に生まれた人の身心を、非道に置いていること。

「南閻浮の身心」の受けとめ方には幅があります。仏の出る世界に生まれた、得がたい人の身心、という含みを読むこともできますし、単に、この世の人の身心、と受けとめることもできます。「非道」についても、宗務庁版英訳の注は、仏道でないこと、仏教の道理にかなわないこと、人の道にかなわないこと、畜生・餓鬼・地獄の悪道に通じること、など幅のある含みがある、としています。

前者の含みで受けとめるなら、せっかく仏の出る世界に人の身を受け、しかも僧となりながら、その身心を仏道ならぬところに置いている。それがあわれむべきことだ、という言葉になるでしょう。【5】の如浄禅師の「畜生」という言葉と、「非道」の含みの一つとが、ここで響きあっているようにも見えます。

近来二三百年、祖師道廃せる#

「近来二三百年、祖師道、廃せるゆえに、しかのごとくのともがらおほし。」

近来の二、三百年、祖師の道が廃れたために、このような者たちが多い、と。

「祖師道」を、訳文は「祖師の道」と取りましたが、「祖師の言葉」(道=いう)と取ることもできます。祖師の道が廃れた、あるいは、祖師の言葉が顧みられなくなった。そのために、長髪・長爪の者たちが多くなった、と言われます。

ここでも、問題の根が、一人ひとりの好みや怠りにだけ置かれているのではなく、祖師の道が廃れたことに置かれていることに目をとめておきたいと思います。【4】の「仏家の稽古あらざるによりて」と、同じ向きの言葉と受けとめることができるでしょう。

寺院の主人となり、師号に署して#

「かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師号に署して、為衆の相をなす、人天の無福なり。」

このような者たちが寺院の主人となり、師号に署して、為衆の相をなしている。(これは)人天の無福(不幸)である、と。

長髪・長爪の者たちが、寺院の住持となり、師号を名のり、大衆のための師としてふるまっている。それは、人間界・天上界の者たちにとって、福のないこと、不幸なことである、と言われます。

「師号に署して」の受けとめ方には幅があります。訳文は、師号(禅師号などの称号)を署名に用いて、師号を名のって、と取りました。宗務庁版英訳は、師号を授けられて、という向きに訳しています。「為衆の相をなす」についても、訳文は字面に近く、衆のための(師としての)すがたをとる、と訳しましたが、宗務庁版英訳の注は、朝廷が僧尼の衆を監督するために任じた役職をつとめる意だ、としています。また、衆を導くかのようにふるまっているが実がない、という含みを読むこともできるでしょう。

いずれにしても、この一文が問題にしているのは、仏道の道理をわきまえない者が、人を導く立場に立っている、ということです。それが「人天の無福」――その人ひとりの問題ではなく、その人に導かれる多くの人々の不幸だ、と言われています。即心是仏の巻で、「あはれむべし、明眼の師なきことを。」(『即心是仏』第一回)という言葉を読みました。師となる者のありかたが、多くの人の仏道を左右する、という点で、二つの言葉は向きを同じくしているように思われます。

道心箇渾無、得道箇久絶#

「いま天下の諸山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祗管破落黨のみなり。」

いま天下の諸山には、道心ある者はまったくなく、得道の者は久しく絶えて、ただ破落党ばかりである、と。

「諸山」は、主な大寺院のことです。そこに、道心のある者はまったくおらず、道を得た者は久しく絶えている、ただ破落党(落ちぶれた者たちの仲間)ばかりだ、と言われます。

「箇」の受けとめ方には幅があります。訳文は「箇」を「者」の意に取り、「道心の者は、まったくいない」「得道の者は、久しく絶えている」と訳しました。宗務庁版英訳も同じ向きに訳しています。一方で、「箇」を語調をととのえる助字と見て、「道心はまったく無い」「得道は久しく絶えた」と読むこともできるでしょう。

ここで言われる「得道」という言葉は、前回の範囲の「得道、これ作法なり」(第一回の【6】)と同じ言葉です。得道がそのまま作法であるならば、作法をくずし、長髪・長爪にしている者たちのところに、得道が絶えているのは、当然のことだ、と受けとめることもできるかもしれません。ただし、二つの「得道」を重ねて読むのは、一つの受けとめ方として挙げるにとどめます。

この一文は、きわめて強い言葉です。天下の諸山に、道心ある者はまったくない、と言うのですから。けれども、すでに【4】で、「有道の尊宿は、しかあらざるなり」と言われていました。本文は、宋の国に道をそなえた人がひとりもいない、と言い切っているのではありません。また、この言葉が如浄禅師のものであれば、宋の叢林の内側から、その叢林に向けて発せられた戒めということになります。本解説では、この言葉を、当時の叢林のありように対する、きびしい戒めの言葉として、本文の範囲で受けとめておきたいと思います。

うらみず、陳説なし#

「かくのごとく普説するに、諸方に長老の名をみだりにせるともがら、うらみず、陳説なし。」

このように普説されると、諸方でみだりに長老の名を名のっている者たちも、(先師を)うらまず、陳説することもなかった、と。

このように普説されたとき、分にすぎて長老の名を名のっていた者たちも、うらむことなく、申し開きもしなかった、と本文は記します。何を「うらまない」のかは本文に示されていませんので、訳文は(先師を)と補いました。また、「陳説なし」を、反論することができなかった、という含みで受けとめる読みもありえます。

【6】で、示衆を聞いて頭を剃った者が多かった、と記されていたのと同じように、ここでも、責呵が、責められた側に受けとめられたことが記されています。本文は、それ以上のことを述べていません。

しるべし――剪爪・剃髪すべきなり#

「しるべし、長髪は仏祖のいましむるところ、長爪は外道の所行なり。仏祖の児孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよからしむべし、剪爪・剃髪すべきなり。」

知るべきである、長髪は仏祖のいましめるところであり、長爪は外道の所行である。仏祖の児孫は、これらの非法を好んではならない。身心を清らかにすべきであり、剪爪・剃髪すべきである、と。

「しるべし」から、道元禅師が結論を述べておられる、と取るのが自然ですが、これも本文に明示されているわけではありません。

ここで、【3】の「爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり」と、【5】の「古来佛祖、誰是不浄髪者」とが、一つにまとめられています。長髪は仏祖のいましめるところ、長爪は外道の所行である、と。

そして、「仏祖の児孫」という言葉が置かれます。仏祖の子孫、仏祖の法を嗣ぐ者たち。爪を切り、髪を剃ることは、仏祖の児孫として、仏祖のありかたを受けつぐことだ、と言われているように読めます。

最後の「身心をきよからしむべし、剪爪・剃髪すべきなり」という言葉は、前回の範囲の言葉と重ねて受けとめておきたいと思います。前回、身心は不染汚である、けれども浄身の法がある、と言われました。ここで言われる「身心をきよからしむべし」もまた、けがれた身心を浄いものに作りかえよ、という意味ではないでしょう。不染汚の身心を、仏祖のありかたのとおりにととのえる。その具体的な行いが、爪を切り、髪を剃ることだ、と受けとめることができます。前回の「仏祖の一身心(いちしんじん)を、したしくして正伝するなり」(第一回の【8】)という言葉は、ここで、爪を切り髪を剃るという、目に見える形をとっている、と言えるかもしれません。

洗大小便と舎利弗〔【9】〕#

洗大小便、おこたらしむることなかれ#

爪と髪のことを述べ終えて、本文は、『大比丘三千威儀経』の文のもう一つのこと、大小便のあとを洗うことに移ります。

「洗大小便、おこたらしむることなかれ。」

洗大小便(大小便のあとを洗うこと)を、おこたってはならない、と。

前回、「水をもて身をきよむるにあらず」(第一回の【8】)という言葉を読みました。その言葉が、水で洗わなくてよい、という意味ではないことは、この一文からも、はっきりと確かめることができます。大小便のあとを洗うことを、おこたってはならない。洗浄は、仏法によって仏法を保任する儀であるからこそ、おこたってはならない行いである、と受けとめることができるでしょう。

舎利弗、外道を降伏せしむ#

「舎利弗、この法をもて、外道を降伏せしむることありき。」

舎利弗は、この法によって、外道を降伏させたことがあった、と。

舎利弗は、仏の弟子です。その舎利弗が、大小便のあとを洗う法によって、外道の者を降伏させた――屈服させて仏道に帰依させた――ことがあった、と言われます。

本文は、この話の筋を詳しくは述べていません。宗務庁版英訳の注によれば、この話はいくつかの文献に見え、舎利弗の便所での作法に感じ入ったあるバラモンが仏教の教団に入った、という話で、たとえば義浄訳の根本説一切有部の律(『毘奈耶雑事』)に見える、とされています。本解説では、話の筋は、この注の範囲にとどめておきます。

外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども#

「外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども、仏祖の威儀現成するところに、邪法おのづから伏するなり。」

(それは)外道のもとからの期するところではなく、身子(舎利弗)のもとからの意図でもなかったけれども、仏祖の威儀が現成するところでは、邪法はおのずから伏するのである、と。

「本期」は、もとから期していたこと、「素懐」は、もとからの思い、意図です。「身子」は、舎利弗の別名です。外道の者は、もとから降伏しようと思っていたわけではなく、舎利弗も、もとから外道を降伏させようと意図していたわけではない。けれども、仏祖の威儀が現成するところでは、邪法はおのずから伏する、と言われます。

宗務庁版英訳の注は、少なくとも義浄訳の話では、そのバラモンはもともと清浄にこだわりがあり、まさに便所の作法を見るためにいろいろな教団を訪ねていたらしいこと、また舎利弗は自分のふるまいが見られていることをよく知っていた、とも記されていることを述べています。本文の「外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども」と、この注の伝える話の形とが、どのように結びつくのかは、読みの分かれるところです。本文は、降伏させること・降伏することが、どちらの側の目的でもなかった、という趣旨を言っている、と受けとめることもできますし、道元禅師が拠られた話の形が、義浄訳のものとは違っていた可能性もあります。本解説では、どちらとも決めないでおきます。

仏祖の威儀現成するところに#

どの読みを取るにしても、この段の結びの言葉――「仏祖の威儀現成するところに、邪法おのづから伏するなり」――が示していることは、はっきりしているように思われます。

本文は、舎利弗が「この法をもて」、すなわち大小便のあとを洗う法によって外道を降伏させた、と言います。議論や説法によってではなく、洗浄のふるまいのところに仏祖の威儀が現成し、邪法がおのずから伏した、と読めます。本文は話の筋をそれ以上述べていませんので、ここでもそれ以上は補いません。

この「おのづから」をどう受けとめるかにも、幅があります。威儀そのものに、邪法を伏する力がある、と受けとめることもできますし、威儀が現成していることが、そのまま邪法の伏することである、と受けとめることもできるでしょう。

前回、「身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり」(第一回の【8】)という言葉を読みました。修行を身心の威儀とするそのときに、久遠の本行が具足円成している、と。舎利弗の話は、その言葉が、一つの具体的なできごととしてあらわれたものと見ることもできるかもしれません。人目につかない便所での作法の一つ一つが、仏祖の威儀の現成であり、その威儀は、本人の意図を越えて、まわりの人をも動かすことがある。この段は、そのことを語っていると受けとめることができるでしょう。

坐禅と日々の暮らしのなかで#

今回の範囲を、坐禅と日々の修行のなかで受けとめるとすれば、どのようなことが言えるでしょうか。以下は、本文が直接に坐禅について語っていることではなく、宗門の立場からの一つの受けとめ方として申し添えるものです。

爪を切ること、髪をととのえること#

今回の範囲で説かれていたのは、爪を切ること、髪を剃ることという、ごく身近な行いでした。

本文の戒めは、僧家に向けられたものです。在家の方が髪を伸ばしていることを責める言葉ではないことは、さきに見たとおりです。けれども、爪を切り、身をととのえるということは、出家・在家を問わず、日々の暮らしのなかにある行いです。

爪を切るのは、多くの場合、伸びて不便になったから、見た目が気になるから、という理由によるでしょう。けれども、この巻に照らしてみれば、爪を切ることは、身心を仏祖のありかたのとおりにととのえる行いとして受けとめることもできます。麦一粒ほどの長さを問題にする細やかさは、身の回りのことを、伸びきってから慌てて片づけるのではなく、日ごろから丁寧にととのえておく、という心がまえにも通じているように思われます。

坐禅の前に、身をととのえる。手を洗い、爪を切り、衣服をととのえる。それは、坐禅のための準備というよりも、すでに坐禅と一つながりの行いである。前回の「作法、これ宗旨なり」という言葉とあわせて、そう受けとめておきたいと思います。

何を手本とするか#

【4】の「大国の僧家の所作なりとして、正法ならん、とあやまることなかれ」という言葉は、いまの私たちにも、大切な問いを投げかけているように思われます。

私たちは、多くの人がしていること、権威ある人や場所でなされていることを、そのまま正しいことだと思いがちです。けれども、本文は、その基準を、多くの人のならいや、大国の権威には置きませんでした。基準は、「仏家の稽古」、古の仏祖の道です。「古来佛祖、誰是不浄髪者」――古来の仏祖に、浄髪しなかった者がいるだろうか、と。

仏道を学ぶうえで、何を手本とするのか。その問いを、この段は、爪と髪という、ごく具体的なことを通して問うている、と受けとめることができるでしょう。

戒めを受けとめるということ#

今回の範囲には、強いいましめの言葉が多く出てきました。「便是畜生」「人天の無福」「祗管破落黨のみなり」。読んでいて、身のすくむような言葉もあったかもしれません。

こうした言葉を読むとき、私たちは、責められている「だれか」を外に思い浮かべて読みがちです。宋の国の、昔の、怠けた僧たちのことだ、と。けれども、仏道の言葉としてこれを読むならば、その戒めを、自分自身に向けられたものとして受けとめる読み方もあるでしょう。自分は、仏祖の作法を、大国のならいや自分の好みで、くずしてはいないか。道理を知らずに、むやみにふるまってはいないか。

本文は、如浄禅師の示衆を聞いて、長年頭を剃らなかった者たちが頭を剃ったこと、責められた者たちがうらまず、申し開きもしなかったことを記していました。戒めの言葉は、それを聞いた者が、自分のふるまいを改めることにつながったとき、はじめて戒めとしてはたらく、と受けとめることもできるでしょう。

威儀がおのずから人を動かす#

舎利弗の話は、坐禅をする私たちにとっても、心にとめておきたい話です。

坐禅は、人に見せるためのものではありません。本文によれば、外道を降伏させることは、舎利弗の「素懐」、もとからの意図ではありませんでした。けれども、作法のとおりに、丁寧に行われる威儀は、本人の意図を越えて、まわりの人の心を動かすことがある。本文は、それを「仏祖の威儀現成するところに、邪法おのづから伏するなり」と言いあらわしています。

坐禅会などで、静かに坐っている人々の姿に触れて、心が落ちついた、という経験をお持ちの方もおられるかもしれません。それは、だれかがだれかを説き伏せたのではなく、坐る人の威儀が、おのずからそこにあらわれていたからだ、と受けとめることもできるのではないでしょうか。

坐禅を始めてみたいと思われる方は、書物だけでなく、近くの寺院の坐禅会などで指導を受けながら坐ってみられるのがよいでしょう。坐禅の前後のふるまいも含めて、指導する方の示す作法に一つ一つ丁寧にしたがってみることが、この巻の言う「威儀」を身をもって知る、何よりの入り口になると思います。

むすびに――爪と髪から、東司の作法へ#

今回読んだ範囲を、あらためてふり返ってみましょう。

本文は、まず、手の爪も足の爪も切るべきであり、爪の長さが麦一粒ほどになれば罪を得る、長い爪はおのずから外道の先蹤である、と示しました(【1】〜【3】)。そして、宋の国の僧のなかに、参学眼のそなわらない者たちが爪や髪を長くしているが、それは仏家の稽古がないためであり、有道の尊宿はそうではない、大国の僧家のしていることだからといって正法と誤ってはならない、と戒めました(【4】)。

続いて、道元禅師の本師である如浄禅師の、浄髪をわきまえない者は俗人でも僧家でもなく畜生である、という強いいましめの言葉が引かれ、それを聞いて頭を剃った者が多かったことが記されました(【5】【6】)。如浄禅師は上堂・普説のたびに弾指して責呵され、祖師の道が廃れて長髪・長爪の者たちが寺院の主人となっていることがきびしく戒められます。その言葉のどこまでが如浄禅師のものかは本文から決めることができませんが、本文は、最後に、長髪は仏祖のいましめるところ、長爪は外道の所行であり、仏祖の児孫は身心を清らかにし、剪爪・剃髪すべきである、と結びました(【7】【8】)。

そして、大小便のあとを洗うことをおこたってはならない、と示し、舎利弗がこの法によって外道を降伏させた話を引いて、仏祖の威儀が現成するところに、邪法はおのずから伏する、と説きました(【9】)。

前回は、浄めることが、けがれを取り除く手段ではなく、仏法によって仏法を保任する儀である、ということが説かれていました。今回は、その浄めることが、爪を切り、髪を剃り、大小便のあとを洗うという、ごく具体的な行いとして示されました。そして、その具体的な行いの一つ一つが、「仏祖の児孫」として仏祖のありかたを受けつぐことであり、そこに「仏祖の威儀」が現成する、ということが示された、と受けとめることができるでしょう。

次の回では、本文は、樹下(じゅげ)・露地(ろじ)で修行するときの洗浄の仕方――二七丸(にしちがん)の土を用いる法――から始めて、寺に住むようになってからの東司(とうす)(便所)と、そこへ行くときの作法を、さらに細かく説いていきます。「洗大小便、おこたらしむることなかれ」という言葉が、どのような具体的な作法として示されていくのかを、見ていくことにします。

読みの分かれるところ#

この回の範囲では、話し手の範囲や句の切り方をはじめとして、読み方の分かれるところがあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり」【3】
    本書の訳は、長い爪は、それ自体が外道のならわしに倣うことになる、という意に取りました。長い爪をのばしていると、おのずから(後の人にとって)外道の先例となってしまう、と取ることも、外道に長い爪をのばす先例がある、という事実を述べている、と取ることもできます。外道がどのようなわけで爪を長くするのかは、本文には述べられていません。

  2. 「浄髪を会せざる」【5】
    「会」を「理解する」の意に取れば、浄髪ということを心得ない、という意味になり、「よくする、行う」の意に取れば、浄髪をしない、という意味になります。本書の訳は「わきまえない」とし、宗務庁版英訳は後の向きに訳しています。「畜生」は、如浄禅師の強いいましめの言葉として、字のまま訳しました。

  3. どこまでが如浄禅師の言葉か【7】【8】
    「いかなる道理としらず」から「祗管破落黨のみなり」までは、如浄禅師が上堂・普説で責呵された言葉を道元禅師が和文で伝えたものとも、師の責呵を受けて道元禅師ご自身が述べられた言葉とも読めます。「あはれむべし…非道におけること」までを如浄禅師の言葉とし、「近来二三百年」以下を道元禅師の言葉と取ることもできます。宗務庁版英訳の注は、如浄禅師の言葉を和文で伝えたものとしながらも、道元禅師が師の教えをどこまで言い換えているかは明らかでない、としています。【8】の「しるべし」以下を道元禅師の結びと取るのが自然ですが、それも本文に明示されてはいません。「うらみず、陳説なし」も、申し開きをしなかった、とも、反論できなかった、とも取れます。

  4. 「責呵す。いかなる道理としらず、胡乱に長髪・長爪なる」【7】
    本書の原文の句切りでは、「いかなる道理としらず」を後ろの「胡乱に長髪・長爪なる」にかけて読みます。宗務庁版英訳も同じ切り方です。「いかなる道理としらず」を前の「責呵す」に続けて、(長髪・長爪を)どういう道理かわからない、と責呵した、と読む切り方もありえます。「しらず」の主語も、長髪・長爪の者たち(道理を知らずに)とも、話し手(どういうわけか知らないが)とも取れます。

  5. 「南閻浮の身心をして非道におけること」「祖師道、廃せる」【7】
    「南閻浮の身心」に、仏の出る世界に生まれた得がたい人の身心、という含みを読むことも、単にこの世の人の身心と取ることもできます。「非道」について、宗務庁版英訳の注は、仏道でないこと、仏教の道理にかなわないこと、人の道にかなわないこと、悪道に通じること、など幅のある含みを挙げています。「祖師道」も、祖師の道とも、祖師の言葉とも取れます。

  6. 「師号に署して、為衆の相をなす」【7】
    本書の訳は、師号を名のって、衆のための(師としての)すがたをとる、と字面に近く取りました。宗務庁版英訳は「師号を授けられ」という向きに訳し、その注は「為衆の相をなす」を、朝廷が僧尼の衆を監督するために任じた役職をつとめる意としています。衆を導くかのようにふるまっているが実がない、という含みを読むこともできます。

  7. 「道心箇渾無なり、得道箇久絶なり」【7】
    「箇」を「者」の意に取って、「道心の者はまったくいない」「得道の者は久しく絶えている」と読むのが本書の訳で、宗務庁版英訳も同じ向きです。「箇」を語調をととのえる助字と見て、「道心はまったく無い」「得道は久しく絶えた」と読むこともできます。

  8. 舎利弗の話と「外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども」【9】
    宗務庁版英訳の注によれば、義浄訳の律に見える話では、そのバラモンはもともと便所の作法を見るために教団を訪ねていたらしく、舎利弗も自分のふるまいが見られていることを知っていた、とされます。本文は、降伏させること・降伏することが、どちらの側の目的でもなかった、という趣旨を言っている、と取ることも、道元禅師の拠られた話の形が義浄訳のものとは違っていた、と見ることもできます。「邪法おのづから伏する」の「おのづから」も、威儀そのものに邪法を伏する力がある、とも、威儀が現成していることがそのまま邪法の伏することである、とも受けとめられます。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第七「洗浄」
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. IV(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 「経にいはく」の引用の出典、天童如浄の生没年と、如浄の言葉に似た一節が『宝慶記』に見えること、話し手の範囲、弾指・南閻浮・非道・為衆・諸山についての説明、舎利弗の話の典拠(義浄訳の律)と話の筋と、語注・解説・「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。