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弁道話(四)問答二 教の殊劣を論ぜず#

『弁道話』の問答のうち、問4から問6まで、坐禅を他の教え・修行の項目・ふるまいと比べる三つの問いに、道元禅師が答えられる段です。

原文#

【1】(問4)とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗・華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。

【2】(答4の一)しめしていはく、しるべし、仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて仏道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。

【3】(答4の二)又、仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。

【4】(答4の三)又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるひは十二輪転・二十五有の境界とおもひ、三乗五乗・有仏無仏の見、つくることなし。この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。

【5】(問5)とふていはく、三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。

【6】(答5の一)しめしていはく、いまこの如来一大事の正法眼蔵無上の大法を、禅宗となづくるゆゑに、この問きたれり。

【7】(答5の二)しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法しらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけき。のち代代の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり。そのこころ、諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならつていふべきにあらず。

【8】(答5の三)この仏法の相伝の嫡意なること、一代にかくれなし。如来むかし霊山会上にして、正法眼蔵涅槃妙心無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず。おほよそ仏法は、かの天衆とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず。

【9】(答5の四)まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべき物なし。

【10】(問6)とふていはく、仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定をすすめて証入をいふや。

【11】(答6)しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし、このほかにたづぬべからず。ただし、祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。

現代語訳#

段落番号【1】〜【11】は原文の段落番号と対応します。(問4)〜(答6)の小見出しは読みやすさのために補ったもので、原文にはありません(問答の番号は宗務庁版英訳の数え方によります)。( )内は、原文にない語を補ったものです。仏教語・固有名詞は訳さずに残し、必要に応じて段落の後に「語注」として説明しました。前の回までに説明した語は、短く繰り返すか、その回の語注を参照としました。他宗(法華宗・華厳教・真言宗)の教えに関わる語は、原文の文脈と宗務庁版英訳の注で確かめられる範囲で、最小限の説明にとどめ、その教義の当否には立ち入りません。

【1】(問4)問うて言う。いま、わが国に伝わっている法華宗・華厳教は、ともに大乗の究竟(きわみ)である。まして真言宗のようなものは、毘盧遮那如来が親しく金剛薩埵に伝えて、師資(師から弟子への相承)が乱れていない。その説くところの趣旨は、「即心是仏」「是心作仏」といって、多劫の修行を経ることなく、一座に五仏の正覚をとなえる(というもので)、仏法の極妙というべきである。それなのに、いま(あなたが)言う修行には、何のすぐれたところがあって、それらをさしおいて、ひたすらこれ(坐禅)を勧めるのか。

語注

  • わが朝:わが国(日本)。
  • 法華宗・華厳教:宗務庁版英訳の注は、法華宗を『法華経』に拠る天台宗、華厳教を『華厳経』に拠る華厳宗を指すとし、当時の日本で広く受け入れられていた教えの序列では、この二つが大乗の顕教の究極とされ、真言宗の密教がその上に置かれていたと説明する(宗務庁版英訳による)。問者はこの序列に沿って「まして真言宗は」と言葉を重ねている。
  • 大乗の究竟:大乗の教えのきわみ、最高のもの。
  • 真言宗:密教の一宗。
  • 毘盧遮那如来・金剛薩埵:真言宗の伝承では、毘盧遮那如来(大日如来)がその教えを金剛薩埵(菩薩の名)に伝えたとされる(宗務庁版英訳による)。問者はこれを、仏から直接伝わった正しい系譜の根拠として挙げている。
  • 師資:師と弟子。「師資みだりならず」は、師から弟子への伝えが乱れていないこと。
  • 即心是仏:この心がそのまま仏である、の意。
  • 是心作仏:この心が仏となる、の意。
  • 多劫:きわめて長い時間。「劫」は計り知れない長い時間の単位。
  • 一座:一回の坐(修法)。
  • 五仏:金剛界曼荼羅の中央と四方の仏(宗務庁版英訳による)。
  • 正覚:正しいさとり。
  • 極妙:この上なくすぐれていること。

【2】(答4の一)示して言う。知るがよい、仏家では、教えのすぐれ劣りを論じ合うことはなく、法の浅い深いを選ばない。ただ、修行の真偽を知るべきである。草花や山水に引かれて仏道に流れ入ったことがあった。土・石・砂・礫を握って仏印を稟持することもある。まして、広大な文字は万象にあまってなお豊かであり、転大法輪もまた一塵に収まっている。そうであるから、「即心即仏」ということばも、やはり水中の月である。「即坐成仏」の趣旨も、さらにまた鏡の中の影である。ことばの巧みさにかかわってはならない。いま直証菩提の修行を勧めるのは、仏祖単伝の妙道を示して、(あなたを)真実の道人とならせようというのである。

語注

  • 仏家:仏の家。仏法を伝える者たちの世界、仏道。
  • 殊劣:すぐれていることと、劣っていること。
  • 浅深:浅いことと深いこと。
  • ただし:ここでは「ただ」の意。
  • 真偽:まことか、いつわりか。
  • 草華山水にひかれて:宗務庁版英訳の注は、花を見て、あるいは自然の音を聞いてさとったという禅僧の故事(霊雲志勤が桃の花を見てさとった話など)を念頭に置くかとする(宗務庁版英訳による)。
  • 土石沙礫をにぎりて:宗務庁版英訳の注は、『法華経』で、土を積んで塔をつくる者や、遊びで砂の塔をつくる子どもも仏道を成就した、と説かれることなどを念頭に置くかとする(宗務庁版英訳による)。
  • 仏印:仏の心印。仏から仏へ伝わる法のあかし(本書第一回の語注参照)。
  • 稟持:(師から)受けて保ち持つこと(本書第一回の語注参照)。
  • 広大の文字:広大な文字、すなわち仏の教えを記した経典のこと。宗務庁版英訳の注は、経典は世の万物よりも多いが、(続く句で)それがもっとも微細なものにも収まる、という意であろうとする(宗務庁版英訳による)。
  • 万象:あらゆるもの、あらゆる現象。
  • 転大法輪:大いなる法輪を転ずること。仏が教えを説くことを、輪を転ずることにたとえる。
  • 一塵:一つの塵。ごく小さなもののたとえ。
  • 即心即仏:この心がそのまま仏である、の意。宗務庁版英訳は、問者の挙げた「即心是仏」と同じ英語で訳している。両語の違いをどこまで意識した言い換えと見るかは読みが分かれる(→読みの分かれるところ)。
  • 即坐成仏:その坐において、ただちに仏と成ること。問者の言う「一座に五仏の正覚をとなふ」を受けると見られる。
  • 水中の月・かがみのうちのかげ:水に映った月、鏡に映った影。実物そのものではなく、映った姿であることのたとえ。
  • 直証菩提:菩提(さとり)をじかに証すること(「直証」は本書第二回の語注参照)。
  • 仏祖単伝:仏祖から仏祖へ、ただ一筋に伝えられたこと(「単伝」は本書第一回の語注参照)。
  • 妙道:すぐれた道。
  • 道人:仏道を行ずる人。

【3】(答4の二)また、仏法を伝授することについては、必ず証契の人をその宗師とするべきである。文字を数える学者を、その導師とするには足りない。(それは)一人の盲人が多くの盲人を導こうとするようなものである。いま、この仏祖正伝の門下では、みな得道証契の哲匠を敬って、仏法を住持させている。それゆえ、冥陽の神道も来て帰依し、証果の羅漢も来て法を問うのに、(哲匠たちは)それぞれ(の者)に心地を開き明らめる手だてを授けないということがない。(これは)他の門ではまだ聞いたことのないところである。ただ仏弟子は仏法を習うべきである。

語注

  • 伝授:伝え授けること。
  • 証契:(法を)証し、(法に)契う(ぴたりとかなう)こと。
  • 宗師:(一宗の)根本となる師。
  • 文字をかぞふる学者:経論の文字(文句)をひとつひとつ数えるように学ぶだけの学者。本書第三回の「文字習学の法師」と通じる表現。
  • 導師:人々を導く師(本書第一回の語注参照)。
  • 一盲の衆盲をひかん:一人の盲人が多くの盲人の手を引くように、自らさとっていない者が他を導こうとすることのたとえ。
  • 仏祖正伝:仏祖から正しく伝えられたこと。
  • 得道:道を得ること、さとりを得ること(本書第三回の語注参照)。
  • 哲匠:すぐれた師匠。
  • 住持:仏法の中に住して、それを保ち持つこと(本書第一回の語注参照)。
  • 冥陽の神道:人の目に見えない世界と見える世界の神々(宗務庁版英訳による)。「神道」はここでは神々のこと。
  • 帰依:すぐれたものを信じ、よりどころとすること。
  • 証果の羅漢:修行の果(さとり)を証した阿羅漢。阿羅漢は、仏弟子の修行によって到達する聖者の位。
  • 問法:法を問うこと。
  • 心地:心。心を、万物を生み出す大地にたとえた語。
  • 開明:開き、明らかにすること。
  • 余門:ほかの門、ほかの宗旨。

【4】(答4の三)また知るがよい、われわれはもともと無上菩提が欠けているのではない。いつまでも(それを)受用しているのだけれども、承当することができないために、みだりに知見を起こすことを習いとし、これを物として追いかけることによって、大道をむなしく踏みはずしてしまう。この知見によって、空華がさまざまに(現れる)。あるいは十二輪転・二十五有の境界と思い、三乗・五乗、有仏・無仏の見(解)が、尽きることがない。この知見を習って、仏法修行の正道と思ってはならない。

ところが、いまは、まさしく仏印によって万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟の情量のほとりを越え、凡聖の道にかかわらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するのである。かの文字の筌罤にかかわる者が、肩を並べることができようか(、とてもできはしない)。

語注

  • 無上菩提:この上ないさとり。
  • とこしなへに:いつまでも、常に。
  • 受用:受けて用いること。「自受用三昧」の「受用」と同じ語(本書第一回の語注参照)。
  • 承当:引き受けて、わがものとすること。まさにそれとうなずくこと。
  • 知見:知識や見解(本書第二回の語注「知見思量」参照)。
  • おふ:追う。
  • 大道:大いなる道、仏道。
  • 蹉過:踏みはずして通り過ぎること、取り逃がすこと。
  • 空華:病んだ目に見える、空中の花。実体がないのにあるように見えるもののたとえ(宗務庁版英訳による)。
  • まちまちなり:さまざまである。
  • 十二輪転:十二因縁(十二の支分が次々に因となり果となって、迷いの生存がめぐること)を指す(宗務庁版英訳による)。
  • 二十五有:迷いの世界である三界を、二十五の生存に分けたもの(宗務庁版英訳による)。
  • 境界:境地、世界。
  • 三乗五乗:三乗は声聞・縁覚(独覚)・菩薩の三つの乗り物(教え)、五乗はそれに人・天の二乗を加えたもの(宗務庁版英訳による)。
  • 有仏無仏:仏が有る、仏が無い(ということ)。
  • 見:見解、ものの見方。
  • 放下:投げ捨てること、手放すこと。
  • 一向に:ひたすら、もっぱら。
  • 迷悟:迷いとさとり。
  • 情量:分別の情によって、あれこれとはかること。
  • 凡聖:凡夫と聖者。
  • 格外:格(きまり、枠組み)の外。
  • 逍遥:ゆったりと自在に遊ぶこと。
  • 大菩提:大いなるさとり。段落はじめの「無上菩提」と呼応する。
  • 筌罤:「筌」は魚をとる竹のかご、「罤」は獣をとるわな。宗務庁版英訳も「わな」の意で訳している。ここでは、文字・ことばを、それにとらわれてしまう道具にたとえる。
  • かたをならぶる:肩を並べる、同じ位に並ぶ。
  • 原文では一つの段落だが、読みやすさのため訳文では「しかあるを」の前で改行した。

【5】(問5)問うて言う。三学の中に定学がある。六度の中に禅度がある。ともにこれは、一切の菩薩が初心のときから学ぶものであり、利鈍を分けずに修行する。いまの(あなたの言う)坐禅も、その一つであるはずだ。何によって、この(坐禅の)中に如来の正法を集めていると言うのか。

語注

  • 三学:仏道を学ぶ者が修める三つのこと。戒学・定学・慧学。
  • 定学:心を定める(禅定の)学び。
  • 六度:六波羅蜜。菩薩が修める六つの行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)。
  • 禅度:六度のうちの禅定波羅蜜。
  • 初心:はじめて(さとりを求める)心をおこしたとき。修行の初めの段階。
  • 利鈍:機根(教えを受けとめる資質)のすぐれた者と、にぶい者。
  • 宗務庁版英訳の注は、問者が、道元禅師の説く坐禅を、これら定まった修行の項目の中にある禅定の一つにすぎないと見ていること、また「禅」の字がサンスクリット語 dhyāna の音写であることを記す。

【6】(答5の一)示して言う。いま、この如来の一大事である正法眼蔵、無上の大法を、禅宗と名づけているために、この問いが出てきたのである。

語注

  • 一大事:仏が世に出る、ただ一つの大事な目的。宗務庁版英訳の注は、生きとし生けるものを無上のさとりに導くことを言う定まった語で、『法華経』の、仏はただ一大事の因縁のために世に出る、と説く一節でよく知られるとする(宗務庁版英訳による)。
  • 正法眼蔵:正しい法の眼の蔵。仏から仏へ伝えられる法そのものを言う語(【8】の語注も参照)。この書の題名でもある。
  • 無上の大法:この上ない大いなる法(本書第三回の語注参照)。
  • 禅宗:禅の宗。この名の由来を【7】で説く。

【7】(答5の二)知るがよい、この禅宗という呼び名は、神丹から東で起こったものであり、竺乾では聞かない。はじめ達磨大師が、嵩山の少林寺で九年面壁していた間、道俗(出家も在家も)はまだ仏の正法を知らず、(達磨大師を)坐禅を宗とする婆羅門と名づけた。その後、代々の諸祖は、みな常に坐禅をもっぱらにした。これを見た愚かな俗人は、実情を知らず、無造作に(ひたたけて)坐禅宗と言った。今の世では、坐の字を省いて、ただ禅宗と言うのである。その本意は、諸祖の広語に明らかである。六度および三学の禅定になぞらえて言うべきものではない。

語注

  • 号:呼び名、名称。
  • 神丹以東:神丹(中国)から東の地。「神丹」は本書第一回の語注参照。宗務庁版英訳の注は、達磨の系統を「禅宗」と呼ぶことは、九世紀の中国で始まったらしいとする(宗務庁版英訳による)。
  • 竺乾:インドのこと。
  • 達磨大師:菩提達磨。インドから中国に禅を伝えた祖師(本書第一回の語注参照)。
  • 嵩山の少林寺:中国の嵩山にある少林寺。
  • 九年面壁:達磨大師が少林寺で、九年のあいだ壁に向かって坐禅したと伝えられること。
  • 道俗:出家者(道)と在家者(俗)。
  • 婆羅門:インドの司祭の階級(バラモン)。ここでは、インドから来た達磨大師をそう呼んだもの。宗務庁版英訳の注は、道元禅師が『正法眼蔵』の「行持」「仏道」の巻に引く、覚範慧洪の『林間録』の一節を念頭に置いているであろうとする(宗務庁版英訳による)。
  • 宗とする:主とする、要とする(→読みの分かれるところ)。
  • もはらす:もっぱらにする、それを専ら行う。
  • 俗家:在家の人、俗人。
  • 実:実情、ほんとうのところ。
  • ひたたけて:意味の取り方に幅がある語。訳は宗務庁版英訳を参考に「無造作に」とした。
  • 簡して:選び取って(除いて)、省いて。
  • 広語:広く伝えられた言葉、語録。宗務庁版英訳の注は、「坐禅」の意味が祖師たちの語録に明らかである、の意とする(宗務庁版英訳による)。
  • 六度および三学の禅定:問5で問者の挙げた、六度のうちの禅度、三学のうちの定学を指す。
  • ならつて:ならって、なぞらえて、同列に置いて。

【8】(答5の三)この仏法が、相伝の嫡意であることは、一代に隠れもない。如来が昔、霊山会上において、正法眼蔵涅槃妙心、無上の大法を、ただ一人迦葉尊者にだけ付法した儀式は、今も上界にいる天衆で、目のあたりにそれを見た者が存在している。疑うには及ばない。おおよそ仏法は、かの天衆が永遠に護持するものであり、その功は今もまだ衰えていない。

語注

  • 相伝:(師から弟子へ)次々と伝えること。
  • 嫡意:嫡々(正統の継承)に伝えられた本意。宗務庁版英訳の注は、珍しい語であるとし、正統の継承によって伝えられた意図(意味)のような意に取る(宗務庁版英訳による)。
  • 一代:取り方に幅がある語。訳では原語を残した。
  • 霊山会上:霊鷲山での説法の会座(本書第一回の語注参照)。
  • 正法眼蔵涅槃妙心:釈尊が迦葉尊者に伝えた法を言う語。宗務庁版英訳の注は、霊鷲山の集まりで、釈尊が花をかかげ、言葉によらずに正法眼蔵を摩訶迦葉に伝えたとされることを記す(宗務庁版英訳による)。「涅槃妙心」は、涅槃(さとり)の妙なる心。
  • 迦葉尊者:摩訶迦葉。釈尊の法を嗣いだ第一祖(本書第一回の語注参照)。
  • 付法:法を付嘱すること、法を授けて託すこと。
  • 上界:天上界。
  • 天衆:天の神々、天人たち。
  • 護持:守り保つこと。
  • ふりず:古びない、衰えない。

【9】(答5の四)まさに知るがよい。これ(坐禅)は仏法の全道である。並べて言うことのできるものはない。

語注

  • 全道:まったき道、道の全体。

【10】(問6)問うて言う。仏家は、何によって、四儀の中で、ただ坐だけに(その役を)負わせて禅定を勧め、証入を説くのか。

語注

  • 四儀:行・住・坐・臥(歩く・とどまる・坐る・臥す)の四つの威儀(ふるまい)(宗務庁版英訳による)。
  • ただし:ここでは「ただ」の意。
  • おほせて:負わせて、託して。
  • 禅定:心を一つに定め、静めること。ここでは坐禅。
  • 証入:証に入ること、さとりに入ること。

【11】(答6)示して言う。昔からの諸仏が、次々に修行し、証入してきた道は、究め知ることが難しい。理由を尋ねるならば、ただ仏家が用いてきたところ(であること)を理由と知るべきであって、このほかに尋ねてはならない。ただし、祖師がほめて言うには、「坐禅はすなわち安楽の法門である」。(ここから)推し量って知られる、四儀の中で(坐が)安楽であるからであろうか。まして、(これは)一仏・二仏の修行の道ではない。諸仏・諸祖に、みなこの道がある。

語注

  • きはめしりがたし:究め知ることが難しい、知り尽くすことができない。
  • ゆゑ:理由。宗務庁版英訳の注は、坐が重んじられる理由の意とする(宗務庁版英訳による)。
  • 仏家のもちゐるところ:仏家(仏道を伝える者たち)が、代々用いてきたこと。
  • 祖師:仏法を伝えてきた祖師。
  • 安楽の法門:安らかで楽しい法門(教え・修行の入り口)。宗務庁版英訳の注は、長蘆宗賾の『坐禅儀』の「坐禅乃安楽法門」の句を念頭に置くであろうとし、道元禅師が『普勧坐禅儀』でこの句を引いていることを記す(宗務庁版英訳による)。
  • はかりしりぬ:推し量って知る、推察される。
  • 一仏二仏:一人、二人の仏。ごく少数の仏。
  • 諸仏諸祖:すべての仏と祖師たち。

解説#

はじめに――問1〜問3から、問4〜問6へ#

前回の段では、弁道話の問答の部のはじめの三つを読みました。「仏法には多くの門があるのに、なぜ坐禅だけなのか」(問1・問2)、「読経・念仏ならさとりのきっかけになるだろうが、ただ坐るだけで何になるのか」(問3)。禅師は、坐禅が仏法の正門であり、仏祖がみな坐禅によって道を得てきたことを示し、最後に「この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禅辦道して諸仏の自受用三昧を証得すべし」(本書第三回)と、坐禅へと招いておられました。

今回の段では、それに続く三つの問答を読みます。

  • 【1】〜【4】(問4、答4の一〜三) 他の教えと比べて、何がすぐれているのか
  • 【5】〜【9】(問5、答5の一〜四) 坐禅は三学・六度の一つにすぎないのではないか
  • 【10】【11】(問6、答6) なぜ四儀のうち坐だけなのか

前回の問いが、主に「坐禅という行」そのものへの疑いだったとすれば、今回の問いは、坐禅を何かと「比べる」ところから出てきます。問4では、当時の日本に伝わっていた諸宗の教えと比べて。問5では、仏教の修行の定まった項目(三学・六度)と比べて。問6では、人の四つのふるまい(行・住・坐・臥)の中で比べて。問う人は、坐禅を他のものと並べて置き、その位置を測ろうとしています。

これに対する禅師の答えには、一つの共通した向きがあるように思われます。それは、比べることそのものから、一歩身を引く、という向きです。答4は「教の殊劣を対論することなく」(原文【2】)と始まり、答5は「ならべていふべき物なし」(原文【9】)と結ばれ、答6は「このほかにたづぬべからず」(原文【11】)と言われます。この段を読むときには、この向きに心をとめておくと、禅師の言葉の筋が見えやすくなるでしょう。

問4「他の教えと比べて何がすぐれているのか」〔答4の一〜三〕#

問う人の問い(【1】)#

「いまわが朝につたはれるところの法華宗・華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたへて、師資みだりならず」。

問う人は、当時の日本に伝わっていた教えの名を挙げます。法華宗・華厳教は、ともに大乗の教えのきわみである。まして真言宗は、毘盧遮那如来が親しく金剛薩埵に伝えて、師から弟子への伝えが乱れていない、と。

宗務庁版英訳の注では、ここでの法華宗は『法華経』に拠る天台宗、華厳教は『華厳経』に拠る華厳宗を指し、禅師の時代の日本で広く受け入れられていた教えの序列では、この二つが大乗の顕教の究極とされ、その上に真言宗の密教が置かれていた、と説明されています。問う人は、その当時の序列に沿って、「ともに大乗の究竟なり」「いはんや真言宗のごときは」と言葉を重ねているわけです。毘盧遮那如来から金剛薩埵への伝えも、宗務庁版英訳の注によれば真言宗の伝承にあることで、問う人はそれを、仏から直接つながる正しい系譜の証しとして挙げています。

問う人はさらに、その教えの趣旨を「即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし」と述べ、「いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや」と問います。長い修行を経ることなく、すみやかにさとりに至ると説く教えがすでにあるのに、なぜそれらをさしおいて、この坐禅だけを勧めるのか、と。

「一座に五仏の正覚をとなふ」の「となふ」を、その宗がそう説く、と取るか、行者がそう成就する、と取るかには幅があります。この解説では、ここを問う人が挙げた言葉として受けとめるにとどめ、それぞれの宗の教えの内容そのものには立ち入りません。それは、次に見るように、禅師ご自身の答えがまさにそうした立ち入り方をしないところから始まっているからです。

すでに広く重んじられていた教えがいくつもあるところへ、「ただ坐れ」という教えが示される。ほかの教えと比べてどこがすぐれているのか、という問いは、そこから出てきたものです。そしてこの問いは、いまの私たちにとっても遠いものではありません。さまざまな教え、さまざまな方法が並んでいるとき、私たちもつい「どれがいちばんよいのか」と比べたくなるものです。

教の殊劣を対論せず、修行の真偽をしる(【2】答4の一)#

禅師の答えは、こう始まります。

「しるべし、仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」。

知るがよい。仏家では、教えのすぐれ劣りを論じ合うことはなく、法の浅い深いを選ばない。ただ、修行の真偽を知るべきである、と。

問う人は「なにのすぐれたることあれば」と、すぐれ劣りを尋ねました。けれども禅師は、その問いの土俵に上がられません。坐禅のほうがすぐれている、とも、あの教えは劣っている、とも言われない。そもそも仏家では、教えのすぐれ劣りを論じ合うことはしない、と、問いの立て方そのものを静かに置きかえておられるのです。

では、何を問うのか。「修行の真偽」です。その教えがどれほど高い理を説いているか、ではなく、いま自分が行じている修行が、まことの修行か、そうでないか。禅師の関心は、教えを外から並べて比べることではなく、修行する一人ひとりの足もとに向けられています。

この一句は、今回の段全体を読むうえでの軸になる言葉だと思います。この後、禅師は「ことばのたくみにかかはるべからず」と言い、「文字をかぞふる学者」や「文字の筌罤にかかはるもの」について厳しい言葉を述べられます。けれども、それらの言葉も、この「教の殊劣を対論することなく」という最初の一句のもとで読むとき、他の教えの優劣を裁く言葉としてではなく、修行の真偽を問う言葉として受けとめることができるでしょう。この解説でも、名の挙がった諸宗の教えの当否を論じることはいたしません。禅師ご自身がそうされていないからです。

続いて禅師は、仏道に入る縁がどれほどさまざまであるかを示されます。「草華山水にひかれて仏道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて仏印を稟持することあり」。草花や山水に引かれて仏道に流れ入った人があった。土や石や砂や礫を握って、仏印を受け保った人もある、と。宗務庁版英訳の注は、前者に、花を見て、あるいは自然の音を聞いてさとったという禅僧たちの故事を、後者に、『法華経』で、土を積んで塔をつくる者や、遊びで砂の塔をつくる子どもも仏道を成就したと説かれることなどを、それぞれ念頭に置くかとしています。

仏道に入る縁は、高い教理の中にだけあるのではありません。道ばたの花、山の姿、水の音、手のひらの砂。そうしたものさえ仏道に入る縁となる。だから、教えの高い低いを比べることに、仏道の要があるのではない、ということでしょう。

「いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪また一塵にをさまれり」。まして、広大な文字は万象にあまってなお豊かであり、転大法輪もまた一塵に収まっている、と。宗務庁版英訳の注は、経典は世の万物よりも多いが、しかもそれがもっとも微細なものにも収まっている、という意であろうとしています。広大な経典の文字と、一つの塵。大きなものと小さなものが隔てなく通じ合っているところでは、教えの大小や浅深を選ぶ必要はない、と読むこともできますし、文字と実物を対比する読みもあります。また、「いはんや」が前の「草華山水」「土石沙礫」をどう受けているかにも幅があります(→読みの分かれるところ)。いずれにしても、ここで禅師は経典の文字を軽んじてはおられません。「広大の文字は……なほゆたかなり」と、その豊かさをはっきりと言われています。前回の段で、経書を開くことの本来の目的が肯定的に語られていたこと(本書第三回)とも通じる言葉です。

水中の月、かがみのうちのかげ(【2】続き)#

「しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず」。

そうであるから、「即心即仏」ということばも、やはり水中の月である。「即坐成仏」の趣旨も、さらにまた鏡の中の影である。ことばの巧みさにかかわってはならない、と。

問う人は、「即心是仏、是心作仏」「一座に五仏の正覚をとなふ」という言葉を、仏法の極妙として挙げました。禅師はそれを受けて、「即心即仏」「即坐成仏」という言葉も、水に映った月、鏡に映った影である、と言われます。

この一節は、読み方に注意の要るところです(→読みの分かれるところ)。水中の月・鏡の中の影を、実物ではない映った姿にすぎない、と否定の向きで読むこともできます。また、水や鏡は実物をそのまま映すものでもあるので、言葉が真実を映していることを認めつつ、それでも言葉はあくまで映った姿にとどまる、と読むこともできます。どちらの読みでも、直後の「ことばのたくみにかかはるべからず」が示すように、言葉の巧みさにとらわれて、それを手にしたつもりになってはならない、という点は共通しています。

ここで、宗門の読者として心にとめておきたいことがあります。「即心是仏」は、正法眼蔵の巻の名でもあるということです。その巻は、次のように始まります。「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」(正法眼蔵「即心是仏」巻)。仏祖たちがみな保ち任じてきたのは、即心是仏のみである、と。

そうすると、弁道話のこの段で「即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり」と言われていることと、「即心是仏」の巻でこの語が仏祖の保任してきたものとして掲げられていることとは、どのような関係にあるのか、という問いが生まれます。この段が「即心是仏」という語そのものを退けている、と読むのは早計でしょう。ここで問われているのは、問う人が「多劫の修行をふることなく」と結びつけて、その言葉を仏法の極妙として受けとっていること、つまり言葉の巧みさにかかわることのほうだ、と読むこともできます。また、弁道話の後半にも、「即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし」(本書第八回)という言い分を取りあげる問答があり、禅師はこれに「このことば、もともはかなし」(本書第八回)と応じておられます。けれども、この二つの巻の言葉の関係をどう読むかは、ここで決めてしまわずに、「即心是仏」の巻、そして弁道話のその問答を読むときに、あらためて丁寧に扱いたいと思います(→読みの分かれるところ)。

そのうえで、禅師がここで勧めておられることははっきりしています。「いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり」。いま、菩提をじかに証する修行を勧めるのは、仏祖がただ一筋に伝えてきた妙なる道を示して、あなたを真実の道人とならせようというのである、と。

禅師のねがいは、どの教えがすぐれているかを言い当てることではなく、目の前の人を「真実の道人」とすることにあります。言葉の上で仏になる道を知ることではなく、みずから修行して菩提を証する人となること。「修行の真偽をしるべし」という最初の一句は、ここで「真実の道人」という言葉に結ばれています。

日々の坐禅に引き寄せていえば、坐る前に「この坐禅は、ほかの方法と比べてすぐれているのだろうか」と考えはじめると、その思いはきりがありません。けれども禅師は、そのような比べ方から離れて、いま自分の坐っているその坐が、まことの修行であるかどうかに目を向けるよう促しておられます。すぐれた言葉を知っているかどうかではなく、実際に坐っているかどうか。そのことが問われているのだと受けとめることができます。

証契の人を師とする(【3】答4の二)#

答4の二つめの段落は、師のことを語ります。「又、仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし」。

また、仏法を伝え授けることについては、必ず、法を証し、法にかなった人をその根本の師とすべきである。文字を数えるように学ぶだけの学者を導師とするには足りない。それは一人の盲人が多くの盲人を導くようなものだ、と。

「仏法を伝授することは」を、学ぶ側が師を選ぶことと読むか、伝える側に立つ者の条件と読むかには幅があります。どちらに読んでも、仏法は、みずから証した人を通して伝わる、という点は変わりません。これは、前回の段の最後で読んだ「得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり」(本書第三回)という言葉を、もう一度重ねて示すものと受けとめることができます。

「文字をかぞふる学者」についても、前回の「文字習学の法師」と同じく、特定の宗や人を名指したものと読むことはしません。ここで対比されているのは、文字を数えるように学ぶことと、みずから証して法にかなうこととです。経典を学ぶこと自体が退けられているのではなく、文字を数えることだけで人を導こうとするとき、それは「一盲の衆盲をひかん」ことになる、と言われているのでしょう。

「いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ」。仏祖から正しく伝わるこの門下では、みな、道を得、法にかなったすぐれた師匠を敬って、仏法を保ち持たせている、と。そして、そのような師のもとには、目に見えない世界と見える世界の神々(宗務庁版英訳の注による)も来て帰依し、さとりを証した羅漢も来て法を問う。師たちは、その一人ひとりに、心地を開き明らめる手を授けないということがない、と言われます。この「手をさづけず」の主語や「おのおの」のかかり方には幅があります。

ここで大切にしたいのは、仏法が「うやまひて」伝わるとされていることです。師を敬い、師のもとで学ぶ。師から弟子へと法が手渡されていくということを考えるとき、その根にあるのも、この一節に言われる師への敬いだと言えるでしょう。坐禅もまた、本を読んで一人で工夫するものではなく、師について坐るものだと受けとめることができます。前回の段で見た「正師のをしへにより」(本書第三回)という言葉が、ここでもう一度、別の角度から示されていると言えます。

段落の結びは、次の言葉です。「余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし」。

これは、この段の中でも、読み方がとくに分かれるところです(→読みの分かれるところ)。宗務庁版英訳の注は、この仏祖正伝の系統の外にある宗は仏法ではない、という含みであろうとしています。そのように、仏祖正伝の門と余門とをはっきり分ける言葉として読む読み方があります。直前で「この仏祖正伝の門下」と「余門」とが並べて語られていることは、この読みの手がかりになります。一方で、「仏弟子は、宗の名目や教えの比較にかかわらず、ただ仏法そのものを学べ」と、宗派の区別を超えた勧めとして読む読み方もあります。この読み方は、答4の冒頭の「教の殊劣を対論することなく」とも、また次の問5で禅師が「禅宗」という名に距離を置かれることとも、響き合うように見えます。また、「余門に……ところなり」を前の文に続けて読むか、独立した文として読むかという句読の違いも、この読みに関わっています。

この解説では、どちらか一方に決めることはしません。前者の読みは、仏祖正伝の法を受け継ぐことへの禅師の強い自覚を伝え、後者の読みは、宗の名目よりも仏法そのものを学ぶことを求める禅師の姿勢を伝えています。ただ、どちらの読みを取っても、「ただ仏弟子は仏法をならふべし」という言葉が、読む私たち自身に向けられていることは変わりません。仏弟子として、ほかの何かではなく、仏法をこそ学ぶ。その一点は、宗門の中に身を置く者にとっても、あらためて自分に問い直すべき言葉として響いてきます。

もとより欠けたるにあらず(【4】答4の三)#

答4の三つめの段落で、禅師は、問いの根にあるものへと話を深められます。

「又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す」。

また知るがよい。私たちは、もともと無上菩提が欠けているのではない。いつもそれを受用しているのだけれども、それをわがこととしてうなずくことができないために、みだりに知見を起こすことを習いとし、これを物として追いかけることによって、大道をむなしく踏みはずしてしまう、と。

この一節は、序の「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」(本書第一回)と深く響き合っています。無上菩提は、私たちに欠けているのではない。けれども、それを「承当」できない。そのために、あれこれと見解を起こし、それを追いかけ、かえって道を取り逃がしてしまう。「これを物とおふ」の「これ」が、起こした知見を指すのか、段落冒頭の無上菩提を指すのかには幅があります(→読みの分かれるところ)。知見を物のように追いかけると読んでも、本来受用している菩提を、外にある物のように追い求めると読んでも、私たちが自分の外に何かを求めて走り回る姿が描かれていることに変わりはありません。

本巻の後半にも、「いはんや人みな般若の正種ゆたかなり。ただ承当することまれに、受用することいまだしきならし」(本書第八回)という言葉があります。人はみな、智慧の正しい種をゆたかにそなえている。ただ、それを承当することがまれで、受用することがまだ十分でないのだろう、と。ここでも「承当」「受用」という同じ言葉が用いられています。

そう考えると、問4の問いそのものも、この「知見」の一つとして見えてきます。どの教えがすぐれているか、どの教えが大乗のきわみか、という比較は、それ自体が、見解を起こして追いかけることになりかねません。禅師は続けて、「この知見によりて、空華まちまちなり」と言い、十二因縁のめぐりや二十五有の境界、三乗・五乗、仏が有る・無いといった見解が尽きることなく起こる、と述べ、「この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず」と戒められます。空華とは、病んだ目に見える空中の花で、実体がないのにあるように見えるもののたとえです。仏教の大切な教えの言葉であっても、それを見解として追いかけるならば、空中の花のようにさまざまに咲き乱れ、修行の正道からはかえって離れてしまう、というのでしょう。

では、どうすればよいのか。禅師は、段落の後半でこう言われます。

「しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり」。

ところが、いまは、まさしく仏印によって万事を放下し、ひたすら坐禅するとき、迷いやさとりをあれこれはかる思いのほとりを越え、凡夫と聖者という道の区別にかかわらず、すみやかに枠の外に自在に遊び、大菩提を受用するのである、と。「迷悟情量」の区切り方にはわずかな幅があります。

ここは、今回の段の中でも、坐禅の姿がもっとも直接に語られている箇所です。「仏印によりて」とあるのは、問答に先立つ部分の「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき」(本書第二回)を思い起こさせます。自分の工夫によってではなく、仏から仏へと伝わる印によって坐る。そして「万事を放下し」、あらゆることを手放して、「一向に」、ひたすら坐る。

段落の前半では、私たちは知見を起こし、それを物として追いかけていました。後半では、その追いかけることを放下して、ただ坐ります。追いかけるのをやめたとき、はじめから欠けていなかった菩提が、そのまま受用される。段落の冒頭で「とこしなへに受用すといへども、承当することをえざる」と言われていたことが、ここで「大菩提を受用するなり」と結ばれるのです。

日々の坐禅の中でも、私たちの心には、さまざまな思いが浮かびます。いまの坐禅はうまくいっているか、さとりに近づいているか、自分は凡夫か、少しは進んだのか。そうした思いもまた、「迷悟情量」であり、「凡聖のみち」をはかる思いかもしれません。禅師は、そうした思いを打ち消そうと力むことを勧めておられるのではなく、それらを追いかけるのをやめ、万事を放下して、ただ坐ることを示しておられます。坐っているとき、浮かんだ思いを物として追いかけずに、ただ姿勢を調え、呼吸を調え、坐に戻る。そのささやかな繰り返しの中に、この一節の言葉を重ねることができるのではないでしょうか。

段落の結びは、「かの文字の筌罤にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや」です。文字という、とらわれのわなにかかずらう者が、肩を並べることができようか、と。これも、特定の宗や人を貶める言葉として読むよりも、答4の冒頭の「修行の真偽をしるべし」に照らして、文字や見解にかかずらうあり方と、万事を放下してひたすら坐るあり方との対比として受けとめたいと思います。そしてその対比は、ほかの誰かのことである以前に、坐る私たち自身の中にある二つのあり方でもあるのです。

問5「坐禅は三学・六度の一つにすぎないのではないか」〔答5の一〜四〕#

問う人の問い(【5】)#

次の問いは、比べる相手を変えます。「三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや」。

仏教の修行を整理した項目として、戒・定・慧の三学があり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度(六波羅蜜)があります。その三学の中には定学が、六度の中には禅度(禅定)がある。どちらも、すべての菩薩が初めから学び、資質の利鈍にかかわらず修行するものだ。いまあなたの言う坐禅も、その一つであるはずだ。それなのに、どうしてこの中に如来の正法が集まっていると言うのか、と。

宗務庁版英訳の注は、問う人が、禅師の説く坐禅を、こうした修行の定まった項目の中にある禅定の一つにすぎないと見ていること、また「禅」の字がサンスクリット語の音写であることを記しています。「このなか」を坐禅と取るか、定学・禅度と取るかには幅があります。

この問いもまた、よくわかる問いです。坐禅は「心を静める修行」であり、仏教の数ある修行の項目の一つだ、と考えるのは、いまの私たちにとってもごく自然なことでしょう。問5は、坐禅を、修行の一覧表の中の一項目として位置づけようとしています。

「禅宗」という名に距離を置く(【6】【7】答5の一・二)#

禅師の答えは、思いがけないところから始まります。

「いまこの如来一大事の正法眼蔵無上の大法を、禅宗となづくるゆゑに、この問きたれり」。

いま、この如来の一大事である正法眼蔵、無上の大法を、「禅宗」と名づけているために、この問いが出てきたのである、と。

禅師は、問う人の誤解の根が、「禅宗」という呼び名にあると見ておられます。「禅」の名で呼ばれるから、六度の「禅度」や、三学の「定学」と同じ種類のものと思われてしまう。そこで禅師は、この名がどこから来たのかを語りはじめられます。

「しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾にはきかず」。この禅宗という呼び名は、中国から東で起こったもので、インドでは聞かない、と。宗務庁版英訳の注は、達磨の系統を「禅宗」と呼ぶことは、九世紀の中国で始まったらしいとしています。つまり、この名は、仏法がインドから伝わってきたその源にあったものではない、ということです。

続いて、名の由来が語られます。「はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法しらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけき」。はじめ、達磨大師が嵩山の少林寺で九年のあいだ壁に向かって坐っておられたとき、出家も在家も、まだ仏の正法を知らず、達磨大師を「坐禅を宗とする婆羅門」と名づけた、と。「宗とする」を、坐禅を要・主とする、と取るか、坐禅を一宗として立てる、と取るかには幅があります(→読みの分かれるところ)。

「のち代代の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禅宗といふなり」。その後、代々の祖師たちは、みな常に坐禅をもっぱらにした。これを見た愚かな俗人は、実情を知らず、「ひたたけて」坐禅宗と言った。今の世では、「坐」の字を省いて、ただ禅宗と言うのである、と。「ひたたけて」の意味には幅があり、現代語訳では宗務庁版英訳を参考に「無造作に」としました。

この一連の言葉からは、禅師が「禅宗」という名に、はっきりと距離を置いておられることが読みとれます。その名は、第一に、インドにはなく中国で起こったものである。第二に、仏の正法をまだ知らない人々が、達磨大師の坐る姿を外から見てつけた呼び名に始まる。第三に、それは実情を知らない「おろかなる俗家」が言い出した名である。そして第四に、今の「禅宗」という名は、その「坐禅宗」からさらに「坐」の字を省いたものである。

とりわけ、最後の点には心をとめておきたいと思います。もとは「坐禅宗」と呼ばれていたものが、「坐」を省かれて「禅宗」となった。そのために、坐禅の「坐」が見えなくなり、「禅」の一字だけが残って、六度の禅定や三学の定学と同じものと思われるようになった、という筋道が見えてきます。問5の問いは、まさにその名から生まれた誤解だ、というのです。

禅師は続けて、「そのこころ、諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならつていふべきにあらず」と言われます。その本意は、祖師たちの語録に明らかである。六度や三学の禅定になぞらえて言うべきものではない、と。「そのこころ」が何を指すかには幅があります。宗務庁版英訳の注は、「坐禅」の意味が祖師たちの語録に明らかである、の意としています。

ここで禅師がなさっているのは、ある宗の名を掲げて、それを守ることではありません。むしろ逆に、「禅宗」という名そのものが、外から見た人々によってつけられた、本来の呼び名ではないことを示しておられます。禅師が伝えようとされているのは、「禅宗」という一つの宗ではなく、答5の冒頭で言われた「如来一大事の正法眼蔵無上の大法」(原文【6】)そのものです。名を立てて他と区別するのではなく、名の手前にある仏法そのものに立ち返る。この姿勢は、答4の冒頭の「教の殊劣を対論することなく」とも、一つの向きでつながっているように思われます。

宗門の者として、このことはあらためて考えさせられるところです。私たちは日ごろ、「禅宗」「曹洞宗」という名を用いています。名は、人に伝え、自らを確かめるために必要なものでもあります。けれども、弁道話のこの一節は、名の上で自分たちを他と分けることに安んじるのではなく、その名が指そうとしている仏祖正伝の坐禅そのものを、身をもって行じているかどうかを問いかけてきます。名を知っていることよりも、坐っていること。ここでも問われているのは「修行の真偽」なのだと受けとめることができるでしょう。

霊山の付法(【8】答5の三)#

続いて禅師は、この仏法がどこから伝わってきたのかを示されます。

「この仏法の相伝の嫡意なること、一代にかくれなし。如来むかし霊山会上にして、正法眼蔵涅槃妙心無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず」。

この仏法が、正しい継承によって伝えられてきた本意であることは、隠れもない。如来が昔、霊鷲山の説法の会座で、正法眼蔵涅槃妙心という無上の大法を、ただ一人迦葉尊者に託された儀式は、いま天上界にいる神々の中に、目のあたりそれを見た者がいる。疑うには及ばない、と。「一代」「嫡意」の取り方には幅があります。

ここで、答5の冒頭の言葉が結ばれていきます。答5の一で、禅師はこの法を「如来一大事の正法眼蔵無上の大法」(原文【6】)と呼ばれました。そしてここで、それが霊山で釈尊から迦葉尊者に付法された「正法眼蔵涅槃妙心無上の大法」(原文【8】)であることを示されます。「禅宗」という名で呼ばれているものは、じつは、釈尊から迦葉尊者へ、そして代々の祖師へと伝えられてきた正法眼蔵そのものである、というのです。「正法眼蔵」は、禅師がこの書全体の題とされた言葉でもあります。

この付法のことは、序でも「大師釈尊、霊山会上にして法を迦葉につけ」(本書第一回)と語られていました。そこで語られた仏法の伝わりが、ここで問5への答えとして、もう一度示されているのです。坐禅は、三学・六度という修行の一覧の中の一項目ではなく、霊山から相伝されてきた仏法の、そのものの伝わりの中にある。これが、問5の「なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや」への、禅師の答えの中心だと言えるでしょう。

「おほよそ仏法は、かの天衆とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず」。仏法は、天の神々が永遠に守り保つものであり、その功は今も衰えていない、と。霊山の付法を目のあたりにした者が今も天上にいる、という言葉は、仏法の伝わりが遠い昔話ではなく、いまも生きて続いているものだ、ということを、大きな言葉で示しているように思われます。

仏法の全道(【9】答5の四)#

答5は、ただ一行で結ばれます。「まさにしるべし、これは仏法の全道なり、ならべていふべき物なし」。

まさに知るがよい。これは仏法の全道である。並べて言うことのできるものはない、と。

「これ」が坐禅を指すのか、霊山から相伝されてきたこの仏法(正法眼蔵)を指すのかには幅があります(→読みの分かれるところ)。問5への答えの結びであることから、両者を一つのものと見る読み方もありえます。

いずれにしても、「ならべていふべき物なし」という言葉が大切です。問5は、坐禅を、三学・六度という並びの中に並べて置こうとしていました。それに対して禅師は、並べて言うことのできるものはない、と答えられます。これは、坐禅を他の修行と並べたうえで「いちばん上だ」と言っているのとは違う、と読むことができます。そもそも並べる、という見方そのものが当たらない、ということでしょう。仏法の「全道」、道の全体であるものを、その一部分と並べることはできないからです。

坐禅を「数ある修行の一つ」「心を落ち着けるための方法の一つ」と見るとき、坐禅は、私たちが目的のために選んで用いる手段の一つになります。けれども禅師は、坐禅を、仏法の全体がそこにあらわれている道として示しておられる、と受けとめることができます。本巻の後半で「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり」(本書第五回)と説かれることにも、この「全道」という言葉は通じていくように思われます。坐禅は、何かを得るための一部分の修行ではなく、坐るそのところに仏法の全体がある。そう受けとめるとき、日々の坐禅は、何かのための準備ではなくなり、その一回一回が、そのまま仏道の全体となるのです。

問6「なぜ四儀のうち坐だけなのか」〔答6〕#

問う人の問い(【10】)#

最後の問いは、短いものです。「仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定をすすめて証入をいふや」。

仏家は、どういうわけで、行・住・坐・臥の四つのふるまいの中で、ただ坐だけに(その役を)負わせて、禅定を勧め、証に入ることを説くのか、と。「おほせて」の取り方には幅があります。

人のふるまいには、歩くこと、とどまること、坐ること、臥すことがある。なぜ、そのうちの坐だけが特別に扱われるのか。これも素朴で、率直な問いです。

仏家のもちゐるところ、安楽の法門(【11】答6)#

禅師の答えは、こう始まります。「むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし、このほかにたづぬべからず」。

昔からの諸仏が次々に修行し、証に入ってきた道は、究め知ることが難しい。理由を尋ねるならば、ただ仏家が用いてきたところであることを理由と知るべきであって、このほかに尋ねてはならない、と。

この答えは、一見すると、理由を示さずに問いを退けているようにも聞こえるかもしれません。けれども、前回の段の問2への答えを思い起こすと、禅師の答えの筋が見えてきます。そこで禅師は、坐禅が正門である理由として、釈尊も三世の如来も、西天東地の諸祖も、みな坐禅によって道を得たことを挙げておられました(本書第三回)。答6の「ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし」も、同じ向きの言葉です。坐禅が勧められる理由は、私たちが頭で組み立てる理屈の中にあるのではなく、諸仏諸祖が実際にそのようにして修行し、証に入ってきた、という事実そのものにある。そして、その道は「きはめしりがたし」、私たちの思いはかりで究め尽くせるものではない。だから、その外に理由を求めて尋ね回るべきではない、というのです。

これは、答4の三で見た、知見を起こして追いかけることへの戒めとも重なります。なぜ坐なのか、その理由を納得するまで坐らない、というのではなく、仏祖が坐ってきたから坐る。その素直さの中に、仏祖の道に身を任せる信があるのだと思います。

とはいえ、禅師はここで話を閉じてしまわれるのではありません。「ただし、祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか」。

とはいえ、祖師がほめて言うには、「坐禅はすなわち安楽の法門である」。ここから推し量って知られる、四儀の中で(坐が)安楽であるからであろうか、と。

宗務庁版英訳の注は、この「坐禅はすなはち安楽の法門なり」の句について、長蘆宗賾の『坐禅儀』の句を念頭に置くであろうとし、禅師が『普勧坐禅儀』でこの句を引いておられることを記しています。「祖師」を一人と取るか、祖師たち一般と取るかには幅があり、「はかりしりぬ、……ゆゑか」を、禅師が推し量っておられる言葉と取るか、断定に近く読むかにも幅があります(→読みの分かれるところ)。現代語訳では、原文の「か」を生かして、推し量る形で訳しました。

「安楽」という言葉には、心をとめておきたいと思います。坐禅は、苦しみに耐えるための難行としてではなく、「安楽の法門」、安らかで楽な法の門として、祖師にほめたたえられている。四つのふるまいのうち、歩けば身は動き、立てば身は疲れ、臥せば眠りに落ちやすい。その中で坐は、身も心もいちばん安らかに調う姿だ、と受けとめることもできるでしょう。

実際に坐ってみると、足が痛んだり、眠気に襲われたり、思いが次々に浮かんだりして、とても「安楽」とは思えないことがあるかもしれません。けれども、禅師がここで言われる「安楽」は、ただ体が楽だという意味にとどまるものではないように思われます。答4の三で見たように、万事を放下して、迷悟や凡聖をはかる思いから離れ、ただ坐るとき、私たちは何かを追いかけ、何かを得ようとすることから解き放たれます。姿勢を正し、呼吸を調え、何も付け加えずに坐っている。その姿そのものに、安らかさがある。その安らかさを、祖師は「安楽の法門」と呼ばれたのかもしれません。

そして答6は、次の言葉で結ばれます。「いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり」。まして、これは一人二人の仏の修行の道ではない。諸仏諸祖に、みなこの道がある、と。

「いはんや」が、安楽であるという理由にもまして、と前の言葉を受けているのかどうかにも幅があります。けれども、答6全体の筋は、はじめの「ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし」と、この結びの「諸仏諸祖にみなこのみちあり」とが、前と後ろから同じことを示している、と見ることができるでしょう。坐禅は、一人の仏がたまたま選んだ方法ではなく、諸仏諸祖がみな歩んできた道である。私たちが坐るとき、その坐は、諸仏諸祖の坐とつながっているのです。

むすびに――比べることから、坐ることへ#

今回の段で読んだ三つの問答を、あらためて振り返ってみましょう。

問4では、当時の日本に伝わっていた諸宗の教えと比べて、坐禅に何のすぐれたところがあるのか、と問われました。禅師は、仏家では教えのすぐれ劣りを論じ合わず、法の浅深を選ばず、ただ修行の真偽を知るべきだ、と答えられました(【2】)。そして、仏法はみずから証した師を通して伝わること(【3】)、私たちはもともと無上菩提を欠いてはいないが、知見を起こして追いかけるために道を取り逃がしていること、万事を放下してひたすら坐禅するとき、大菩提を受用すること(【4】)を示されました。

問5では、坐禅は三学・六度の禅定の一つにすぎないのではないか、と問われました。禅師は、その誤解が「禅宗」という名から来ていることを示し、その名がインドにはなく、仏の正法を知らない人々が外からつけた呼び名に始まることを語られました(【6】【7】)。そして、この法が霊山で迦葉尊者に付法された正法眼蔵そのものであり(【8】)、仏法の全道であって、並べて言うべきものはない、と結ばれました(【9】)。

問6では、なぜ四儀の中で坐だけなのか、と問われました。禅師は、仏家が用いてきたところをその理由と知るべきだとし、祖師が坐禅を「安楽の法門」とほめたことを挙げ、諸仏諸祖にみなこの道がある、と答えられました(【11】)。

三つの問いは、いずれも坐禅を何かと比べ、並べるところから出てきました。そして禅師の答えは、いずれも、比べること、並べることから離れて、修行そのものへ、坐ることそのものへと、問う人を連れ戻すものでした。「教の殊劣を対論することなく」(原文【2】)、「ならべていふべき物なし」(原文【9】)、「このほかにたづぬべからず」(原文【11】)。

このことは、私たちの日々の暮らしにもそのまま通じるように思います。私たちはふだん、ものごとを比べることで考えています。どちらが得か、どちらがすぐれているか、自分は人より進んでいるか遅れているか。比べることは、暮らしの中で欠かせない働きでもあります。けれども、その比べる心が、坐禅や修行そのものにまで及ぶとき、私たちは坐りながらも、坐ることから離れてしまいます。この坐禅はほかの方法よりよいのか、自分の坐禅はうまくいっているのか、と。

禅師は、そうした比べる心を責めるのではなく、「修行の真偽をしるべし」と、目を足もとへ向けるよう促しておられます。自分が知っている言葉の高さではなく、自分がいま実際にどう行じているか。名の上で何宗に属しているかではなく、仏祖が伝えてきた坐禅を、いま坐っているかどうか。そして、坐るときには、万事を放下して、ひたすらに坐る。

坐蒲の上だけのことではありません。食事をいただくとき、掃除をするとき、人と話すとき、そのつど「ほかと比べてどうか」を考えるよりも、いまのこの行いを、まことの行いとして行じる。「ただ仏弟子は仏法をならふべし」(原文【3】)という言葉を、どのように読むにしても、それは、仏弟子として、いまここで仏法を学び、行じることへの呼びかけとして、私たち一人ひとりに届いてくるのではないでしょうか。

次の問7では、坐禅は、まだ仏法を証していない者がその証を得るために行うものであって、すでに仏の正法を明らめた人は、坐禅によって何を待つことがあるのか、という問いが立てられます(本書第五回)。禅師はそこで、修と証の関係について、いっそう踏み込んだ言葉を示されることになります。

読みの分かれるところ#

この回の範囲にも、読み方が一つに定まらない言い回しがいくつもあります。主なものを挙げます。どれか一つを正解とするのではなく、読みの幅として示します。

  1. 「いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪また一塵にをさまれり」【2】
    経典の広大な文字と一つの塵とが隔てなく通じ合うので、教えの大小・浅深を選ぶ必要はない、と読むことができます。一方、経典の文字の豊かさと、一塵のような身近なものにある真の説法とを対比する読みもあります。「いはんや」が直前の「草華山水」「土石沙礫」をどう受けるかにも幅があります。宗務庁版英訳の注は、経典は万物より多いが、しかも最も微細なものにも収まる、という第一の読みの方向を示しています。

  2. 「即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり」【2】
    水中の月・鏡の中の影を、実物ではない映った姿にすぎない、と否定の向きで読むことも、言葉が真実を映していることを認めつつ、なお映った姿にとどまる、と読むこともできます。また、正法眼蔵「即心是仏」巻では即心是仏が仏祖の保ち伝えてきたものとして掲げられるため、ここで退けられているのは語そのものではなく、言葉の巧みさにかかわることだと読む見方もありますが、両者の関係はなお一つに決めがたいところです。禅師の「即心即仏」と問う人の「即心是仏」との違いを意識した言い換えと見るかどうかにも幅があり、宗務庁版英訳は両語を同じ英語で訳し、「なほ」を「ただ〜にすぎない」に近い語で、否定に近い向きで訳しています。

  3. 「余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし」【3】
    仏祖正伝の門の外の宗は仏法ではない、という含みを読み、仏祖正伝の門と余門とを分ける言葉と取る読みがあります。直前で「この仏祖正伝の門下」と「余門」とが並べて語られていることが、その手がかりになります。一方、宗の名目や教えの比較にかかわらず、仏弟子はただ仏法そのものを学べ、という宗派の区別を超えた勧めと読むこともでき、答4冒頭の「教の殊劣を対論することなく」と響き合います。どこで文を切るかもこの読みに関わり、宗務庁版英訳の注は、推測の形で第一の読みの方向を示しています。

  4. 「これを物とおふによりて」【4】
    「これ」を、みだりに起こした知見と取り、知見を物として追いかける、と読むことができます。一方、段落冒頭の無上菩提を指すと取り、本来受用している菩提を、外にある物のように追い求める、と読むこともできます。宗務庁版英訳は、知見を物として追う、という第一の読みで訳しています。

  5. 「坐禅を宗とする婆羅門」【7】
    「宗とする」を、坐禅を要・主とする、と取るか、坐禅を一宗として立てる、と取るかで読みが分かれます。後者は、続く「坐禅宗」「禅宗」の名の由来の話に文脈上つながります。宗務庁版英訳は第一の読みで訳し、注で第二の読みも別案として並べています。

  6. 「これは仏法の全道なり」【9】
    「これ」を坐禅と取るか、霊山で迦葉尊者に付法されて相伝されてきたこの仏法(正法眼蔵)と取るかで読みが分かれます。問5の「このなかに如来の正法あつめたり」への答えの結びであることから、両者を一つのものと見る読み方もありえます。宗務庁版英訳は「これ」の指すものを特定せずに訳しています。

  7. 「祖師ほめていはく」【11】
    「祖師」を祖師たち一般と取るか、一人の祖師と取るかで幅があります。宗務庁版英訳は祖師たちと複数で訳し、注で一人の祖師と取る別案も挙げて、長蘆宗賾の『坐禅儀』の句を念頭に置くであろうとしています。

  8. 「はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか」【11】
    四儀の中で坐が安楽であるからであろう、と禅師が推し量っておられると読むことも、祖師の言葉から坐が(もっとも)安楽であることが知られる、と断定に近く読むこともできます。続く「いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず」が、安楽という理由にもまして諸仏諸祖みなの道であることを根拠とする、と受けるのかどうかにも幅があります。宗務庁版英訳は、推し量る第一の読みの方向で訳しています。

参考#

  • 底本:『正法眼蔵』本山版(九十五巻本)第一「辦道話」
    • 解説で引く「即心是仏」巻の本文も、同じ底本によります。
  • 参照:曹洞宗宗務庁『Treasury of the True Dharma Eye: Dōgen's Shōbōgenzō』Vol. VII(Sōtō Zen Text Project、2023)
    • 諸宗・人名・語の典拠についての記述と、「読みの分かれるところ」に挙げた英訳の読みは、同書の本文・注によります。